時の流れ
永禄七年(1564年)8月、長尾政景と宇佐美定満の溺死事件の影響が覚めやらぬ中、輝虎の元に信玄に関するいやな報告が入っていた。
甲斐軍が春先より信濃方面に別働隊を展開させ、越後側の信濃国境の各地の支城にちょっかいを出し、各地で小競り合いが起き、特に越後側の野尻湖湖畔の野尻城は武田側に奪われるという事態までもが起きていた。
また、武田の本隊も甲斐本国を出動して、川中島方面に向かう素振りを見せており輝虎も対応を迫られていた。
実はこの年の4月、唐沢山城の攻略から越後に戻り、政景と宇佐美の溺死事件が起こる直前に越後北部で国境を接する陸奥南部の芦名盛氏が信玄にそそのかされて越後北部の揚北に侵入して来たのだが揚北衆を中心とした部隊に追い返されていた。
信玄の攻略の手が北陸方面だけではなく東北方面からも廻っていることに警戒していた矢先に信玄が再度信濃に進軍してきたので、いつもの信玄の得意の謀略と輝虎はそれほど驚かなかったが、むしろ自分や春日山城が政景と宇佐美の事故の件で動揺している頃を見計らって、ずかずか押し入ってくる信玄のやり方の方に輝虎は腹が立った。
しかし輝虎も姑息なやり方と口では信玄を批判しながらもその計算高さは素直に認めざるを得なかった。
更には飛騨国からも輝虎に出兵、救援の依頼が入っていた。
飛騨は元々国司の姉小路氏が治めていたが姉小路氏の勢力が衰えると、飛騨の支配を巡り有力国人同士の三木氏と江馬氏が争いを始めたのである。
特に今回は北飛騨の領有を巡って三木良頼と江馬時盛が激しく争っていた。
輝虎は本音では飛騨には興味はなかったが飛騨は越後の西隣の越中と国境を接し、またその越中も輝虎寄りの椎名康胤と信玄に通じていると噂される神保長職が争い不安定な状態が続いていた。
関東の北条、信濃の武田と強敵を抱える輝虎にとって越中と飛騨両国の不安定化は避けたいと言う事情もあった。
三木良頼は飛騨の主権を握るために輝虎を頼り、逆に江馬時盛は信玄を頼ったのである。
良頼は更には飛騨の国司としての正当性を得るため姉小路氏の継承も望んでいた。
良頼はその為に輝虎への従順と輝虎と友好関係の織田信長への従順も申し出たのであった。
越中、飛騨の安定化を望む輝虎もこれに同意し、また飛騨の南方の美濃で斉藤龍興と争っていた信長も賛成したため、その頃信長と親しくしていたあの近衛前久が朝廷に働きかけたこともあって話は順調に進み、三木良頼はこの後、姉小路氏を名乗っていくのである。
一方、時盛は信玄に働きかけて力づくでも良頼を排斥しようとして、信玄に合わせるかのように信濃に出兵してきたので結局双方の肩を持つ、輝虎と信玄が代理で出兵してまた川中島で争うことになってしまったのである。
このような経緯から結局再度川中島に急遽出向くことになったのだがこの時、輝虎は自分の決意を新たにするために戦勝祈願の願文を春日山城の看経所と弥彦神社に奉納している。
たけ田はるのふあくきやうの事・・(武田信玄悪行之事)
と始まるこの信玄打倒を願う有名な願文は今でも米沢の上杉神社の宝物館、稽照殿で輝虎の美しい達筆を見ることが出来る。
この願文自体は美しい平仮名交じりの達筆の方に目が行ってしまうが内容は輝虎自身の正当性と信玄の悪行を挙げた物で輝虎の性格を垣間見ることが出来る文章でもある。
大まかに訳したものであるが
・・輝虎は関東管領であるので関東に出兵して戦っているのです・・川中島でも多くの家臣を討ち死にさせてしまいましたが、自分は信玄に領土を奪われた信濃の国人衆から頼まれて出兵しているのであって非道ではありません・・
・・信玄は今川義元からの調停の約束をも破り、実の親をも追放した悪い人間です・・
等書いてあると言う。
しかしさすがに五度目の川中島への出兵には多くの越後衆も不満気であった。
また家臣団も口では言わなかったが川中島での信玄との軍事的な戦いでは決定的に負けたことはなかったが戦略的には輝虎の性格の故もあるが既に善光寺を含む川中島の大部分が信玄の手に落ち、川中島の越後側の勢力は高梨一族の守る川中島最北端の飯山城のみの僅かしかも残っておらずこの戦いの戦略的な勝敗は決定的であった。
