越中大乱
一方話は少し遡るが謙信は越中には永禄12年(1569年)に信玄の誘いに乗って反旗を翻した椎名康胤や一向宗の鎮圧のために侵攻していたが、北条側の要請で関東に出兵した関係から一旦兵を引き上げたため、再度康胤や一向宗が力を盛り返し、謙信側の富山城を奪われる事態が起きていた。
謙信も北条氏との越相同盟の作業にかかりつきであったため、越中は後回しになっていたが越相同盟が一区切りつくと謙信は元亀2年(1571年)2月になってようやく再度越中に出兵したが同年10月に再度信玄が西上野に兵を出したため再度撤退し、それに乗じてまたも康胤や一向宗が息を吹き返すいたちごっこが続いていたのである。
少しややこしいが謙信と越中の関係は、最初は謙信は康胤の求めに応じて永禄2年(1559年)初めて越中に出兵し、神保長織を屈服させていた。
そして少し間が開くが、飛騨国の件や越中守護、畠山氏内の内紛などがあった後、永禄12年(1569年)逆に康胤が信玄の誘いに乗って謙信に反旗を翻すと今度は長織からの救援要請を受けて越中に出兵し、康胤や一向宗と戦うのである。
康胤を助け、脅した長織を屈服させておきながら、今度は長織を助けるために康胤に攻め入るのである。
ところが元亀元年(1571年)頃には康胤だけでなく、謙信に助けを求めていた神保長織、長城親子までが信玄の誘いにのり、康胤や一向宗に同調するようになり、三者は越中内で連合軍を組んで謙信に逆らうようになるのである。
しかし謙信もすぐに越中征伐とは行かず、元亀元年(1571年)12月に甲相同盟が再度復活し再度信玄と北条氏康の後を継いだ氏政とが結ぶようになると謙信は再度、武田、北条とは敵対関係になり、関東にも眼を配る必要が出て、越中征伐はさらに遅れるようになるのである。
元亀2年(1572年)3月、謙信や越後軍本隊は関東に出て信玄や氏政の部隊と対峙し、越中には分隊5千が残り、越中の反乱軍、康胤、神保親子、一向宗の三者連合軍と対峙する苦しい局面に立たされることになる。
越後は越相同盟破綻、甲相同盟復活で早速関東と越中の二方面で対峙するという厳しい局面を迎えるのである。
越中方面の分隊長には謙信が若い頃、永禄2年(1569年)都からの帰りに近江で仕官し、その後越中方面や関東戦線で活躍した謙信お気に入りの奉行、河田長親が任命され戦っていたが、康胤、神保親子、一向宗の三者連合の3万の大軍相手に苦戦し敗戦を重ね、上杉側最後の牙城、新庄城に立て篭もり、必死に防戦していたのである。
一方関東に出た謙信ら上杉軍主力も、信玄がこの頃すでに駿河以西に目を向けていたのと、氏政も諸般あり、謙信とは本気で戦うつもりはなかったので、睨み合いに終始し、武田軍、北条軍も間もなく自国に引き上げたので、謙信も大急ぎで越中に引き返し、新庄城の河田長親の分隊の救援に向かったのである。
8月にようやく謙信の本隊が新庄城に到着したが越後側は謙信本隊を合わせても1万5千と三者連合軍の半分の兵力で不利を否めなかった。
謙信も不利は承知であったが、隙を見て素早く新庄城に入城すると、包囲する三者連合軍も1万5千の戦力に籠城されては手が出せず、戦線は膠着状態に陥るのである。
新庄城に立て篭もっていた長親は謙信が入城すると丁重に迎えると同時に越中での敗戦を素直に詫びた。
しかし謙信の返答は意外なものであった。
「よくぞ、あの大軍を半年間押さえ切った・・ご苦労であった・・」
謙信はにこやかな笑顔で長親に返した。
「食料や武器弾薬は大量に持ち込んでいる・・向こうも3万の大軍で食料もままなら無いであろう・・じっくり今回は待とう・・私も小田原でそうだったが大軍の包囲は意外と大変なものだ・・ゆっくりやろう・・」
謙信は扇子を開いて静かに扇ぎなら落ち着いて言った。
「それにしても長親は良い城に立て篭もっている・・大したものだ・・」
謙信は終始上機嫌であった。
「・・?ありがたき・・お言葉・・?」
長親は叱責されるかと思っていたが謙信の上機嫌に驚きながらもその理由がわからなかった。
この城を選んだのは他の城に比べて越後に近いのと越中内の上杉側最後の砦でここしか残されていなかったからである。最後の砦であるが浮き城と呼ばれる富山城に比べれば特別なところなど何も無く、東を常願寺川、西に荒川、北陸道に面する交通の要衝にあるが周囲は土塁と堀を巡らせた程度の普通の平城である。
