〈十一〉思川太夫
のどかな時間が二人の間に流れる。
この時、ふと琴平の目の端に虎之助と松枝が仲良く並んで歩いてくるのが見えた。やはり桜を見に来たのだろう。
そして、正面の道に――天女がいた。
説明は何も要らなかった。金襴の縞繻子の打掛、華やかな前帯、鼈甲の笄、艶やかに輝く紅、幼い禿と若い衆を従える姿は、花魁に他ならない。
采璃の口から、あっ、と小さな声が漏れる。
「姐さん」
采璃はこの花魁づきの新造なのだ。采璃は可愛いが、この花魁の前では霞む。いや、誰であっても勝負にならないだろう。
持つ雰囲気というのか、纏う何かが常人とは明らかに違った。目配せひとつにしても色香が溢れ出て、さすがと言うよりない。琴平もそこにいるだけで緊張してしまった。
この里にいたら、出会う女人に見惚れるばかりで日が暮れてしまいそうだ。
「わっちも桜を見に来ぃした」
紅い唇からよく通る声が零れ落ちる。琴平は、花魁が浮かべた微笑をとても直視できなかった。
「まだ咲ききらなくて枝が寂しいですけど、今年の桜は特に立派ですね」
采璃が甘えきった声で言った。そこには姉女郎への憧れや親しみが籠っている。
家族のない遊女たちだからこそ、普段から互いを頼りとしているのだろう。琴平が虎之助に向けるものと同じかもしれない。
花魁はその場で立ち止まると、遠い目をして桜を見上げる。
「ほんに美しゅうおすな」
この里での遊女たちの楽しみは少ないのだろう。この桜に慰められる思いがするのもうなずける。
皆が咲き初めの桜を見上げていた。
この時、とっさに動いたのは虎之助だった。
丁度光を受けて輝いていたせいか、花魁の簪目がけて空から鳶が飛来した。大きく広げた焦げ茶色の翼が目に入り、琴平にもそれがわかった。けれど、すぐに動けたのは虎之助だけだった。
居合ほどの素早さで抜刀したかと思うと、鳶を斬らずに僅かに刃を逸らして追い払った。
よろめいた花魁を若い衆が受け止めるが、その目には驚きが色濃く表れている。無理もない。
何が起こったのかもわからぬまま、桜の花びらに交じって落ちてきた鳶の羽を見遣った。それから刀を鞘に納める虎之助に目を向け、花魁は若い衆の手を放して一人で立つ。
「大事ございませんか?」
虎之助は怪我をしている。痛んだだろうに、それをおくびにもださない涼やかな声だ。
「ありがとうおざんした」
花魁も取り乱したりしない。さすがに肝が据わっている。
「ありがとうございます、お侍様」
采璃も駆け寄って頭を下げた。
花魁はほう、と息をつくと虎之助にどこか物憂げな視線を送った。
「わっちは〈千里屋〉の御職、思川太夫でおざんす。主はどなたでおざんしょう?」
「私は旅の者で、市原と申します」
何気なく返した虎之助だったが、ふと引っかかりを覚えたようだった。それは琴平も同じだ。
「思川――太夫?」
思わず口に出してしまった。
それというのも奇妙だったからだ。遊女の最高位は、待合茶屋から客から声がかかるのを待って出ていく〈呼出〉であって、見世の稼ぎ頭の御職であろうとも〈太夫〉とは呼ばない。もちろん名乗りもしない。
今の時代、並外れた美貌と教養を備えた、太夫という位を持つ遊女はもういないはずである。太夫を育てるのは並大抵のことではなく、そうそう育たないと聞く。
采璃はよくわかっていないようで首をかしげたが、思川太夫は琴平の疑問にうなずく。
「里の外では太夫がいのうなりんしたとか。然れども、此方は太夫が客を持て成しんす」
馴染みのない廓言葉に琴平は戸惑いを覚える。采璃はまだ普通の娘と変わらない話し方をしていたから、ここでは位が上がるまでは使わないものなのだろうか。
太夫が置屋を抜け出してきているが、ここでは里の中であればそれほどうるさく言われないのかもしれない。大門を抜けて出ていっても、こんな山中で女が逃げきれるとは思えない。足抜けしようとしたところで獣に襲われるのが落ちだと皆がわかっているのか。
そういえば花崎は、ここは選りすぐりの遊女だけがいると言っていた。それが最上級の遊女である太夫を育てているということだったらしい。
ここは、男に取っての桃源郷だ。
天女のような遊女たちが住む里なのだから。
ただし、ここに招かれるのはごく僅かな雲上人だけなのだろうけれど。
思川太夫の美しさには誰もが見惚れる。そんな中、虎之助だけは普段と変わりなく落ち着いていた。
「こんなところがあったとはここへ来るまで存じませんでしたが、それには仔細があるのでしょう。行きずりの私共が訊ねることではございますまい」
この里が隠されているのならば、相応の理由があるはずだと虎之助は言う。
それを知ろうとするのは己の首を絞めることになり得る。琴平は知りたかったけれど、深入りするべきではないと釘を刺されたようだ。
思川太夫は切れ長の目をかすかに細めて微笑んだ。
「ここへ来なんしたのも何かのご縁でござりんしょう」
その縁を、思川太夫は喜ばしく感じているのだろうか。虎之助を見る目は糸を引くような熱を帯びていた。
ただしそれは、思川太夫が遊女だからかもしれない。どんな男にも気がある素振りを見せるのが務めだと。それは本心とは違う。
采璃は思川太夫と共に去る前に一度だけ琴平を見て、何か言いたげに首を揺らした。
ここで松枝が虎之助を気にするのも仕方のないことだった。
美しいということは、それだけで人の心に残る。
柔らかい部分に爪を立てられたように忘れられなくなる。
遊女たちが去っても、その存在感は残ったままだ。
それは三分咲きの桜では太刀打ちできないほど鮮やかなものである。
〈思川〉は半八重で中輪の桜です(*´ω`)
廓言葉、遊女全員にすると自分の首を締めるので限定的に使っております(汗)