輝虎の耳にも越後国内の不満の声は届いていたが飛騨の件以外にも行かざるを得ないのも事実であった。
川中島から春日山では100キロ弱と目と鼻の先なのである。
信玄を越後に入れないためにはここで迎え撃つしかないという現実であった。
ただ決意を新たにした願文とは裏腹に本音ではこの後の関東での戦いに備えて前回のような全面衝突は避けたいのも事実であった。
輝虎とて前回の川中島の戦いは偶然の産物と言え、武田軍に打撃は与えたもののこちらの打撃も大きく、再度武田軍の強さを認識させられたからである。
再度味方部隊が大打撃を受けるようなことは是非とも避けたかったのである。
8月初めに春日山城を出発すると直ぐに輝虎は別働隊を河田長親に任せて野尻城に派遣、野尻城を奪い返して3日後には川中島に入り善光寺側の横山城に布陣した。
ただ川中島に越後軍が到着しても海津城や周囲の武田側の支城は越後軍一行が到着しても城に引き篭もりだんまりを決め込んでいた。
それを見計らうと輝虎は今回は川中島での刈り取りを珍しく許可したのである。
川中島での刈り取りは川中島を既に実行支配している武田側を刺激するには充分であったが味方の越後兵の鬱憤を晴らすことも大事だったからである。
もちろん武田側の反応を探る旨もあった。
武田側が飛騨の代理戦争ではなく、前回の恨みを晴らすべく本気で来たのであれば目の前で刈り取りをすれば顔色を変えて軍を動かしてくると思ったのである。
しかしそれでも武田側は相変わらず城に篭ったまま出てくる素振りを見せなかった。
武田側が信玄本隊を待っているのか戦う気がないのか輝虎も解らなかったが越後側も信玄が来るまで待つことにしたのである。
ただ輝虎は刈り取りこそは行ったが武田側への意思表示はした。
本来越後側の野尻城は奪い返したものの、他の武田側の支城は攻撃しなかったのである。
こちらから仕掛けるつもりは無いことを暗に示したのである。
越後兵も前回の激しい戦いの記憶と、関東と越後を何度も往復して疲労しておりそれほど今回は士気が上がっていないと言う事実ももちろんあったが。
8月下旬になってようやく信玄本隊も川中島に到着したが海津城に入らず、海津城から離れた川中島最南端部の千曲川西側近くの塩崎城に布陣した。
信玄の布陣を確認すると越後軍も犀川を渡り、北国海道を南方に移動し川中島中央の北国街道沿いの小田切館周辺に布陣して4キロほど間をとって武田軍と向き合うように再度布陣した。
しかし武田軍本隊も塩崎城に布陣後は城内から動くことは無く閉じこもったままであった。海津城や他の城も同様であった。
「・・またまた睨み合いか・・」
本庄繁長が陣内で背伸びをしながら面倒そうに言った。
「・・まぁ・・前回の二の舞は御免だがな・・」
川中島の記憶がまだ生々しいだけあって長尾藤景も今回は慎重だった。
「こちらからは決して仕掛けないように・・」
輝虎も念押しした。
今回は特に誰も異義を唱えなかった。
越後衆も武田の強さは認識していたし、また争うのに辟易していたからである。
そして9月10日頃
「失礼・・」
と言って輝虎は親衛隊の警護だけを引き連れて善光寺の宿坊に出かけていった。
毎月10日前後に輝虎が体調を崩すのは越後軍ではこの頃には当然のことであった。
誰も驚きもしなければ当然のように見送っていった。
双方の動きが無い陣中は完全に気が抜けていた。
一方善光寺の宿坊で毎月10日前後に来る腹痛のために休んでいた輝虎に思わぬ報告が入ってきた。
輝虎に来客が来ていると言う。
輝虎は川中島での陣中での来客など心当たりがなかったが来客者の名前を聞いて驚いた。
海津城城代の高坂弾正昌信本人だと言う。
親衛隊の責任者で輝虎の警護に当たっていた千坂景親は輝虎が武田側の高坂に会うことに難色を示していたが輝虎は高坂に会うことにした。
懐かしさもあったが信玄が寵臣の高坂を自分の下に送ってくるなど何か理由があるに違いないと判断したからである。
