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越後の虎  作者: 立道智之
50/77

心変わり

・・・訂正のお知らせ・・・若干時代背景にずれがありましたので第50話は少し内容を変更いたしました。

北条氏康自ら率いる北条軍は重い足取りで拠点の小田原城へ向かっていた。先ほどの生野山の戦いでうるさい越後軍から勝利を得たのは北条軍にとって大きな収穫だった。しかし本来の目的の武蔵松山城の奪取や北条側の同盟軍で武田信玄率いる甲斐軍との共同作戦の倉賀野城急襲作戦を果たせなかったばかりか自軍よりも少数の越後軍相手に思わぬ苦戦を強いられ北条軍の受けた被害も予想以上であった。


氏康の長男の氏政もまたも少数相手の越後軍相手の苦戦に肩を落としていた。前回の佐野昌綱の唐沢山城攻めの時と違い今回は一応の勝利でその鬱憤は晴らしたが予想以上に兵力を消耗したことで素直に喜べる勝利ではなかった。

氏政は一応勝ったものの、また氏康にお灸を据えられるであろうと思い、勝軍の武将とは思えぬ暗い表情だったのである。彼の重臣の松田憲秀も同じことを考えているようで二人とも馬の背中に揺られながら暗い表情であった。


「どうした・・冴えない顔して・・」

しょげる二人を見兼ねたのか氏康が氏政と松田に声をかけた。

「もっと喜んでも良いであろうが・・唐沢山城の借りも返せたであろうに・・」

氏康がにこやかに続けた。

「は、はぁ・・」

氏政は氏康の対応が予想外で一瞬驚いたようであったがすぐにまた暗い表情に戻り力無く返事した。


「・・確かに唐沢山城の借りは返せましたが・・我が軍が再度手痛い打撃を受けたことで氏政様も・・」

氏政の代返をするように松田が返答した。


「・・うむ・・確かに今回の戦でまたも兵を多く失ったのは誠に残念だ・・しかしあの政虎から一勝あげたのであるから素直に喜ぼうではないか。みんなもっと誇りを持て。ははは・・」

氏康自ら皆を奮い立たせるように言った。もちろん半分慰めも含まれている。

そして越辺川を越えた辺りで

「・・もうすぐ 河越城か・・」

氏康は独り言のように言った。河越城は氏康にとって思い出の城である。

かって氏康は若かりし頃、10倍の8万の大軍を擁する関東管領山内上杉家の上杉憲政、扇谷上杉家の上杉朝定、古河公方の足利晴氏の三者連合軍をわずか8千の自軍で打ち破った事がある。天文15年(1546年)に起こった世で言う河越夜合戦である。

氏康がまだ31歳の若武者の頃である。

この戦での大勝利により氏康の名は世間に広まり、南関東の覇者として北条一族はその後、君臨していくことになるのである。

一方敗れた山内上杉家の上杉憲政は越後に逃亡し、上杉朝定は討死し扇谷上杉家は滅亡。

足利晴氏も氏康によって隠居させられ古河公方の地位は氏康の娘婿、足利義氏が継承して氏康は実力、権威とも関東の他の武将達よりも一歩秀でた存在になっていくのである。


氏康が少数の軍で大軍を破ったように政虎も少数の軍で大軍破ることは何ら不思議ではない。それは政虎の器量の問題だからである。

もちろん少数の軍に破られる方の大軍の大将は面白くはないが。

しかし氏康が一番面白くなかったのは、越後に逃亡したあの山内上杉家の上杉憲政が頼った長尾景虎が上杉姓、及び関東管領を継ぎ、上杉政虎として突然自分が苦労して拡げてきた関東に現れて邪魔をする挙句に、自分を賊扱いして古河公方まで勝手に挿げ替えて好き勝手に始めたことであった。


腹立たしい相手ではあるが、今回初めて直接戦ってみて、今まで戦った他の武将達とは違い一筋縄で行かない相手であるのは明白であった。

武田信玄も一目置いているという噂に偽りはなかったのである。


氏康も今回生野山で越後軍に勝利したとはいえ素直には喜んでいなかった。

更には政虎は姫大将らしいとの噂はこの頃には北条軍にも広まり始めていた。

もちろん氏康ら北条軍首脳はそれが噂ではなく真相であることは知ってはいたが彼らもそれに関しては口を噤んでいたのである。

姫大将相手に苦戦などと言う噂は気分の良い物ではないからである。

しかし政虎のたち(性質)が悪いのは姫大将なのに軍の実力が想像以上な点であり厄介であった。

信玄もそのような悪評を恐れてか実は政虎と真正面からあまり戦わないと北条軍首脳部でも密かに噂されていた。

川中島の戦いも単なる事故との噂も流れていたのである。

それでも今回初めて戦ってみて越後軍が相当面倒な相手であることは氏康も充分に認識した。今回政虎は生野山にはいなかった模様との風魔の報告も入っていたが面倒な相手であることは明白になったのである。