「兵士が関東からの長距離の移動で疲れている・・籠城兵も本隊が来たので少し休むが良い・・来週くらいに軍議を開いて今後をゆっくり考えよう・・」
謙信は相変わらず落ち着いていた。
謙信が言っていた軍議は結局一週間後どころか三週間近く後になってようやく行われた。
これには謙信が若い頃から悩まされている毎月10日前後にやってくる腹痛をやり過ごすのもあったが本当に今回は謙信も度重なる長距離移動に疲れていたのか3万の大軍に包囲されながらもゆっくりくつろいでいたのである。
逆に城内の他の者があまりにのんびりしていたので少し焦りを覚えるほどであった。
ようやく召集された軍議でも謙信は相変わらず落ち着き払っていた。
「今回の戦は顕景(景勝)を大将に・・私は手伝わせてもらおう・・」
謙信が開口一番意外な事を言った。
周囲は思わず驚きの声を出しそうになった。
もちろん顕景本人もである。
「この一ヶ月間、三者連合軍の様子を見させてもらったが・・たいしたこと無さそうだ・・我らの勝利に違い無いであろう・・」
謙信は涼しげに言った。
「まことに恐れ入りますが・・いくら無敵の上杉軍とはいえ、三万の大軍を破るのは容易くございませぬ・・何か妙策でも・・?」
顕景、上田長尾の重臣の栗林政頼が顕景の傍から思わず声をあげてしまった。政頼は顕景を危険にさらしたくないので言ったのである。
謙信はにこりと笑うと
「越中は広くて良い土地である・・ここを皆が手に入れることが出来れば俄然今まで以上の力が出せるであろう・・」
とはっきり言った。
一同少し小さなどよめきが起こった。
勝てばここ、越中を分け与えると言うのである。
「康胤や神保親子は越中の騒乱の元である・・我ら上杉がここを治めるのに相応しい・・」
謙信は今までとは全く違う策を出したのである。
「伯母上・・大将の名誉はありがたいですが・・しかし・・どのようにして・・?」
顕景はどよめき、色めき立つ一堂に冷静さを取り戻すよう、現状の話に戻そうとすると
「・・ふふふ・・私と顕景は共に行動しよう・・指示は私が出すので顕景は兵に睨みを利かせているだけで大丈夫・・」
謙信は少し冗談気味に言った。
顕景はまだ若年であったが、無口で視線が厳しいせいか全体的な雰囲気に威厳があり、密かに兵士には恐れられていた。特に無駄口にはうるさく突然落ちる顕景の雷は兵士だけでなく他の越後衆にも恐れられていた。
顕景もその点を指摘され思わず少し苦笑いしてしまった。
「ようっし!顕景様の部隊には俺の隊を参加させてくだせえ!阿虎様がいれば俺の無駄口も顕景様はちょっとばかりは大目に見てくれますよね!」
水原親憲が大声で口を挟んできた。親憲は本人も変わった衣装や振る舞いを好み、普段から兵卒と大声で話すなどして変わった行いが目立つ男で、顕景も少し苦々しく見ていたが彼の武勇は越後内でも有名で、謙信も川中島の戦いの頃から親憲の武勇を充分認めており、また勝ち戦では合戦中は逆に無口で苦しい時は声を出し味方を大声で激励するなどいろいろうるさい男ではあったが武勇の誉れ高い男であった。
「確かに阿虎様の傍であれば水原様も大声を出しても顕景様に怒られないので一番安全ですね!」
若い与六が遠慮なく顕景の傍から首を出し割り込んできた。
「何を小生意気な~!おぬしも今回は連れて行くわ!」
親憲が冗談めいて言うと
「そうだな・・与六もそろそろ戦に行った方が良いな・・今回は一緒に来い・・」
逆に顕景は真顔で与六に今回戦に出るように行ってきたのである。
思わぬやぶ蛇に
「・・え!わ・・私もですか?」
与六は今回はかなりの激戦になりそうだったので思わぬ展開でしどろもどろしていたが
「初陣は安全な戦に行う物だと思っていたのであろう?大丈夫。今回の戦は安全な戦だ。」
謙信は与六の心中を読むように言った。
「は・・はぁ・・」
与六は困惑仕切った返答を思わずしてしまったが
「しっかりした返事をするように・・」
顕景の一言で
「は!・・ハイ!」
与六は慌てて再度返事をしたのである。
「与六!安心せい!予備のふんどしは俺の部隊が持っていってやるからな!腰だけは抜かすなよ!」
親憲が笑いながら言うと一同大笑いになった。
「そんなの要りませんよ!」
与六は一人膨れていたが。
