西上作戦
謙信は越中の大半をほぼ平定したものの安心はしていなかった。
椎名康胤は謙信に恐れをなし、再度降伏を願い出てきたが今回は謙信は許さなかった。
康胤は武田信玄の操り人形で康胤が信玄の意向次第で動く限りは康胤との約束など何の意味も持たないからである。
一向宗も謙信が去れば直ぐにまた反旗を翻す輩であり油断できず、神保長織は行方不明になったが子の長城は追い詰められているとはいえまだ健在であった。
富山城を修復した後、謙信は河田長親や顕景に富山城や越中は任せて一旦春日山城に帰還することにした。
顕景たちには奪い取った領土の分配をも指示した。
富山城に残った顕景たちは土地の分配や恩賞の作業に明け暮れていた。
謙信は今まで領土を奪うようなことは無い稀有な武将であったが今回からは方針を換え、配下の将校たちに奪った領土を分け与えることにしたのである。
作業の最中
「どうだった・・与六・・」
顕景は手を少し休めて与六に初めての戦について聞いてみた。
「ふんどしは間にあったんか?」
水原親憲が嫌味っぽく聞いてきた。
「・・間に合いましたよ!」
与六は膨れながら言った。
しかし
「あまりの凄惨さに・・必死でした・・」
与六は正直に答えた。
「うむ・・」
顕景も今回は黙ってしまった。
「・・あいつらは特別だ!気にすんな!」
親憲も珍しく与六を庇う様に返した。
今回の越中戦は大激戦で一向宗は生きるが地獄 死ぬは極楽とひたすら突き進んでくるが皆、農民兵で戦慣れしていないので数では勝っていても個人の力では戦慣れした上杉兵との比較にはならなかった。
一向宗は次々と討ち取られ犠牲者の山を築き上げ、辺りの川は犠牲者の血で染まったといわれている。
もちろん一向宗、連合軍の無謀な戦い方で謙信側の犠牲も大きく謙信も両軍の犠牲者を弔うために御堂を後にこの地に建てている。
「ところで・・」
栗林政頼が声を潜めるように言った。
「信玄が西に向かうようで・・」
「だから越中がこんなに騒がしいんだろう・・」
顕景は無表情に言った。
「信玄の操り人形の椎名康胤や神保親子のおかげでいい迷惑じゃ・・」
親憲もふうっと溜息をついた。
「ここは信玄と阿虎様の代理戦争ですな・・」
長親も言った。
「ところで謙信様も春日山城に戻ったのは川中島の海津城の高坂弾正昌信が攻めてくるかもしれないからとか・・」
与六も首を引っ込めながら言った。
「信玄は阿虎様を認めているから直接対決は無いだろう・・」
長親は言った。
「それ以外にも色々あったよな・・ 阿虎様と信玄と・・あと高坂弾正昌信とやらとも・・」
親憲が含みのあるよにう言ったがそれ以上は言わなかった。
与六だけよくわからずきょとんとしていた。
「ま、こんな血生臭いのはいい加減終わりにしたいもんだ・・」
顕景は言うと、しばらく間を置き
「・・手持ちの戦力で勝手に康胤や長城を攻め落としたら伯母上は怒るだろうか?」
顕景が政頼に珍しく相談してみた。
「怒らないとは思いますが・・無駄とは思ってるんでしょうな・・」
政頼は言った。
「一向宗はそそのかされると勝手に蜂起するからか・・」
顕景も再度目を閉じた。
政頼もうなずいた。
「謙信様も策は講じているようで・・」
上条政繁が小さな声で言った。
上条政繁は能登の守護、畠山義次の次男で能登が政情不安の為、幼い頃から謙信の元へ人質として出されていたが、聡明であったため謙信に気に入られ、養子として取り立てられ、上杉一族の上条の名を告ぐようになった男である。
「・・尾張の織田信長と組むようです・・」
政繁は小さい背丈と同じように小声で言った。
「織田信長か・・」
顕景は茶をすすった。
都に入った信長は足利義昭を傀儡に天下人のように振るまっていた。その横暴さは三好三人衆や松永久秀以上であった。それでも信長と謙信には共敵がいた。お互いに一向宗に苦しめられ、手を焼いていた。信玄も二人にとっては共通の敵であった。
信長に対して複雑な思いはあったが、共に組む利点はまだあった。
そしてそんな折であったが、その信玄がなぜか突然、この年 元亀3年(1572年)10月、西に軍を進めはじめたのである。噂だと信玄の目標は都だと言う。
なぜ信玄が突然上洛を目指して西上作戦を開始したのかは謙信も正直よくわからなかった。
