濃霧の遭遇
当作品は第4次川中島の戦いは甲陽軍鑑説ではなく遭遇説を採用しております。ご了承ください。
夜半8時頃であろうか、越後軍と甲斐軍双方とも撤退を決めて宴を楽しんでいる最中、一頭の早馬が海津城目指して月明かりに照らされた夜の川中島を疾走して行った。
早馬は間もなく海津城に入ろうとしていた。
「御免!松尾城からの伝令!至急!」
騎馬に乗った伝令兵は城門の守衛に信玄に通すように大声を出した。
早馬ははるばる美濃との国境近くの伊那の信濃松尾城から走ってきたのである。
門番はすぐに信玄に伝令兵を通した。
海津城では既に宴もたけなわで信玄や甲斐の将校たちもほろ酔い気分になっていたが松尾城からの伝令と聞いてみなすぐに酔いが冷め、事を察したようで緊張が陣地に走った。
信玄は伝令兵の手紙を受け取ると自ら目を通した。
「・・あの噂は本当だったようじゃ・・」
信玄は手紙に目を通しながらつぶいた。
美濃の斉藤義龍の噂である。
実はこの年の永禄4年(1561年)5月に義龍が急死したとの噂が流れていた。
信玄と同じく美濃を狙っていた織田信長がそれを聞き、すぐに美濃に攻め入ったものの、斉藤軍に追い返されていたため噂か真実かどうか確認が取れない状況が続いていたのであった。
しかし信長が再度9月に入り美濃に攻め入ると、斉藤方から織田方に寝返った武将の情報からも義龍の急死が事実であることが分かったと言う。
後継者の斉藤龍興がまだ若干13歳の若者と言うこともあり、この機会を逃すなとばかりに信長は大軍を率いて美濃に攻め入り、近く織田軍と斉藤軍の大規模な戦が行われる模様との報告であった。
「信長ごとき若造に美濃を取られるわけにはいかんな・・」
武田信繁が思わず口走った。
信玄もうなずいた。
「既に戦は始まっているしい・・情勢まではわからんが・・」
信玄は一通り読み終わると信繁に伝令文を渡した。
「第一戦が始まっているのであれば好都合ですな・・」
山県昌景は言った。
「消耗しているところにこちらの軍隊をぶつけてやれば取れますな・・」
山本勘助も続いた。
勘助の言う取れるとは斉藤軍が勝っても織田軍が勝っても消耗している両軍は武田にとって敵ではないと言う意味である。
特に美濃の玄関口に当たる岩村城は信玄が美濃攻略への足場の城として興味を持っていた。
「ぐずぐずしておれませんな・・すぐに出陣を・・」
馬場信春が声をかけると信玄は軽くうなずいた。
そして
「宴はやめ!勝利の美酒は美濃での戦の後に取っておけ!全軍に出兵準備!」
号令を下した。
「はっ!」
甲斐の将兵達は慌てて自軍の部隊に戻り出兵の準備に早速とりかかった。
越後軍の本陣のある斎場山では甲斐軍の慌ただしさなど知らずに撤退を祝う宴会は続いていた。
しかしこの日の政虎は宴の最中に早々と体調不良を理由に奥に引っ込んでしまった。
食事量も少なかったのもそのためである。
政虎は毎月10日頃に襲われる腹痛にこの日も悩まされていた。
奥で政虎が静かに休んでいると
「大丈夫ですかな?」
金津新兵衛や宇佐美定満らが心配そうに様子を伺いに来た。
「・・うん・・大丈夫だ・・いつものことだ・・・」
政虎は気分が悪そうに答えた。
斎場山の本陣は屋外なので板の上に畳のひいた仮の簡単な寝床があったがゆっくり休める物ではなかった。
「善光寺の荷駄隊の近くの旅籠に引き上げますか?」
本庄実乃も心配してやってきて声をかけた。
「・・うん・・」
政虎は力なく答えた。
今回川中島ではいろいろあったこともあり、その疲れもあって今回は政虎もかなり疲労しているようであった。
「夜半に乗じて親衛隊兵を守りにつけて密かに善光寺に戻りましょう・・」
実乃が政虎に提案した。
