086 リヴニスの地で
空を見れば太陽が輝いている。
天高い位置から光り輝くそれはただ一つだけ。二つあったりはしない。
天空の遥か下には広大な大地が広がっている。
東に聳え立つ山脈。そして西に広がるのは大海原。その間にはなだらかな山間地が広がり、北にははるか昔に大河が作り出した浩蕩たる平野が広がっている。
広げた視点で見てみると自然豊かなこの地も、人と言う視点で見るとまた違うものが見えてくる。
複雑な背景を持つこの地、リヴニス。
ちょうど眼下に分かりやすい出来事が起こっている。それを見ていくことにしよう。
◆◆◆
「急いであなた! 追いつかれるわ!」
「分かってる! でもこれ以上のスピードは!」
なだらかな山間地の隙間。木々が開けて通り道として利用されている場所を慌ただしく激走しているものがある。
浮いているテント。モンゴルの遊牧民が使うゲルという丸形で白いテントに似ていると言えばわかりやすい。それが木々の隙間をそれなりのスピードで移動しているのだ。
普通テントは移動しない。だがこのテントは浮いている。よく見れば地面から1mくらいは浮いている。
それを可能にしているのが、地面の代わりにテントを受け止めている板のようなものだ。
この板はクルムという名前の魔法道具で、僅かな魔力を込めるだけで浮遊する代物だ。
ただ、クルム自身は浮くだけであり、自ら進む推進機能は無く、後方から男性が押すことによって移動しているというわけだ。
「お母さん……」
「大丈夫よ、大丈夫だから」
どうやら家族のようだ。クルムの上には大人の女性と小さな男の子が乗っている。
男の子は心配そうな目で母親を見る。本来であれば優しく笑って返すところだが、現状では母親も大丈夫だと繰り返すだけだ。
それもそのはず。
「ヒャーハハハハッ!」
「ヒッヒー!」
「イヒョォォォォッ!」
奇声を上げながらその家族を追う一団がいるからだ。
その人数は10人を超える。いずれも黒い鎧に身を固めて馬にまたがっている。
「あんなところに隠れていやがったとはな!」
「久しぶりに見つけた獲物だ、逃がしゃしねえよ!」
「ヒャッハァァ、狩りだ、狩りだァァァ!」
先を行く家族にも聞こえるほどの大声。
「くっ! なんで奴らがこんなところにいるんだ!」
「あぁぁ……今までうまく隠れていたのに……」
「アースザインの奴らめ!」
「お母さん……」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
クルムを押すのは人力。
とはいえ、クルム自体が浮くことによってテント自体の重さを軽減している上に、地面との摩擦のない移動であるため、人が走るよりも速度が出ている。
だがそれはあくまで人と人の追いかけあいの場合だ。
アースザインと呼ばれた輩たちは移動を主目的とした馬に騎乗しているため、その差は歴然であり、もはやすぐ後ろまで追いついてきているのだ。
「ヒヒヒ、しっかり貯めこんでるんだろうなぁ」
「見逃してくれ! お前たちも知ってるだろう。俺たちリヴニスの民は食べるだけで精一杯なんだ!」
「ガキだけならともかく、家族なんだろ。食い物だっていくらか貯めてるはずだ。それに今まで生きてこれたんだ。食い物だけってこたぁねえだろう」
「ヒヒヒ、何を貯めてるんだぁ?」
「本当に何もないんだ!」
「それは見てみれば分かることだぜ。いいかお前ら、山分けだぞ? こっそりとパクるなよ?」
「わあってるよ、ちょうど小腹もすいてきたところだ。はやく食いてえなぁ」
「頼む! 俺たちはアンタたちに逆らうつもりはない。だから見逃してくれ! 荷物は渡す。だから命だけは!」
「ああん? 当然だろ?」
「おお、ありがと――ぐあっ!」
兵士の回答に安堵し、礼を言おうとした瞬間のことだった。
男の足を槍が貫いたのだ。
――ドオォォォン
片足を貫かれたことによって体勢を崩し、押していたクルムの方向が逸れて大木に激突する。
「な……なんで……」
「イヒヒヒヒ、当然だ。お前らの持っているものは俺たちのもの。この世のすべてはアースザインのものだ。俺たちに返すのは当然のことだ」
「そ、そんな……」
「だが俺たちも鬼じゃない。慈悲ってやつを与えてやろう」
「た、頼む! 命ばかりは! 私の事はいい。妻と子の命を助けてくれ!」
「命乞いたぁ、リヴニスなんかに生まれちまったばっかりに可哀そうになぁ」
「頼む! 慈悲を!」
「いいだろう」
「おお、ありがとう!」
「慈悲ってのはなあ、お前たちを殺して、リヴニスから解き放ってやることだ! アースザイン帝国の民として生まれ変わる栄誉を与えてやる! ヒヒヒヒヒ!」
「そ、それのどこが慈悲なんだ!」