あれこれ色々考えているうちに氏康もいつの間にかはだんだん複雑な気分になっていったのである。


「少し立ち寄って休憩していくか・・」

氏康は考え事を断ち切るかのように軍に河越城に向かうように命令した。

兵士も疲れていたようで少し安堵しているようであった。

「それにしても・・」

氏康はまた独り言のように言った。

「奴との戦いは長くなりそうだな・・」

後ろを振り返ると遠く山頂に雪を擁き始めた三国峠を眺めながらつぶやいた。


そのころ厩橋城の政虎は頭を抱えていた。

この年の暮れ、12月に西上野で長く武田信玄の関東侵入を防いできた箕輪城城主の長野業正が死去したのである。政虎は業正を高く買っていたが彼の死によって上国野は元来の領主の上杉家時代旧来からの実力者がいなくなったことになり、上野国の家臣団をまとめる人間がいなくなり国内が不安定化する恐れがでてきたのである。

川中島、生野山と激戦の連戦で越後軍の兵力を消耗しすぎたのも頭痛の種であった。軍の再建は待ったなしで次再度戦になったらもう支えきれない状況まで追い込まれていたのである。


そこで政虎は上野国は直属国のように扱うことにしたのである。

厩橋城の城代は本来は業正の親族で上杉家元来の重臣の長野賢忠であったが、彼の病弱と高齢を理由に政虎自ら直接指揮を取り、賢忠は政虎の直属の武将として配下に入ってもらったのである。ただこれは表向きの処遇で実質的に隠居してもらい、主な上野の国人衆も関東管領軍名目に政虎の配下の越後軍に編入することにしたのである。

松本景繁や由良成繁、桐生助綱、足利長尾氏の長尾当長などがこの後越後軍に編入されこの後の関東管領軍の関東覇権を目指す越後軍の関東方面の軍を支えていくのである。

なお業正の息子の業盛はまだ若年であったが父の業正と同じく猛将と名高かったため引き続き箕輪城の城代に据えた。

この上野国の国人の実質的な編入で上野国の安定化、越後兵の不足兵力の補充が出来て政虎、越後軍はようやく一応は一息つくことができたのである。

なお政虎は良くも悪くも領土欲がない人間であった。今回上野国が直属国のようになったのは兵力補充のための単なる成り行きからである。そのためこの後の関東での戦いは政虎が言うには予想外、信玄が言うには予想通りの展開になっていくのである。


また政虎は将軍義輝にも手紙を送った。自分の将軍への忠誠心と関東管領としての川中島や関東での戦いの正当性を容認してもらうためである。大儀名分と権威を大事にする政虎らしい動きではあったが色々あって不満の芽が出かねない上野国や越後国内の引き締めもかねていた。

義輝からの返事はすぐに戻り、この年の12月から義輝から一文字偏諱へんきして政虎はこれ以降、輝虎と名乗るようになるのである。しかし偏諱しても結論からいうと状況に残念ながら転機は訪れなかったのである。



一方、小田原に戻った氏康も着々と反撃の機会を練っていた。ただ氏康も越後から突然やってきた輝虎が面倒な相手なのは認めざるを得なかったが何時までも自分を足利将軍家、関東管領に歯向かう賊軍扱いするのに関しては氏康も黙っているわけにはいかなかった。

そこで氏康が目を付けたのは古河城に篭る近衛前久と足利藤氏であった。

関白である前久を脅して朝廷を動かして輝虎の関東管領の職を解くか足利藤氏を追い出して正式な古河公方を自分の娘婿の足利義氏に添えて関東管領の威光を無力化しようとしたのである。

ただこれも難しい点があった。前久を間違って討ってしまえば本当に賊軍扱いされてしまう。

そこで氏康は軍を古河城に向かわせる素振りだけを見せ古河城に無言の圧力を掛けたのである。


しかし輝虎の方が一足先に動いた。

永禄5年(1562年)2月に古河城にいた前久達を一足先にひそかに厩橋城まで戻してそのまま春日山城まで後退させたのである。


氏康もこの政虎の素早い動きには感心しきりであったが輝虎に対する手立ては緩めなかった。

逆に前久達が立ち去ったことにより更に積極的に軍を動かし古河城に圧力を掛け続けたのである。前久に危害を加えれば問題になるが、藤氏は自分に終始歯向かう関宿城の輝虎側の簗田晴助の甥であるので討ち取って義氏に挿げ替えるのは氏康には好都合なのである。

