第六天魔王信長 前編
元亀5年(1574年)年4月、謙信は関東に兵を出した。
越相同盟破綻後も北条氏康の後を継いだ氏政はしばらく大人しく様子を伺うようにしていたが、安房の里見氏や常陸の佐竹氏の勢力が弱体すると再度北関東に向かう素振りを見せたのである。
関東は再度混乱の真っ只中で安房の里見氏は義堯、義弘親子が何とか守っていたが劣勢は否めず、常陸の佐竹義重も南から北条の関東北進と北からは新たに勢力を伸ばしつつあった陸奥の蘆名氏との間に挟まれて、北と南での両面作戦を強いられ、関宿城の簗田晴助も北条軍の攻撃を受け篭城戦を強いられ、袂を別ったはずの謙信に再度助けを求めていた。
謙信はそれらの要望に答えるために関東に兵を出し、まずは上野国に入ると再度謙信の元を離れ、氏政側についた由良繁成の居城、金山城や彼の支城に対して攻撃をかけたのである。
支城は次々と落城させたが、繁成本人が篭る金山城は守りが固くてさすがの謙信も力押しで落とすことは出来ず、謙信も味方の無駄な消耗を防ぐために包囲のみに終始した。
ただ謙信の攻撃に対して氏政の動きは緩慢であった。
実は謙信も今回は北条側に寝返った繁成の城を攻撃はしたが、繁成側も大半の支城は放棄し、金山城にのみ篭り、それほど戦う素振りを見せなかったのである。
繁成だけでなく氏政もそれは同じで繁成の援護のために兵を出してきたが、謙信と本気で戦うつもりは無く、北条軍も利根川を越えることは無く、逆に謙信もそれは同じで謙信も関宿城救援の為に利根川を越えることは無くお互い待ち構えるばかりであったのである。
二人が動かないのはの上杉景虎の存在からである。
氏政が越相同盟破綻後も景虎の帰還を求めなかったのも、謙信が本人の同意あって追い返さなかったのもあったが、越相同盟破綻後もどこか双方妥協できる点を探っていたためであった。
氏政は結局そのまま利根川を越えることは無く、両軍は睨み合いに終始し、5月になると結局双方そのまま軍を引いて大きな戦も無く終わったのである。
しかし同年6月には安房の里見義堯が死去し、安房方面も北条優位に流れが変わりだすのである。
北関東の諸将からも再度謙信に助けを求める依頼が飛び込んでいた。
ただ謙信も迂闊には動けなかった。
景虎の件もあったが謙信も越中能登に集中したかったのである。
物資を送るなどの援護はしたが兵を出すなどの積極的な対応はしなかった。
気まぐれな関東国人衆に多少辟易していたのも事実あるが、謙信が北条と越相同盟を結んだ時に、謙信寄りの関東の国人衆は力を弱体化させられたため、謙信もそれを快く思わず、その部分を関東国人が改め本心を見せるまでは動かなかったのである。
関宿城も昨年末以降北条軍に包囲される長期戦になっていた。
袂を別ったとはいえ謙信も簗田晴助への救援の必要性は認め、佐竹義重に関宿城への共同軍の救援作戦を提案し、謙信も結局10月には再度関東に兵を出し、羽生城を拠点として陣を構えたが義重は謙信の北条との同盟、越相同盟以来、謙信を信用せず、越後との共同作戦に慎重だったため義重は関宿城に救援を送らず、謙信も義重の行動を理由に関宿城の救援には結局向かわなかったのである。
謙信は宇都宮広綱の妻で佐竹義昭の次女で義重の妹の南呂院に手紙や支援物資を送っている。手紙を送ったのは義重の妹の南呂院に義重の方針を改めるよう政治工作をした物と思われるが、手紙の内容は
「返々、そのくちてきのひうりにのられ候、たしかわたてにくびをしめへく候か、女き二御入候とも、御ふんへつ候へく候、またゑんころそて一かさね給、一しほゆわい入まいらせ候、以上、此たひよし重つもりちかひまいらせ候、たたいまはこうくわ井候、さりながら、いよ~~うちかわるましきよし、けん信も同意におひまいらせ候、とにかく、よきやうにせいを御入もつともに思ひまいらせ候、めてたくかくし」
(かえすがえす佐竹義重と宇都宮広綱が敵、北条氏政の裏表の口車にのってしまい、真綿で首をぎゅっと絞めらるような(私たちのような?)女き(女騎?女儀?)にも分別がつくような状況なっています。また小袖を送りましたがお気にめしますかどうか。このたび佐竹義重が味方に付かなかったことには私も後悔していますがしかしながら考えを改めているようですので私もそれに同意します、とにかく良い方向になればと思います。めでたく。かしこ。)