面会場所は善光寺近くの庭園が美しい宿坊の小さな茶室が選らばれた。
高坂から個別で話しがしたいとの申し出もあったのでそれも了承した。
警護担当者の千坂が珍しく不安そうな表情をしていたので
「高坂弾正昌信はそのような男ではない・・心配無用・・」
と輝虎は逆に千坂に気遣った。
約束の日時になると輝虎は茶を用意して待っていた。
しばらくして見覚えのある武者が僧侶に連れられて通された。
高坂弾正昌信本人が几帳面にほぼ約束の時間通りにやって来たのである。
第4次川中島、信玄の本陣で会った以来であった。
高坂は既に37歳になっていた。
初めて会ったときから12年の時が流れ凛々しい若者から立派な若武者になっていた。
今でも信玄のお気に入りとあって年以上に若く才気があった。
一方輝虎も気が付いたらもう35歳になっていた。
初めて高坂と会った時は23歳の麗しき姫様であったが今は頬には少し年季が入り、目元も以前よりわずかにであるが年相応の優しさが滲んできていた。
もはや姫様と言われる年は当に過ぎていたがまだ御館様とは言われるのに抵抗があった。
実は未だに心が実年齢に追いついてなかった。
高坂は輝虎の前に通されると、静かに座り深々と頭を下げた。
「姫様もご機嫌麗しいようで何よりです・・」
高坂が静かに少し笑いながら言った。
「ありがとう・・でも もう姫様はやめた・・ 輝虎殿とでも呼んでおくれ・・」
輝虎は自嘲気味ににこりと笑った。
高坂もにこりと笑った。
「初めて会ったあの日が昨日のように思い出されますな・・」
「うん・・懐かしいな・・若かったな・・」
輝虎は本当にそう思った。
「甲斐の衆はみんな口を開けていましたぞ・・本当に姫様が大将だって・・」
高坂が笑った。輝虎も思い出した。驚いて口を唖然と開けている甲斐兵を思わず思い出し少しくすりと笑ってしまった。
「あの時はみなの前で焦らせてすまなかった・・」
輝虎がにこりと笑いながら言った。
「今後は私の方こそお言葉には気を付けましょう・・」
高坂も思い出したように冗談を言いながら笑った。
「ところで・・この前は・・」
輝虎が言い難そうに言った。
「・・ありがとう・・おかげで命拾いした・・」
第4次川中島で信玄本陣で高坂に助けてもらった件である。
なんで助けてくれたのか聞きたかったが年甲斐もなく恥ずかしかったので聞けなかった。
高坂は何も言わずに笑っていた。
「信玄公・・お怒りであったろうに・・弾正が無事でよかった・・わたしのせいで何かあったらと思うと・・」
高坂が輝虎が言い終わらないうちに
「ははは・・信玄公だって分かっております・・あなたが毘沙門天の化身でそう安々と倒れないのを・・」
輝虎も思わず苦笑いしてしまった。
「でもあの時は本当に覚悟した・・でも弾正に切られるのなら本望だなとも思ったが・・」
思わず本音が出てしまったが高坂も本音で返してきた。
「姫君・・失礼 輝虎様を切るなど私には恐れ多くて出来ませぬ・・ははは・・」
「そうか・・ありがとう・・」
輝虎も本音で語っていた。
しばらくして少し真面目な顔をして高坂が言った。
「勘助公から聞いてらっしゃるかと思いますが・・覚えてらっしゃるでしょうか・・」
輝虎は黙ってうなずいた。
勘助が話を持ちかけていた和睦の件である。
「信玄公は今でもあなたに対するお気持ちを変えておりません・・」
輝虎は内心少し驚いたが表情を変えずに黙って聞いていた。
「少し・・時間を使い過ぎました・・我々は・・」
輝虎もうなずいた。
気がつけば12年も経っていた。
「もう一度・・我々と手を組むこと考えて頂けませんか・・」
高坂は少し腰を上げると輝虎のすぐ側まで近づいてきた。
予想外の提案に輝虎は内心驚いたが顔には出さないようにした。
信玄の最も信頼した弟の信繁や軍師の勘助、諸角定虎ら重臣を討たれて信玄は怒り狂っているだろうと思いその様な話は二度と出ないであろうと思ったからである。
関東に集中したい輝虎にとって願っても無い提案であった。
しかし素直に返事も出来なかった。
