不識庵謙信
1570年、元号が永禄から元亀に改元された。
改元の理由は戦乱での災異のためとのことであったが戦乱はいっこうに収まる気配はなく、
関東は北条と武田の同盟崩壊による騒乱、畿内は織田信長の台頭などでますます混迷化していた。
元亀元年(1570年)4月、川越城付近を輝虎の養子(人質)になった北条氏康の7男の北条三郎を送り届けた氏康の一行がゆっくりと小田原城に向かって南に進んでいた。
一行は輝虎に対する感想を正直に述べていた。
「いやはや 驚きましたな・・」
三郎の義理の父でもあった北条幻庵が正直に言った。
氏康は昨年以来体調は芳しくなかったが、三郎の実の父としての務め、輝虎との関係の今後の見極めや、輝虎を実際一度見てみたいという興味心もあり、体に鞭打って出てきたのである。
「噂どおりだったとはな・・全く・・ 」
氏康も正直に言った。
「しかし義理堅そうな温和な方でした・・これで安心して信玄と戦えるでしょう・・」
北条の外交官とも言われる板岡部江雪斉は事がうまく運んだことに安堵しているようであった。
「うむ・・」
氏康も低い声で言った。
しかし氏政の顔も同時に思い出していた。
今回氏政は甲相駿三国同盟の崩壊にともない、信玄の娘で妻の黄梅院と離縁させられる辛い思いをしていたからである。しかも妻、黄梅院はその後昨年、甲斐で病死してしまったとの情報が入り、氏政だけでなく、氏政の息子たちにも辛い思いをさせていた。
だからといって氏康は信玄の行いを許すつもりはなかった。
しかし結局この頃には駿河は信玄に取られ、氏康も次の一手をどうするか悩んでいたのである。自分の体調も芳しくなく、既に56歳になった氏康も次の世代を考えての行動も意識せざるを得なかった。
氏康の考え事を断ち切るように
「お年ですが・・一人身だそうで・・(男性に)不自由するようには見えませんでしたが・・」
護衛についてきていた清水康英が意外な感じと少し含みのある言い方をした。
他の者もうなずいていた。
「毘沙門天を信奉されているためお一人とか・・信仰深い方のようで・・」
板岡部が小声でが言った。
「・・それは言い訳だろう・・」
氏康が見抜くように言った。
「・・越後国のための苦肉の策だろう・・夫を迎え入れれば権力を巡って越後国内が混乱する・・辛いだろうが・・良い判断だ・・信頼に値する人物だ・・」
氏康は輝虎を率直に褒めた。
「氏政様は今回の同盟は終始反対でしたが・・」
板岡部が少し遠慮気味に心配そうに言った。
「駿河の件は仕方ない・・信玄は強い・・」
氏康は言った。
「・・だから輝虎殿と組んで北側から信玄を牽制するのじゃろう・・」
幻庵が氏康に続くように言った。
「・・戦上手にはとても見えませんでしたが・・」
康英はまた正直に言った。
「我々もそうだが信玄も手痛い目にあってる・・ 人は見た目ではないぞ・・」
氏康が諭すように言った。
そして
「信玄が気に入ったのもわかった・・ 若い頃はさぞかし麗しき姫様だったろう・・」
氏康が冗談を言った。
「今でもワシはあちらさえよろしければ充分大丈夫ですぞ・・ふぉふぉふぉ・・」
幻庵が老練な言い回しをした。
一同思わず笑ってしまった。
「氏政様は以前唐沢山城で女子である輝虎様に負けたのがよほど悔しかったようで・・今回もそれでしこりがあるようです・・」
板岡部がまた率直に言った。
「氏政には荷が少し重かったか・・輝虎はただの女子ではない・・気にするな・・」
氏康は気にしないよう伝えるよう言った。
「そうじゃ・・アレは只者ではないぞ・・出奔したり酒飲んだり都に勝手に行ったりとおぬしらでもかなり手を焼くぞ・・あれは・・」
幻庵が冗談交じりで言うと一同再度笑いが起こった。
「・・小さい声で・・晴家殿に聞かれてまた小田原城に大軍で来られたら困るだろう・・」
