癪の虫
永禄5年(1562年)9月、越中では7月に続き再度神保長織が椎名康胤に猛攻撃をかけ、康胤は重臣を多数失い居城の松倉城まで追い込まれていた。
輝虎は9月に椎名康胤救援のため再度越中に出兵するとあっという間に神保軍を追い払い降伏させた。輝虎も今回は長織を厳罰に処すことも考えたがやはり前回同様、能登畠山家が再度介入し、また長織が武田信玄に援軍を求める動きを見せたため、輝虎も深追いすることはやめたのである。
しかしその代わり富山城を含む神通川以東の支配権を放棄させ、居城の射水の増山城のみに治領に留めさせたのである。
ただ輝虎の長織に対する甘い処遇は越後国内からも不満の声があがったが輝虎にも言い分はあった。
神保家にとって実は長尾家、ひいては輝虎の父、為景は怨恨の対象であった。当然その子供である自分もそうである。
長織の父、慶宗は永正17年(1520年)、為景と戦い敗れて自刃したと言われている。実はこれには伏線があって慶宗は為景の父、能景と当初は一緒に猛威を振るっていた一向一揆への共同戦線をはっていたがどこかで足並みが狂って能景は一向一揆との戦闘中に討ち死にし、これを為景は慶宗が裏切って見殺にしたためと憤慨し両家は因縁の仲になっていったのである。ただ実力では引けを取らない慶宗は更に能登畠山家から独立し、越中を完全に支配しようとしたが畠山家からの要請で出兵した為景の攻撃を受け敗北、逃走中に自刃したと言われている。
神保一族からすれば長尾家やそれに従う椎名一族は神保家の夢である越中の覇者になる夢の常に邪魔をする目の上のたんこぶであった。
輝虎も長織の反乱は腹立たしかったがそのような理由から厳罰を持つことはなかったのである。
怨恨が怨恨を生むことで泥沼になることを恐れ、またやはり信玄の影を強く感じていたからである。
この頃輝虎は安房の里見義堯、義弘親子としきりに連絡を取っていた。
氏康に対する包囲網を戦だけでなく謀略なども絡めて形成しようとあれこれか考えていたのである。
何はともあれ越中をようやく鎮めて一息ついた後、氏康対策をじっくり練りたいところであったがこの年の暮れに今度は関東から北条氏康が先手を打つように太田資正の武蔵松山城を攻撃しているとの情報が飛び込んできた。
実は氏康は昨年も松山城を襲撃していたが松山城と岩槻城を守る太田資正に巧みに追い返されていた。
北条軍が松山城に攻め入っても必ず援軍が現れ邪魔をするのである。
北条軍は資正側の忍びの者は必ず漏らさず討ち取っていたつもりであったがそれでも常に北条軍の動きは筒抜けになっていたのである。
実は資正は愛犬家であったが犬を飼い慣らし、伝令犬として使用していたのである。
この伝令犬は日本初の軍用犬と言われており、北条側の忍者の風魔の網すら掻い潜っていたのである。
このため氏康もようやく意を決し、信玄にも依頼をかけて大軍で一気に攻め落とす戦法に切り替えたのである。
氏康が12月を狙ったのは越後が雪に覆われ輝虎本人や越後軍が動けない頃を見計らっての作戦であった。輝虎や越後兵がいなければ楽に落とせると思ったのである。
信玄2万5千、氏康3万、合計5万5千の大軍が松山城に向かったのである。
資正はすぐに状況を確認すると輝虎に援軍要請し、自らも松山城救援に出発した。里見氏からも8千の部隊が救援に向かうとの連絡が来たのである。
松山城を守るのは上杉憲勝であった。あまり有名な武将ではないうえ、城の守備兵も少数であったので氏康も5万5千の大軍で一気に落とそうかと画策したが堅牢な城の守りとおそらく資正が効率良く配備した鉄砲隊のおかげで予想以上に北条側は手こずることになる。
資正の部隊や氏康が苦手な里見の軍勢も松山城近くに布陣して遠巻きに眺めながらもひっそりと息を殺して隙を伺っているように氏康には見えた。
