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越後の虎  作者: 立道智之
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七尾城

天正4年(1576年9月)、武田氏、一向宗との和睦が成立すると謙信は越中、能登の自分に反抗的な勢力を一網打尽するため越中平定作戦を発動し越中に再度侵攻、越中で謙信を悩ませていた椎名康胤を討伐した。康胤は最後は降伏したが許されずに討ち取られたという。神保長城も居城を追われどこかに落ち延びていき遂に越中は謙信により完全に平定された。


上洛を目指す謙信は11月に能登にそのままの勢いで侵入、能登の諸城を怒涛の勢いで落とし、能登の守護、畠山氏が立て篭もる七尾城を包囲した。七尾城は北国街道の交通の要衝にあり、春日山城に負けず劣らずの険しい山城である。そしてこの七尾城の城主は意外にもまだ若干5歳の幼い春王丸であった。しかし5歳の子に何も出来るはずは無く、能登の実権は守護代の長続連、綱連親子に握られていた。


能登は本来守護の畠山氏が治めていた。能登畠山氏は元は足利将軍家一門の格式ある家柄で、7代目当主の義総の時代は繁栄を謳歌し、七尾の城下町は大いに栄え、都から貴族が転居してくるほどで小京都と呼ばれていたが、義総死後は家内の権力争いでの後は没落し、能登は政情が不安定になり永禄9年(1566年)には畠山義続が長連続らのクーデターに遭い、能登を追い出されて近江に落ち延びていた。その後継には義続の孫の義慶が守護になっていたが義慶も天正2年(1574年)2月に急死していた。その後は義慶の弟の義隆が後を継いでいたが、その義隆までも天正4年(1576年)に急死、守護職を義隆の遺児の春王丸が継いでいたのである。このような今までの守護代の不自然な急死には能登国内でも畠山一族は殺されたのではないかとの噂が常々流れていた。


険しい七尾城を眺める謙信の元に上条政繁が訪れていた。

「偉大な先祖の義総公が築いた七尾城がこれほどうっとうしく思うとは思いもよりませんでした・・」

政繁は言った。

「今は我が一族の末路を憂うばかりでございます・・」

政繁は小さな体を怒りで震わせながら悔しそうな顔をしていた。

七尾城は畠山義総が築いた険しい山城であるが今は越後軍に取っては巨大な邪魔な壁である。

「能登は今までも色々騒がしかったようだが・・確かにこれは良くない話だ・・」

謙信も政繁に同意した。

上条政繁は本名を畠山義春と言い実は畠山氏の出身である。

畠山義続の次男で5歳の時に謙信に人質として送られたものの、謙信に可愛がられ謙信の養子となり、元服後は名門上条家を継ぎ、越後軍の武将として各地を転戦していたのである。


「七尾城を落としたあかつきには長一族には厳しい仕置きを・・」

政繁は目をうるわせながら謙信に訴えた。

「承知している・・」

謙信も答えた。

「誰がこの城の城主にふさわしいかも私は認識している・・いまはこの堅い山城をどうやって落とすかを考えよう・・」

謙信の言葉を聞くと政繁の顔はみるみる笑顔になり

「はっ!この政繁、必ずや阿虎様の期待にお答えします!」

うって変わって元気良く答えたのである。

「長続連が一揆を起こすよう、国人衆を扇動しているらしいがこれを抑えて欲しい・・」

謙信が言うと

「連中は必ず味方にします!お任せください!」

政繁は力強く言うと、勢い良く自軍に戻っていった。


長続連が国人衆や一向衆を扇動して一揆を起こそうと画策しているのは事実であった。しかし謙信も軒猿の情報からこれを掴んでおり、越後の一向衆や政繁の働きが功を奏したのか連続たちの画策は失敗におわるのである。


