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越後の虎  作者: 立道智之
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夢上洛

長篠の戦いの衝撃が冷めやらぬうちに、天正3年(1575年)6月、再度、太田牛一が信長からの使者として謙信の元にやって来た。

そして今回もまた、信長から妙な贈り物が贈られてきたのである。

南蛮の衣装でマントという物で、貴重な南蛮製の布を使い、暖を取るのに適しているという。謙信は若い頃から良く越後上布を肩や首の周りを囲んで防寒を兼ねて暖をとっていたがそれに比べても生地も厚く、暖を取るのに適したものであった。信長も愛用しているという。


信長はこのような高級な希少な南蛮品を謙信によこしたのは、信長は武田勝頼の件で謙信には介入して欲しくないとの意思表示であった。

謙信も信長が武田を滅ぼす気であることを内心確信していた。

謙信も今まで信玄に散々煮え湯を飲まされてきた。謙信は決して信玄の行いを良くは思っていなかったが別に好意は無くても悪意や憎しみも無く、信玄の子供や家臣たちにも特段の感情は無く、武田を滅ぼそうなど考えたことなどなかった。

しかし信長は自分とは違い武田家を滅ぼそうとしていた。

信長からすれば武田を滅ぼせば当面の脅威はなくなると思っての行動であろうが、謙信は信長の気に入らない者は末代まで滅ぼさんというやり方に相容れない物を感じ、また謙信も信長の次の狙いは自分であるかもしれない点は薄々感じてはいた。


春日山城内の家臣団も実は今後の方針を巡って揺れていた。

春日山城内でも武田軍を壊滅させた信長の鉄砲隊に恐怖を覚える者も多く、このまま友好関係を保つべきとの意見もある一方、信長の真の野望、天下の統一は友好ではなく従属を求めており、それが出来ない場合は一族根絶やしのみなので戦うべしとの意見も根強く、不毛な言い争いが続いていたのである。


謙信はそのような事情を隠し、牛一を丁寧にもてなすと、信長公の意向は解ったとだけ返事をして御礼を持たせて返した。


しかし、このころ信長より先に海津城の高坂弾正昌信からも勝頼への助けと和睦を求める親書が届き、またこの頃密かに大阪の石山本願寺からも同じような親書が謙信の元に届いていたのである。


謙信は信玄亡き後、武田からの和睦があればそれに応じることを密かに決めていた。

謙信は信玄は好きではなかったが信玄が好敵手であることは認めていたからである。

弾正昌信からの手紙も今までも何度も受け取っていたが、謙信も今回は彼の悲壮感と必死の懇願を文面からも十分に感じることが出来、彼の武田家に対する忠義を買うと言う名分で武田家を助ける方針を明確にしたのである。


一向宗も拠点の石山本願寺や加賀方面が信長の猛攻にさらされ危機に陥り、一向宗の本願寺第十一世の顕如は今までの態度とはうって変わって謙信に和睦を請ってきたのである。

謙信も本願寺や一向衆にも散々煮え湯を飲まされてきたが個人的な憎しみの感情はなく、上洛の邪魔さえしなければ争うつもりなどなかった。

ただ加賀の一向宗が謙信の配下に入る事は信長の勢力と直接接することになり、また信長とのあつれきを生む事は間違いなかった。


謙信も信長の日の出の勢いに、自分でも単独での太刀打ちは難しいかもしれないと本心では薄々感じていたが、勝頼、本願寺を和睦すれば信長と共有する利益など全くなかった。信長からしても自分と同盟している理由などなかった。

信長から見れば服従するかしないのどちらかだけである。


信長の鉄砲隊の凄まじさは謙信も認めるとこであったが、信長のやり方を謙信も快く思っていなかったので、そろそろ信長との関係も手切れでも良いかと考えていたのである。

勝てるかどうか解らなかったが信長に一泡吹かせたいのと上洛したいとの本心もあった。


しかしこの年の暮れ、謙信の思いをよそに武田に関して謙信の元にまた嫌な知らせが入ってきたのである。


12月に信長は武田側の秋山信友の守る岩村城を落城させたのだが、捕らえた信友と妻で信長の叔母にあたる、おつやの方を長良川で逆さ磔で処刑したと言う。

岩村城は本来は信長の城で信玄の西上作戦の時には本来の城主がいたのだが、攻城戦の最中病死してしまったのでその妻であるおつやの方が代わりに、女城主として防戦したのだが、当時は信長が浅井朝倉や一向宗との戦いに追われ救援を出せず、更には三河の徳川家康も信玄に惨敗して孤立無援になっていたため、城兵を助けるためと信友からの求婚依頼もあったのだが、これを受け入れ、信長の五男の坊丸(信勝)を養子(人質)として信玄に差し出し降伏、その後は武田側の城になっていたのである。長篠の戦いで武田軍本隊が惨敗すると今度は逆に武田側の岩村城は再度孤立無援になり、信長の猛攻撃の前についに降伏落城したのだが、おつやの方の行動、信長に無断で信玄に坊丸を人質として送った事が信長の逆鱗に触れたのだという。