甲斐と越後の兵士に多大な犠牲を払っておきながら、今更和睦など気持ち的に素直に受け入れ難かったからである。
武田側にももちろん多数の犠牲者がでたが越後側も荒川長実や志駄義時など有能な武将を失っており、彼らの残された遺族の心情を察すると今更易々と気安く応じることは難しかった。
美濃の件も気障りではあった。
信玄が輝虎との和睦に再度傾いているにはやはり信玄が美濃にまだ未練があるからであろうと輝虎も直ぐに悟った。今回飛騨の江馬氏の助けに応じたのもおそらく飛騨から美濃に圧力をかける意図も多少はあったはずであった。
しかし織田信長とは直接会ったことはなかったが自分と同じく危険を冒して都まで上洛し将軍や天皇に謁見した今の時代珍しい忠義な人間と輝虎は信長の事を思っていた。
同じ忠義な人間として信長とは良い関係を保ちたいとも考えていたのである。
輝虎はなるべく顔に出さないように努めていたが考え込んでいるうちにやはり顔に出てしまったのである。
輝虎が悩んでいるのを見抜いた高坂は輝虎のすぐ傍まで来て手をとろうとした。
「・・や・・やめてくれ・・弾正・・」
輝虎は思わず女々しい声を出してしまった。
「・・そ・・そういうのは・・良くないと思う・・良くないと・・」
輝虎は弱々しく言った。
輝虎は昔から俗な言い方だが美男子好きであった。でも誰とでもそのように扱うあまり本当に自分が心を許したいと思う人間にも素直に言えない所があった。35歳になってもそれは変わらなかった。自分でも大人気ないと思っていたが逆に趣向の問題でもあったので一生治らないとも諦めてもいた。今回もそれが出てしまっただけの話である。
「・・輝虎様・・無礼かもしれませんが・・本気であるからこのような振る舞い・・お許しくだされ・・」
弾正は真剣に言っていた。その気持ちは輝虎にも良くわかった。
「・・信玄公のご好意はありがたく頂戴したい・・でも私は馬鹿だか受け入れられない・・」
輝虎は正直に言った。
高坂は黙っていた。
「・・死んで行った者たちに示しがつかない・・私の采配間違いで・・霧の中で偶然に衝突して兵士を死なせてしまった・・今更出来ない・・」
輝虎は暗い表情で言った。
しかし高坂は武人らしい厳しい回答を返したのである。
「・・それは信玄公だって同じことですぞ・・人間である以上誰もが間違いは犯すもの・・真の領主は味方の屍を踏み越えてその上に立つもの・・国のためです・・残念ながら兵士である以上戦場で一生を終えるのは仕方がないこと・・あなた様が悩まれることではございませんぞ・・今回の件は単に不幸な偶然ですぞ・・」
厳しい一言であった。
輝虎も頭では分かっていたが受け入れられなかった。
「この戦のこと・・記憶から消したいぐらいだ・・」
輝虎は言った。
「信玄公も同じでございます・・弟 繁信公 勘助公 諸角公を死なせ・・甲斐にとっても恥ずべく戦と・・」
輝虎はしばらく黙っていた。信玄もやはり相当に傷ついていたのであろうと。
高坂も思い出したのかしばらく黙ってしまった。
「この戦を上杉の公の記録に残さないのは構わない・・」
しばらくして沈黙を破るように輝虎は答えた。
「我々も武田の記録に残さないのは構わないでしょう・・」
高坂も同意した。
「・・我らと手を組まれる件は・・どうでしょうか・・」
しばらくして高坂がまた聞いてきた。
輝虎はしばらく黙っていたが答えた。
「弾正・・許してくれ・・やはり出来ない・・私は信玄公ほど立派な領主ではない・・」
高坂は黙って聞いていたが静かに口を開いた。
「以前よりお聞きになられているかと思いますが信玄公は味方には優しい方です・・が向かってくる相手には容赦いたしませぬ・・輝虎様がもし信玄公にまだ向かってらっしゃるのであれば信玄公は本当に今度は容赦いたしませんでしょう・・お願いですから私を苦しませるようなことはおやめになられて今後は気軽にいつでもお話できるような両国の関係に持っていってもらえませんでしょうか・・」
輝虎は何も言えなかった。
「良い返事を待っております・・輝虎様からの良い返事が頂戴できるまで我々は軍を布陣させます・・今日返事をされなくても結構です・・待っております・・」