信玄の奥方の都出身の三条婦人が元亀元年(1570年)死去し、彼女の帰京したいとの望みを汲んだのか義理の弟の顕如の依頼か比叡山焼き討ちに対する信玄の信長に対する反感かその理由はわからなかったが、とにかく信玄は突然都を目指し進撃を始めたのである。
武田本国、甲斐の南の武田領駿河の西には織田信長の盟友徳川家康領の遠江国と三河国、そして織田信長の尾張国、美濃国がある。
信玄は3万の大軍で甲斐を出発すると遠江国、三河国に侵入し、徳川家康の支城を次々と落として破竹の勢いで進撃を開始したのである。
信玄の猛攻撃の前に家康軍はなすすべが無く、敗退を重ね、家康の同盟者の信長もこの頃は朝倉義景、浅井長政と近江で戦いを繰り広げ、家康を助けたくても余裕が無かったのである。
謙信はこの頃には本音では信長に対する感情は冷め切っていた。謙信が北条と武田の再同盟の件で振り回されていた頃、信長も浅井久政、長政親子、朝倉義景と敵対していたが、浅井朝倉寄りの比叡山延暦寺を焼き討ちし僧侶達を虐殺する世に言う比叡山焼き討ちを元亀2年(1571年)9月に行っていたからである。
しかし、そんな信長であっても今はお互いに必要な時期であった。
越中で勝利したとはいえ、一向宗がいつ再度蜂起するかわからなかったし、こちらも長期の遠征で兵力を休める必要があった。
信長も本音では謙信を警戒していた。しかしこの頃信長も石山本願寺、浅井朝倉勢力との戦いが続いており、信玄に対抗するためには謙信と組むしか無かったのである。
信長は謙信に対してひたすら下手に出て、自分の長男の信忠を人質に出すことまでも提案していた。
謙信にとっても信長にとっても苦渋の決断であったが11月には信長と同盟し、信玄を逆に包囲するようになるのである。(濃越同盟という)
一方甲斐でも越中の謙信の件は話題になっていた。
遠江の陣中で信玄は越中の報告を聞いていた。
「・・謙信は越中を占領するようで・・神保や椎名が助けを求めています・・」
越中からの伝令兵が報告を読み上げていた。
「あの謙信がどういう気変わりか・・」
馬場信房が驚きにも似た声をあげた。
「気にすることもあるまい・」
信玄は気にも留めて無い素振りをしていたが武田家の家臣団は今まで領土に興味を示していなかった謙信が急に領土拡張政策に走り出したことに一抹の不安を覚えていた。
「海津城の高坂弾正からも再度謙信と・・」
内藤昌豊が全てを言い終わらないうちに
「・・わかっている・・もう一度和睦を結べという件だろう・・」
信玄が遮るように言った。
信玄も本音では越後からの憂いをなくすために謙信と和睦しようと考えてはいたが不調に終わっていた。
そのため越後方面の脅威が今回の西上作戦でも残り、武田の家臣団は謙信に川中島から侵入され、謙信が同盟している信長と挟撃されるのを恐れたのである。
しかし信玄は冷静であった。
「なんで冬のこの時期を選んだかわかるじゃろう・・越中に奴はいる・・雪で山越えは出来ん・・絶好の好機だろうが・・」
信玄が先読みするように言った。
しかし家臣団の動揺は収まらなかった。
甲斐の家臣団や信玄の予想以上に早く謙信が越中の神保、椎名、一向宗の3万の三者連合軍を撃破してしまったからである。
「確かに謙信は今は雪で大人しくしていますが雪が溶ければ何をするか・・越中のこの惨敗ぶりでは今後越中の戦力だけで謙信の勢いを止めるのは難しいかと・・」
保科正俊も不安げに言った。
「北条氏政殿も腰が引けているようでアテにはならないし・・」
小山田信茂も続いた。
「今の謙信の勢いでは川中島から侵入されたら以前のように抑えられるかどうかも・・」
穴山信君も正直に不安げに言った。
家臣団の中からも弱気の声が漏れていた。
「ふむ・・」
信玄は一言言うと
「まぁ 確かに予想外に早く越中の連中が阿虎に叩きのめされたのは事実だわな・・ごほ・・」
信玄は咳き込みながら言った。
「・・もっともワシも越中の康胤や長城、一向宗に阿虎に勝てなど期待しておらん・・ 少し暴れて足止めするだけで充分じゃ・・奴らは充分にやった・・」
信玄は相変わらず落ちついた素振りで言った。
「ところでおぬしら いつから阿虎を謙信などと呼ぶようになった・・?」
信玄は少し不満げな振りをして言ってみた。