義重に再度自分に味方し、関宿城の救援を求めるものであったが、結局これは叶わず、関宿城は結局この後、義重の仲介もあり11月には落城、晴助も降伏、水海城に退き、謙信も北条側に使われるのを恐れて羽生城を破却し、越後に兵を引いたのである。
謙信はこれ以降、二度と関東の地を踏むことは無かったのである。
一方織田信長もこの頃激しく抵抗する伊勢の長島の一向宗と激戦を繰り広げていた。
謙信も一向宗には手を焼いていたが信長も同じで元亀元年(1570年)からこの地では絶えず戦火が交えられていたが天正2年(1574年)に浅井朝倉氏を滅ぼすとようやく全戦力を持って一向宗と戦えるようになり7万から8万という大軍勢で決戦に挑んだのである。
長島一向一揆との戦いは熾烈を極め、信長の弟たちや重臣が多数戦死し、信長の逆鱗に触れた一向宗は城に立て篭もったまま焼かれて、2万人が犠牲になり9月にようやく一向一揆は鎮圧されたという。
「信長公は本当に魔王か・・」
謙信はこの報告を驚きながら聞いていた。
反旗を翻したものを手討ちにするだけならまだしも、味方の犠牲をもかえりみず、戦うその姿勢に驚きを持って見るしかなかったのである。
年が明けて、天正3年(1575年)1月謙信は顕景に弾正の地位を譲り顕景はこれ以降景勝と名乗るようになる。
そのころ甲斐でも信玄の後を継いだ勝頼が父信玄の夢を継ぐべく再度西上作戦を展開し、信玄が落とせなかった高天神山城を落として再度三河に迫っていた。
勝頼は信玄から謙信と組むよう遺言されていたが、勝頼の意地もあり、和睦交渉は進捗せず、また勝頼と信玄時代からの重臣の軋轢も納まらず、武田家は以前のような磐石さは失っていた。それでもまだ信玄時代の武勇に優れた重臣が数多く残り、武田家を支えていたのである。
勝頼は父信玄を越えたいとの強い志があり、そのためにも父信玄が病のために成し遂げられなかった西上作戦をなんとか成功させ、求心力を得たいあせりの気持ちもあった。
前回では織田、徳川連合軍が敗退を重ねたのもあり、勝頼には多少の勝算もあった。
しかし、今回信長も家康も武田に反撃すべく準備をしっかり整えていたのである。
信玄の時の西上作戦時は信長は浅井朝倉や一向宗との戦いに明け暮れていたが今回は西の毛利や大阪石山本願寺との戦いはあったが、前回とは明らかに情勢が変わっていた。
前回信玄の西上作戦時には謙信は同盟相手の信長から川中島から武田領への侵入を依頼されていたが今回は信長からの依頼は特になく、謙信も静観を決めていた。
信長からの依頼が無かったことに逆に謙信は信長の
「手助け無用」との強い意志の表れとも感じていた。
一方勝頼は謙信から川中島を守るため1万近い兵力を配備し、三河、遠江方面は2万程度と少ない戦力しか展開出来ず、勝頼の予想外に大戦力を擁してきた織田、徳川連合軍相手に思わぬ苦戦を強いられるのである。
6月の蒸し暑い日、織田、徳川連合軍は三河の地を甲斐に向けて北進していた。
勝頼率いる武田軍が三河を南下しておりそれを食い止めるべく迎え討つのである。
信長の部隊の足軽隊には謙信から密かに送り込まれていた軒猿が紛れ込んでいた。
織田軍の情勢を密かに探るためである。
彼らは多数の柵と重い火縄銃、鉄砲を持って黙々と歩いていた。
既に前哨戦と言える戦いは始っており、徳川方の長篠城は500の極めて少数の兵士しかいなかったが多数の鉄砲を揃えて長篠城を囲む1万5千の武田軍相手に激しく抵抗、善戦していた。
今回の作戦は長篠城を救援するのが最大の目的で、武田軍が甲斐に戻れば終了のはずであった。
今回、織田、徳川連合軍は武田軍の倍以上の兵力を展開していたが、信玄時代に大敗を喫し、武田軍は強いとの思いや恐怖心が織田、徳川軍の兵士にあったため深い入りするつもりはなかったのである。
ようやく長篠城が近づくと
「全軍停止!」
信長の与力の金森長近が全部隊に停止命令を出した。
長篠城は目前であったが武田軍1万5千に囲まれているため城内には入れず、少し離れた南の設楽原に布陣したのである。
