混沌
越後軍が臼井城攻略戦で大敗したとの知らせを聞き、唐沢山城の佐野昌綱監視のために駐留していた色部勝長や春日山城の留守役の金津新兵衛、河田長親らが慌てて輝虎の元に駆けつけ、彼らの護衛で輝虎たち越後軍一行はようやく関東の本拠地の厩橋城まで後退した。
多数の死傷者を出し緊急に越後軍の建て直しが計られたが、関東での北条陣営の勢力拡大、上杉陣営の勢力後退により日和見で移り気な関東諸将の態度の変化で兵力の補充も難航が予想された。兵力の不足は今後の越後軍の作戦に重大な支障が出るのは明白で上杉陣営の更なる後退を予感させていた。
輝虎は越後国内での不安や不満感を抑え、兵力を補充するために一旦4月に越後に帰国した。
そして5月頃に輝虎は神社に祈願文を奉納しているがその内容は分国、越後、上野、下野、安房と拠点の佐野城、沼田城、厩橋城の無事を祈願するものであった。
輝虎も関東前線がもはや危機的状況であることを認めざるを得なかったのである。
しかし輝虎の臼井城での敗戦で、輝虎の悪い予感通り、関東の諸将は再度北条氏康になびき始めたのである。
そのため輝虎は北条、武田連合に対して劣勢な形勢の逆転と、臼井城での敗戦の影響を断ち切るため、厩橋城の南方で、信玄に内応する高崎城(和田城)の和田業繁を攻めることにしたのである。
輝虎は新たに越後国内や金でかき集めた兵力を引き連れて、夏に再度関東に舞い戻り、高崎城攻略のため越後軍を南進させたのである。
ただ臼井城での敗戦の影響は大きく、兵力の補充は充分ではなく高崎城を落とすには明らかに劣勢な戦力であった。そのため輝虎は密かに使者を高崎城の業繁に送り、越後側に内通するよう催促をし、硬軟両方での作戦を展開したのである。
永禄9年(1566年)8月、越後軍は高崎城に到着すると周囲をぐるりと包囲した。
しかし兵力数では高崎城を落とすには充分な戦力ではなく、それを見透かしたように業繁も内通の件に関する返答はよこさず、高崎城に篭ったままであった。
越後兵の中でも度重なる戦や夏の農繁期にまで駆り出されての戦に不満の声が再度あがっていた。
普段は輝虎に口うるさい、重鎮たちも今回は妙に口が静かだった。
普段は必ず物言いをしてくる本庄繁長や長尾藤景、厩橋城主の北条高広などは特に気味悪いほど静かであった。
輝虎も彼らの自分に対する若干呆れ気味の感情には感づいていたが、輝虎も領主として、関東管領の意地、もしくは異性や若年者の意地などがあり、なかなか譲れない面もあり余計に話を難しくしていたのである。
輝虎もそのような理由で表向きは強気に振舞っていたが、内心やはりそのような様々な状況から気が沈み、その心の表情は実は冴えなかったのである。
しかしここで予想外の展開になったのである。
信玄が2万の大軍を率いて西上野に向かっているとの情報が急遽入ってきたのである。
越後軍は7千程度しか兵力がおらず、兵力数では真正面から2万の大軍と向き合える状況ではなかった。しかも今回は新兵が多く、輝虎直属の親衛隊も臼井城で負傷で戦力数が少なく、兵や諸将の間でも動揺が見られた。
しかし輝虎は表向きは冷静沈着であった。
「信玄とは今までも川中島では常々不利な状況で戦っている・・恐れるに足らず・・!」
輝虎の一言で越後陣営は表向きは再度落ち着きを取り戻したのである。
輝虎は今回は年齢の関係などで、最近は春日山城の留守役が多くなっていた金津新兵衛を呼んでいた。
新兵衛は輝虎の育ての親とも言える人物で公式には越後国内では高い身分ではなかったが、客将と言う特殊な地位にあり、輝虎が絶大な信頼を寄せていた男である。
初陣の栃尾城で命をかけて輝虎を守ったのも彼である。
ただ逆に言えば今回は輝虎も実は密かに相当な不安を感じていたのである。
自分を落ち着かせ、いざという時は自分を叱咤してくれる存在が必要であった。
そのために新兵衛を呼んだのである。
親衛隊の顔ぶれも今までと違った。
半分以上が入れ替わり新規入った若年兵も多く、今までの百戦錬磨とは少し雰囲気は違っていた。
特にあの弥太郎は傷が思ったよりも深く、親衛隊には戻ってこなかったのである。
輝虎の時折見せる不安そうな顔を見てか
「ワシらがまだ居ます・・お忘れなく・・」