越後側から人質として小田原城に行く柿崎景家の息子の晴家の乗った輿の方を見ながら氏康までも悪い冗談を言っていた。
「しかし、全くたいしたものだ・・」
氏康はしばらく間を置くと再度感心するように言った。
「氏康様の体調をもしきりに気にされておりましたからな・・」
康英も感心しきりだった。
氏康の体調が優れない情報を輝虎が素早く掴んでいたのには少し驚いたが
「気遣いが出来る方なんだろう・・情報網もすごいのもよく解ったが・・」
氏康も輝虎の軒猿の情報網に驚きながらも、輝虎の自分に対する体の気遣いには素直にうなずいた。
氏康に対する気遣いはそれだけではなく
「輝虎様が三郎をいたく気に入ってくれて、自分の名前を譲ってくれるとはな・・北条と上杉の関係も安泰だろう・・」
氏康は顎鬚をさそりながら満足そうに言った。
三郎は事実、輝虎にたいそう気に入られて、輝虎の昔の名前、景虎を譲られ、この後は上杉景虎と名乗るようになる。
「・・姫君の手配までもして頂けるとは・・輝虎様のこの同盟に対する期待の現れですな・・」
幻庵もにこやかに言った。
三郎、景虎はこの後、輝虎の姉、仙桃院と長尾政景の娘、清円院と結婚することになる。
清円院は顕景、後の景勝の妹でもある。
「氏政も輝虎殿に対しては複雑な物があるとは思うが・・この義理堅さは当家の若い者たちにも是非学ばせたいものだ・・」
氏康も真面目な顔で言った。
「まぁ・・関東衆の求めに応じて生真面目にあまりに関東に乱入されるんで、正直しんどかったですが・・」
思わず康英が本音を言ったが板岡部が慌てて口に指をやり、それ以上言わないように言った。
「・・それに比べると信玄の奴は・・全く・・仕方が無い奴じゃ・・」
幻庵が呆れ気味に言った。
氏康も大きくうなずいた。
駿河を落とした信玄は、輝虎と北条の同盟を試すように、この後元亀元年(1570年)10月には越後側の厩橋城や沼田城に攻撃を仕掛けてきた。しかし厩橋城城代のあの北条高広が善戦し、武田軍を追い払い、また、ようやくではあったが越後軍と北条軍も連携した作戦が取れるようになり、上野に上杉軍、武蔵多摩に北条軍が展開し、西上野の武田軍を牽制しようとしたため、それを見てか信玄も深入りせず、軍を引き上げたのである。
しかし駿河を手に入れた信玄は、早速密かに新たの次の目標のための作戦を練っていた。
実は再度北条に接近しようとしていたのである。
信玄は氏康の体調が芳しく無いことを知り、北条が動き難い時を狙ってきたのである。
氏康の元にも信玄の使者が密かに訪れていたのである。
氏康は昨年より体調が芳しくなく、鎌倉で病気の平癒祈願の大般若経典の真読などまで行っていたが、病状は回復したり悪化したりを繰り返し、生死の境をさ迷う程悪化した時期もあった。
そのため輝虎や信玄との今後の関係をどうするかは自分が最後にやるべき仕事とも認識していた。
氏康は今日、体調不調を押してまで輝虎に面会したのは今後の方針を決めるため、直接輝虎に会って判断しようとしたのである。
氏康は今日輝虎に会って、輝虎の実力は充分に解った。ただ駿河を取って気が収まったのか、何食わぬ顔で再度接近してくる信玄も信用できなかったが、信玄の実力も今回の駿河侵攻の件で認めざるを得なかった。
そこで氏康は思い切ったある方針を密かに決めたのである。
一方、輝虎が北条氏康、氏政親子と武田信玄の駿河を巡る争いに巻き込まれている頃、越後の重臣、金津新兵衛も年のせいか体調を崩すことが多くなっていた。
金津新兵衛は輝虎幼少の頃から輝虎の後見人、世話人として虎千代、景虎時代から活躍し、若年時代の輝虎を常に支え続けてきた。
そのため春日山城内でも客将と言う普通の武将より格上の特別な地位にあり、輝虎も新兵衛に対しては絶対の信頼を持ち常に心を開いて接していた。
