天下騒乱
本庄繁長の立て篭もる村上城を囲む輝虎の陣地に都からの情報がもたらされたのはこの頃である。
永禄11年(1568年)10月にあの織田信長が足利義昭を引き連れて上洛したのであった。
義昭の後見人の信長は事実上、天下人として名乗りを上げたのである。
輝虎自身に関する知らせも都から一緒に入ってきた。
義昭から引き続き関東管領としての職務を全うするようにとのことであった。
気になる知らせがもう一つ、あの近衛前久が永禄の変で義輝の妻で前久の妹の件で良からぬ嫌疑をかけられ、関白の地位を追われ都を追い出されたとのことであった。
前久の妹だけが助かり、また前久自身が三好三人衆に寛大だったので義昭の怒りを買い、そのまま関白の地位や都を追われることになったのである。
輝虎は報告を聞くと
「・・今まで通り、関東管領として職務を全う出来るとは至極光栄・・」
久々ににこやかな表情を一瞬見せたが
「・・前久殿とは色々あったが・・」
前久のことになると少し口をつぐんでしまった。
「・・都は大変だな・・・もう戻れないが・・昔が懐かしいな・・」
輝虎はしみじみと言った。
「・・ところで・・」
輝虎は今回報告してきた越後屋敷、京都留守役の神余景綱の使者に聞いた。
「信長殿の軍は強いのか?」
使者は大きく首を縦に振ってうなずいた。
信長の軍事力の前に、義輝を討った三好三人衆は三好家の本拠地の四国阿波に落ち延び、三好長慶の後を継いだ三好義継(長慶の弟の十河一存の息子で長慶の養子)は信長に降伏したと言う。
少し意外だったのはあの松永久秀も降伏、信長に許されたという。
「ふうん・・織田信長公はなかなか心が広いな・・」
輝虎は思わず感嘆した。
「将軍殺しの男とは言え・・降伏したから助けたのだからな・・」
輝虎はあのいやらしい危険な松永老人を思い出していた。
「足利家を盛り立てる同士としてお祝いでも贈ろうと思うが・・」
輝虎は重臣らに相談してみた。
「良い考えで・・しかし信玄も信長殿に接近しているので気をつけた方が良いのでは・・」
本庄実乃が普段通り冷静に言った。
「信長公は義昭様のため上洛されたまで・・関東管領職を認めてもらったお礼に義昭様の後ろ盾の信長公と友好関係を結ぶのも大事であろう・・信玄と信長公との仲の牽制にもなるかと思うが・・」
輝虎の関東管領の職務にまだこだわる事に関しては直江景綱らも危うく少し口を出しそうになったが慌てて引っ込めた。
「解りました。京都留守役の神余に上洛祝いを届けるよう通達いたします・・」
千坂景親が手続きを直ぐにとり、信長は鷹狩が好きとのことで越後の鷹が急遽、都に送られたのである。信長と輝虎の関係はこの後しばらくは良い関係が続くのである。
しばらくして
「上洛か・・」
輝虎は独り言のように言った。
輝虎は若い頃は都が好きで、もちろん所要もあったが、二度も行ったことがある。
今でも都が好きで上洛したいと言う気持ちがあったが当時とは都も自分の環境もかなり変わってしまった。
また上洛の意味自体も変わりつつあった。
自分が昔上洛したような旧態的な物ではなく、天下に力を誇示するためである。
「それにしても・・」
輝虎は目をと閉じると
「信玄のおかげで関東どころか越後国内のごたごたに振り回されるとは・・繁長も繁長だ・・」
輝虎は大きく溜息をついた。
輝虎はしばらく間を置いて
「ところで・・」
話を切り替えるように言った。
「私はあまり天下とかには興味はないが・・義昭様への挨拶や信長公に会いに行くのそれほど悪くはないかと思うが・・」
輝虎は少し上洛の件を気軽に言ってみた。
「昔とは上洛の意味が変わっております・・信長殿は恐らく足利義昭様を担いでらおられるので信用に値するかと思いますがもう少し様子見をされたほうが・・」