「阿虎様・・」

七尾城を囲ってしばらく経ったある日、元服した与六少年、樋口兼続が謙信の元に駆け寄ってきた。

「上条政繁殿の今回の活躍見事ですが・・」

兼続は少し間を置いた後

「政繁殿がこちらにつけば出世は思うままと言って能登の国人衆を寄せ集めておりますが・・」

複雑な顔で言った。

しかしそれで一揆を抑えこんだのも事実であった。

「集まった能登国人衆が領土をもらえると集まり、勝手に弥五朗(政繁の通称)軍と名乗っているそうで・・」

「ふうむ・・」

「政繁殿の功は認めますが恩賞は能登国人衆ばかりでなく平等に・・私から恐れ多いながらも越後の衆の気持ちを代弁させて頂きました・・」

謙信も兼続の予想外に強い口調に少し回答に窮してしまったが

「・・わかった・・みなの気持ちしかと・・」

謙信はにこりと笑うとそのように答え、兼続を安心させた。


謙信は兼続、そして景勝については武将としての素質の良さは充分に認めていたが二人とも若年の間に越後の長年の重臣と同じ権力を持つようになっていたため、自分も若い頃そうであったが、自分以上に強権的な面もあり、二人が一部の越後衆から不評を買っているとの噂は謙信の耳にも入っていた。


謙信は兼続が去った後

(どうしたら良いものか・・)

と黙って色々考えていたが

「何か考え事ですかな?」

と、誰かの声でふと我に帰ったのである。


「厩橋城の北条キタジョウ高広が参りました!」

高広が年甲斐も無く元気良く言った。

高広は息子の景広と一緒であった。

高広は相変わらずで

「・・お久しゅうございます・・!」

高広は普段通り豪放に言った。

「・・ふむ・・元気そうで何より・・」

謙信も返した。

「・・北条ホウジョウは大人しくしているかな?」

謙信は高広の口調に合わせるよう冗談気味に言った。

「無論であります!このワシが厩橋城にいる限りはご安心を!」

高広はがははと豪快に笑った。

「今後もよろしく頼む・・氏政殿の動向だけでなく関東で何かあったら何なり連絡するよう・・」

謙信も続いた。

「で・・今日の用だがそなたに日頃の礼をしたいと思って・・」

「・・礼?」

謙信は不思議そうな表情の高広を見ながら言った。

「そなたの息子の件だが・・」

高広は息子の景広とお互い顔を合わせた。

「畠山義隆殿の未亡人を保護している・・差し支えなければ・・良い女子おなごなのでそなたの息子の景広に一度紹介したいと思ってな・・」

謙信は正直に言った。

「これはこれは・・!」

高広は上機嫌に言った。

「ありがたき幸せ!」

景広も嬉しそうに返した。

「関東の件はそなたを頼りにしている・・そなたは越後の番人だからな」

謙信は高広を持ち上げた。

北条高広は謙信に二度も逆らった男である。それでも二度とも最後は許してもらっている。

これはある意味、謙信と越後衆の関係は表向きは従属関係であるが、謙信もそれを強圧的に押さえ込めるだけの力があったわけでなく、微妙な関係であったことの裏返しでもあった。この問題は結局謙信の代では解決せず、この後の内乱を通して皮肉にも景勝、兼続の時代にようやく強化されていくのである。


さて七尾城攻略は北陸の要衝にあり、日本でも屈指の難攻不落の山城だけあって、さすがの謙信も正攻法では落とせないと悟り、近くに石動山城を築き、長期戦に備えたが、また同時に平和的な交渉による解決をも模索し、降伏も勧告した。


一方、七尾城の中では激しい議論が続いていた。

信長に助けを求めようとした長親子と畠山氏重臣で謙信に付こうとした遊佐続光とが激しく争ったのである。

しかし結局長親子の意見が通り、謙信と対決することが鮮明になり、こうして能登の七尾城を巡る攻防は長期化するのである。


結局睨み合いは年明け後も続き、天正5年(1577年)3月にはこの頃、石動山城に直江景綱の娘、お舟が、夫の信綱と共に甲冑を来て参陣して来た。景綱がこの頃病気にかかり、参戦出来なくなり代わりに来たのだという。景綱は男子に恵まれず、娘のお舟の方に総社長尾家の信綱が嫁ぎ、直江家を相続していたが、お舟の方も直江家の娘と言う気負いから薙刀に甲冑を着込んで勇ましい格好で乗り込んできたのである。お舟の方は直江の名門の娘と言う気負いから勝気で負けず嫌いな20歳の快活な女子で、若い頃の若干大人しげな謙信と違ったが謙信も昔の自分を思い出してしまった。


