011 キッテとの出会い
空気とは目に見えず透明で、いつもそこにあり、どこにでもあるものだ。
なので誰しもが気に留めることもない。
そんな空気だが、よくよく感じればそこに空気があることに気づく。
勢いよく翼をはためかせれば翼が、速く飛べば体全体が、空気の存在を感じ取ってくれるのである。
そんな空気の中を俺はふよふよと漂う。
小さな羽がパタパタと動いてはいるが、特に飛行するために必要な動作ではない。俺の体は魔力的なもので宙へと浮かんでいるのだから。
俺の名はぐえ。赤い鱗を持った小さなドラゴンだ。ドラゴンと言っても今は名前負けしているただの子竜。たぶん子供。
たぶん、と言うのには俺の生まれが関係している。
俺は日本で生まれた人間。れっきとした日本人……だったはずなのだ。
確か年のころは30歳くらい。イケイケドンドンの上司に引っ張られて仕事に次ぐ仕事。休みなにそれおいしいの? と言う状態だった。
その結果、倒れて体が動かなくなった……という所は覚えている。
そして次に気が付いた時が―――――
「うーーーん!」
机で勉強をしていた少女が大きく伸びをする。
それに合わせて軽く内に巻いた明るい茶色の癖っ毛が揺れる。
「ちょっと休憩しよっと」
そう言って、トタトタトタと俺の方に向かって来て、ふよふよと浮かんでいた俺を両手でつかみ上げる。
瞬間、俺の視界はグルングルンと回転し、2回転くらいした辺りで柔らかいものの反動が返ってきた。
どうやら少女がベッドの上に倒れ込んだらしい。
「ぐえー」
俺は抗議の声を上げる。
「んー、ぐえちゃんぐえちゃん!」
俺の腹の辺りに顔をぐりぐりと押し付けるこの少女はキッテ。
今は見習い錬金術師のキーティアナ・ヘレン・シャルルベルンだ。
ドラゴンの鱗。それは固い事で有名なのだが俺はまだ子竜。背中の辺りならお世辞を込めて固いと言ってもいいけど、腹の辺りは柔らかめ。それに毛並みならぬ「鱗並み」が良く滑らかで気持ちがいいらしく、キッテはよく俺の腹に顔を押し付けて震わせてくる。
「どうしたのぐえちゃん? なんとなくだけど、昔の事を考えてる? うーん、そうだ、あててみよう。えっとね、あれでしょ、ぐえちゃんが私と初めて出会った時の事!」
なかなか鋭い。
キッテの激し目のスキンシップを受けて忘れていたけど、ちょうどそれを考えていた所だった。
俺が日本人だった時、仕事に明け暮れた俺が倒れて意識を失った後……。次に目を覚ましたのはこの少女、キッテの目の前だったのだ。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。
――――――――
――――――
――――
――
◆◆◆
眩しい。まずはそう思った。
目を瞑っていても中に差し込んでくるような強い光。朝の光にしては強すぎるが、目を覚ませと言うのならそれに逆らう必要もない。
俺は重い瞼を開いてみる。
あふれんばかりの光の奔流。
目を開いたために一層眩しい光が俺の目を差した。
いつもなら反射的に目を瞑ってしまうほどの光。だが、俺の目はそんな光にも負けずじっと見つめる事が出来た。
どうしてわざわざそうしたかと言うと、光の発生源である中央に何らかが存在することに気づいたからだ。
それは小さな宝石のような形をしていた。
人工的に削られて意図的に光を放つように形成されたのではない、原石のままのようなまばゆく輝く宝石。まるで湖面に反射する太陽の姿のような、キラキラとした姿。
俺が目を凝らしてそれを見ようとしていると、光はだんだんとその密度を薄くしていき……その宝石の輪郭がさらにやわらかな光と変化して消え去ってしまう頃には、小さな宝石の首飾りをかけた小さな女の子の姿を見て取れるようになった。
4歳か5歳くらいのピンク色のパジャマを着た女児。
綺麗な栗毛をしていて、見開いてくりくりとした大きな目をしている。目は赤く充血しており、その下に水滴があることから、泣きはらしていた所なのだろう。
寝る時も身に着ける習慣なのだろうか、体の大きさには不釣り合いの長さの首飾りをかけている。もちろん先ほどまで強い光を放っていた宝石のついた首飾りだ。
キミは誰?
そう口に出そうとしたところだった。
「ぐえー」
俺の口は言葉ではなく奇怪な音を立てていた。
どういうことだ? 夢だからか?
「ぐえー」
もう一度声を出してみるが、結果は同じ音が繰り返されただけだった。
「わぁぁぁぁぁ。かわいい!」
かわいい!? 大人に向かって言う褒め言葉じゃないよね?