「・・いや 待てよ・・」
宇佐美が挟んできた。
「ここにいても仕方が無い。全軍一気に引き上げて最後に信玄の鼻を明かしてやろうじゃないか・・明日の朝 気がついたら斎場山はもぬけの殻だった・・って面白いじゃろう」
宇佐美が悪戯っぽく言った。
「・・みんな酒飲んでいるのに・・移動が大変じゃろうって・・」
何時の間にか来た中条藤資が半分酔いながら不満そうに言った。
「北国街道は広いので移動は問題ないでしょうが・・ただ夜半は暗いの大軍の進軍は難しいでしょうが・・明日の早朝などどうでしょう・・」
一緒に入って来た村上義清が提案してきた。
「どうされます?」
実乃が政虎に聞いてきた。
「今回は・・みなに甘えさえてもらおう・・」
政虎は今日の気分の悪さが余程なのか素直に答えた。
こうして越後軍の撤退は急ではあったが翌朝早朝に決定した。
一方甲斐軍でも軍議が行われていた。
美濃への進軍と海津城からの撤退方法であった。
高坂弾正、馬場信春、飯富虎昌、真田幸隆らが狭い地蔵峠で経由で上田城方面に撤退、甲斐本国からの荷駄補給部隊と合流後彼らを引き連れて伊那から美濃に南下。
また信玄率いる、信繁、勘助、山県昌景、諸角虎定ら本隊は川中島を西に横断して茶臼山傍の犀川沿いの西街道から深志城(松本城)方面に抜けて東山道(中山道)を美濃へ南下することになった。
川中島を西に横断する道は北国街道のような本道ではなく地元民の使う生活道路で整備されておらず幅も広くないので地元出身の地理に明るい兵士が呼び集められた。
彼らによると移動はそれほど問題ないがこの時期は川中島は早朝は濃い霧が発生しやすく進行速度に支障が出ることが予想されるので昼間以降の進軍を進めたが
「濃霧に紛れて茶臼山方面に我が軍が抜けて行って海津城が空っぽだったら翌朝政虎も腰を抜かすだろう・・」
信玄が嬉しそうに言った。
「北国街道との交差地点では越後の荷駄隊が昼間は動いている。接触の危険を避けるため連中が動かない早朝、夜半の移動の方が都合が良いでしょう・・」
信玄、勘助ら意向もあって結局甲斐軍も翌朝早朝の出兵が決定したのであった。
夜も明けようとしていた頃、斎場山の越後軍本陣は撤退準備が整い移動を始めていた。
兵士は前の晩の宴で飲みすぎて酒で千鳥足の者もいたが越後に帰れる嬉しさの方がみな先立っているようだった。
「みな静かにな・・甲斐の連中を最後に驚かすんだからな・・」
静かに進むように兵には命令が出された。
先発の柿崎景家、村上義清らの部隊は千曲川にかかる宇佐美橋を渡り、川中島の霧の中に消えて行ったが思わぬ連絡が入った。
濃霧のおかげで進軍がかなり遅れているとの連絡であった。
しかしそれほど急ぎではなかったので構わず進軍を続けさせた。
越後軍は順番に隊列を組んで斎場山を降りていった。
朝4時頃ようやく政虎たちの順番が回ってきた。
それにしてもすごい霧であった。何も見えないと言う表現がぴったりであった。
「行けますかな?」
新兵衛が政虎の体調を気遣って声をかけてきた。
政虎はうなずいた。今日は昨日より幾分調子が良かった。
「籠にしますか?」
千坂景親までも気遣って聞いてきた。
馬で大丈夫、心配無用と政虎は答えた。
政虎はみんなに気遣ってもらっていることを嬉しくも思いながらも、どんな時も常に定期的に毎月10日前後にやってくるこの腹痛には辟易もしていた。
政虎は体調不良のため顔色が少し悪かったのでみんなをあまり心配させないため、普段は肩に巻いている愛用の純白の越後上布を御高祖頭巾のように顔に巻いた。
御高祖頭巾とはこの当時の女性の防寒着として流行っていたが当然普通の女性の物はもっと派手な柄のものを使用している。