輝虎にとっても実の父為景以上に世話になり、輝虎も新兵衛に対しては実の父親のような親近感があり、他人の話はあまり耳に入らなくても新兵衛の話はよく耳に入っていた。
しかし新兵衛も既に高齢に達し、以前のように戦場に出ることもなくなり、春日山城の留守役などが多くなり、最近は体調を崩して床に伏せることも多くなっていた。
輝虎も新兵衛の体調が悪いのは以前から気になっていた。
そんな折、遂に輝虎の元に新兵衛が倒れたとの嫌な連絡が飛び込んできたのである。
輝虎は慌てて駆けつけると新兵衛は静かに床に横になっていた。
「大丈夫か?新兵衛・・?」
輝虎が声をかけると新兵衛はうっすらと目を開けにこりと笑った。
「今までも散々世話をかけたが・・まだこれからも世話になろうと思っているのに・・早く元気になっておくれ・・」
輝虎が静かに言った。
新兵衛はにこりと静かに笑ったままであった。
「母上も・・(中条)藤資も・・(色部)勝長も・・(長尾)政景も・・(宇佐美)定満も・・私を支えてくれた人が・・みんな去ってしまった・・寂しいではないか・・」
新兵衛は笑ったままであった。口元が少し動こうとしていた。
「・・私の子供を見るまで倒れられないと以前言っていたではないか・・」
輝虎は自嘲気味に言った。
「・・いや・・今やあなたにはたくさん子供がおります・・」
新兵衛は輝虎が今まで聞いたことのないかすれた弱々しい声で話始めた。
「・・・」
輝虎は黙ってしまった。
「貴方を支えた藤資や勝長や越後衆の息子達が・・貴方を母のように慕っている・・彼らの欲している物は貴方だって解っているはず・・親としての責務を果たすこと・・貴方の嫌なことかもしれないが・・それも親の務め・・」
「・・・」
「・・貴方にその順番が回って来ただけですな・・今の貴方なら容易いことではござらんか・・なぁに・・この世は別れと出会いがあるもの・・そんな悲しい顔をされますな・・ごほっ・・」
「もう良い・・新兵衛・・わかった・・」
輝虎はにこりと笑うと
「心配しなくて良い・・わかった・・約束は守る・・だから早く良くなっておくれ・・」
輝虎が言うと新兵衛は安心したようにまた笑顔を見せると静かに目を閉じた。
「私に・・その順番が来たのか・・」
輝虎は独り言のように言った。
「もうそんなに・・時間が経っていたのか・・」
輝虎は弱々しくなった新兵衛を見ながら一人つぶやいた。
春日山城の戻った輝虎の元に金津新兵衛が静かに息を引き取ったとの連絡が入ったのはその日の夜であった。
輝虎は領主としての意地から表向きは悲しみを押し殺して平然を装っていたが、実の父親のように慕っていた新兵衛が死んだことに対して本当は大泣きしたかった。
しかし新兵衛の言葉を思い出しそれを何とか抑えたのである。
輝虎は春日山城の毘沙門堂に篭っていた。
新兵衛や勝長、去って行った人たちの言葉を思い出していたのである。
大昔、中条藤資やもしかしたら本庄繁長や長尾藤景、北条高広も同じ事を言っていたかも知れないと自分に問い質していた。
信玄ともその件で川中島で口論になったかもしれないと色々思い出していた。
自分も気が付いたらもう人生の半分以上を過ぎて41歳になっていたのである。
むしろ人生も後半に差し掛かっていた。しかし自分はあまり変わった感じはなかったのである。自分が気付いていないだけかもしれなかったが今日まではあっという間であった。
ただ自分を助けて育ててくれた人たちが時の流れに逆らえず次々と去っていく現実は受け入れざるを得なかった。去っていった人達には残された者がおり、彼らも自分に引き続き忠節を誓ってくれていた。でも彼らに対して返答を自分がしてきたかを問い質していたのである。
輝虎は林泉寺の宗謙僧侶との以前話した時の会話も思い出し、色々と考えていた。