「まぁ 初めての戦は怖いものだからな・・慎重にな・・」
顕景が与六に生真面目に助言し最後を締めたのである。
新庄城を包囲して一ヶ月、焦りは越後側よりも康胤、神保親子、一向宗の三者連合軍の方が実は強かった。
連合軍は数は多かったものの寄せ集めの農民兵が殆どで特に、食料などの物資は組織だって持っておらず、包囲の長期化での特に食料の困窮で軍の士気は著しく低下していた。
ところがある雨の日、包囲軍の一角が新庄城から突然出てきた越後軍に攻撃されたのである。
しかし多勢に無勢、連合軍は直ぐに体制を整えると越後軍に対して反撃を開始した。
越後軍の奇襲部隊は、反乱軍が体制を整えるのを見るとすぐに再度城内に撤退した。
「飛んで火に入るなんとやら・・追え!一気に攻め立てろ!」
神保長織はすぐに後退する越後軍を追撃しそのまま越後兵が出てきた城門から押し入ろうとしたのである。
その時であった。
連合軍の後方で突然戦闘が始まったのである。
「何事じゃ?仲間割れか?肝心なときに!」
長織は思わず味方の不甲斐なさに声を荒げてしまった。
しかし寄せ集めの訓練不足の兵力ではやむをえない面でもあった。
「喧嘩をやめさせい!全く!せっかくの好機に・・!」
長織は伝令兵に命じた。しかしいっこうに喧嘩は収まる雰囲気ではない。
「上杉の城兵に見られたら笑い者だぞ・・全く・・」
長織の息子の長城も呆れ気味にことの成り行きを見ていた。
「ワシが行って喧嘩を収めて来るか・・」
長織が馬に乗って後方に下がろうとしたがそのとき後方からの伝令兵が慌てて飛んできたのである。
「大変です!後方の部隊が上杉軍の攻撃を受けて大混乱です!謙信自ら出ているようです!」
伝令兵は慌ててまくし立てた。
神保親子は仰天である。
いつの間にやら謙信自ら率いる上杉軍の別働隊が城外に出て展開し、連合軍は背後を取られて攻撃されていたのである。
さっきの攻撃部隊は謙信らの部隊の目を逸らす為の囮の部隊だったのである。
連合軍は不覚にも見事これにひっかかってしまったのである。
しかし
「落ち着け!兵力はこちらが上じゃ!隊列整え広く展開して囲い込め!」
長織すぐに指示を出した。
「それが・・!新庄城の周囲の田んぼが雨で泥沼になってぬかるんで足を取られて兵力を展開できず・・身動きが取れないところを叩かれて味方は大混乱です!」
伝令兵は背後の戦闘の音が近づいて来るのを気にしながらまくしたてた。
「クソ・・謙信め・・!雨で足場が取られること見抜いて・・」
長織は歯ぎしりを立てた。
謙信が長親に対して本庄城は(守るに)良い城だと言ったのはこの点であった。
城の周囲は深い田んぼが広がり雨でも降ろうものなら泥沼と化し足場を取られてまともに動けない。動けない狭い一点に集まった部分を集中攻撃し連合軍を大混乱状態に陥れたのである。
もちろん長親はそこまで考慮はしていなかったが。
長織はすぐに
「後退させろ!ここは足場が悪い!南西の尻垂坂まで後退させろ!そこで隊列整え!」
全軍に後退命令を出したのである。
三者連合軍はこうして新庄城の包囲を解き、大慌てで尻垂坂まで後退したのである。
後退していく連合軍を見て新庄城兵は包囲から開放されて沸きあがっていたが謙信の采配はこれで終わりではなかった。
本番はこれからであった。
「全軍出陣!総攻撃!」
謙信は指示を飛ばすとすぐに新庄城の城兵をも出陣させてそのまま一気に尻垂坂に再度集結していた連合軍に襲い掛かったのである。
再度部隊を整えている最中の上、まさか自分達の半分の戦力の謙信が城を出て襲い掛かって来るとも夢にも思っていなかった連合軍は仰天し、再度大混乱に陥った。連合軍は必死に防戦するも野戦に慣れており、個別の兵力では最強と噂される上杉軍にはなすべくなく終始圧倒され、ここで壊滅的な打撃を受けることになるのである。
生き残った部隊も富山城まで慌てて逃げ帰って立て篭もったが既に兵力は1万以下まで激減しており、食料不足や士気の激減で10月にはそのまま上杉軍に富山城も落とされ、こうして連合軍は多大な犠牲を出して敗北したのである。
こうして越中の勢力図は大きく塗り替えられ、信玄に通じていた飛騨国の江馬輝盛も謙信に恐れをなし降伏したのである。
また神保長織もこの前後に歴史書から記述は消えている。
北陸越中戦線はこの後、謙信優位に展開していくのである。