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越後の虎  作者: 立道智之
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覇王信長

元亀4年(1573年)4月末、春日山城の謙信の元に軒猿から思わぬ知らせが届けられた。

「信玄公が死去されたようです・・」

「え・・・!」

謙信は驚きのあまり言葉が出なかった。

「本当か?」

直江景綱が変わって声を出した。

軒猿は大きくうなずいた。

甲斐に戻る途中、信濃の駒場で病死した言う。

甲斐軍が撤退したのも信玄の病状悪化からであった。


「信玄が死んだか・・」

謙信は静かに言った。

信玄に何かあっても信玄に対して悲しい感情など湧くはずなど無いと謙信は自分でも思っていた。

が、いざ本当にいなくなると妙な寂しさを感じたのである。

20年以上前に初めて信玄に会い、第4次川中島での信玄とのやり取りを謙信は静かに思い出していた。


「散々私の邪魔ばかりして・・本当に憎たらしい奴だったが・・いざいなくなると寂しいものだな・・」

謙信は本音を言った。


「どうします・・?」

本庄実乃が冷静に聞いてきた。

「?」

謙信は実乃が何を言っているのか一瞬解らなかったが

「・・川中島にすぐに攻め入って武田に一泡吹かせましょうか・・?」

猛将らしく柿崎景家がすぐに理由を話した。


「良くないな・・」

謙信はすぐに返した。

「それこそ私の嫌いな憎たらしい信玄の行動そのものではないか・・私は憎たらしい信玄の真似などしたくない・・」

謙信は笑いながら返した。

「後継者は?」

景綱が軒猿に聞いた。

「四男の勝頼公です!」

軒猿は明確に答えた。


「信玄が殺した諏訪頼重の娘の子か・・」

実乃が侮蔑的に言った。

「一応後継者ですが・・本当の後継者は勝頼の長男、信勝公でしょうな・・ 」

景綱が少し首を縮めながら言った。

これは事実で勝頼の名前に 信 の字が無いのは彼は 信勝が成人するまでの後見人と言う意味である。勝頼は信玄の後継者であるが武田家の真の後継者は信勝なのである。

「まぁ 少し様子を見よう・・」

謙信は言った。


「・・後を継いだ勝頼とてなかなかの猛将との噂だしな・・」

謙信は続けた。

「阿虎様の目の敵だった信玄が死んだので城下はお祭騒ぎですぞ・・」

景家が言うと謙信は目を静かに閉じた。


「・・奴は本当に嫌な男だったが・・学ぶべきことも多かったな・・」

謙信は正直に言った。

そして

「信玄が死んだからお祭騒ぎなど大人気ない・・城下の民には喪に服して、音楽など控えるよう・・礼節はわきまえるように伝えよ・・」

謙信は千坂景親に命令して城下に3日間は静かに喪に服すよう伝えたのである。


「しかし・・信玄も死に 氏康も死に・・阿虎様の時代ですかな・・」

景家が半分本気であったが冗談めいて言うと

「いや・・世の中はもっと厳しくなるでろう・・」

謙信は少し暗い表情で言った。

そして 西の方向に目をやり

「あの男・・どうでるか・・」

一人つぶやいた。


実乃、景綱、景家ら重臣はすぐに意味を悟った。

「ワシらがおります・・若いのも育っております・・ご心配なく・・!」

景綱が言うと実乃もうなずき景家も大きな胸板をどんと叩いた。


謙信もにこりと笑うとうなずき再度 西の方を厳しい目で睨んだ。


4月に信玄が死去すると早速その影響は現れた。

まず謙信が散々悩まされてきた越中は信玄が死去したことにより、武田氏の扇動がなくなり 完全に平穏になり、今までの騒乱が嘘のように静かになったのである。

謙信は今更ながら信玄の影響力のすごさに驚かされたのである。


ただ越中には武田氏に通じていた椎名康胤や神保長城がまだ存在し、完全な平定にはいたっていなかったが、謙信も勝頼の実力がまだ未知数であり、康胤や長城も今更ながら侘びをいれてきたので、許すつもりはなかったが武田氏への配慮から彼らを残して様子を見ることにしたのである。越中の康胤、長城の勢力が完全にそがれるのはもう少し先である。


一方信玄の死を最も喜んだのは織田信長であった。

信長にとって目障りな包囲網の最大の脅威が取り除かれたからである。

信玄が死んだことにより信長は完全に勢いを取り戻し、すぐに信玄を筆頭にしていた信長包囲網に対して猛反撃を開始するのである。


同じ頃、謙信も軒猿の一部を密かに尾張に向かわせた。

謙信は若い頃から情報を重視し、軒猿や越後商人、出羽三山の山伏などを使って密かに全国の情報を集めていたが、今回尾張に向かわせたのは信長の動向をもっと知るためである。

信長の軍隊、織田軍は当時は珍しい組織であった。謙信も川中島で戦いでの兵力補充時に一部導入していたが、織田軍の足軽兵は自国の徴兵の農兵ではなく、殆どが金で雇った職業兵士で構成されていた。

