第二次甲相同盟
一方元亀2年(1571年)2月になると謙信の元に手紙と太刀が届けられた。
送り主は三河の徳川家康であった。尾張の織田信長の同盟主である。
聞けば家康と武田信玄は駿河を巡って仲違いし、家康は謙信に背後から信玄を脅して欲しいため好を通じたいとばかりに機嫌取りにこの太刀を送り届けて来たという。
謙信は家康のことは良く知らなかったが家康の盟友、信長にはいろいろな意味で関心があった。
そのため家康との友好関係は悪い話ではなかった。
なお、家康と信玄が仲違いし、謙信に助けを求めてきたのは駿府の支配権を巡り家康と信玄の話し合いが付かず、また信玄が大井川以西は徳川領との約束を破り、徳川領に侵攻してきたからであった。
謙信は話を聞きながら信玄の節操の無さに飽きれながらも、信玄がわざとやったのではないかとの疑念も心の中で持っていた。
謙信も信玄との腐れ縁の付き合いも長い。
信玄を直接見たのは遥か以前の川中島の頃であるが、この年になると信玄の行動原理がなんとなくわかるような気がしてきたのである。
ただ信玄は自国の拡張のための節度は無くても、意外な一面もあり、信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したとき、駿河の今川氏真から甲斐への塩止めの依頼があったが、謙信は表向きは塩止めしても困るのは甲斐の領民で(潤うのは尾張商人で越後商人の利益にならない)信玄に対する塩止めなどは何の意味も持たないとこれを断っていたが、その後信玄から謙信に塩止めをしなかったことに対するお礼として、福岡一文字の銘刀「弘口」が送り届けられたのである。
また、信玄とはこれまでも川中島や関東など、散々もめてきたが、それにも関わらず信玄は自分の悪口は言わず、妙な事に自分を褒めるような発言を度々していた。
謙信は家康から送られてきた太刀を見ながら信玄のことを思い出していた。
「信玄はわからぬ男だ・・」
謙信は一人つぶやいた。
「領土拡張のためには何でもやるのに時々妙な気遣いを見せる・・」
謙信は家康からの手紙を読みながらつぶやいた。
しかししばらく考えた後
「いや・・信玄のことだ・・なにか下心があるのだろう・・」
謙信は自分も何か年相応になったのかなと思わず苦笑いしてしまった。
謙信は山本勘助の言葉を思い出した。
信玄は従う者には優しいが歯向かうものに容赦せぬ・・と。
信玄本人から川中島合戦で聞いた
部下を喜ばすために戦う・・喜ばせるために領土を取る・・それの何が悪い・・
当時の謙信にとっては衝撃的な言葉をも思い出していた。
信玄の理屈からすれば信玄の理屈に真っ向から逆らってくる自分は信玄にとって一番の大問題に違いないのであろうが、それにしても信玄の自分に対する対応は少し寛大と謙信も少し感じるほどであった。
信玄に関しては軒猿からの情報でも再度自分と和睦を結ぼうと画策しているとの情報が入っていた。
おそらく駿河に集中するため、自分、越後や北条の憂いをなくそうとしているのであろうと謙信も思ってはいたが、そのために北条と武田の関係にも変化の兆しがあるとの情報も入っていた。
しかし、もし、信玄と北条が同盟して、既に謙信と同盟関係にある北条に間に入ってもらっても、信玄と同盟を組むつもりは謙信は無かった。
信玄の言う理屈はわかってもやり方に問題があると謙信は思い、また謙信が興味がある信長の盟友の家康から頼まれた以上断れなかったからである。家康は初めて今回謙信に手紙を送ってきたが謙信は家康に対して丁寧な文章で返信を出している。
「・・家康公からお手紙頂戴して嬉しく思います。今後も信玄と戦う同士として仲良くやりましょう・・」
畿内の情報も雲行きが怪しくなっていた。
織田信長は将軍足利義昭を伴って高々と上洛していたが義昭を飾り雛のように扱い、殿中御掟なる掟状を勝手に発令し義昭に認めさせ、義昭の行動を制限したため信長と義昭の仲は険悪化していると報告が入っていたのである。
越後商人からも堺の商人たちが信長に三好三人衆や一向宗本願寺に加担したことに対する懲罰と自分への従属を示すために2万貫という大金を要求され、渋々支払わされたなど話が入っていた。
越前の朝倉氏も信長の上洛命令を無視するため信長に攻撃されようとしているという。
人々も信長の天下布武の意味をようやく悟ったのである。
謙信も最初は信長に好意を抱いていたが今や三好三人衆以上の横暴ぶりで、以前と比べると正直少し幻滅もしていた。
ただ信長が本願寺勢力に苦しめられている点では自分も共感するところがあり、また戦で
信長の弟達に戦死者が続出していると言う話も聞いていたので同情すべき点はあった。しかしそれでも信長の領土拡張欲、彼の掲げる天下布武のためにそれらの犠牲をもいとわない点はある意味凄まじいと謙信も思い、自分とは正反対の人間なのかとも思うようにもなっていた。
一方義昭もめげずに信長に監視されながらも密かに様々な調略を張り巡らし、信長包囲網を形成、越前の朝倉や近江の浅井久政、長政親子、三好三人衆や中国山陰の雄、毛利元就、そして信玄までもこれに加わると言う。
謙信も将軍に従う者として参加したい気持ちはあったが信玄とは絶対に組みたくなかったし、信長のやり方にも問題はあるとも思ったが理解できる点もあり今回は特に行動を起こさず包囲網には参加しなかったのである。
もちろん目先の信玄をなんとかせねば何も出来ないとの現実もあったが信長に歩調を合わせ、信玄とは組まないことにしたのである。
