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越後の虎  作者: 立道智之
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越相同盟

本庄繁長の件が鎮圧されようやく輝虎も一息つきたいところであったが関東の平穏はこの頃既に破られ、新たな騒乱の火ぶたが切って落とされたばかりであった。

繁長の乱が鎮圧される直前の前年、永禄11年(1568年)12月には武田信玄が大軍を率いてかっての同盟者の今川氏真の駿河に侵攻したため甲相駿三国同盟は完全に破綻し、北条氏康も駿河の今川家の救援のため、急遽出兵することになり、甲斐の武田家と相模の北条家は敵対関係になったのである。

今川義元の実母、寿桂尼が没落する今川家を何とか食い止めていたが寿桂尼が同年死去すると信玄は絶好の機会とばかりに同盟を踏みにじり進軍させたのである。


この件で氏康の息子、氏政に嫁いできていた信玄の娘の黄梅院は別離させられ甲斐に送り返され、北条からも輝虎の元に和睦交渉の依頼が正式に持ち込まれ輝虎も休む間もなくその対応に追われることになったのである。


駿河に侵攻した武田軍はあっという間に今川軍を打ち破り今川の本拠地の駿府まで怒涛の勢いで進撃し一気に占領したのである。氏真は妻子達の籠すら用意できず徒歩で掛川城まで後退する惨めなありさまであったが、信玄の駿河侵攻と同時に西からも信玄と手を組んでいた織田信長の盟友の徳川家康軍も侵攻を開始したため、掛川城もこの年の暮れには徳川軍に包囲され、今川家は滅亡の瀬戸際に立たされたのである。

氏康も氏真救援のために氏政率いる大部隊が武田の1万8千の倍以上の4万5千の大軍で伊豆から駿河に侵入するが、今川軍の予想以上の早い敗退と、氏政も武田軍の兵力が少ないとはいえ、強敵であることは認識していたのでお互い駿河内で睨み合いに終始し、前線は膠着状態に陥ったのである。


このような緊迫した事態、輝虎も繁長の件でのどたばたはあったが、繁長の件の解決の目処が立ち、北条側から盛んに越後と相模の和睦、しいては同盟の要望が入り、輝虎もその条件を引き出すべく色々案を考えていたのである。


北条側は実は永禄9年(1566年)頃から氏政の弟の氏照、氏邦が密かに動き輝虎との妥協点を探り続け、輝虎から北条側に寝返った由良成繁、北条高広等を使い準備をしていた。

永禄9年は輝虎が臼井城の合戦で大敗を喫し、更には北条高広らが離反して関東からの前面撤退どころか武田軍、北条軍に越後本国へも侵入されかねない越後にとって一番危険な時期であった。


信玄はともかく氏康がそのような輝虎の危機という絶好の機会に動かなかったのはこの頃から氏康の信玄に対する信頼が信玄の息子の義信を幽閉し今川から来た妻子と離別させていた件で崩れており、万が一の保障のために輝虎をわざと残していたのである。


輝虎への気遣いを見せるように、北条軍は以前より簗田晴助の関宿城にも何度か攻撃をかけていたが決して力づくで無理押しする事は無く緩い包囲に終始し、表向きは輝虎、越後軍を買っているので慎重に動いていることになっていたが、氏康はもっと先の起こるであろう今日の事態を予想して動いていたのである。


実はこの年も北条軍が関宿城まで再度押し寄せていたが、氏康が輝虎を交渉の席に早く付かせるために仕組んだ物で、輝虎が交渉に応じることを表明すると包囲軍は計算したようにさっさと小田原へ引き上げていったのである。


輝虎も氏康との和睦には表向きは賛成ではない素振りをしていたが内心は歓迎していた。


氏康からの和睦条件は輝虎から見ても北条側の大幅譲渡の内容で


武田氏に対して越後軍と北条軍との共同、同時作戦進行、上野、武蔵国の岩槻城他数城を上杉側に譲渡する、氏政の子を養子として送る、足利義氏を古河公方にする、輝虎を関東管領として承認する・・