景綱は言葉を選ぶように言った。
「信長公の印鑑は天下布武と彫ってあるようで・・」
実乃も少し警戒感を持ちながら言った。
輝虎は黙ってしまった。
自分は天下には本当に興味はなかった。興味は関東管領の職務を全うすることである。
ただ信長の印鑑の件は少し気にはなった。
天下布武の意味が将軍中心なのか信長中心なのかはこの頃はまだ誰も知る由もなかった。
既に下克上の世らしく、松永久秀のように将軍暗殺をいとわない者がごろごろと出ている世の中で、何が起きてもおかしくはなかった。
天下布武の意味もいずれははっきりしてくる問題には違いなかったが、その場合の対応についてはあまり考えないようにしたのである。
今は悪いことはあまり考えず、繁長の乱の鎮圧に集中するためである。
ただ、そえでもやはり信長の久秀に対する寛大な処置は輝虎も口外しなかったが正直少し心外ではあった。
久秀の危険さは信長も充分認識しているであろうし、義輝も兄殺しの人物を放っておくはずも無いと輝虎も思ったからである。
もちろん、実は久秀の処遇を巡って実は信長と義昭の間に、密かにこの頃すでに微妙な軋轢が生まれ始めていることなど輝虎が知る由もなかったが。
確かに久秀の実力は畿内で高く評価されていた。
下克上から成り上がり下克上に呑まれた三好長慶も久秀を重宝していたほどである。
しかし長慶が下克上に呑みこまれていったのには久秀が裏で糸を引いているとの噂ももっぱらであった。
そのような危険人物を傍らに置き、将軍を立て、また、自らは天下布武なる印鑑を使うなど輝虎にとって信長は少々理解し難い点があったが、この時は信長は心が広いのであろうと、それで片付けるとのしたのである。
「都かぁ・・」
輝虎は色々考えているうちに無意識で言った。
それを聞き逃さずと輝虎の色々な考えを遮るように
「まぁ、都に行くにしろまずは信玄をどうにかせぬといけませんな・・ワシと信玄の目の黒い内は諦めなされ!」
中条藤資が生真面目な顔をしながら冗談交じりで入ってきた。
輝虎も思わず苦笑いしてしまった。
「信玄か・・」
輝虎は一言言うと
「繁長には信玄と組んだことをしっかり後悔してもらわないとな・・」
厳しい表情で村上城を睨んだ。
11月になると輝虎は本格的に村上城に対する攻撃を開始した。
石火矢を多数運用してじわじわ攻めだしたのである。
一方輝虎が繁長の謀反に追われている頃、既に畿内の状況も信長上洛で騒がしくなっていたように東国も信玄、氏康、氏真の甲相駿三国同盟崩壊による混沌の状況は同じで輝虎の元には乱の長期化による巻き添えを恐れて奥羽の蘆名盛氏や伊達輝宗が仲介に入って和睦を勧めるような動きを頻繁に見せるようになっていた。
輝虎も繁長の実力は充分に買っており、今回は厳罰に処すとは言っていたが、殺すには惜しいことも充分に承知していた。
もちろん繁長の言い分も耳には入っていた。
輝虎の領土を取らない方針に対する反感である。
繁長も越後では子沢山であったが子供に与える領土の件でこの頃になると輝虎の元にもこの手の相談は密かに入っていたのである。
もちろんこれは繁長だけの問題ではなく輝虎もいずれどこでは何らかの方針を決める必要がある大問題ではあった。
また、繁長の実力由縁であろうが、繁長の本心は輝虎に命令される立場と言うよりは対等な関係のにしたいような感情があり、信玄と組むというよりは単に独立してみせると言った気概のほうが近いものがあった。
信玄の謀略が原因で繁長が信玄の誘いに乗ってしまったとは言え、いずれ誰かが起こす必然的な物のような気も輝虎自身も持っていた。