「阿虎はワシにとっていつまでも阿虎じゃ・・謙信でもなんでもない・・」
信玄は涼しげに言った。
「しかし・・さすがじゃ・・ワシもそろそろ 阿虎と呼ぶのはやめようかのう・・もう少し早くワシの言うことを聞いておれば関東管領なんかよりもっと上を目指せたかもしれないにな・・本当に惜しいな・・ゴホッ」
信玄は咳き込みながら珍しく謙信をみんなの前で褒めた。
信玄は口ではあまり言わなかったが信玄は実は以前から謙信を評価していた。
自分を恐れず立ち向かってくる姿勢と、その頑固なまでの義理堅さ、女だてらに戦上手な点、そして今までの失敗から学び、方向転換し、方針を改め領土拡張策に謙信が走り出したからである。
謙信の方針転換はもちろん自分と再度ぶつかる可能性も充分あったが信玄は自分の優れない体調や甲斐、武田家の将来のことをこの頃色々考えていた。
謙信との和睦も単純な西上作戦に備えただけの物ではなく、もっと別のものであった。
信玄は謙信を評価すると同時に、自分の家臣団の優秀さにも絶対の自信はあったがそれでも謙信と真っ向に戦えるのは自分以外にいないと考えていたのである。
もし自分がいなくなった時の謙信との関係を考える時が迫ってきていると考えたのである。
信玄はもし自分がいなくなったら、武田家は謙信と争そわさせないことを密かに腹に決めていた。
とにかく信玄の体調は芳しくなかった。
「それにしても・・何としても 都に上りたいのぅ・・」
信玄はつぶやくように少し咳き込みながら言った。
信玄も元々決して体は丈夫では無かったが表向きの理由、風林火山の旗を都に立てるため夢の上洛を目指して邪魔をする信長、家康の攻略に西に向かうことにしたのである。
信玄の西上作戦、上洛作戦はあくまでも表向きの理由であった。
信玄はどうしても駿河、遠江だけでなく三河、尾張に進出する必要があった。信玄も都まで行けるとはとうてい考えていなかったのである。
信玄を西に向かわせる決断をさせたのは甲斐の国内の問題であった。
甲斐の金山が枯渇し、今までの北条や駿河での合戦の経費や褒章の件、信長の脅威から武田一族を守るために最低でも三河、尾張まで勢力を拡げ信長を牽制し、信長の力を削る必要があったからである。
甲斐は越後と違い流通や商人基盤が発達していなかった。国を閏わすには領土を増やすしか方法が無かったのである。
また勢いを日増しに増す信長と、もはや信玄も単独で戦えるとも思っていなかった。
東の北条と再度和睦を結び、北の謙信とも和睦を何とか結び、いずれこちらに向かってくるであろう信長との全面対決に備える必要があったのである。
信玄は西上作戦を発動させると山県昌景、秋山信友に部隊を分け与えて、どんどん部隊を三河、遠江の奥地に進撃させた。
東美濃の岩村城は信長の五男の坊丸(織田勝長)と叔母のおつやの方が守っていたが、秋山隊に包囲され、信長からの援軍も期待できなかったため、おつやの方は自ら信友の妻になるという奇策を行い、信長の五男、坊丸も信玄の養子(人質)として差し出すことで降伏、落城した。
北三河や北遠江の支城も山県隊に次々と攻略され、11月には家康の篭る浜松城の北の二俣城まで落とされて、家康は絶対絶命の危機を迎えていた。
信長も家康に援軍を送り、家康は浜松城に頑なに籠城していたが、武田軍も防御の固い浜松城を無理には攻略せず、12月になると武田軍は浜松城を素通りして三河に向かいだしたのである。
家康は大きな賭けに出るのである。
このまま連戦連敗では国人衆に示しがつかないし、信玄が今までの戦の経緯から油断して自分達に背中を向けているのであれば絶好の機会と考えたのである。
信玄の兵力は2万5千と強大であったが家康軍も織田軍の援軍を入れて1万1千あり、奇襲攻撃だけ行うのであれば充分な戦力であった。
家康は決断し、浜松城を密かに出撃し、武田軍の背後に迫ったのである。
しかしそれを察したかのように、武田軍は家康軍を待ち構えており、家康軍は奇襲どころか武田軍の真正面に出てしまったのである。
家康軍は仰天するも時既に遅く、2時間の短い戦で家康軍は多数の武将を失い、本人も危うく討ち取られそうになる大敗北を喫したのである。