と言った内容で


特に上野、武蔵国の岩槻城他数城の上杉側譲渡、養子縁組、北条側の輝虎を関東管領として承認することは輝虎には魅力的な条件であった。


武田氏への共同作戦もそれほど問題ではなかったが古河公方を足利義氏にする件は悶着が予想された。

古河公方は今は関宿城の簗田晴助の甥の足利藤氏が形式上は勤めていたが藤氏は北条側に捕らえられて以来、行方不明扱いになっていたがおそらく北条側に殺された可能性が高く、それが逆に簗田晴助の徹底した反北条の源になっていた。足利義氏は氏康の妹を母に持ち、妻を氏康の娘に迎えており、事実上北条氏の一族であった。晴助の激しい反発が充分に予想できた。


輝虎も簗田晴助や関宿城が関東の統治における重要な人物であることは認識していた。

ただ藤氏がこの世におそらくいない以上、そこに固執して全体的な話がこじれるのは歓迎で

きなかった。

関東での状況は輝虎が認めるように北条側が終始優勢でこのような和睦が無ければ関東からの全面撤退も避けられない事態まで越後側が追い込まれているのも事実であった。

北条が輝虎を関東管領として認める点も大きかった。

北条側は本音では関東管領の地位など重視していなかったが、体裁にこだわる輝虎にとっては北条が自分を関東管領として認め、形式上は下に入ることは充分に歓迎できる条件であった。

そのため晴助の件は今回後々別の対策を考えて北条側と条約を結ぶ方にしたのである。


家臣の中でも今までとの北条との因縁の経緯から和睦に反対の意見もあったが、度重なる関東出兵に多くの越後諸将が疲弊していたため、今回の和睦に賛成の意見も多く、直江景綱や本庄実乃ら重臣も輝虎の関東への固執がこれによって解決されるのであれば容易いものと賛成に回ったため、輝虎も表向きは彼らの意見を尊重するという形を取り、また輝虎自身も現実的な判断から外交での実利獲得によって関東方面の決着を図ることにしたのである。


交渉は決して順調ではなかったが、まず北条側が輝虎を関東管領として正式に認め、輝虎側も足利義氏を古河公方として正式に認めた。

武蔵国の輝虎側への譲渡も詳細は後々詰めると言う前提つきであったが岩槻城他、幾つかを譲渡することで決着はついた。

領土変更に伴い、成田氏が北条側に鞍替えになり、逆に今回の同盟の立役者のあの北条高広、由良成繁たちが輝虎側へ帰参することになったのである。

武田軍に対する北条軍と今後共同で歩調を合わせて作戦を練ることについても輝虎側が同意した。

養子交換、人質の交換は少しもめて当初氏政の息子の誰かを送る予定であったが、まだ幼子が多く、氏康からも幼子を送るのは忍びないとの申し出があり、輝虎もそれを受け入れ、別の人物を追って養子として送ることになったのである。

輝虎側からも実子のいない輝虎側が誰を送るかでもめたが柿崎景家夫婦から大昔の黒田秀忠の乱の時の恩返しと(柿崎景家の妻は黒田秀忠の娘)景家夫婦の息子、晴家が送られることになったのである。

里見氏と北条氏との和睦も輝虎が受け持ち、上総国、下総国、安房国の3カ国は里見領とすることも北条側が認めることになった。


このように輝虎と北条の同盟交渉は大詰めを迎えていたが、それを牽制するように永禄12年(1569年)5月、駿河内で睨み合いを続けていた武田軍と北条軍が、武田軍の奇襲攻撃により一時均衡が破られるが、北条軍が善戦し武田軍は敗退、信玄も兵力差と甲斐からの物資の補給不足で不利を悟り、武田軍本隊は一旦甲斐へ撤退したのである。