政虎は真夏の日差し厳しい時、寒い時や体調が悪いときはこのように純白の越後上布を頭巾のように使用していたが実は越後兵の中ではこの格好は僧兵の行人包みのようだとあまり評判が良くなかった。
そのため政虎も普段はなるべく肩に巻くようにしていたが体調の悪いときはこのように使っていたので何時頃から政虎の体調も越後上布の巻き方で越後兵は判別するようになっていた。
部隊も既に半分近くが出発して行き、ようやく政虎たちの出番が来た。政虎たちも親衛隊と一緒に斎場山を出発した。
濃い霧のせいで進軍がやはり遅れており時間は既に午前5時頃であろうか、うっすらと夜も明けてきた。
「信玄の奴、朝になったらもぬけの殻の斎場山を見て腰を抜かすぞ・・」
弥太郎が嬉しそうに言った。
政虎も思わずくすりと笑ってしまった。信玄の口を開けて唖然とする顔を想像してしまったからである。
早ければ午前6時前に善光寺前の犀川の手前に着くという。
一方海津城でも午前4時半頃既に高坂弾正昌信を先頭に甲斐軍別働隊の地蔵峠からの撤退が始まっていた。
別働隊の見送りに信玄 勘助らが来ていた。
勘助が珍しく冗談を飛ばした。
「間違っても斎場山を突付くなよ・・」
弾正昌信も思わず笑ってしまった。
「啄木鳥が木の中の餌の虫をおびき出すために木を叩くようにですかな・・?」
弾正昌信も返した。
「いや 餌の虫じゃなくて大虎が出て来て噛み返されるぞ・・」
信玄までが悪乗りしていた。
「それは勘弁願いたいです・・」
弾正昌信も笑いながら再度返した。
「では美濃で再開じゃな・・」
信玄も別働隊を見送りながら嬉しそうに言った。
茶臼山経由の信玄本隊も別働隊のすぐ後に武田信繁、諸角虎定らの隊を先陣に海津城を出発し始めていた。
ただ、海津城周辺、及び川中島周辺に発生した霧のせいで各部隊は移動に少し時間がかかっているとの知らせも信玄の元にももたらされた。
「予定より少し遅れておるか・・まぁ この霧ならしかたあるまい・・」
信玄も予想以上の濃い霧に驚いていたが自分の出発の順番が来ると信繁や諸角の後を追うように大急ぎで勘助と共に茶臼山に向けて海津城を出発して行った。
政虎一行は北国街道を善光寺に向けて北上していた。
9月初めではあったが既に初秋の涼しい朝であった。少し寒いくらいである。
「それにしてもすごい霧だ・・前が全然見えんわ・・」
弥太郎も驚いていた。
秋山源蔵が悪い冗談を言い出した。
「丑五ツ時・・いまは一番お化けが出やすい時間でござるな・・」
気のせいか何か叫び声が一瞬遠くから聞こえたような気がした。
「・・げ 源蔵・・やめないか・・」
政虎は意外とこのような話が苦手であった。
じつは斎場山に長期間布陣するのは気が進まず早く善光寺に帰りたかったのもそのためである。
斎場山はその名前の通り、墓地や斎場などそのような物に関連する施設が多いのでその名前が付いていた。
「この辺は古戦場がうじゃうじゃですからなぁ・・首のない武者が行進していることもあると地元の農夫が言ってましたぞ・・」
戸倉与八郎はこう言うときは本当に遠慮がない。
「・・や・・やめないか・・」
政虎が少し怖がっていた。
「ははは・・阿虎様は昔からこのような話苦手ですからな・・」
新兵衛が笑っていた。
「それにしても源蔵殿・・」
千坂が無表情に源蔵に言った。
「お化けが一番出易いのは丑三ツ時であろうが・・」
みな千坂の生真面目な鋭い指摘に思わず笑いそうになってしまった。
しかし弥太郎が急に止まった。
「おい・・今本当に声がしなかったか・・」
弥太郎が真剣な表情で言った。
「や・・弥太郎・・やめてくれ 本当に・・」
政虎もなんか本当に何か声が聞こえたような錯覚を覚えた。
「がははは・・すみません・・」