高坂は真剣な眼差しで言った。
そして輝虎の手をそっと握った。
輝虎は黙っているしかなかった。
しかし輝虎は最後に小さな声で言った。
「・・少し時間が欲しい・・考えたい・・もし考えが変わらなかったら・・私は越後に帰る・・」
高坂は黙ってうなずいた。
両軍はその後60日近く何事もなく布陣していた。
今回は本当に戦らしい戦はなかったが両軍とも今回は何故か長期布陣にも関わらず不平がでなかった。
両軍の中でも何らかの話し合いがもたれていると噂になっていた。
60日間近く布陣している間、輝虎は散々悩んだ。
今回は直江景綱や本庄実乃、金津新兵衛など重臣にもわざと相談しなかった。
今回は自分で決めてみようと理由はよくわからなかったがそう思ったからである。
10月1日 輝虎は決心した。
一人馬に乗って越後軍の陣を出ると信玄の陣が見えるところまで行った。
そしてじっと風林火山の旗がなびく信玄のいる本陣を眺めていた。
北条との戦いに備え信玄との和睦はしたかったがやはり譲れなかった。
死んで行った兵士に申し訳が立たないと思ったからである。
またこの頃になると輝虎には信玄に対する別の感情が湧いていた。
好色で残虐で厚顔な信玄ではなく、部下思いで国のためなら鬼になり、なりふり構わず戦わずに謀略を張り巡らせてまで上手に国を取る自分より優れた信玄にである。
信玄を超えたい、負けたくないという気持ちがどこかから出てきていた。
信玄と今後も自分が信玄を超えるかひれ伏せるかまで戦いたいと思い出していた。
だから悩んだ末の判断であったが和睦は受け入れないことにしたのである。
輝虎が色々考えながらじっと信玄の本陣を眺めていると信玄の陣地から誰かが出てきた。
赤い総髪獅子噛前歯の兜の武者ともう一人・・ 信玄と高坂だった。
遠くだったので表情は伺い知れなかったが間違いなかった。
お互いにしばらく向き合っていた。
(どんな表情をしているのだろう・・)
妙な感慨と思い出にふけりながら実に一時間向き合っていたように輝虎は感じた。
輝虎は信玄と高坂を目に焼き付けたあと自分の判断が正しかったかどうかまた少し悩んだが、再度意を決すると、ようやく騎馬を反転させ信玄と高坂に背中を見せながら越後軍の本陣に戻っていった。
そして本陣に戻ると輝虎は命令した。
「越後へ・・帰ろう・・」
こうして越後軍は越後に引き上げていった。
信玄たちも越後軍を見送ると何事も無かったように甲斐に引き返していった。
第5次川中島の戦い、塩崎の戦いはこうして終わった。
この戦いの終了と同時に12年にも及んだ川中島の戦いはようやく終止符を打ち、両者がこの地で直接対決することはこの後2度となかった。
しかし輝虎と信玄との戦いは形を変えながらもこの後も続き、上杉家と武田家の関係は色々あったこの後、2代目景勝の代まで続くのである。
ただ輝虎のこの時の判断は信玄の脅威と越後国内の不満と言う形で両方皮肉にも温存されることになりこの後起こる色々なことに繋がっていくのである。
この年、越後に戻った輝虎の元に都からの知らせが届いていた。
あの三好長慶が病死したとの情報であった。まだ42歳の若さであった。
長慶の可愛がっていた弟たちの安宅冬康や十河一存が相次いで亡くなり、また特に前年に息子の義興が22歳の若さで急死してからは、長慶自身が心身に異常をきたし、あの松永久秀に実権を奪われて傀儡になっているとの噂は輝虎も聞いていた。
輝虎は都での長慶親子の事を思い出しながらあの松永久秀老人の事も思い出していた。
長慶が輝虎に久秀を紹介してくれた時の
「この老人は油断ならない・・」
との言葉を思い出していたのである。
自分でそれに気づいていながらも巻込まれて去っていった長慶に戦国の世の恐ろしさを今更ながら輝虎も感じていた。
しかし戦国初期の天下人と言われた実力者の長慶の死は新たな時代と戦乱の幕開けに過ぎず、この後畿内や都はあの織田信長を中心とした次の権力者たちの火種に巻き込まれ、この後輝虎も少なからず巻きこまれて行くのである。