武田軍が甲斐へ撤退した翌月、6月にこうして輝虎と北条の同盟は正式に結ばれた。

越相同盟と歴史上は呼ばれている。


しかしこの同盟は輝虎や氏康が思ったようにうまく機能せず、まず越後側では関東諸将の離反が逆に相次いだのである。

輝虎にとってこれは大誤算でまず、太田資正、簗田晴助らが輝虎とは今後は行動を一緒にしないと離反してしまったのである。

輝虎はこの二人が関東での重要人物と見ていたので二人の離反は今後の行動に支障が残るものであった。

輝虎は晴助の離反は古河公方、藤氏の件である程度覚悟はしていたが、そこを資正に頼んで説得してもらおうと考えていたので資正の離反は正直予想外であった。

別れの挨拶に来た資正に輝虎も岩槻城の返還だけでなく、まだ北条と交渉中ではあったが、武蔵松山城も返還交渉をしていることを材料に慰留に努め、更には交渉が不調の場合は越後への客将としての招待と城の譲渡をも持ち出したが、結局資正は首を縦に振らず、今までお世話になりましたと言うと輝虎の元を去っていったのである。


更には安房の里見義尭、義弘親子も輝虎側から離反し、信玄と逆に同盟を結ぶと言う事態になり(甲房同盟)、関東北部の支配を狙う常陸の佐竹義重までもが輝虎から正式に離反してしまったのである。


