無情
政虎は春日山城に帰っても休む暇が無かった。
様々な問題が山積みであったがひとつひとつ解決するしか方法はなかった。
ただ取り急ぎ政虎は真っ先に今回の川中島で戦いの勝利宣言をした。
越後国内の引き締めと不満の眼を逸らすためである。
しかし信玄も同じ事をしていた。
京都の清水寺までわざわざ勝利宣言の手紙を送っていたのである。
そのため織田信長にいたっては双方に同じような内容の戦勝祝いの手紙を送っていた。
政虎の勝利宣言に答えるように古河城の近衛前久から川中島の戦勝祝いの手紙が政虎に届けられた。
政虎に合わせた平仮名書きの文章で、政虎自らの太刀打ちや甲斐軍の将校や兵士を多数討ち取ったことに対する賞賛が書かれていた。
政虎のいつもの体調不調を気遣う内容も書かれていた。
政虎は前久の気遣いを嬉しく思い、笑顔が一瞬出たが次の文面で再度沈んでしまった。
手紙の最後には北条軍の動きが不穏で関東の諸将が不安を感じており政虎に再度関東出兵を暗に促すよう記されていたのである。
政虎は複雑な感情でその手紙を読んでいた。
政虎も前久への返信の手紙に、これより大急ぎで再度関東に行きます・・と書こうとしたが、筆が思わず止まってしまった。
関東に出るなら雪で三国峠が越えられなく冬前に大急ぎで関東に出なければならない。
既に10月に差し掛かり本格的に雪が降り始める11月までに一ヶ月を切っていた。
しかし今回の川中島での戦いでは信玄ももちろんだが政虎も打撃が大きく、特に兵士の消耗は手痛い問題であった。せっかく今まで苦労して築き上げてきた政虎自慢の越後軍がたった1日の戦いで大損害を受けたからである。事実、半数近くの兵士が死傷し軍は半分崩壊状態で戦えるような状況でなかった。
もちろんそれは政虎だけではなく越後の諸将も状況は同じであった。政虎の元には各諸将の配下の兵士の損害状況の報告が続々と上がって来ていた。
彼らの配下の名も無い雑兵の犠牲も膨大だったのである。
無理に徴兵をかければ農村での生産性や将来の越後の人口に大きく響く可能性が高かった。
もし今回の戦いで救いがあるとしたら越後軍では重臣達に奇跡的に犠牲者が出なかった点である。
ただそれでも将来を期待する若手での犠牲はやはりあった。
政虎は今回、特に活躍した配下の武将に対して感状を出した。
そして感状を書いている最中、ある武者達の名前を書いたとき政虎は思わず筆が止まった。
一人は政虎の越後上布を使い、影武者役をしてくれた男である。
彼は荒川長実と言い武勇の誉れ高い武将であった。政虎も以前、越後が静かだった頃一緒に晩酌をしたことがありそれをふと思い出していた。
なお長実は後に越後二十五将にも数えられ、また春日山の林泉寺の謙信の墓標の裏に影武者役らしく彼の墓標もひっそりと静かに今でも立っている。
そしてもう一人は志駄義時である。彼も若干22歳の若手で将来を期待される人物であったが政虎がむしろ心が痛んだのは彼にはまだ2歳の生まれたばかりの幼子が残されたことであった。
しかしこのような事例はおそらく数え切れないほどあることは容易に想像がついた。それが余計に心に圧し掛かったのである。
この義時の幼子は元服後、義秀と名乗り、景勝の重臣として後に活躍するのである。
なお政虎の書いたこれらの感状は後に血染めの礼状と呼ばれ荒川長実や志駄義時意外に重臣の中条藤資、色部勝長らを含めて7通が贈られたと言われ、そのうち4通が今も現存している。
その日の夜、政虎は直江景綱、宇佐美定満、本庄実乃ら重臣と財政奉行の蔵田五郎左衛門と春日山城内で積もり積もった問題をどのように打破するか話し合いをした。