最も氏康も輝虎及び越後軍の実力は認めていた。悪戯に戦い無用に兵力を消耗することは避けた。

ただ前久達が去ったことにより古河城の北条側首脳内での優先順位が下がったのも事実であった。氏康の関心事は次第に再度武蔵国の完全支配と北条側の河越城と小田原城の間で氏康に刃向かう太田資正の武蔵松山城や岩槻城、忍城の成田氏泰、唐沢山城の佐野昌綱に関心が移って行くのである。


一方氏康の動きを先読みするかのように春日山城に戻った前久達であったが実は裏があり、表向きは前久のお供の公家衆達が都に帰りたいと懇願したため古河城から後退したことになっていた。

しかし輝虎の関東の北条軍、甲斐の武田軍との両面作戦が立ち行かなくなったのを見て失望した前久が都に戻ることを決め古河城から勝手に撤退したのが真相であった。

前久は自分が思い描いていた朝廷や足利将軍家の権威による関東制覇の夢が単なる夢であることを認識させられたのである。

前久が密かに言うには本当の戦の実情がようやく解り、自分の行為が若気の至りであったと思うようになったのである。

輝虎も前久の失望と不満は充分認識していたが 戦は一戦二戦で決着が付くものでなく時間がかかるもの、ご理解を と前久を必死に説得して何とか春日山城に留まってもらっていたのである。

年が明け、暖かくなったら再度前久達に厩橋城か古河城に同伴してもらえるよう懇願し、前久も輝虎があまり見たことない、少し複雑な表情で一応は同意してくれたのである。

一方輝虎はこの年は関東に備えるためと上野国の状況を見守るため春日山城に戻らず厩橋城で年を明かした。


本庄繁長や長尾藤景らは彼らが都に帰りたいと言い出したことに関しては予想通りの結末と気に留めていなかったが輝虎はまだ前久達の政治的権威の有効性は充分に認識していた。前久達が古河城にいたことによって事実氏康ら北条側にも躊躇が見られたからである。

輝虎は信玄や氏康に対する新たな策をあれこれと練っていた。朝廷や将軍家に対する機嫌取りも考えていた。


永禄5年(1562年)の春になり、ようやく三国峠の雪が溶けて峠越えが出来るようになったが前久達は結局春日山城を出ずに三国峠を越えてこなかった。前久は輝虎にはもう少し暖かかくなったら関東に出発しますと輝虎に連絡はしてきたので輝虎も待つことにしたのである。


しかし前久達が関東に戻らなかった代償は早速形になって現れたのである。

厩橋城の輝虎の元には思わぬ報告が届けられたのである。


唐沢山城の佐野昌綱、忍城の成田氏泰、上野国の小豪族で実は政虎も良く知らない相手ではあったが館林城の赤井氏が輝虎に対して反旗を翻したのである。


輝虎は長泰に関しては以前小田原城包囲戦や鎌倉での関東管領就任式で影武者役の輝虎を演じた千坂景親と長泰が一悶着起こしていたので何と無く解らなくもなかったが分らないのは佐野昌綱の心変わりであった。

佐野昌綱の唐沢山城は自分が命懸けで助けたと認識していた。

輝虎もその時は伊勢姫役ではあったが唐沢山城の援軍の時の昌綱との一悶着を思い出し、昌綱も自分に好意を抱いているであろうともと思っていた。

それがこの存分である。

報告を聞きながら家臣団の中条藤資や宇佐美定満らは長泰はともかく昌綱を恩知らずな奴と息巻いていたが輝虎本人は別の見方をしていた。

北条軍では自分の噂が広まりつつあることは聞いていた。

そのため、昌綱がそろそろ自分の本性のことに気が付いてもおかしくはない頃であった。

自分に対する好意が真相を知り、反発心になったのだろうかとあれこれ考えていたのである。


何はともあれ輝虎は越後軍をさっそく動かし、館林城を占領し、城主赤井照景を追い出すと照景のおいの長尾当長を領主にして館林城を取り戻すことに成功したのである。

越後軍はすぐに南下して唐沢山城に到着後、布陣を開始するが本格的な戦闘には至らず夏前には越後軍は慌しく再度越後に戻って行ってしまったのである。


実は関東に出たばかりではあったが北陸地方で越後の隣国、越中から騒ぎの知らせが飛び込んできたのである。

この頃越中では輝虎側の椎名康胤と地元の豪族出身の神保長織が以前より争い、永禄2年(1559年)にも輝虎は一度康胤の要請を受けて出兵し長織を追い返しているが7月に入り再度長織が軍を動かし康胤を攻撃しているとの情報が入り康胤救援のために急遽越後に戻り、長織を追い払うことになったのである。