越後衆は扱い難いと言うのは輝虎が一番良く解っていることである。
関東や氏康側の動きも急になっていた。北条側の輝虎陣営への動きは明白で北条側から仕掛けるような動きは全くなりを潜めていた。氏康の視線は完全に駿河と安房に釘付けになっており、関東方面では輝虎と提携する動きすら見せており、それを元に輝虎の元を去った北条高広や由良成繁が、信玄の西上野に対抗するためと関東の混乱を恐れて輝虎と接触しようとする動きを盛んに見せていた。
輝虎側も万全ではなかった。この年は予定外なことが続いていたが、暮れにはあれほど元気だった今回の繁長攻略の責任者で揚北衆筆頭の中条藤資が年には勝てず急死してしまったのである。そのため繁長の乱の鎮圧は更に時間がかかるのである。
輝虎が自分の都合に追われて村上城の包囲を長期化させ、繁長が氏康と信玄のごたごたに巻き込まれている間にも、村上城の物資がどんどん困窮していき繁長のあせりをあざ笑うかのように、ついに北条と武田の蜜月も遂に終焉の時が来て、信玄は永禄11年(1568年)12月に駿河に侵攻したのである。
繁長も自分は信玄に捨て駒にされ援護が受けられないことを今更ながらようやく悟り、繁長自らも輝虎と講和を強く望むようになり、奥羽の蘆名盛氏や伊達輝宗に頼んで盛んに和睦の機会を求めていた。
輝虎も本音では越後国内の騒乱は終わりにしたかった。信玄と氏康が争いだすなど行き詰まった関東戦線の建て直しと、その後を決める絶好の機会と考えていたのである。
中条藤資の揚北衆の筆頭格の後任はこちらも輝虎の栃尾城初陣以来の重鎮の色部勝長が任命され、引き続き繁長の乱の鎮圧にあたった。輝虎も一旦春日山に後退し、信玄や氏康の件を対応することにしたのである。
ところがここで再度予想外の事態が起こったのである。
年が明けて永禄12年(1569年)2月、村上城から出てきた繁長側の部隊が色部勝長の陣に奇襲をかけて、勝長に重症を負わせる事件を起こしたのである。
村上城攻略の最高責任者を襲われたことにより、輝虎は繁長が和睦を願いながらも交戦を仕掛けてきたことに、顔に泥を塗られたと思い激怒し、和睦方針を変更し、村上城に総攻撃を仕掛けることにしたのである。この事件の知らせは奥羽の蘆名盛氏や伊達輝宗にも直ぐに伝えられた。
輝虎たち春日山側の首脳が勝長の陣を訪れた時には勝長は症状が悪化し苦痛に顔を歪めていた。
「いやはや・・ワシも繁長の奇襲部隊に手傷を負うとは・・老いぼれになったわ・・」
勝長は傷口を押さえながら言った。
「あまりしゃべるな・・ゆっくりせい・・」
直江景綱が気を遣いながら言った。
「いやいや・・なんのその・・阿虎様には息子たちが引き続き忠節を誓いますので今後ともお引き立てを・・ててて・・」
勝長の長男の顕長と次男の長真は
「父上!仇は必ず果たします!」
が心強く言った。
しかし勝長の答えは予想外の物であった。
「いや・・その件はもうよい・・繁長を阿虎様の元に連れてきたのはこのワシじゃ・・奴は扱いづらいが越後のために今後も働いてくれましょうぞ・・奴の処置は寛大に願います・・あと・・奴は阿虎様に本気で逆らっているのではなく土地の件を言いたんでしょうな・・ワシもそうだが子供達に土地をどう分けるかは越後衆にとって大きな問題になっている・・今までのやり方を改めてほしいのです・・ててて・・今回は繁長が噛み付いてきたがいずれ別の者が起こすに違いない件・・是非阿虎様には善処を・・ててて・・」
勝長は傷口を押さえながら今まで抑えて言えなかったことを一気に喋った。
「よくわかった・・それ以上は言わなくても良い・・安心されるよう・・」
輝虎は一言言うとそれを聞き勝長は安堵の表情を浮かべた。