輝虎は関東諸将の予想外の行動に肩をがっくりと落としていた。

「・・関東管領とは難しい職務だな・・」

輝虎は深い溜息をついた。

「関東管領が難しいのではなく関東国人衆が気難しいのですな・・」

本庄実乃が言った。

「・・私が北条と結べば関東が静かになると思ったのだが・・前と全く変わらないか逆にもっと騒がしくなってしまった・・」

輝虎は複雑な顔で言った。

「太田資正殿のため 岩槻城や武蔵松山城まで用意したのに・・」

ふうっと輝虎は溜息をついた。

「里見親子のためにも氏康殿に上総、下総、安房3カ国の安堵をも認めさせたのに・・」

輝虎は少し不満げであった。

「ひとつはっきりしましたな・・関東衆はとにかく北条を認めないと言うことです・・」

直江景綱は静かに言った。

「しかし誰一人まともに北条と戦えないではないか・・おかしすぎる・・」

輝虎は相変わらず不満げであった。

「違いますな・・北条との対等の関係は関東衆は受け入れ難いのでしょう・・北条が下に入れば良いのでしょうが・・」

景綱は慎重に言った。

「みんな勝手すぎる・・それが一番難しいのに・・」

輝虎は再度深い溜息をついた。


「我々から離れた里見親子や佐竹殿は信玄と組むようです・・」

本庄実乃が言った。

「・・・」

輝虎は黙っていた。

「太田資正殿も佐竹殿に身を寄せているとか・・」

色部勝長の後を継いだ色部顕長が言った

「信玄の奴を何とかしなければ 将軍様へのご挨拶へもおちおち行けませぬ・・」

中条藤資の後を継いだ景資も続いた。

「越後の隣の信玄の息のかかった連中を静かにさせましょう・・」

顕景、最近元服し改名した喜平次が静かに鋭い視線で言った。

家臣団もうんうんとうなずいていた。

輝虎も軽くうなずくと

「・・私も 関東は少し疲れた・・関東の男は扱いづらいしな・・」

輝虎も少し冗談を言ってみた。

一同軽い笑いが出たが実はこの一言でみな本音ではほっとしていた。

関東への遠征からようやく開放されるからである。

「ところで・・わしらも元々は関東出身ですぞ!」

柿崎景家が言うと

「いや わしらはりっぱな扱い易い忍耐強い越後衆じゃ!」

斉藤朝信が横槍を入れると一同笑いが起こった。

「・・越後の隣国、越中は 能登 加賀は豊かで広いですぞ・・都も近くなる・・」

普段は無口な金津新兵衛が何か含みがあるように言った。

新兵衛もすっかり年老い、もはや客将というよりは大老と言った雰囲気の方が似合うようになっていた。

「・・では・・越中方面を静かにさせようか・・」

輝虎はこうして今後の方針を決めたのである。


「ところで・・」

朝信が言った。

「駿河の件ですが・・掛川城に立て篭もっていた今川氏真殿は徳川家康殿に降伏したそうです・・」

「駿府は徳川軍が抑えたとか・・」

顕長も続いた。

「今川が滅んだのか・・はかないな・・」

輝虎は目を閉じて言った。

「氏真殿は氏政殿の所に身を寄せているようです・・」

景資が言った。

「信玄は家康殿が駿府を占領したことに怒っているそうで・」

実乃が言うと

「・・裏切ったり手を組んだり攻めたり取ったり好き勝手な連中だなぁ まったく・・」

輝虎は呆れ顔で言った。


輝虎はしばらく間をおいた後

「関東が静かになったら、将軍様への御挨拶と・・信長公にもお会いしたいと考えていたのだが・・まだまだ先の話になりそうだな・・」

寂しそうに言った。


一方 駿河から一度撤退した信玄であったが同年永禄12年(1569年)6月にはすぐに部隊を整え駿河に再度二度目の侵攻を仕掛けてきたのである。

北条軍も氏政の大軍が再度駿河に入り伊豆で両軍睨み合いを始めるのである


一方輝虎も北条への援護と武田への牽制をかねて、8月に春日山城を出発し、武田信玄の誘いに乗り、反旗を翻した椎名康胤を討伐するため越中に入ったが武田信玄の扇動した一向宗が康胤側に参加したため、大軍相手に思わぬ苦戦を強いられるのである。

それでも何とか前年永禄11年(1568年)秋には本庄繁長の乱の以前に進出した神通川手前の富山城まで一気に進軍させ康胤を追い詰めたのである。

しかし北条氏康と氏政親子から依頼が入っていた、武田軍の牽制のために信州への進出を8月までしてほしいとの約束は越中攻略に予想以上に時間がかかり守られることはなかった。


輝虎が北条と8月に信州に侵入すると約束していたのに信州に行かず越中に行ったのは信州川中島に高坂昌信が駐留しているのもあったが、北条に対してこちらの不満を表すためにわざと目的地を変更したのである。


今回の越相同盟の交渉は北条側は氏康が主に行っていたが当初約束していた武蔵国の岩槻城の輝虎側への返還も滞り、また武蔵松山城が今回輝虎への返却交渉に入っていなかったことに対して輝虎が不満を表し催促するためでもあった。

養子の件もなかなか北条側が行動に移せず、輝虎側でも武将の離反などがあったが、噂では北条側も混乱は同じで小田原城内の意見が全くまとまっていないと言うのが現状であった。


ところがそのような輝虎、北条の合わない歩調や混乱を見越してか10月に入ると信玄がなんと小田原城に向けて直接攻撃をかけるという予想外の事態が起きたのである。

氏康から急遽救援の依頼が輝虎の元にも届けられ、輝虎も今回は急いで救援の兵を出す準備をしたが、いかんせん越中富山から小田原までは遠すぎ、輝虎は出発はしたものの、全く間に合わなかったのである。


小田原城まで進出し素早く包囲した信玄であったがさすがに輝虎が10年以上前に10万の大軍で包囲しても攻め切れなかった堅牢な城だけあって、信玄も早々と攻略を諦めて3日程で包囲を解き小田原城下を放火しただけで撤退していったと言う。


しかし北条側も直ぐに反撃に入り甲斐に撤退する途中の武田軍に北条氏照、氏邦軍が追撃戦を仕掛け、北条軍は敗れはしたものの武田軍に打撃を与えることには成功し、武田側は荷駄を放り出して甲斐本国に大慌てで引き上げて行ったという(三増峠の戦いと言う)。