わずかな手下に守られて浜松城にほうぼうで逃げ帰った家康は恐怖のあまり思わず脱糞してしまったと伝えられている。
浜松城に逃げ延びた家康を討ち取ろうと山県隊がすぐに追いかけてきたが家康は空城計、城の城門を全て空けて、逆に敵を警戒させる戦術を取ったといわれ、山県隊は浜松城に何か仕掛けがあると用心し、そのまま撤退したため、家康は窮地を脱したと言う。
この戦いは後に年三方ヶ原の戦いと呼ばれ、家康の人生最大で唯一の敗戦と言われており、家康はこの時の自分の顔を書かせ、その後の自分の戒めに使ったと言う。この絵は顰像と言われ現存し、その時の家康の心中を察することが出来る。
一方、三河国、遠江国が大揺れの間、謙信も越中に留まり、今後の対策を練っていた。
年が空け、元亀4年(1573年)1月、謙信は越中の平穏化のため加賀の一向一揆と和睦しようとした。越中の一向宗を囲いこもうとしたのである。
しかしすぐにまたもや信玄の扇動で越中国内の椎名康胤、神保長城、一向宗の三者連合軍が懲りずに再度蜂起するのだが、同じ事を繰り返すように謙信に再度鎮圧されるのである。
三方ヶ原の戦いで、家康に大打撃を与えた信玄も年が明けて正月にいよいよ三河に侵攻しようとしていたが、武田軍の動きはこの頃になると急になぜか遅々としており、一時期の凄まじさはなぜか影を潜めていた。
武田軍は2月に東三河の要衝の野田城をようやく落とすがそこでもまた動きが止まってしまうのである。
家康は相変わらず浜松城に閉じ込められていたが、信長軍は勢いを取り戻し、信玄に同調する近江の六角氏を討ち取るなど反攻を開始するのである。
謙信の元にも軒猿から信玄の情報が絶えず届けられていた。
謙信も信玄が進撃を遅らせているのは信長と組む自分を警戒して信玄が意図的に軍を遅らせいるのかとも思ったが、それにしても昨年の破竹の勢いがすっかり失せて、不自然は不自然であった。
ただ信長からはしきりに、雪溶けしたら信玄の牽制のため、信濃の川中島に攻め入って欲しいとの懇願が入っていた。ただ謙信は正直迷いもあった。
信玄も苦手であったが信長も素直に受け入れらなかったからである。
川中島の海津城には高坂弾正昌信がいたのもあったが、弾正昌信が再度謙信に和睦を求めてくる動きも余計に謙信を惑わせていた。
ただ信長との同盟は生きていたし信長のひたすら下手に出てくる巧みな交渉も無碍には出来なかった。
謙信が悩んでいるうちに越中は既に雪が溶け始め、春が訪れてようとしていた。
信玄が東三河でなぜか遅々としている間に既に4月になっていたのである。
そして4月になると武田軍は西に向かうどころか甲斐本国に向けて後退を始めたのである。
信長や家康は謙信を警戒して一時的であろうが撤退したと大喜びであった。
謙信だけは再度、信玄が何か妙策を使ってくるのではないかと素早い後退に逆に警戒したほどである。
しかし信玄は実は不治の重い病気に犯されていたのである。
武田軍の動きが遅々とし進まなかったのは信玄の体調からであった。
武田側は信玄の不調に遂に決意し、信玄の療養のために甲斐本国に撤退を開始したのである。
しかし結局信玄の病状はいっこうによくならず、甲斐本国までまだ距離があったが信濃駒場で信玄はこれ以上動けなくなってしまったのである。
病床に伏せた信玄は全てを悟り甲斐の重臣たちを自分の枕下に呼び寄せた。
信玄は床に横わたりながら真っ先に
「勝頼を・・」
弱々しい声で言った。
勝頼と勝頼の息子の信勝が信玄の枕元に呼ばれた。
「勝頼・・ワシが死んだら阿虎・・いや謙信を頼れ・・あいつは人に頼まれたら断れない奴だ・・お前を必ずや助けてくれるはずだ・・」
信玄は今まで誰も見たことが無かったすがるような目つきで言った。
「昌信・・お前は直ぐに謙信と和睦交渉をな・・頼むぞ・・」
信玄の病状悪化のため海津城から急遽呼ばれた高坂弾正昌信は目に涙を溜めながら大きくうなずいた。
「・・ワシの死は3年間伏せろ・・諏訪湖にワシを沈めてくれ・・信長には気をつけろよ・・みんな 頼んだぞ・・」
信玄は最後の力を振り絞るように言った。
そしてそのまま静かに目を閉じ二度と目を開くことは無かったのである。
こうして4月12日、謙信と死闘を繰り広げ、氏康と激しく対峙し、信長、家康を恐怖に陥れた信玄は死去した。享年53歳であった。