獅子心中 前編
厩橋城は緊張に包まれていた。
北条氏康と武田信玄の連合軍による襲来の危機の可能性が現実に迫りつつあったからである。
北条軍と武田軍の連合軍が本気で来れば5万以上の大軍で押し寄せてくる可能性が十分に考えられた。越後側の動員はせいぜい良くて1万程度で兵力差の不利は否めなった。
野戦では勝負にならないので厩橋城に頑なに篭るしか方法はなかったのである。
輝虎は軒猿の情報網を駆使して常に北条や武田の動きを神経質に監視していた。
強敵の北条や武田相手に兵力で劣る自分達が勝てるなど決して輝虎も思っていなかったが、今までも兵力差で劣る相手が奇策で大軍を破る戦は良くある話で輝虎も 戦は水物 と自分に言い聞かせて奮い立たせていたのである。
しかしやはり不安は隠せず時々若い頃のように少し酒を呑んで気を紛らわしていた。
輝虎は元来深酒はしない人間だったので酔いつぶれるようなことは無かったが、そのような輝虎の行為に越後兵も今回ばかりは不安を隠せず、越後が破れた場合、自分達はどうなるのかと、余計な話をひそひそとしていた。
輝虎の元にはまず北条軍の動きが引っ切り無しにもたらされていた。氏康は関東での勝利を確信したのかこちらに来る素振りを見せていなかった。むしろ安房、房総半島の上総国、下総国に氏康の目は行っていた。理由は安房の里見義尭、義弘親子である。里見親子は関東には野心は無かったが安房の統一は一族の悲願であった。そのため安房までちょっかいを出してくる北条は里見親子にとっては目の上のたんこぶであった。
氏康にとっても里見親子は厄介な存在であった。自分に素直に従ってくれれば良い物の、源氏の氏族としての誇りが高い里見親子からすれば、どこの馬の骨とも知れない北条家には心底従うつもりなどなく、逆に隙あらばと、安房から海賊衆を使って江戸前(東京湾)を渡り、北条の地盤の相模国の三浦半島に乗り込んで狼藉を働いたりと北条に対する敵意を露にしていた。
更には里見親子は輝虎とも正式な同盟関係にあり、北条家は形式状、北の越後と南の安房に挟まれていた。そのため、臼井城の戦いでまず北の越後の輝虎の勢力が後退したのを見計らって、南北挟撃の憂いを無くすため氏康は南の里見親子の討伐を決めたのである。常陸の佐竹義重も当時は北条へ帰順の意思を示していたため里見親子を打倒後、最後は輝虎を完全に越後に追い出して、関東を北条の物にするという氏康、北条一族の悲願が込められていた。
永禄10年(1567年)8月、氏康はついに里見親子打倒のため安房に出兵したのである。
普段は慎重な氏康が今回急いで里見攻略に動いたのは輝虎が勢いを取り戻す前に、輝虎の関東での同盟者の里見親子の息の根を止め、輝虎に関東を諦めさせることが表向きの理由であった。
しかし実はもうひとつあった隠れた理由があった。まだ表ざたにはなっておらず、輝虎にも気づかれていなかったが、氏康と武田信玄との関係に少し漣が立っていたのである。
氏康が動き出したことにより厩橋城の輝虎の元にも里見親子から救援の依頼が入っていた。
里見氏にとっては存亡をかけた一大決戦であった。
里見親子の使者に対して輝虎も
「あいわかった・・手立ては総て取る・・義尭殿 義弘殿と我らで氏康を追い払いましょうぞ・・!」
とにこやかな表情で表向きは全面的に協力する旨を伝えたのである。
里見親子の使者はそれを聞くと安堵と満面の笑みで引き上げていった。
しかし越後軍にはそのような兵力の余裕は無く、また兵を送っても途中で立ち塞がる西上野の信玄に挟まれて、自分達が止めを刺される可能性もあり動けず、事の成り行きを見守るしか手段が残されていなかったのである。
あと輝虎に何か出来ることがあるとすれば、神仏に里見親子の勝利を祈願することである。
輝虎は援軍を送りたかったが結局送れなかったのである。
安房の状況は臼井城のある上総北部、西部はすでに北条領であった。上総東部も里見氏の重臣の正木時忠を服従させていた。北条側の目的は里見親子のまず、息子の義弘の居城の佐貫城を奪い上総全土をまず制圧しその後南下し下総の義尭の居城の久留里城を落とす事を考えていた。
佐貫城は里見側も北条への最前線として守りを固めに固めた城であった。里見親子の息子の義弘自ら城の守りについていた。
氏康も攻略に本腰を入れるため氏康の長男の氏政自ら指揮を取り、佐貫城からわずか1里先の三船山に砦を作り、佐貫城攻略に万全の体制を整えようとしていた。
氏政は今回3万と言う大軍を擁していた。守備側の佐貫城の義弘は8千程度と劣勢は明白であった。
それでも氏康は慎重に慎重を期していた。
輝虎との唐沢山城での戦いを思い出していたのである。
氏康には越後軍が厩橋城から動く気配はないとの報告が忍の風魔から入っていたが、里見軍は輝虎が援軍を準備していると思っており、佐貫城の兵の士気は高いとの報告も入っていた。