宗謙との話とは古代の中国の梁の武帝と印度の禅僧達磨との会話の件である。
武帝は達磨に自分が寺をたくさん作り仏を手厚くもてなし、自分も修行に励んでいるがこれに対して何か公徳があるかと尋ねたところ
「無公徳」
と達磨は答えた。
公徳など無い。心の中に公徳などを期待して仏を信奉しているようでは駄目だということである。
武帝は一瞬気が立ったが恥ずかしい質問でもあったかと直ぐにこれを受け入れ、再度気を取り直し達磨に質問をしてみた。
聖諦第一義、仏の究極の教えとは何かと訪ねてみたところ
「廓然無聖」
と達磨は平然と答えた。
仏の究極の教えなどは存在せず、からりと開けた空のような何もない世界だと言う。
聖と言えば梵に対する聖であって聖諦第一義、仏の究極の教えとやらを追及すること自体が梵であるということである。聖と梵の比較のように善悪損得自体にこだわっているようでは駄目だと言うのである。
武帝は自分が今まで正しいと思っての行いを否定されたような気がし、また、国主としても納得が出来ず、最後に
では私が話している貴方は何者か?最高の聖者ではないのか?と尋ねたところ
「不識」
と達磨は再度平然と答えたという。
不識とはわからない、答えようがないと言うことである。
仏の究極の教えなど存在せず、聖諦第一義を追求することが梵だと言っているのに、あなたは最高の聖者ではないのかという質問をされても答えようが無い。廓然無聖にならないということを達磨は言いたかったのである。
武帝は達磨を結局理解できず、また達磨も武帝とは縁が無かったと思い武帝の元を去ったと言う。
この世のあらゆる物は実体があるようでない捉えられない物・・自分の損得善悪の比較論に捉われているようではいけない・・固執するのはよくない・・。
「こだわらないことだろうか・・」
輝虎は達磨と武帝の会話の意味をこのように解釈することにしたのである。
今は自分の出来ることを行い、現状を受け入れ、自分は国を治め、皆が欲するものがあれば与えるのみである。
輝虎は今まで土地に興味がなく、またそれを奪うことは悪であると考えていたので、他国と戦になっても領土は奪いとることはなかった。
しかしそれは自分の勝手な善悪論で、自分を慕ってくれていた人はそれを欲しがり、堪えられない者は去っていったのである。彼らが去っていったのはひとえに自分の善悪にこだわり続けて、彼らに答えられなかった自分にも原因はある。
自分の基準だけで判断するのではなく、たとえ自分が興味なくても皆が欲すればそれを与え、自分の基準に固執しないことにしたのである。深く考えず自然な物事の流れに任せてみることにしたのである。
もちろん謙信も自分はただの人間であり、それを完全にこなすことなど出来ないとも思ったが可能な限りやることにしたのである。
輝虎は12月には宗謙から一字を賜り、法号謙信と名乗るようになるのである。
「心に物なきは心広く体やすらかになり・・か・・」
この時、謙信は今後の新しい方針を心に決めたのである。
この最初の一言は後に上杉謙信公家訓16か条の一句としても後の世に伝えられていく。
この年の暮れもう一人謙信の元を静かに去った者がいた。
養子の顕景が側近として頼りにしていた長尾時宗がまだ若年であったが急な病でこの世を去った。
顕景はかなり落ち込んでいたが、母親の仙桃院が顕景の実家の上田の坂戸城で聡明と評判の樋口兼豊の息子の与六を連れてきて、時宗の代わりとして春日山城に顕景の小姓として仕官させることを願い出てきたのである。
与六はまだ10歳にも満たない少年であったが噂通り聡明な子で、謙信も顕景も彼自身と彼の才気を大いに気に入り、与六少年は成人後も顕景、後の景勝に誠心誠意仕え、上杉家の重臣として活躍していくのである。
与六少年は後で言うあの直江兼嗣である。