〈十〉千里屋の采璃
それから琴平は朝餉を平らげると、少しだけ家の外へ出てみることにした。
遊女に興味があって、その姿をひと目見んとしたが故のことではない。虎之助たちに危機はないのか、それを確かめるためである。
遊女にまったく興味を引かれないとは言いきれないけれど、虎之助の顔に泥を塗るような真似だけは死んでもしないつもりだ。
こうして見ている限りここは安全に思えるけれど、絶対ということはない。どこに何が潜んでいるのかはわからないのだ。
この里は穏やかでいて不可思議なところでもある。本当にここは現世なのだろうか。
本当はあの時、崖から落ちて三人とも幽世へ旅立ったのかと考えてしまうほどには奇妙だった。
ぼんやりと歩いていても、誰にも出会わない。琴平が誘われるように向かった先は、あの桜の下だ。
昨日は三分咲きだった桜だが、今日はさらに花開いたように見えた。昨日植えられたばかりなのに、もう根づいたのだろうか。
それとも、桜は地に根づいていなくとも勝手に咲くのだろうか。木に詳しくない琴平にはよくわからなかった。
咲き初めた桜の下、扇流しの柄の赤い着物が見えた。
その袖から真っ白な腕が覗く。肘から指先までの曲線は絵に描いたようで、小振りな爪さえも桜の花びらに負けず劣らず綺麗だ。結った黒髪も艶やかで漆塗りのように光を受けている。
琴平が本当に驚いたのは、その赤い着物の娘が振り向いた時だった。
桜の下で花簪を揺らして振り向いた娘は、あまりにも可愛らしかった。
琴平と同じくらいの年頃だろうか。幼さも残した顔立ちながらに、それがまた絶妙に整って見えた。二重の大きな目で何度か瞬き、じっと琴平を見る。里で初めて見る顔だと思ったのだろう。
見知らぬ者が自分を眺めていたなんていい気はしないはずだ。怯えさせてしまったかと、琴平は戸惑いつつ口を開いた。
「えっと、その――俺は琴平っていって、旅の者だ。ちょっと桜を見に来ただけで、驚かせたならごめん」
この時、緊張していたのは琴平の方だったのか、娘の方だったのか。
それでも彼女は逃げずに琴平の相手をしてくれた。
「旅の途中なの? あたしは〈千里屋〉の采璃よ」
「〈千里屋〉って?」
「この里にある三大妓楼のひとつ。弐町の〈千里屋〉。他にはね、伍町に〈関山屋〉、参町に〈御衣黄屋〉があるの」
もっとあるのかと思ったら、三軒だけらしい。それを意外に思ったが、こんな辺鄙な場所ならそれで充分なのかもしれない。
「壱町と肆町は?」
そちらには妓楼がないのだろうか。それを訊ねてみたら笑われた。
「あなたが来た方角は肆町じゃない? 肆町は素人屋の区域だから」
「ああ、なるほどな」
「この里は桜の花みたいな地形をしているの。だから、五つの町があって、壱町の方には花崎様がお住まいになっていて、揚屋もその近くよ」
遊廓の仕組みに詳しくない琴平は、わかるようなわからないような心持ちでうなずいていた。
「あたしはその〈千里屋〉の振新」
「ふりしん?」
小首を傾げると、采璃も一緒に首を傾げた。
「あなた、何も知らないのね。振袖新造のことよ」
新造というのは、武家の新妻を言い表す言葉であり、遊廓では花魁になるべく修行する娘のことでもある。新造はまだ客を取らされていない。采璃が初々しいのも当然だ。
采璃は、それからもじっと琴平を見た。まるで珍獣になった気分で落ち着かない。
刀を差しているが武士には見えないから、琴平が何者か考えているのだろう。そう思っていたら、ぽつりと訊ねられた。
「ねえ、年はいくつ?」
「十六だけど」
琴平が答えると、采璃は嬉しそうに花が綻ぶようにして笑った。
「あたしと一緒なのね」
「そうなんだ?」
笑顔があまりにも眩しくて、琴平の方がぎこちなくなる。それなのに、采璃の緊張は解れてきたようだった。
「あたし、同じ年頃の男の子って会ったことがなくて」
新造というのは、禿という子供時代を経てなるものだ。禿は幼い頃に売られ、楼主に素質を見込まれた子供がなるわけで、つまり采璃は小さな頃に売られて里へ来たということ。采璃の周りには同じ年頃の女児はいても、男児はいなかったらしい。
しかし、琴平は至って普通の少年であって、采璃のような美しい娘に珍しがられるというのも奇妙だった。
戸惑ってしまうが、琴平がここにいるのはほんの僅かな時だけだ。すぐにここを発つことになる。
采璃とこうして顔を合わせて話すことは二度とない。それに気づいたら、照れていないで向き合って話をしたいという気になった。
「俺は帯刀してても武士じゃないから」
「お侍様でもそうじゃなくても、十六歳の男の子なのは本当でしょ?」
と、采璃は鈴を転がすような声でくすくすと笑い、首を傾げた。
こうしていると、裕福な家の娘に見える。とても親に売られるような身の上とは思えない。罪のない笑顔にも影がなかった。
「うん、まあそうなんだけど」
そう言ってなんとなく桜を見上げると、雀が枝を揺らし、花びらがはらりと落ちてきた。采璃もその光景を眺め、つぶやく。
「毎年ここに桜が植えられるの」
「毎年植えるって、じゃあ毎年抜くのか?」
「そうよ。遊廓での桜ってそういうものでしょ?」
直に目にしたことはなくとも、吉原の千本桜は有名だ。中之町の通りを埋め尽くすほど数多の桜を植え、花の見頃を過ぎたら抜く。
それをするには多くの銭と人手がいる。遊廓らしい贅の限りだ。
ここに植えられた桜は、吉原の通りに植えられるものよりは大きいのではないだろうか。
ただの一本だけだからこそ立派な桜を選んだのかもしれない。
「盛りを過ぎたら捨てられる。それは桜も遊女も同じね」
とても寂しいことを言う。
采璃はまだこれから盛りを迎えるはずなのに、今から終わりを見据えているようだった。これまでに打ち捨てられた遊女を見てきたということか。
そんな采璃に、琴平がどんな慰めを言えるだろう。
何も思いつかなかった。だからこそ、それをそのまま言葉にした。
「なんて言ったらいいのかわからない。ごめん」
本当に情けない。虎之助ならばもっと気の利いたことも言えただろう。
けれど、采璃は気を悪くしたふうではなかった。
「あなた、優しいのね」
笑顔でそんなことを言われた。
それは、男を喜ばせることを習わされてきたから、とっさに琴平を慰めてくれたというのとは違う気がした。
〈千里〉は千里香っていういい匂いがする桜から。
〈関山〉は色の濃い八重桜で塩漬けにして桜湯とかにされます。
〈御衣黄〉これはわりと有名ですかね。黄緑色の桜。これが桜か……っていう見た目です。
まあ、そもそもこの時代にこれらの品種はないですけどね(おい)