「鉄と力の国、アースザイン帝国の民は選ばれた人種。それ以外はただの下等なゴミ。アースザイン帝国に生まれる事こそが喜びなのだ」
「く、狂ってる!」
「お前たちのようなゴミには分からんのだ。それじゃあ死になっ!」
馬上から黒光りする槍が男を貫こうと振り下ろされる。
これがこの大地のありふれた事柄。
リヴニスの地に隠れ住まう人々を襲う現実。
虐げられ、搾取され、奪われ、殺される。過去250年間の長きにわたって繰り返されてきた日常の光景なのだ。
だが……、今回はそうではないようだ。
――ドゴウッッッ
今まさに槍に貫かれようとしていた男は見た。
高速で飛んできた赤い何かが兵士へとぶつかり、森の向こうへと吹っ飛ばしたのを。
「誰だっ! 俺たちをアースザインと知ってのことかっ!」
「シーヴルの奴らか? 出てこい!」
アースザイン兵がすぐさま森の中を注視し警戒する。
「寄ってたかって、弱いものからすべてを奪い取るなんて、人間の風上にも置けないねぇ」
聞こえてきたのは女性の声。
間を置かずに一人の女性が森の中から姿を現した。
左右で小さく三つ編みにした綺麗な銀色の髪。よく日に焼けたような褐色の肌。身長はスラリと高く男性にも劣ることはない。
「なんだ女あ? 自殺志願者かぁ」
「おいおい、羽目を外すなよぉ?」
「キッヒッヒ、後でお前らにも回してやる。俺が一番だからな」
見たところ武器らしいものは持ってはいない。茶色のガウンのようなコートを羽織っているが、隠していたとしても投げナイフ程度のものだ。近づいて組み伏せてしまえばどうとでもなる。
そんな風に警戒心が低下したのも、現れた女性が美人だったからだ。スッと伸びたまつ毛と色気を主張するかのような唇。彼らが今までに見たことのないレベルの美女であったのだ。高揚するのも無理もない。
人間の三大欲求の一つに逆らえず、一人の兵士が馬から降りて不用意に女性へと近づいていく。
そんな様子を女性の青色の目がじっと見ている。
最初の第一声以来、言葉を発さずに無言で。
「ようよう、怯えてないで、俺たちといいことしようぜ。優しくはしてやれないがなぁ」
兵士が手を伸ばした瞬間の事。
「ぎやぁぁぁぁぁぁ」
女性はその腕をつかんで自らの握力で握りつぶしたのだ。
「て、てめえっ!」
その様子を見ていた別の兵士が馬上から襲い掛かってくる。
「だらしがないねぇ。それでも男なのかい?」
馬に足払いをかけてすっころばせ、兵士を地面に落とした後、鋼鉄の鎧が守る腹に向けて拳での一撃を入れた。
轟音が耳に届く。
彼女の拳を受けた鎧は陥没してへしゃげ、そのまま衝撃を腹に受けた兵士は白目をむいて泡を吹いたのだ。
その様子を見た他の兵士たちは、この女性が只者ではないことを悟り、騎乗したまま周りを取り囲んだ。
「こんなことをしてどうなるか分かってんだろうなぁ?」
「犯して回すだけじゃたんねえぜ?」
「〇〇〇から〇〇して、〇〇〇するまで許しゃしねえぞ!」
「はんっ、囲んだ程度で勝った気になってる雑魚と話すつもりもないねぇ」
そう言うと女性はタンッっと跳躍し、男たちの目の高さまで軽々と跳ぶ。そして男たちの視線が彼女に追いつく間も無いまま、その長い足を前に出すと、バレリーナのようにクルりと横回転する。
げぎゃっ、ぐふっ、ぎやぁ、という呻き声が重なって聞こえたと思ったら、馬上の兵士たちは全て倒れてしまった。
舞うような回転蹴りであったが、その実情は樹齢1000年を超えるような太い丸太で勢いよく殴りつけられた以上の威力。
ほんの一瞬で、この場にいたアースザインの兵士たちは沈黙してしまったのだ。
「お母さん……あのお姉ちゃん……」
「分からないわ。でも、最初に飛んできたのは赤いクルムだった。クルムを使えるのはリヴニスの民だけ……」
急いで父親に駆け寄るべきなのだが、母はまだこの展開については行けていない。
「さて、と……。ああ、まだ居たのね」
女性は場を収めようとしたものの、街道の後方からやってくる気配を感じ取ってそちらに視線を向けた。
ズンズンズンと地響きを立てて現れたのは先ほどの兵士とは一回りも二回りも巨大な男。同じく黒い鎧を纏い、立派な黒鉄の兜を身に着けている。
「アンタがこの部隊の隊長かい?」
「そうだ」
巨体ゆえにようやく場に追いついた隊長が周囲を見回す。
それだけで今ここで何があったか理解したようだ。
「貴様、万死に値する」
巨体の隊長が持つのは彼に似つかわしい金属の棍棒。巨大な棍棒二つをつなぎ合わせたような形状で、持ち手である中央部分をもってグルグルと頭上で回転させている。
巨大な質量を持った金属の棍棒が遠心力を加えて襲ってくる。