その中に軒猿を紛れ込ませて畿内の今後の鍵になろう信長の情報や畿内の情報を知り、今後の対応を考えようとしたのである。

信長が職業軍人の軍を作ったのは、領国の農業生産は農民に任せて生産量を落とさず、また農民兵だと農繁期は軍を動かせないが、職業軍人であれば、いつでも時期を気にせず兵を出せるという大きな利点があった。


まず7月、信長は京都に進軍、信長のおかげで将軍になれたのに信長追討命令を出し、信長包囲網を構築した足利義昭を京都から追放した。

ここで室町幕府は形上は遂に滅んだのである。


謙信は義昭が都を追われ、室町幕府が滅んだとの報告を聞いて、義昭の兄、義輝が三好長慶の軍事力を背景に将軍になったのに、実権を取り戻したいばかりに長慶の包囲網を作り、長慶の勢力を削ぐことには成功したものの、長慶の腹心の松永久秀の台頭を許し、長慶の死後、暴走を始めた久秀に逆に義輝が殺された永禄の変を思い出していた。


義昭も信長の軍事力を背景に将軍職に就いたが実権を取り戻したかったために、信長包囲網を作り、逆にこれを破られて、将軍に対して甘かった長慶と違い信長は、義昭をさすがに殺しはしなかったものの、あっさりと追い出し、室町幕府を滅ぼしたのは義昭も予想外であったのかもしれない。


もっとも信長も義昭を京から追放したとはいえ、義昭の護衛には信長の重臣の羽柴秀吉が付き、義昭も畿内の堺や摂津河内に留まり、また京を追い出されたとはいえ、今でも征夷大将軍の地位は持っており、将軍には違いなかった。

信長にもまだ多少の遠慮があったのかもしれない。もしかしたら義昭の利用価値をまだ充分認めていたのかもしれない。


謙信も8月になると行動を起こした。

信玄の死によって越中は静かになっていたが隣国加賀はいまだに一向宗の力が強く、一時は和睦もしたが結局続かず、その影響を削ぐために越中加賀の朝日山城を攻撃したのである。


信長との同盟の関係もあった。

信長が義昭を追い出したのは謙信も感心していなかったが、信長は一向宗や浅井氏朝倉氏とも戦っている最中で一向宗は共通の敵ではあった。

一向宗の力を削ぐことは信長と謙信の共通の益であったのである。

そして謙信もまだ誰にも言っていなかったが3度目の上洛を密かに考えていたのである。

ただこれは真の実力者の信長の意見や都合など色々諸事情はあったが謙信は古い人間である。

同盟者の信長が義昭を京から追い出したとはいえ、一応まだ官位上は将軍で、義昭も追放されたといえ、都のすぐ傍におり、義昭を放っては置けない、信長に頼んででも義昭を都に戻してもらおうという気持ちがどこかにあったのである。

義昭が若い頃の謙信を都で寛大に迎えてくれた義輝のような人物かどうかは謙信も解らなかったが会いたい、挨拶に行かなければいけないという気持ちだけは残っていたのである。


そのためには信長の意向の前に、物理的に上洛の障害になる加賀の一向宗を排除する必要があったが、あの信長も苦戦している相手だけあって、謙信も苦労させられるのである。


今回、一向宗は鉄砲を多く揃え頑強に抵抗し、さすがの謙信も攻めあぐんだのである。

「全く攻めにくい城だ・・」

顕景はバンバンと鉄砲を乱射する朝日山城を恨めしく眺めていた。

「火矢をどんどん放ちましょう・・」

与六が火矢を準備をしたが8月の気まぐれな変わりやすい雨に悩まされ、火矢はうまく火が点かず威力を発揮できないまま戦線は膠着していた。

「都には大筒なる巨大な火縄銃のようなものがあるそうで・・手に入るでしょうか?」

越中、加賀方面の司令官の河田長親は謙信と色々と攻略を練っていた。

「うむ・・まぁ・・少し様子を見よう・・」

謙信も色々対策を練っていた。


その時であった。

「じれったいぜ!全く・・!」

上杉方の一部の部隊が突然攻撃を開始したのである。少数の部隊であったが火縄銃の間を器用に縫って朝日山城に取り付こうとしたのである。

「何処の部隊だ?」

長親が驚いて見てみると14歳の与次と言う若者が部下を引き連れて飛び出していったのである。

与次は謙信直属の旗元で春日山城留守役、吉江景泰の次男である。

「馬鹿者が!連れ戻せ!」

謙信の命令の前に先に顕景の雷が炸裂した。

降り注ぐ鉄砲の弾の中を勝手に奮戦している与次の元に顕景が激怒しているとの伝令が伝えられると与次も慌てて上杉軍本陣に舞い戻ってきた。

与次も少し勝手な行動であったかと反省し、顕景に大目玉を食らうのは仕方ないかと、観念したが予想に反して与次は後方の陣中に監禁されることになってしまったのである。

あまりの厳しい罰に与次も謙信と顕景の前で涙ながらに抗議してきたのである。

「自分は顕景様、謙信様に可愛がられ、恩義を感じています!俺は確かに勝手でしたが・・顕景様、謙信様の戦のために死ぬことなど恐れてません!名誉だとおもっています!それが・・戦が出来ないように監禁だなんて・・あんまりです!」