「柵を展開させろ!小川沿いに立てろ!土豪も積め!」
金森の命令で織田の足軽たちはてきぱきと訓練どおり柵を立てていった。
信長の本陣の周囲は三重の柵と土豪で囲まれ、簡易な城のようになっていた。
じつはこのような野戦築城は当時の日本では非常に珍しいものであった。
「奴ら騎馬で一直線に突っ込んでくる・・この柵で足止めすればワシらでも勝てる!」
足軽は作業をしながらつぶやいた。
「こいつの威力を見せてやりますって!」
別の若い足軽も鉄砲を握り締めた。
今回信長は各武将に鉄砲の配分を決めて大量に実に三千丁近くも用意していた。
それでも武田の騎馬隊の恐ろしさは有名で織田、徳川軍の足軽は緊張した表情を緩めなかった。
「・・こんだけ兵力差があるんだ・・勝てるって・・」
密かに紛れ込んでいた越後の軒猿はおどけて言った。
事実、今回武田の1万5千に対して織田徳川連合軍は3万と倍近い戦力であった。
「お前・・武田軍の強さを知らんのか・・家康様は九死に一生だったんだぞ・・」
足軽は作業を続けながら言った。
「用心にこしたことはねぇ・・ま、いざだめになったら とんずらだが・・」
別の者が足軽らしい返答をした。
「上杉はどうだ?謙信もかって信玄と互角に戦ったそうじゃないか・・」
軒猿は少し個人的に興味のある質問をしてみた。
「まぁ・・強いらしいが・・今は一応味方だろ・・」
足軽は無関心に言った。
「今日、うまくいけば上杉と手切れになっても同じように料理してやれば大丈夫じゃ!もう織田に立ち向かえる輩なんかおらんわ・・・」
別の中年の足軽が言った。
「しかし用心には違いない・・弾を詰めている間に騎馬は距離を縮めてくるからな・・」
足軽大将の男は慎重に言った。
事実、当時の鉄砲は射程が短いうえ、火をつけて弾を込め発射するまで時間がかかり、野戦ではその間に接近され倒されることが多く、篭城向きの武器で運用も気難しい一面があった。
「だから柵で時間を稼ぐんじゃ・・お前らちゃんと3人で行動せいよ・・」
突然落ち着いた風情の中年の武将が横から入ってきた。鉄砲の名人と呼ばれ信長の重臣の滝川一益が視察のついでに突然口を挟んできたのである。
三人を三段に分けて順番を区切り、撃っている間に別の者は弾を込めて準備をし、発射を繰り返すのである。発射時間が三分の一になる三段撃ちと言う画期的な戦法であった。
「いやぁ・・俺太刀打ち苦手だからな・・鉄砲は頼りになるぜ・・」
若い足軽がしみじみと言った。
しかし
「鉄砲に頼るな!」
再度誰かの甲高い声が突然割って入ってきた。みんな仰天した。
なんと信長自ら兵士を奮い立たせるべく陣を練り歩いていたのである。
「・・武田の騎馬隊を甘く見るな!何騎かは必ず突破してくるはずだ・・そこは太刀なり槍なりで討ち取れ!柵は馬の足止めと鉄砲は敵の混乱程度にと考えろ!」
信長は甲高い声で兵に檄を飛ばした。
「へ!へい!」
足軽たちはみな信長に平伏していた。
(信長公はなかなか武道派だな・・)
軒猿の信長に対する率直な感想である。
信長はこの頃既に大大名に違いなかったが日々武道の鍛錬を好み、既に40前半であったが肉体は研ぎ澄まされ鍛え上げられていた。
残虐で容赦ない男ではあるが、意外と生真面目で裏切りや謀略を嫌い、ある意味血生臭いが武将らしい男ではあった。
自分の世間評判を意外に気にし、また規律にもうるさく、悪行を働く足軽は味方だろうと自ら太刀を持って鉄槌を下すこともしばしばであった。
また自分の武勇や鍛えられた肉体に自信があったのか、危険な最前線で指揮を執ることもよくあった。
柵の設置が終わると間もなく、武田軍の主力、1万2千が少し設楽原の信長の本陣近くまで圧力をかけるように移動し、武田軍も織田、徳川連合軍に向かい合うように部隊を展開してきた。
織田、徳川連合は数では勝っていたがやはり最強と名高い武田軍を目の前で見て相当緊張していた。
長篠城は相変わらず3千の武田軍に包囲され、東側の巣鳶ヶ山にも数はわからないが武田軍が展開し、山上から織田、徳川連合軍を見降ろしていた。
数では織田、徳川連合軍勝っていたが、長篠城が完全に囲まれていたため気迫では若干押されていた。