相対する女性は大きく間合いを取ってそれを回避する。
通常であれば大きく回避することは無駄な動きを伴うので最善手ではないが、この場合は別だ。その証拠に、棍棒が穿った地面が大きく陥没しクレーターのようになる。地面を形成していた土や岩が周囲へと飛散することで範囲への攻撃を同時にこなしているのだ。
このような強力な一撃であれば当然攻撃直後に隙ができるのだが、この男はそうはならない。まるで木の枝を振り回すかのように。軽々と棍棒を引っ込め、第2撃、第3撃を放ってくる。
見た目以上の素早い攻撃に、女性は防戦一方。当たれば即死するであろう攻撃が剣戟のように飛んでくるのだから無理もない。
バキバキと周囲の木がなぎ倒されていく。
太い樹木でさえ、彼の棍棒を受けきることができないのだ。
確実に脳天を狙う一撃が振り下ろされる。
これまで左右に回避していた女性だったが、そんな一撃に対して、トンッと空へと舞う。
「ええい、動きにくい!」
そう言うと、ばさりと来ていたガウンコートを脱ぎ去る。その下には新体操で身に着けるような白いレオタードを着ているのみ。肩回りも股間回りも拳や脚の動きをさえぎるようなものは何もない。
「宙に逃げるとは愚かなり」
言葉が示すとおり、空中では逃げ場がない。跳躍したが最後、重力に従って落下軌道を取るのみである。
それはつまり、格好の的になることと同義。
隊長が棍棒を力強く握りしめる。とどめの一撃を放つつもりだ。
だが、それは下段ではなく上段の構え。落下する敵に対して下からすくい上げる一撃ではなく、あえて上から粉砕する一撃を放つためだ。
自分の一撃に耐えられるとは思わないが、すくい上げる場合は攻撃後どこかにはね散らかしてしまう恐れがある。そうなると女性の背後関係を掴むための証拠を探しにくくなる。そういった判断が働いたのだろう。
それに上段であれば、背後に大地という絶対的な存在があり、棍棒と大地とで確実に相手を仕留められると狙ったこともある。
重力には逆らえず、落下する女性。
そしてそこに超質量の棍棒がミンチにしてやらんとばかりに襲い掛かる。
「そんなものでぇぇぇぇぇぇ!」
なんと女性は、振り下ろされた棍棒の一撃に対して脚を合わせに行ったのだ。
「ぐぬぅぅぅぅぅぅぅ!」
勝負は一瞬で決まった。
女性の足が砕けるどころか、砕くはずの棍棒が脚のパワーに負けて隊長の腕を離れ、遥かな山脈の方向へと吹っ飛んでいったのだ。
「なんという膂力。貴様、本当に人間か?」
「ほらほら、無駄口叩いている暇があるのかい?」
棍棒の一撃を薙ぎ払った女性が地面に着地すると、その足を持って加速し、隊長との距離を詰める。
そのまま目にもとまらぬスピードで黒鉄の兜を纏った頭に右ひざを叩き込む。
「き……きかんなぁ」
右ひざは当たっていたが、兜にいくらかの衝撃を吸収されたことと、そしてさすがに隊長を名乗っていないという証拠に、ヒットの瞬間に隊長がガードのために出した腕が女性の右足首を掴んでいたことで、倒すには至らなかった。
「このっ!」
右足を掴まれた不安定な体勢のまま自由が利く左足で頭の反対側を狙うが、もう片方の腕で足をつかまれてしまい、その攻撃も阻まれてしまう。
両足をつかんだ隊長が、そのまま女性を地面にたたきつけようと考えた時だった。
両足はするりと腕から抜け出すと、隊長の頭を挟み込んだのだ。
隊長は彼女の蹴りに耐えたと思っているのだろうが、そうではない。
彼女の策に嵌っただけだったのだ。
「いよっと!」
女性はそのまま後ろに倒れるようにして体を揺らし、体重を後方にかける。
すると巨大な隊長の体はそれに引っ張られるかのように体勢を崩し、スラリとした長い足が挟み込んだ頭は巨体ごとクルリと180度回転して地面へ向かうと……そのまま地面にたたきつけられて地中へと埋まってしまった。
人柱のように肩まで地面に埋まった隊長。
兜をかぶったままだったので、やられるまでには至らず……大きな手のひらを地面につけて腕を伸ばして逆立ちをする要領で、地面に刺さった顔をガボッと引き抜き――
「やるではないか。だが、俺には効いておらんぞ」
と、すぐさま声を上げたものの、土から引き抜かれた目が真っ暗な視界から抜け出して、ようやく天地逆さまになった映像を捉えたとき――
「ちょ、ちょっと、まて!」
そこで初めて反射的に言葉を放ってしまった。
目の前には、先ほど棍棒を遥か彼方まで蹴っ飛ばした尋常じゃない蹴りを放つ脚で、ぶんぶんと素振りをする女性の姿があったからだ。
「それがアンタの最後の言葉かい? もっと洒落たもんにしなよなっ!」
ぐいっと後ろに下げた足。ゴムのように、ばねのように力を溜めたその足が、今、振り抜かれる!!
「ぐぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
離れていく救急車の音が低くなって聞こえるのと同じように、隊長の断末魔はだんだんと音が低くなって、やがて聞こえなくなった。
「いっちょあがり」
女性は何事もなかったかのように褐色の太ももをパンパンと手で払い去り、両手を上にあげて、うーーんと大きく伸びをした。
◆◆◆
「あの……ありがとうございました。なんとお礼を言ってよいやら」
「あたしこそすまないねぇ。治療に関してはからっきしでね」
槍に貫かれた父親の足に応急処置を施していくのは先ほどの褐色の女性、ではなく、夫の妻。
「いえ、助けていただかなければ今頃は家族みんな……。そうだ、ぜひお礼を! ……と言いたいところなんですが、生憎お渡しできるものは持っておらず……。食料の備蓄も無く、最近は狩りと野生の果物を探して流浪していましたので……」
命の恩人に対して申し訳なさそうに母親は言う。
このリヴニスの地に住まう者たちは定住しない。いや、することができない。
遊牧するように点々と住む場所を変えざるを得ないため、食料はいつもカツカツなのである。
「気にしないでいいよ。あたしは運よく通りがかっただけ。あんたたちの悪運が強かったってことさ。それにリヴニスの事情はよく分かってる。とはいえ、あまり街道の近くに出てこない方がいい。手間じゃああるが、山奥のほうがアースザインにもシーヴルにも魔物どもにも見つかりにくい」
「はい。これまで無事だったので油断していました。これからは家族のため安全を取ろうと思います」
「それがいいさね」
そして、両手の指を組んで上に腕を伸ばして、うーんと大きく伸びをする。
その動きに合わせてきていたガウンの前がはだけ、下に着ている白いインナーとそれに包まれている大きめの胸が揺れる。
ぐぐぐと、ひとしきり体を伸ばしたと思えば、よっと、と言って女性は立ち上がった。
「もう行かれるのですか?」
「ああ。急がなきゃいけない事情があってね」
「そうですか。お礼もできないのにお引止めするわけにはいきません。その、せめてお名前をお教えいただけますでしょうか……」
「あたしは、ヘレン。トルナ氏族のヘレンさ」
そう言って長身の女性、ヘレンは背中を向けて去っていく。
はずかしさから母親の影にずっと隠れていた男の子が、その小さくなっていく背中をもじもじとしながら見ていると……ほら、と母親に促されて――
「ヘレンおねえちゃん、助けてくれてありがとーっ!」
と勇気を振り絞って声を出した。
ヘレンは振り向かずに手だけを上にあげて振り、それに答えたのだった。
彼女の後姿を見送って、視界でとらえられないほどになってからの事。
「ねえあなた。トルナ氏族って言えば……」
「ああ。一年前に滅ぼされたって聞いている。そうか……」
夫婦はそこで口を閉じた。
自分たちを救ってくれた恩人にせめての幸せを祈りながら。
お読みいただきありがとうございます。
途中で割るにはキリが悪かったので長めになってしまいました。
急に始まったリヴニスの地と呼ばれる場所でのお話ですが、皆さまきっとお忘れだと思いますが、キッテちゃんが暮らしていた国の名前はリヴニス王国です。
銀髪三つ編み褐色肌の長身美人女性ヘレン(属性多い)とキッテちゃんは一体どういう関係なのか。
もう少し読み進めていただきたいと思います。
次回もお楽しみに!