「・・やりおる・・」
氏康は苦々しい顔をした。
「力押ししますか・・?」
氏政が氏康に聞いてきた。
「いや・・良い・・」
氏康は静かに答えた。
北条側は前回の生野山での戦いで越後軍に勝ったものの予想以上に戦力を消耗した。そのため少ない犠牲で落としたいというのが氏康の本音であった。
「越後兵が来る前・・雪が溶けるまでに落とせばよい・・じっくり考えよう・・」
その頃信玄の陣地には氏康からの使者が来ていた。
甲斐の金山の工夫を貸して欲しいとの氏康からの依頼であった。
坑道を掘って直接松山城の中に入る奇想天外な作戦であった。
信玄は使者の要望を聞くと笑顔で快く了解した。
しかし氏康の使者が帰ると不満を露呈した。
「まったく・・人使いが荒い・・」
信玄は昨年も氏康の要求で生野山の合戦時に出兵して、倉賀野城を攻めたが肝心の氏康が生野山で越後軍と遭遇して乱戦になってしまい、倉賀野城攻めに来なかったためそのまま撤退、そして年が明けて今回またの救援である。
「2万5千も兵士を連れてきているのに更には金山の工夫も連れて来いとは・・」
信玄は冗談交じりであったが不満は本音であった。
「西上野は武田がもらっても良いそうです・・」
真田幸隆が静かに答えた。
信玄は目をつぶった後
「長野業正は去年の暮れ死んだそうだな・・」
静かにつぶやいた。
真田幸隆は黙ってうなずいた。
「なら・・頂戴するか・・」
信玄は厳しい口調で言った。
「息子の業盛がいますが・・」
内藤昌豊が言った。
「因縁の越後の虎姫様も黙って見逃してくれませんでしょうな・・」
飯富虎昌も渋い顔で言った。
信玄は弟信繁と山本勘助、諸角定虎を討ち取られた昨年の川中島の件を思い出したのか不愉快そうな顔で軽く舌打ちした後つぶやいた。
「チッ・・阿虎の奴・・全くよくやるわ・・」
信玄の独り言を遮るように義信が入ってきた。
「工夫の件はどうします?」
「連れて来よう・・氏康様もご満悦だろうよ・・」
信玄は許可を出した。
「それにしても・・」
信玄はつぶやいた。
「相手が阿虎じゃなければこんな城ひとひねりなんじゃが・・本当に面倒な相手じゃ・・」
信玄のぼやきは続いた。
「工夫で城が落ちるなら安いもんですな・・」
山縣昌景が言ったが信玄の言葉は意外であった。
「氏康がああも慎重とはな・・何か嫌な物を感じてるんだろうよ・・そううまくいくかな?」
氏康は信玄から借りた甲斐から金鉱の工夫が到着すると、早速吉見百穴に紛らわせるように横穴を掘らせて城内への侵入を試みるが松山城の井戸の水源が邪魔でそれ以上掘り進めなくなり、結局坑道作戦は失敗した。
氏康と信玄がこうして松山城攻略に手をこまねいている間に驚くべく情報がもたらされてきた。
「何ぃっ!」
報告を聞いて氏康も思わず驚きの大声を上げてしまった。
いつもは冷静な氏康も今回ばかりは驚きで危うく腰を抜かしそうになった。
信玄も食事の真っ最中であったが報告を聞いて驚きのあまり危うく握り飯を噴き出しそうになった。
なんと越後軍は雪に埋もれた三国峠を越えて厩橋城に入りそのまま南下していると言う情報がもたらされたのである。
真冬の三国峠は数メートルの深雪に覆われてとても軍隊が通れる場所ではない。
しかし輝虎は除雪して道を作りながら峠を越えてきたのだという。
報告を聞いて北条、武田の家臣団は驚きのあまり口をあんぐりと開けていた。
「まともでは無いわ・・」
飯富虎昌の言葉がすべてを代弁していた。
輝虎は松山城からの救援の依頼を受けると三国峠の越後寄りの坂戸城の長尾政景の上田衆を総動員して除雪し道を確保し三国峠を越えてきたのである。厩橋城まで出れば雪はないので川さえ注意すれば松山城まで直ぐである。
この情報を聞いて北条や武田の兵士達が動揺を始めたのである。