そのため氏政にも先に手を出すことは厳禁した。
双方の城からの睨み合いで作戦は長期の様相を見せていたが、そこでそれを見た氏康は義弘本隊を氏政の部隊で足止めしている間、自分の部隊と臼井城で功績があった原胤貞、氏政の弟の氏照の別働隊で里見親子の父、義尭の居城、久留里城を先に密かに急襲して、久留里城救援に慌てて出てくるであろう佐貫城の部隊を三船山の氏政の部隊と合同で挟み撃ちにして、里見親子に引導を渡す案を密かに実行に移したのである。
氏康は原胤貞、氏照と別働隊を編成すると氏政の本隊と別れて、市原付近の小櫃川沿いに密かに内陸の久留里城を目指したのである。
氏康は今までの里見氏との腐れ縁を断ち切るべく必勝体制を誓っていた。
不安点は臼井城の戦いで原の部隊が思いの他消耗しており、戦い方を誤れば久留里城の部隊にも苦戦が予想され逆に自分達が危機に陥る可能性があることであった。
それでも氏康は自分の武運を信じていた。
川越城の戦いを思い出していたのである。
久留里城に向かう騎乗の馬で
「里見親子との腐れ縁はこれで終わりにしたいものだな・・」
氏康は正直に言った。
「・・それにしても あの何とか入道とやら・・原殿の兵力をずたずたにしやがって・・」
氏照が父の気持ちを代弁するように言った。
「・・申し訳ありません・・あの男はその後、出て行ってしまって・・」
原が首を少し縮めながら申し訳なさそうに言った。
臼井城で指揮を取った軍師、白井入道浄三はその後、原の元を去り何処かへ立ち去ったと言う。
「いや・・良い・・」
氏康は静かに言った。
「あの男のおかげで勝ったのは事実だからな・・臼井城を守ったのは大きい・・少し犠牲が大き過ぎたが・・」
氏康は目をつぶりながら言った。
「里見の次は・・越後の大虎を追い出して!・・いよいよ関東は我らのものですね・・!父上!」
氏照が氏康に嬉しそうな顔で言った。
しかし氏康の表情は曇ったままであった。
そしてしばらく間を置いてから
「・・う・・うむ・・そうだな・・」
何か引っかかるような物があるように氏康は静かに言ったのである。
氏照も原もそれが何を意味するのかはその時は解らなかったが、二人は密かに思わず顔を見合わせてしまった。
8月も終わろうとしている頃、厩橋城に安房の報告の早馬がやってきた。
輝虎もこの半年は緊張気味に過ごしていたので少し疲れていたがこの報告を聞いてそれもすべて吹き飛んだ。
「本当か!そうか!よかった!」
輝虎は年甲斐も無く大喜びしてしまったのである。
輝虎の大声を聞いて他の者も続々と集まって来て、使者の報告を聞いて驚愕したのである。
三船山での氏政と佐貫城の義弘の睨み合いを打破するため、氏康の別働隊が密かに久留里城に向かったのだが、氏康が不在の情報を義弘は素早く掴み、その隙を見て、義弘ら里見軍が佐貫城を出陣して三船山の氏政に襲い掛かったのだと言う。
氏康も里見軍の士気を落とすため風魔を使って永禄7年(1564年)の第二次国府台の戦いの再現をする気か(里見軍は北条軍に大敗)、輝虎は怖気づいて来ないぞ、などの噂を里見軍陣中に使って流すなど工作をしていたが里見軍は輝虎の援軍を来ると信じていたのか効果はなかったと言う。
北条氏政軍3万、里見義弘軍8千と兵力差は圧倒的であり、誰が見ても北条軍優勢であったが、里見軍は地形を巧みに利用し北条軍を奔走し、里見氏重臣の正木憲時の部隊が障子谷と言う足場の悪い深田に北条の大軍を誘い込むと、足場が悪い狭い場所に大軍が密集したため北条軍は動きが取れなくなり、そこを里見軍に徹底的に叩かれて2千5百人の死傷者を出す大敗北を北条軍は喫したとのことであった。
その報告を聞いた氏康も慌てて久留里城攻略を放棄して軍の立ち直しに氏政と合流しようとしたが今度は里見氏の庇護を受けていた安房の海賊衆が江戸前(東京湾)上で北条軍本隊の援護に向かっていた北条水軍と交戦になり、こちらでも北条側は敗北、水陸両方からの襲撃を恐れて氏康は全軍を居城の相模の小田原城に引き上げさせたのだと言う。
北条軍は大将格の岩槻城主、太田氏資までもが敗走する北条軍の殿を努めて戦死するなど散々な戦で、これにより安房の勢力は完全に塗り替えられ、上総全土を含め安房全土が里見氏の所領になったのである。
里見軍の勝利で越後側は沸き返り、また氏康に恭順の姿勢を示していた常陸の佐竹義重も再度、輝虎陣営、反北条に回った。
何はともあれ輝虎側の関東での勢力は何とか保つことが出来たのである。
越後衆が沸き立つ間、一人密かに沈んでいたのは太田資正であった。
憎き氏康が敗れたのは良かったが 氏康側についていた長男の太田氏資が北条軍の殿を務めて討ち死にした事を聞き
「・・あの親不孝の大馬鹿者が・・わしが討ち取ってやろうと思ったのに・・」
資正は誰にも聞こえぬよう、うつむきながら小さな声で言った。