まず一番の難題は消耗した兵力の補充とそれに絡む恩賞であった。
諸将らの雑兵の消耗も手痛い物であったが彼らの一族や郎党、近親者の犠牲も甚大であった。
彼らがこぞって政虎に被害状況の報告をしたのはそれに対する見返りを欲したからである。
政虎もこれに対しての返答は恩賞という形で絶対に払わなければならないのは重々承知していたが昨年以来の戦続きで疲れ切った兵士と同じく、越後の財政もかなり疲弊していた。政虎もこの件は充分に予想していたがこの恩賞の件は五郎左衛門から政虎にとっては予想外の良い返答が帰ってきたのである。
それは日本各地の状況と密接に絡んでいた。
まず畿内は政虎が上洛した頃より不穏な雰囲気はあったが、前年度より三好長慶と反三好勢力の緊張が高まり、両陣営ともに大兵力を集めて睨み合いを続けているとのことであった。
中部でも信玄が興味を持っていた美濃を巡って織田信長と斉藤義龍が激しく争っている真っ最中であった。
中国地方でも、出雲を中心とする8カ国を納める大大名の尼子晴久が死去したことにより、安芸を中心に勢力を広げていた毛利元就と尼子晴久の後継者の尼子義久との戦いが激しさを増すなど、まさに日本中いたるところ戦続きであった。
しかしそのおかげで軍事物資の鉄や衣類、食料などの需要が逼迫し堺や京都の商人は大忙しでそれにつられるように越後の商人や海運業者も堺や京都にそれらを運ぶのに繁盛しでそこから入る冥加金(税金)がかなり期待でき、来年度の越後の財政は予想以上に好転しそうだとのことであった。
そのために今回は諸将らには滞りなく恩賞を支払い、彼らを満足させるとともになだめて、越後国内に何の憂いなく安心して関東に出陣することが出来たのである。
政虎は恩賞を出せることには安堵したが日本中で戦いが起こることで越後が潤うことには複雑な感情を抱いていたが現実を優先させて見ない振りをした。
信玄との和睦の件はもはや絶望的であろうとの見解でみな一致した。
信玄とのつなぎ役であった山本勘助、信玄が最も重視していた弟の信繁を討ってしまったために完全に行き詰ってしまったのである。
勘助も信繁も切れ者のいやな敵ではあったが甲斐での越後との和睦推進の理解者であった彼らを失ったことは後々政虎にも信玄にも大きな傷を残していく。
もちろん政虎も武人としての好敵手を失ったとも思い二人の死を惜しんだ。
ただ信玄、及び甲斐軍にも今回大打撃を与えたため信玄もそう易々と軍を動かせまいとのことでひとまずは関東の北条との対応に集中することにしたのである。
なお越後の老臣たちが関東に目を付けているのはもうひとつ理由があった。表向きは反抗的な氏康への締め付けと関東管領の名目はもちろんだが、一番重要なのは物資の確保と兵士の人的補充であった。
そして越後諸将や兵士達の不満抜きである。
政虎側か氏康側かの線引きのはっきりしない上野国や武蔵国北部は実は豊かな国土で人口も多く、氏康がかねてから目を付けていたのはそのためである。
政虎は単に関東管領の責務意外に興味は持ってなかったが、越後の重臣や諸将の関東へ関心は、先祖からの関東への回帰以上のそこに魅力を感じていたのである。
こうして政虎は大急ぎで恩賞の手続きをさせると終わらぬうちではあったが動員できるだけの戦力を集めて大急ぎで春日山城を出発した。
川中島での傷が癒えた状態ではなかったが政虎は越後軍を率いて11月には三国峠を越えて慌ただしく厩橋城に入ったのである。
一方氏康も軍を率いて上野国方面に北進しているとのことで厩橋城は長野賢忠、箕輪城の長野業正の親族に預けた後、氏康を迎え撃つべく政虎は厩橋城をすぐに出発した。