氏康からの一連の報告の手紙には、もし上杉軍が来ていれば戦況は大きく変わったであろうに・・と不満が書かれており、輝虎も言いたいことは色々あったが、

「越中出兵は表裏ではない(信玄の扇動する越中攻めは北条にとっても利得がある)」

と、今回の遅れの件には侘びを入れ、誓紙をしたためて春日山城に戻り、そのまま北条軍と共同で歩調を合わせるようにする為に輝虎ら越後軍の主力は11月には上野国沼田城に入ったのである。


しかし信玄の動きは予想以上に素早く、10月中旬に武田軍は小田原から戻ったばかりであったが、そのまま再度、三度目の駿河侵攻作戦を開始して、駿府まで進出したのである。

そのため氏政も慌てて駿河に再度兵を出したため、輝虎、越後軍と北条軍が共同歩調、共同作戦をとる事はこの年はなかったのである。


年が明けて永禄13年(1570年)正月には今度は輝虎の独断ではあったが、信玄を牽制するため信玄と通じていた唐沢山城の佐野昌綱を攻めた。

実は氏康から再度武田領西上野を先行して攻めて欲しいとの依頼があったのだが、輝虎の判断では先に厩橋城の南方からの憂いを無くす為、唐沢山城を先に攻めたのである。

昌綱はこの頃再度主を変えて、信玄と組んでいたが、西上野の信玄牽制に来ていたとばかり思っていた輝虎が自分の城に突然現れたので昌綱は仰天していたが、いつも通り、昌綱は輝虎に必死に侘びを入れ、再度許されたのである。


輝虎は下野の唐沢山城を黙らせ、また、北条がまだ実行していない約束を履行してから西上野の信玄領に押し入ろうと考えての行動であったが氏康や氏政からも逆に輝虎はあまり約束通り動いてくれないとの印象を植え付け、双方の不信は次第に募って行くのであった。


ただ氏康、氏政親子も輝虎との噛み合わない感じを憂慮したのか、お互いのしこりを除去するため前年、永禄12年(1569年)12月の暮れには輝虎に歳暮を贈り、この時期でのお互いの不信の種を摘むような努力は続けていた。


輝虎も歳暮を受け取るとお返しと手紙を送り、武田領西上野に侵入する前に越後内の家臣団を納得させるため、北条側に再度約束の履行を丁重に求め、北条側もようやくまず岩槻城の輝虎側への譲渡を認め、誓詞をもって応じ、また養子の件も3月になってようやく決定し、氏康の七男の北条三郎が輝虎の元に送られることになったのである。三郎と輝虎はこの後4月に沼田城にて初めて面会することになる。


しかし輝虎の唐沢山城攻撃をあざ笑うかのように信玄は1月には駿河の北条方の要衝、深沢城に対しても攻撃を開始した。

北条軍も再度輝虎に救援を依頼し、輝虎もすぐに三国峠越えの準備に入ったが年明けの永禄13年(1570年)2月には北条側の深沢城は結局開城し、駿河は完全に信玄の支配化に組み込まれてしまったのである。


輝虎にとって今回の同盟は足並みがそろわず、結局信玄の駿河侵攻を防げなかった面では収穫はなかったが、武蔵国、上野国の一部を取り戻せ、北条と養子縁組が出来たのは収穫であった。


一方北条にとっては大きな不満の残る同盟であった。結局駿河を信玄に奪われ、輝虎に武蔵や上野の一部を譲り渡したことである。


ただ北条側首脳でも今後の方針はまだはっきり決めることが出来なかった。

氏康の体調が芳しくなく、回復したり悪化したりを繰り返していたのである。

そのため輝虎と北条の関係は駿河が信玄の物になった後もしばらく継続するのである。




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