数に上では圧倒的優位ではあるが真冬の峠を除雪しながら越えてくるなど越後軍はとてもまともな相手には北条や武田の兵士達も見えなかったのである。
しかも北条軍は生野山で、武田軍も川中島で越後兵と戦い彼らの事を良く知っていた。越後兵の今回の気狂い染みた行為で余計に彼らの恐ろしさが増したのである。
ここでようやく氏康は決意した。
武力による開城ではなく交渉による開城に切り替えたのである。
氏康は上杉憲勝に無血開城と引き換えに氏康の家臣としての取立てを約束したのである。また輝虎が来ている情報が入らないよう情報を隔絶して救援の望みが無いこともしきりに強調した。松山城は甲斐の工夫達が坑道を掘ったおかげで侵入には失敗したが城の水源が絶たれて戦意を喪失していた。また輝虎が救援に三国峠を越えているなど夢にも思っていない憲勝は結局、松山城を開城したのである。
越後軍は松山城のすぐ傍、北本まで既に進軍していた。しかし松山城開城の知らせを聞き、そのまま太田資正の岩槻城に一旦撤退したのである。
里見勢も一旦安房に撤退したため、松山城は氏康の知略で再び北条側の手に取り戻されたのである。
岩槻城に入った輝虎と資正は早速今後の話し合いをした。しかし輝虎の資正に対する開口一番は資正も予想はしていたが手厳しい物であった。
「資正殿!」
輝虎は厳しい大きな声で資正に畳み掛けた。
資正も輝虎と既に何年かの付き合いはあるが今日の輝虎の厳しい表情は初めて見た。
肩と握り締めた手を少し震わせ怒りが頂点に達しているようであった。
資正もすぐに事情を悟り頭を地べたにこすりつけないばかりに平伏するしかなかった。
「憲勝殿は資正殿の紹介で城主になられたのに・・まともに戦わず開城するなど・・あまりに不甲斐無いではありませぬか・・!」
輝虎は厳しい口調で畳み掛けた。
「も・・申し訳ありません・・同じ上杉の血を引く憲勝殿が松山城の城主にふさわしいと思い、推挙したのですが・・この結果・・申し訳ありません・・」
資正はひたすら侘びを入れるしかなかった。憲勝を推したのは確かに自分であり結果から言うと自分の不手際でもある。
最悪の場合は切腹も覚悟はしていたが資正も北条を倒すまで死ぬ気はなかった。
このような状況ではあったが輝虎に対する切り返しをあれこれ考えていた。
資正にも少し輝虎に対する甘さはあった。輝虎は女性で謀反の罰則に甘い所との評判がありそれを期待していたのである。
しかし次の瞬間資正は心底驚くことになる。
資正の隣に幼い稚児が連れてこられたのである。一瞬誰か判らなかったがすぐに憲勝の幼子とわかった。この幼子は人質として厩橋城で預けられていたのである。
「氏康は上杉憲政様が越後に落ち延びた時に、捕らえた憲政様の幼子を斬り捨てたそうだ・・なら私もそれを命じなければならまい・・!」
輝虎は厳しい口調で言った。
資正は輝虎の顔を見れなかった。怖いからではなく必死に頭の中で案を巡らせていたのである。
誰かが抜刀するいやな音が聞こえた。
資正は輝虎の本気度を見抜くとすぐに畳み掛けた。
「お待ちくだされ!」
資正は顔上げて慌てて前に出ると
「松山城を憎き氏康に奪われてこの資正、姫様のお気持ちは充分察しております!しかし憲勝殿が氏康に降りたとは言え、同じ上杉の血を引く者同士、その幼子を斬り捨てるなどお家の名前に傷が付きますぞ!ご再考を!」
資正は一気に考えていた案を吐き出すようにまくしたてた。
憲勝の幼子はただぶるぶると震えるばかりである。
「この資正にもう一度機会をくださいませ!必ずやご期待に応えて見せます!」
資正は祖父太田道灌に劣らぬ知恵者と有名であった。
氏康も資正を買っており以前資正を捕らえた時は殺さず部下として迎え入れた程である。輝虎もしかりである。資正を関東局面の重要人物と認識して高く買っていた。
資正の知恵者らしい答弁に輝虎もようやく少し気が落ち着いた。