しかしここで驚くべく情報が届けられたのである。
信玄が氏康の動きに合わせるかのように西上野に侵入してきたとの情報が入ってきたのである。
あれほどの打撃を受けながらもやってくる信玄の図太さに驚きながらも西上野の守りを箕輪城の長野業正 業盛親子に当たらせて、武蔵松山城の太田資正も城に篭って守りを固めさせ、氏康の攻撃に備えるように命令した。
それにしても氏康や信玄の予想以上の素早い軍の動きに政虎は正直驚きと同時に苛立ちも隠せなかった。
越後軍が弱体化している頃合を狙って攻めてくる氏康や信玄の狡猾さと無情さにである。
今回は初めての両面作戦であったが川中島での傷が充分に癒えていない今の戦力の不足は明らかであった。
越後兵の主力は川中島での傷がまだ治っていない兵士や 荷駄隊から転向した老兵や戦に不慣れな新しい新兵、実は数不足のごまかしのために女兵士も少数混じっていた。
宇佐美や直江らを大将に本軍は武蔵松山城の救援に向かわせ、西上野に侵入した信玄率いる甲斐軍には政虎自ら率いる直属の親衛隊を展開させるため一旦厩橋城にて様子を見ることにした。
西上野では箕輪城付近で長野業正と信玄が睨み合いに入ると同時に武蔵松山城では氏康が 太田資正の武蔵松山城を攻撃しているとの情報が入った。
松山城救援には先に救援の越後軍を差し向けており政虎は戦況報告を厩橋城でじっくりと待ち、不利な方の救援に出る段取りを組んでいたが予想外の情報が政虎にもたらされた。
甲斐軍は箕輪城を通り過ぎて長野氏の支城の倉賀野城に向かったとの情報が入ったのである。
政虎は倉賀野城救援のためにすぐに親衛隊と共に厩橋城を出発した。
直属の部隊の数は少数ではあったが川中島の激戦を潜り抜けてきた猛者揃いで政虎も一撃を加える自信はあった。正直半分玉砕しても良いというやけの気分もあったが。
倉賀野城で甲斐軍と越後軍守備隊倉賀野氏との小競り合いが始まった頃、政虎は南下して甲斐軍に奇襲をかけるべく怖さを紛らわす酒を飲みながらあれこれ策を考えていた。
しかし倉賀野城に到着すると小競り合いは既に終わっており甲斐軍は撤退している真っ最中であった。
「追いかけますかい?」
弥太郎が聞いてきた。
「罠かもしれませんな・・」
秋山源蔵も少し慎重だった。
政虎もあまりの引き際の良さに少し拍子抜けしながらも少し安堵していた。
兵力差は圧倒的に信玄有利だったからである。
「甲斐軍も新兵が多くてうまく統制がとれていないのかもしれないな・・」
政虎も思わずつぶやいた。
しかし政虎が一安心している間、南の武蔵松山城の救援部隊からの伝令が大慌てで飛んできた。
越後軍の救援部隊は武蔵松山城に入る直前の生野山の近くで松山城攻略を後回しにして倉賀野城に向かおうと北進してきた北条軍と接触してそのまま交戦してしまったのである。
予定外の交戦で混乱状態も重なり、戦力数や不慣れな新兵が多い越後軍は終始苦戦を強いられ結局、武蔵松山城に入城することが出来ず、越後軍は一旦、厩橋城に後退することになったのである。
しかし実は北条軍も予想外に苦戦となり、倉賀野城への進軍を諦めて結局松山城も落とすには至らず小田原に引き上げていったのである。
信玄が甲斐に後退したのも氏康率いる北条軍が来ず援軍が期待できない上、共同歩調を取れなかったからである。
もっとも信玄も本音ではもう政虎の越後軍には甲斐軍を真正面からぶつけるのはこりごりというのも事実ではあった。
しかし政虎は生野山での北条軍と戦いで更に戦力を消耗し、状況は更に悪化していくことになった。
この生野山の戦いは政虎にとっても人生初めての敗戦と言う苦い思い出になる。