康胤側は長織軍の猛攻撃を受けて居城の松倉城まで攻め込まれ落城寸前であったが越後軍が到着すると形成は逆転し長織軍を追い払うことに成功したのである。


しかし能登の守護の畠山家が介入し講和を進めたため、長織に止めを刺すことができず長織も領土や居城は安堵されたため不安の残る幕切れになったのである。

しかし輝虎も守護である畠山家や長織に対してもこれ以上圧力をかけるのが難しいのも事実であった。

なぜなら彼らの後ろには武田信玄の影がちらついていたからである。

春日山城の安全上康胤を見殺しに出来ないので救援依頼があれば輝虎は直ぐにでもいつでも駆けつける体制は取っていたが関東に注力したい輝虎は本音ではこれ以上越中で力を割きたくないという現実があったのである。

こうして政輝が関東と越中でどたばたしている間にも世間の情勢は更に流動的になっていた。


8月に入ると更に衝撃的な情報が入って来たのである。

輝虎たちが越中に留まっている間に前久達は結局春日山城の留守城代の直江景綱の静止を振り切って春日山城を出て都に帰ってしまったのである。


この情報を聞いた輝虎はいつもの癇癪を起こした時と同じく、肩を震わせながら激怒した。

前久が自分と血印を交わしてまで関東に下向してきたのにそれを簡単に反故して都に帰ってしまったことに腹の虫が収まらなかったのである。

しかししばらくして輝虎の怒りはすぐに収まった。

公家や都に対して輝虎が持つ憧れとそれに対して相反する不甲斐なさの感情と、前久に対する自分の思い込んでいた感情や期待など複雑なものが色々と絡み合い頭と感情がごちゃごちゃになり自然と落ち着いてしまったのである。

そして最後に何か大事なものを諦めたように寂しく言った。

「都の公家と田舎武士の子との付き合いには・・所詮無理があったということだな・・」

金津新兵衛も随分と珍しくこの日は肩をがっくりと落としていた。

本庄実乃や宇佐美定満は黙ってこの様子を見ているしかなかった。


前久からの手紙には

「諸般あってここ(春日山)に留まっているのが難しくなりました・・」

と書かれていたと言う。

前久の日記にも

「・・輝虎が怒っているようですが迷惑です・・」

と 輝虎に対する前久の複雑な感情も含まれた一文が残されていると言う。

なぜ前久が突然都に帰ったのかの真相は不明だが前久と輝虎はこの後二度と寄りを戻すことは無かった。

前久はこの後あの織田信長を頼っていくのである。

尚、前久の人生も世の流れ揉まれる様にこの後も色々あり、彼は後に放浪関白と呼ばれるようになる。


前久の心変わりに落ち込んでいた輝虎であったが実はこれは単なる序盤に過ぎなかった。

前久が都に戻ってしばらくして気を取り直し、春日山城へ戻り、氏康への次の一手を考えていた輝虎にまた思わぬ情報が届けられたのである。

1ヶ月も経っていなかったが越中の神保長織がまた反旗を翻したのである。


輝虎は深い溜息をつくと

「わからない・・」

下に目をやりながらつぶやいた。

「関白様も昌綱も長秦も長織も・・なんでそう簡単に心変わりするのか・・」

がっくりと肩を落としながら輝虎は続けた。

もう一度深い溜息をつくとまだ昼だったが輝虎は酒を持ってこさせると少し飲んで気を紛らわそうとした。そして

「男と女の違いだろうか・・」

輝虎は独り言を続けた。

家臣団は聞いていない振りをした。


しばらくして

「神保の奴・・ 今度こそ成敗してくれましょう」

宇佐美が厳しい口調で言った。

輝虎も無言でうなずいた。が、やはり越中の裏で糸を引いていると言われる信玄の顔が急に思い浮かび、少し慎重にやらねばいけないことは心の片隅にしまっておいた。

「昌綱の奴も・・少し懲らしめてやらねばなりませぬな・・」

本庄実乃が言った。

しかし輝虎のそれに対する答えは意外だった。

「いや・・昌綱にはなんで気が変わったのか本音を聞きたい・・」


輝虎は今回の事件を感傷的に捉えていたがこれは昌綱のような関東の小勢力の武将にとっては生きるか死ぬかの死活問題であった。

輝虎にとってこの意味を理解するのに少し時間がかかることになる。

実は今回の件をきっかけに更に長く厳しい戦いが今始まろうとしていたのである。


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