謙信は全く怒っておらず優しい口調で言った。

「与次・・そなたは名門吉江家の息子であるぞ・・そなたにはまだやってもらいたいことがたくさんある・・名の無い一向宗の鉄砲玉に当たって倒れられたら私はそなたの両親に合わせる顔が無い・・顕景もそなたに期待している・・こんな所で終わってはいけないぞ・・」

謙信に率直にとがめられ、さすがの与次も返す言葉がなかったのである。


与次少年には謙信の戦略が込められていた。

実はこの年、揚北衆の実力者、中条藤景の後を継いだばかりの中条景資が42歳の働き盛りであったが不慮の病で急死していたのである。揚北衆の実力者の地位の空白は越後国内情勢に悪影響を与える可能性があったので河田氏の誰かを繋ぎで入れた後、景資の幼い娘にこの与次を婿入れさせて中条家を継がせて、揚北衆の勢力の安定化を図ったのである。

与次は今回の騒ぎもそうであるが、勇敢な少年で顕景も彼には一目置いていたのである。


謙信は今回の騒ぎの件について与次の両親の吉江景資夫婦に事情を説明する手紙を残し、その手紙は現在も残っていると言う。


なお与次少年だがその後元服し、中条家を継ぎ、中条景泰と名乗るようになる。

謙信や顕景と越中を転戦し、謙信死後の顕景(景勝)と景虎の後継者を巡る御館の乱の時も顕景側について戦うが内戦が長引き、信長の配下の柴田勝家の北陸攻略軍の攻撃に備えるために魚津城に篭って戦うが遂に落城し、祖父、宗信、父、景資、兄、寺島長資と共に自害して果てた。戦いに明け暮れた彼は結局中条城には一度も入ることはなかったと言う。

そして彼ら吉江一族3代が自害した前日、皮肉にもあの織田信長も本能寺で明智光秀の謀反に会い、既に横死していたのである。


朝日山城の攻略は結局不調であった。

また関東でも動きがあった。

北条氏康の後を継いだ氏政が北関東に兵を出す素振りを見せ始めたのである。


氏政は元亀3年(1572年)初めに、武田氏との再度の同盟(第二次甲相同盟)を結んだ後は安房の里見氏や常陸の佐竹氏に対する攻撃を強めていた。

里見氏や佐竹氏は越相同盟締結後は謙信の元を離れ、信玄と組むなどして北条と戦おうとしていたが、信玄が再度北条と組むと梯子を外される形になり、結局再度謙信に助けを求めてきたのである。

上野国でも動きがあり、一度謙信側についていた由良成繁が再度北条側につき、上野の謙信寄りの国人衆からも関東出兵の要請が相次ぎ、謙信も関東に再度兵を出すことにしたにである。


朝日山城の攻略はそのため一旦中止となった。

しかし謙信は実はこの頃密かにある案を練っていた。

一向宗との対応についてである。

以前にも述べたように越後国内では一向宗は保護されていた。越中も信玄亡き後は謙信の支配下に組み込まれおとなしくなっている。この勢力をうまく使うことにしたのである。

朝日山城の攻略もそうであったが力ずくだけの攻略ではなく他の手段も用いることにしたのである。


元亀4年(1573年)夏も終わろうとする頃、謙信は朝日山城の包囲を解き、一旦春日山城に戻り、関東出兵の準備や一向衆攻略の準備を万全に行うことにしたのである。


一方信長は勢いに乗ってこの年の8月には朝倉義景の居城、一乗谷に攻め込み朝倉氏を滅ぼし、9月には小谷城の浅井久政、長政親子らをも滅ぼしたのである。

信長の勢いは留まるところを知らず11月には三好三人衆も追い込まれ、三人衆は逃亡、三好長慶の後を継いだ義興も最後は自害し、長慶以来の三好一族は遂に信長と言う新しい権力者によって下克上され滅んでいったのである。

あの松永久秀も降伏したという。

久秀は貴重な茶器を信長に提供してようやく命だけは許されたと言う。

残るは一向宗の総本山、石山本願寺だけが最後の抵抗をしていた。


こうして信長は信玄の急死という幸運もあったが実力で包囲網を打ち破ったのである。

この年は謙信にとって信長の底力を思い知らされた年であった。

謙信にとって信長はますますいろんな意味でますます気になる存在になっていくのである。


そして翌年、元亀5年(1574年)3月、関東へ出兵寸前の謙信に信長から思わぬ物が届くのである。


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