10月になると謙信の判断で、反北条の佐竹義重に攻撃されていた小田氏治の小田城の救援に向かい、佐竹軍を追い払うと再度上野に戻り、武田軍と対峙することになった。
関東布陣中の謙信に厩橋城城主北条高広からの報告が入ったのはこの頃である。
実は高広が越後側に戻った時、彼は引き続き厩橋城の城代を勤めていたのだがこれには越後国内からも危惧する声が多かった。
彼は二度謙信から離反した経緯があったため、別の者に厩橋城は任せて高広は越後国内の本来の居城の北条城に戻すべきとの意見が多かったのである。
ただ輝虎は高広の実力は買っていた。今回も信玄の軍勢を軽く追い払っている。
高広の重要性は実力以上に北条と組んでいたのもあるが、上野や下野国、関東の事情に明るい件である。
そのため引き続き厩橋城の城代を任せていたのである。
そんな高広から今回面会を求めてきたのである。
「お久しぶりでございます・・!お元気そうで・・!」
高広は太い声で年甲斐も無く大声で挨拶してきた。
「うむ・・武田の撃退の件はさすが・・厩橋城を任せた甲斐が私もあった・・氏康殿も喜んでおられるであろう・・」
謙信も笑いながら返した。
「今回お話したいのはその北条の件で・・」
高広が正直に言ってきた。
「・・・」
謙信は黙ってしまった。
「氏康殿が重い病気にかかっております・・小田原の晴家殿からの報告によると武田の使者が見舞いに来ているようで・・」
氏康が昨年より体調が優れず、年が明けてからも病に倒れ、危篤状態であるとの噂は謙信も聞いていた。
それに乗じてか武田の使者が小田原城に出入りしているとの情報は謙信も掴んでいた。
「・・信玄は本当に律儀だな・・」
謙信は心にも無いことを言ってみた。
「・・後を継ぐと言われる氏政殿は駿河の件は武田に不問にするという噂が経っております・・」
実は高広は氏政に再度、北条側に付く様、声をかけられていたのだが彼も今回は乗るつもりはなかったのである。
そのため知っていることを全て謙信に話すことにしたのである。
今までの迷惑料を返す腹積もりもあった。謙信もそんな高広を充分見抜いていた。
謙信は顔色変えずに
「・・また組むのか・・武田と北条は・・」
と言った。
高広は首を大きく縦に振った。
「・・しかし 私はせっかく頂いたものを返すつもりはないが・・」
謙信が越相同盟で獲得した武蔵や上野の諸城は返還の意志が無いことを伝えると
「・・当然です・・せっかくもらった物など返す必要など全くありませぬ・・」
高広も返した。
「・・そなたはどうする?」
謙信は嫌な質問をわざとしてみた。
「・・私は阿虎様の所におります。漢字が同じでも読み方が違う。当然ですな。
(北条高広はキタジョウと読む)」
謙信は思わず笑ってしまった。
「(北条から養子、人質で来ている上杉)景虎殿も、もしそうなっても小田原には帰らないと言っております・・」
息子の景広も続いた。
「構わない・・私は歓迎している・・ただし柿崎晴家は帰してもらいたいが・・」
謙信は少し無茶を言ってみた。
「お任せあれ・・高広が後のことはやってみせましょう・・」
高広は北条氏政と交渉することを快諾したのである。
氏康が死去したと言う情報が届けられたのは間もなくであった。
元亀2年10月21日(1571年)、相模の獅子と呼ばれ関東に北条氏の基盤を築き、信玄、謙信をも苦しめた名将は57年の生涯を閉じたのである。
景虎や越後の使者が葬儀に向かい哀悼の意を表し、また小田原城下の住民も彼の死を嘆き悲しんだという。
謙信が気になったのは後を継いだ氏政の動きである。
高広の情報通りであれば信玄と組むと言う話であった。
北条側は葬儀の場ではそのようなことは無いと言い、景虎も安堵して越後に戻って来たのだが高広の情報どおり、12月になると甲斐と相模は再度同盟した。甲相同盟の復活である。
ただ意外なことに越相同盟の終了とともに柿崎晴家は春日山城に戻ったが景虎本人が小田原への帰還を拒否したのもあったが、氏政からも景虎の小田原への返還要求もなかったのである。
「さすが氏政殿・・」
謙信は氏政を率直に褒めた。
氏政は戦はあまり得意ではなかったが名前どおり政治力は父、氏康譲りで優秀と評判であった。
氏政は景虎の重要性を一番わかっていたのである。
また氏康と謙信の意向も充分汲み取ったのである。
謙信との関係は表向きとにかく実質的には中立的な方向で行くことにしたのである。景虎はそのための楔である。
氏政の関心は父氏康の代から散々悩まされてきた安房、常陸方面の平定で関東全土に野心が無いわけではなかったが、謙信の物になった上野や武蔵の岩槻城は作戦の対象外にしたのである。
謙信の実力もあったが、父氏康のように同盟が破綻してももっとその先の将来のことを見据えて動いていたのである。
将来のお互いの妥協点のために景虎はわざと越後に残したのである。
信玄は今回はまた擦り寄ってきたがいつまた離れるとも限らず氏政も信用していなかった。
一方景虎は顕景の妹を妻にめとり、彼女もすでに妊娠していた。北条の一族ではあるが上杉の一族として景虎は重要な立場になりつつあったのである。
越後国内では触れてはいけない話になっていたが謙信の後継者の件は再度ささやかれ、顕景か景虎かはまだはっきりせず、景虎にも可能性が残されている以上、氏政もそれを見越して動いていたのである。
なお越相同盟終了後の扱いの難しい交渉を無事解決した北条高広も謙信の信頼を取り戻し、引き続き厩橋城で信玄の監視、北条との微妙な駆け引きに当たることになる。