栃尾城の戦いからのベテランの秋山源蔵と戸倉与八郎が笑いながら声をかけ
「栃尾城の戦に比べれば楽なもの・・気落ちは無用ですぞ・・」
新兵衛の一言に輝虎も思わずうなずき、自分を奮い立たせようとしたのである。
輝虎は信玄とどう戦うかに案を巡らせていた。
高崎城周辺は利根川沿いの平地で陣を張って守るのにはあまり適した地形ではなかった。
そのため一度厩橋城まで後退して、そこで篭城戦に持ち込むことも考えていた。
信玄がどれほど本気なのかも正直解らなかった。今までの牽制のようにやって来ては、輝虎が高崎城の包囲を解いた後、甲斐に戻る可能性もあったからである。
輝虎が高崎城の前であれこれ考えているうちに箕輪城からの早馬が慌てて飛んできたのは高崎城に来て一ヶ月、信玄も間もなく西上野に入ろうとする頃であった。
輝虎は信玄の同行を伝える伝令程度の早馬にしか考えていなかったが、その知らせは輝虎を驚愕させ、落胆させるには充分な知らせであった。
永禄9年(1566年)9月、甲斐軍は輝虎の予想に反して高崎城には来ず、長野業正の箕輪城にまっすぐ押し寄せたのである。不意を突かれ2万の大軍に少数の箕輪城の守備隊は瞬く間に壊滅し、箕輪城主の若干19歳の業正は自刃して果てたと言う。
輝虎はこの報告を唖然と聞いていた。そしてその後がっくりと肩を落とした。
若い業正を見殺しにしてしまったことと、自分の判断の過ちについてであった。
「信玄にまたもやられた・・」
輝虎は一人つぶやくように正直に言った。
輝虎は信玄や氏康との戦いでは決定的に負けたつもりはなかった。
しかしいつの間にか信玄、氏康に対して押されており、自分が押しやられていた。
今までの川中島での戦いと同じでの戦略上では年の功なのか自分が甘いのか輝虎も正直良く解らなかったがいつも敗退の形になっていた。
今回も同じである。
信玄とは関東では直接的に戦った記憶はあまりなかったが気がついたら西上野を取られていた。
氏康もしかりである。
氏康とは実際に戦い、負けもあったが、城から自ら逃げ出すような決定的な負け戦は無かった輝虎は認識していた。
が、気がついたら武蔵国をいつの間にか奪い返され、自分は上野国まで追い返されているという現状である。
理由は良く解らないが自分の関東管領の野望は見事打ち砕かれ、かっての上杉(憲政)氏本流のように自分も上野国の北端まで追い詰められようとしていると言う現状だけが事実であった。
しかし、理由は何であれ、形上は業正を見殺してしまった輝虎に対して、関東の風向きは急激に、そして決定的に変わることになったのである。
信玄が西上野を完全に占領し、氏康が上野国に侵入しようとすると、関東国人や上野国人衆の気持ちは輝虎から急速に離れていったのである。
9月末にはまずその先陣を切るかのように、金山城城主、由良成繁が輝虎に反旗を翻し、氏康、信玄側についたのである。
さらにはこの年の暮れには永禄5年(1562年)安房と古河を移動中に氏康に捕らえられ、行方不明になっていた、足利藤氏が死んだとの情報がどこからと流れてきた。
死因は病死とも氏康に殺されたとも言われはっきりしなかったが、
足利藤氏は輝虎が関東管領就任時の古河公方になり、また、輝虎陣営の関宿城の簗田晴助の甥にあたる人物であり、足利藤氏の死によって輝虎の関東の運営は大義名分上も、大打撃を受けて完全に行き詰まりを見せたのである。
越後衆の不満も積もりに積もり越後国内にも不穏な空気が流れだしていた。
藤氏が死に、関東管領としての地位が完全に崩落すると今まで越後領主でもあるが関東管領でもある輝虎に我慢強く付き従っていた越後衆からも強い不満が聞かれるようになったのである。
越後衆にとっては領土が増えなかったばかりか、信玄、氏康に対する二面作戦も完全に破綻し、関東攻略どころか関東からの撤退目前まで越後側の勢力は信玄、氏康陣営に押され、さらには本拠地の越後国内の春日山城近くにも最近、甲斐の騎馬武者が姿を時折姿を見せるなど信濃方面から信玄が越後本国に侵入するかもしれないと言う危機も現実味を帯び始めていた。
輝虎もこの時の心象を
「心細いので春日山城に帰りたい・・」
と正直に日記に書いている。