坊丸は長篠の戦いの後、勝頼が信長に対する服従心を現すために無事に信長の元に送り返されたがそれでも信長の怒りは解けることはなかったという。


磔台の上でおつやの方が最期に放った言葉は

「信長公・・あなたの最期は・・あっけないものでしょうよ・・!!」

であったと言う。

これはその後現実になるのは周知の通りである。


信長の凄まじさはこれに留まらず、朝倉氏滅亡後、信長が占領した越前では信長が指名した守護桂田長俊が越前を統治していたが、昨年、反旗を起した一向衆が長俊を殺害して、越前を占拠する事件を起こしていた。信長は長島一向一揆を殲滅させた勢いで、8月には越前に侵入、蜂起した一向宗1万人以上を討伐したと言う。捕らえた一向宗の門徒は降伏を許されず釜茹でや磔、城ごと焼き殺すなど恐ろしい方法で皆殺しにされ鎮圧され、越前は織田の猛将柴田勝家が治めることになったという。


この頃には謙信は信長の凄まじさに完全に愛想をつかし、信長との同盟関係はまだ生きていたが、手切れも時間の問題とも思っていた。


関東では北条氏政の勢力が急拡大していた。

安房の里見義堯死去後、後を継いだ義弘も北条氏から姫を受け入れ和睦を結ぶ交渉を開始し、北条家長年の憂いであった安房方面の憂いはついに終わろうとしいた。

常陸の佐竹や北関東の小山、宇都宮氏は南は北条氏、北は新たに力を付けて関東に南進しようとする陸奥の葦名氏に攻め込まれ再度謙信に助けを求めていた。


ただ氏政は相変わらず謙信には配慮していた。北関東の上杉側には手を出さなかったのである。謙信に言いがかりをつけさせないのもあるが景虎のおかげでもある。

むしろ氏政もこの頃になると西から勢力が急拡大する織田、徳川が気にかかり、間に入って緩衝材になっている武田の勢力が急速に弱体化する中、謙信との関係も再度良い方に考慮する時期に来ていることを感じていた。

氏政は信長に好を通じようと様々な工作を密かに展開していた。

謙信も同じで急激に強大化する信長に目を配るため関東より中央に目を向けざるを得ない状況になりつつあったのである。


天正4年(1576年)正月、謙信の元に信長が近江の安土に巨大な城の建築を始めているとの情報が飛び込んできた。

噂によると安土の地は琵琶湖湖畔にあり、水運を活用した巨大な城下町を作り、商売を発展させようという信長の方針で表向き作られていたが、実はこの城の最大の目的は京都の防衛のための重要拠点として作られ、特に今は信長の最大の障害の謙信の上洛を阻止するため作られているというのがもっぱらの噂であった。これにより信長は謙信のいかなる形の上洛にも賛成していないことが明らかになり、また信長が謙信に対して持っていた対決姿勢が次第に露になっていくのである。


2月には高坂弾正昌信の努力が実り、謙信と勝頼は和睦した。

しかし同じ頃、武田の件で謙信が介入してきている点について信長が不満に思っているとの情報も謙信に意図的にもたらされて来たのである。


続いて5月には本願寺ともついに和睦、加賀の一向宗が謙信側に付くことになり、加賀の北部も事実上謙信の勢力下に入る事になり、これにより謙信の上洛への障害は完全になくなった。都を追われた足利義昭も備後の毛利輝元の元に身を寄せていたが謙信に信長包囲網に加わるよう打診し、謙信もこれを受け入れることにしたのである。


上洛に反対する信長に対して謙信も信長と対決姿勢を決意する。

大阪でも石山本願寺の救援に来た毛利の水軍が7月に織田水軍の九鬼義隆を破ったとの情報が入り、謙信もこれを好機とみて加賀に再度進軍を開始したのである。


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