ただ謙信はお舟の気持ちは充分買ったものの、景綱の看病を優先するようにと春日山城に帰すことにしたのである。

お舟が春日山城に戻ってしばらくして、謙信の元に残念な知らせが入った。

景綱は結局その後も病状回復せず、間もなく亡くなったのである。

しかし、景綱の残した功績が大きかったのもあるが、それ以上にお舟も謙信に可愛がられ、この後も景勝時代も樋口(直江)兼続と共に活躍するのである。


春になると再度北条軍の動きが関東で見られるとの事で結局謙信は一旦七尾城の包囲を解き、春日山城に撤退することにした。


その間に再度能登の諸城は畠山氏側に寝返ったが、足利義昭や毛利輝元からの上洛を促す親書もあり、また、義昭も信長に対抗するため甲相越一和、謙信、甲斐の武田、相模の北条による停戦を求め、両者争いをやめて一旦休戦するという意味では効力を発揮し、北条側の動きが再度静まると、謙信は7月に再度能登に進軍、能登の諸城を再度奪還し、七尾城を再び包囲するのである。


七尾城でも謙信の動きを事前に察し、奪い返した能登の諸城を早々と放棄し、再度七尾城に引き篭もったのである。

七尾城には兵士だけでなく、畠山氏寄りの国人衆や一向宗、農民も無理矢理篭ったため1万5千の大人数が引き篭もり、さすがの謙信も手が出せないはずであった。

そしてこのとき長続連は密かに息子の連龍を信長に送り、援軍を求めたのである。


連龍からの援軍要請に信長は密かに散々迷ったが遂に決心した。

七尾城救援のため大軍を送ることにしたのである。

これは謙信との完全な手切れを意味していた。


信長は家臣団の前で敵は謙信と明言し、謙信を討ち取った者は出世は思うままとまで約束したのである。

しかし、意外な事に今回信長は自らは出陣しないことになった。自分が出陣すると石山本願寺が何をしでかすか分からないというのが表向きの理由であった。

今回の七尾城救援軍は信長の家臣団でも精鋭とも言える、柴田勝家を総大将に羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政たちの3万と言う大軍を動員、七尾城救援に向かわせることにしたのである。


信長が七尾城救援に来るとの連絡は謙信にもすぐにもたらされた。

しかも3万という越後軍の倍以上の大軍を動員し、武田軍を壊滅させた自慢の鉄砲隊を今回も大量に動員しているとの情報で、越後側はみな恐れをなしていた。


「早めに手を打たないと七尾城の守備隊と織田軍に挟み撃ちにされます・・」

景勝が珍しく少し不安そうに言ったが、しかし謙信は一人落ち着き払っていた。

「七尾城から眺める景色はたいそう美しいそうだな・・」

謙信は嬉しそうに言った。

「・・いざとなったら 私の首を差し出せば信長公も許してくれるのではないかな・・?」

謙信は冗談とも本気とも付かぬことを言った。

「阿虎様・・ご冗談を・・信長はそんな生優しい人間ではありません・・ここにいるみんなの首をよこせと言うに決まってます!」

兼続が真顔で言った。

「女だろうと容赦しませんぞ・・あやつは・・叔母のおつやの方を何のためらいも無く磔にするくらいですから・・」

本庄実乃も警戒心を露にしていた。

「・・さすが 覇王だな・・それは困ったな・・では丁重に安土城に帰ってもらおうか・・」

謙信はにこやかな表情のままであった。

一同謙信が何を考えているのか解らず、唖然としていた。



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