ところが永禄9年(1566年)12月、予想外の事件がまたも起こるのである。
厩橋城を任せていた北条高時が景虎に対して謀反を起こしたのである。しかも2度目の謀反であった。
高広は氏康の誘いに乗ったのである。
輝虎は関東の拠点とも言えるこの重要な拠点を戦わずあっさりと失ってしまったのである。
輝虎は高広を
「高広の行いは天下の魔行・・!」と表向き激怒し高広を非難した。
が、心の中では北条、武田との最前線の一番厳しい厩橋城の護衛など重い仕事ばかりさせて、彼の不満が高まっていることは充分に承知していた。
また、彼は一度謀反の前科があったので重臣の間でも密かに彼に厩橋城を任せるのは危険との声も輝虎の元に寄せられていた。それも輝虎は承知していたが、逆に高広もそのような空気を感じていたのか越後国内から国外に鞍替えになったことに不満を持っているとも言われ、輝虎を悩ませていた。
ただ輝虎も越後衆も彼の実力は認めていた。そのため彼が氏康陣営に寝返ったことは更に戦局が厳しくなることを暗示していたのである。
それでも輝虎陣営はわずかに残る大田資正、簗田晴助ら関東国人衆、上野国人衆、常陸の佐竹義重、安房の里見義尭、義弘親子の踏ん張りでなんとか関東に踏みとどまっていた。
輝虎も関東の拠点をさらに越後寄りの沼田城に移し再度最後の気力を振りしぼり、厩橋城を奪還して、関東再南進の準備を進めようとしたが、その最中に高広と呼応するようにまたもや佐野昌綱が輝虎に反旗を翻したのである。
永禄10年(1567年)1月に輝虎は厩橋城に行く振りをして氏康に対する牽制を兼ねて唐沢山城に攻め入ったが昌綱が降伏勧告に応じず攻略できず、再度3月に隙を見て一気に唐沢山城に押しかけ、昌綱を降伏させたのである。
ただ輝虎の昌綱へのお咎めは無く寛大な処分であった。昌綱は降伏したとの理由でそのまま唐沢山城の城主のままで居続けたのである。
その理由は上野国や関東国人衆の気を引くためである。
少しでも輝虎陣営に味方を引き込むためである。
ところが唐沢山城が輝虎陣営に戻って安心したのもつかの間、同じ3月に再度信玄が動き、武田領の西上野を任されていた真田幸隆により輝虎側の上野白井城が落城して沼田城、渋川城まで信玄の脅威が迫り、信州方面からだけではなく三国峠からの越後侵入の危機が現実的に迫ったのである。
三国峠は輝虎が関東へ冬でも動けるように整備した当時としては幅の広い軍が通るために設計された道路で現在の国道17号線にあたる。
ここを通れば越後は直ぐである。
輝虎は急遽、白井城の奪還の為の作戦を行うが、動きの読めない佐野昌綱の唐沢山城を牽制するため、輝虎は唐沢山城の守備に揚北衆の五十地野氏を今回初めて任命したが、彼らが任務が重すぎると逃げ出す珍事が起き、結局色部勝長が唐沢山城に再度入城し、守りを固めることになったのである。
もはや輝虎、関東管領の権威は地に落ち切っていた。
輝虎もこの頃は相当気が滅入っていたがそれでも執念で永禄10年(1567年)4月に白井城を奪い返すとそのままの勢いで厩橋城に押し入り奪回したのである。
輝虎は今回武田の真田軍やかっての越後側の猛将、北条高広軍との大激戦も覚悟していたが真田勢も高広も半分放棄するように撤退していったのでそれほどの激戦にはならなかったのである。
ただ彼らの引き際も潔いのに輝虎は猜疑心を持って見ていた。
輝虎だけでなく
「信玄の奴・・何かまた妙なことで企んでいるに違いないわ・・」
と 中条藤資は警戒していた。
「・・阿虎様と戦うのはさすがに高広もどこか引けたんでしょう・・」
斉藤朝信も静かに言った。
「しかし 信玄だけでなく氏康も来なかったのは妙だ・・」
輝虎は率直に言った。
他の者もうなずいた。
「軒猿にもっと様子を探らせましょう・・それからでも遅くはいでしょう・・」
喜平次が冷静に言った。
厩橋城をなんとか取り返した輝虎であったが、恐らく再度厩橋城の攻略に来るであろう、信玄、氏康連合軍に備えて輝虎は厩橋城の守りを固めたのである。
しかし意外なことに信玄も氏康もこの後、厩橋城に輝虎を追い詰めた勢いで押しかけて来ることはなかった。
輝虎を襲った予期せぬ混沌がこの後、今度は信玄や氏康をも襲い、関東の混乱に輪をかけるのである。