「それっ!」
開口一番、少女は俺に飛びついてきた。
俺は危なくないように少女の体を受け止めようとしたのだが……腕が前に動かず、少女の突進を許してしまった――
と思ったのだが、何かがおかしい。
少女は俺の体をまるでボールか何かのように掴むと、ぐるんぐるんと回りだしたのだ。
そこでようやく俺の体が小さくなっていることに気づいた。
眼下にいたはずの女児。いつもならこの女児の3倍は身長があるはずだが、そうじゃない。
「赤くってすべすべで、かわいい!」
小さな手のはずが、大きな手のひらで撫で繰り回される。
まるで子犬を撫でるようにだ。
そんなことよりも、と俺は自分の体のチェックをする。
見慣れた肌の手は無い。代わりに赤色の鱗のついた小さな手。手と言うか、前足? 同じく短い後ろ脚。体をブルリと震わせてみると、背中と尻に違和感があった。
違和感というのは……何か動くのだ。
尻の違和感は判明した。なんと尻尾があるのだ。
いったいどういうことだ?
部屋の中でふと目に入った鏡。その前に向かうと……そこには赤色をした大きなトカゲというか小さなワニというか、そんな生き物の姿が映っていた。
アニメやゲームで見たことがある。これって竜、ドラゴンだよな?
「鏡なんか見てないで、私とあそぼ!」
そう言って少女は宙に浮いていた俺を抱き寄せると、またぐるんぐるんと回転しだして、何回転もしたため目が回ったのか、どってーんと転んでしまい、俺もそれに引っ張られて天地が逆さまになった。
「あはははは! お友達! 神様が私のお願い、叶えてくれた! ねえ、あなたのお名前は?」
俺の名前? 俺は……、俺は……。
自分の名前が出てこない。
山田だったか? 田中だったか?
「ぐえー」
夢ならなんでもありだな。
「そっか。しゃべれないんだった。そうだねー、ぐえー、って鳴くからぐえちゃん! あなたの名前はぐえちゃんね!」
「ぐえぇ」
待ってくれ、それは鳴き声であって名前じゃない。やり直しを要求する。
「ぐえちゃんぐえちゃんぐえちゃん!」
どうやらとても気に入ったらしく連呼する女児。
「私の名前はきーてぃあな。パパやママはキッテって呼ぶわ」
「キッテー、どうしたのー?」
足音と共に女性の声が聞こえてきた。
「あっ、ママだ。どうしよう……そうだ!」
キッテは俺を掴むと急いでベッドに入り、俺を布団の中に押し込んだ。
真っ暗で何も見えない中、部屋の扉が開く音がした。
「キッテ? 凄い音がしたけど何かあったの?」
「な、なんにもないよー」
「そう? ならいいのだけど。退屈でしょうけど、大人しくしているのよ。そうしたらきっと元気になるんだから」
「うん! 私はやく元気になりたい!」
「ええ。それじゃあおやすみなさい」
「おやすみ、ママ」
そして扉が閉じられた音がした。
そしてモゾモゾとキッテも布団の中に入ってきた。
「もう大丈夫だよ。あのね、ぐえちゃんが見つかったら、離れ離れになっちゃうの」
どうやらこういう話だった。
この少女、キッテは生まれたときから病弱で体が弱くて、ずっと部屋の中で寝ていたのだ。
外で遊ぶことも出来ず、友達もおらず、ずっと一人。
普通ならそのさみしさを紛らわせる他の手段として動物などを飼う事があるのだが、動物の毛が良くないからといって、生き物には触れさせてもらえず、犬や猫のペットなどはいなかった。
「だからね、神様にお願いしたの。お友達が欲しいよって。そしたらね、ぐえちゃんが出てきたの!」
どうやら何もないところから突然俺が現れたと言う事らしい。
そんなことが在り得るのか? でもまあ夢ならどんな超展開でも許される。
ニコニコ笑顔を見せる少女に後ろ髪を引かれながら、そろそろ目覚めないとな、と、頬をつねろうとするが……そもそも今の俺の指はそんなに器用に動かせなかった。
でもだ。わざわざ指でつねるまでもなく、この少女の吐息が心臓の鼓動が、温かな体温が……夢にしてはリアルすぎる情報が、これが夢では無いと言うことを感じさせてくれた。
「ぶはぁっ!」
布団の中に籠って息が続かなくなったのだろう。
キッテは勢いよく布団をめくった。
「あは、あはははは!」
それがツボに入ったのか、笑い出してしまう。
「ねえ、ぐえちゃん! 私とずっと一緒にいてね! 約束だよ!」
じっと俺の目を見て、しっかりと念を押される。
「ぐえぇ」
とりあえず状況も分からないのでYesの返事をしておいた。