「顕長、長真、繁長の件はわかったな・・越後・・阿虎様のため己の私情は挟むなよ・・」
勝長は顕長と長真兄弟に念押しするかのように言った。
顕長と長真は予想外の答えに不満そうな顔をしながら黙ってうなずいた。
「阿虎様の一言を聞いて安心しましたわ・・少し休ませてもらいますわ・・」
勝長はそう言うと静かに再度床に伏せた。
「早く傷の手当てをして再度以前のように頼む・・そなたの忠節あてにしている・・」
輝虎も一言言うと勝長はうんうんとうなずきながら静かに目を閉じた。
輝虎が自分の本陣に戻って間もなく、勝長が息を引き取ったとの連絡が直ぐに届けられたのである。
「繁長の大ばか者めが!」
輝虎は報告を聞くや否や癇癪を起こして勝長との約束など忘れてすぐに軍を村上城攻めに回したのである。
しかし繁長軍の予想通りの激しい抵抗でこの日の攻略は結局うまくいかず、輝虎側は再度軍勢を整えて攻撃するための準備に入ったのである。
そのような絶妙な時に、奥羽の蘆名盛氏や伊達輝宗の使いが慌ててやってきたのである。
気の収まらない輝虎は最初は使者とは会うつもりも無かったが、使者側の必死の依頼と、蘆名や伊達の面子もあるので渋々話だけは聞くことにしたのである。
使者は色部勝長の件は偶発的な不幸な事件であったと丁寧に侘びを入れた後、繁長が長男顕長を人質とし輝虎に差し出すのと、繁長と組んで輝虎に楯突き、先に鎮圧された出羽庄内の大宝寺義増の越後側の支配を蘆名盛氏や伊達輝宗が認めると表明したので急に気が治まってきたのである。
繁長の人質には興味がなかったが出羽庄内地方の越後の支配を認める件は良い条件であった。輝虎自身は領土には興味が無かったが気が落ちつくと勝長の話をふと思い出したのである。
今回の本庄繁長の件は許し難かったが繁長は殺すのには惜しい男であるのは事実であった。
繁長への許しを願う声は勝長だけでなく、千坂景親や喜平次からも上がり、このとき輝虎は使者への即答はしなかったが結局は許すことにしたのである。
しかし長尾藤景は厳罰に処した関係上、帰参は認めても自分の元には来させないことにしたのである。
一週間程して、輝虎はようやく使者に条件を呑み、繁長の越後への降伏帰参を認めたのである。
間もなく使者と一緒に繁長が人質の長男顕長を連れて輝虎の元に詫びにやって来たのである。
輝虎は使者を労い、蘆名盛氏や伊達輝宗へ今後の友好関係を願い、また色部勝長の息子の顕長、長真兄弟、中条藤資の息子の景資を揚北衆の筆頭として今後は引き立てることを表明した。
そして繁長には帰参は許すが繁長の官職の空きが無いの理由に春日山城にはもう来る必要がない旨をはっきりと伝えたのである。
繁長は表情一つ変えず、今までとは違い随分かしこまっていたが、
「わかりました・・越後への帰参を許して頂いただけでも至極光栄・・また・・もし官職が空きましたらいつでもこの繁長に声をかけてくださいませ・・」
と一言寂しそうに言うと、村上城に戻って行ったのである。
繁長と輝虎はその後顔を交わせることはなかった。
こうして永禄12年(1569年)3月、ようやく本庄繁長の乱は平定された。
繁長はこの件が響き輝虎時代は終始冷遇され、彼が再度活躍するのは輝虎、謙信が急逝後、喜平次、後の景勝の代である。
繁長は景勝の越後の後継者争いの時の御館の乱の時も終始景勝を支え、更には北の関ヶ原と言われる長谷堂城の戦いの時も、伏戦の福島城攻防戦で東軍、徳川家康方の伊達政宗と戦い、伊達側を撃退し、上杉側が加担した西軍の敗戦後の処理の時の上杉家取り潰しの最大の危機も千坂景親と繁長は徳川家康と巧みに交渉し、謙信時代の穴埋めをするかのような活躍を見せ、上杉家の危機を救った功労者になるのである。