「では・・どうする・・?」
輝虎は資正に聞いてみた。
「松山城の近くに我々を裏切り北条に寝返った者の城があります。そこを叩いて越後の恐ろしさを奴らに叩き込んでやりましょう。」
輝虎は黙ってうなずくと
「出兵準備を!直ぐ!」
再度号令を出した。
一方松山城に入った氏康だが輝虎達が岩槻城に入るのを確認すると信玄はさっさと甲斐に帰国、氏康も守備隊を1万ほど上田朝直に任せて越後軍との衝突を避けるようにさっさと小田原に撤退していった。
松山城の守備を命じられた朝直は以前の松山城の城主である。前回は輝虎の攻略に引っかかり松山城をあっさり奪取される大失態を演じ氏康の怒りを買い、本領の秩父に飛ばされていたが今回、前回の汚名の返上する絶好の機会が廻ってきたのである。前回のお返しと言わんばかりに玉砕してでも松山城を死守する気持ちで氏康から松山城を譲り受けた朝定であったが本心は氏康にすべて読まれているようでこれまた前回同様心のどこかではずれくじを引いたようにも密かに思っていた。
氏康からの命令でもあるが朝定は味方に何があっても絶対に城を出ずに籠城に徹するよう厳命した。前回の轍を踏まないためである。
やがて風魔の報告から越後軍が岩槻城を出てこちらに進撃を始めたとの情報がもたらされた。
城を守る朝定達は緊張した赴きで越後軍を待ち受けていた。
井戸の水源の修理が済んでいなかったのが不安であったがそうこうしている間に、越後軍が目視できるところまで来た。
しかししばらくして越後軍の方から幼子が何かを持って松山城の大手門の前にやってきたのである。
幼子が持ってきたのは輝虎からの手紙であった。
朝定は手紙を受け取ると目を通した。
手紙の内容は
「・・松山城の救援に来ましたが既に開城してしまい氏康殿 信玄殿とは一戦も交えることが出来ずに申し訳なく思っています。せっかくなので(裏切った)成田長泰殿の弟君が守られる騎西城を挨拶がてらに攻撃します。もしこれにご不満があるのであれば騎西城で一戦交えましょう。」
と書かれていた。ちなみに手紙を持ってきたこの幼子はあの憲勝の幼子であった。
しかし朝定は氏康の命令を厳守した。
騎西城の救援には行かずひたすら松山城に篭るのである。
そのため憲勝の幼子も松山城内に入ることは許されずそのまま城外に放り出されたままになってしまうのである。
やがて越後軍は松山城の守備隊が動かないのを確認するとそのまま松山城の前を通り過ぎて騎西城の方に向かっていった。そして松山城の前には二度と現れることはなかった。
3日後朝定の元に再度風魔からの報告が届けられた。
騎西城は越後軍の猛攻撃を受けて婦女子を含む多大な犠牲者を出し、太田資正の仲介で騎西城城主で成田長泰の弟の小田家時は降伏。騎西城落城の知らせを受けた忍城の成田長泰も降伏したという。長泰は責任をとって隠居し息子の氏長が新たに忍城城主になり氏長がそのまま成田家の家督を継いだと言う。
この騎西城の件が利いたのか成田氏長は父と違いその後の越相同盟で北条側に編入されるまでは上杉側として大人しく仕えるのである。
今回いろいろあった太田資正も後に輝虎のことをこのように語っている。
「輝虎は十のうち八つは大賢人で、猛勇、無欲、清潔、大器量、廉直で隠さず、明敏、下には慈悲、忠諫をよく聞き入れ、乱世に得難い名将である。しかし残り二つは大悪人で、怒りにまかせて事をなすのは非道である・・」
後に輝虎に仕えるあの直江兼続も同じようなことを言っておりまた輝虎自身も奉納した願文に
「・・短気を治してくれたら健気に生きます・・」
と書き残しており本人も気にしていたようである。
なお、騎西は今では静かな町であるがこの時の惨状が余程であったのであろう、越後の者と結婚してはならないと言う言い伝えが今でも残っているという。