弥太郎が急に表情を緩めると普段通り豪快に笑った。
「・・まったく・・もう・・」
政虎は思わず少し膨れてしまった。
一行は再度濃霧の中をのんびりと北上していった。
ただ弥太郎は実は半分本気で政虎の聞いた声も空耳ではなかったのである。
30分ほど進んだ頃であろうか、相変わらず雲の中を歩いているようだったが周りはかなり明るくなってきた。霧のせいで隊列の前方が相変わらず見えなかったがとにかくゆっくり進んでいるようではあったがやはり少し時間がかかっているようであった。時々どこかから叫び声や怒号が聞こえてきた。
「出たか・・うらめしや・・」
戸倉が悪い冗談を再度言い始めた。
「・・与八郎・・!」
政虎は少しむっとしてしまった。
前方の部隊から怒号が聞こえてきていた。喧嘩をしているようであった。
「・・朝から喧嘩か・・こんな霧のなかで元気な連中だ・・まったく」
源蔵も呆れていた。
「静かに進軍するように言ったのに・・昨晩の酒がまずかったかな?やめさせるように・・」
政虎も苦々しい顔で命令をだした。
しかし次の瞬間彼らは目を疑った。霧の向こうに赤備えの武者が一瞬見えたような気がしたのである。
「・・・静かに!」
弥太郎が思わず声を出した。
「・・今見たか・・?本物か・・?」
戸倉の声は緊張していた。
赤備えは甲斐軍の武者である。なんで甲斐軍がいるのかわからなかったがそれはみなも同じで何が起きているのか分からなかった。むしろ武田の武者の御霊を見たのかと真剣に考えていた。
しかし見えないが近くで驚きと絶叫の声が同時に起こると刀か槍のぶつかる鈍い金属音が聞こえてきた。
どうも何箇所かで何か太刀打ちらしきことが発生しているようであった。
さっきの前方の部隊の怒号も喧嘩というよりもっと殺気立った声で、刀のぶつかり合う鋭い音も間もなく聞こえてきた。
この音は政虎の周囲で散発的に起こり、驚きや怒号にも似た声が姿は見えないが霧の中から聞こえてきていた。
「・・ま・・まさか・・」
政虎が思わず声を漏らした。
いつもの指揮官の政虎の声ではなかった。半泣きの政虎の声であった。
みなようやく尋常ならぬ事態が起きていることに気がついた。
霧が風でゆっくり流れ出していた。ようやく全てがさらけ出されようとしていた。
政虎や越後軍一同は言葉を失った。これは一瞬夢であろうかとみんな思っていた。
越後軍と甲斐軍がなぜか鉢合わせをしていた。
北国街道を北に善光寺に向かう越後軍と川中島を西に茶臼山目指して向かう甲斐軍が既に交差していた。
交差部分では既に太刀打ちが始まっていた。それを遠巻きの越後兵や甲斐兵がみな唖然と見ていた。
「や・・やられた・・」
政虎が力なく言った。
「信玄に謀られた・・待ち伏せされた・・」
親衛隊兵や付近にいた越後兵も青ざめた固まった顔で政虎を見た。
政虎の顔も青ざめて涙目で震えていた。
「・・越後に帰れない・・」
この言葉でみな我に帰ったようだった。
政虎は突然大声を出した。刀を抜き北に向けると
「・・全軍・・と・・突破せよ!」
我に帰った越後軍は甲斐軍にばらばらの状態で個別で猛然と襲い掛かった。統制が取れず半混乱状態であった。
越後兵は待ち伏せされたとみな思い死に物狂いであった。甲斐軍を突破しないと国に帰れないと言う恐怖心が彼らを駆り立てていた。
甲斐軍も固まっていた。なぜ越後軍がいるのかと。
甲斐軍も同じ考えであった。なぜか動きが読まれ待ち伏せされたと思っていたのである。
しかし甲斐軍にとって運が悪かったのは越後軍との交差地点近くに甲斐軍の最高幹部が居たことである。幹部は山本勘助ともう一人、あの人物であった。
勘助も待ち伏せされた思い唖然としていた。しかし彼はすぐに我に帰ると付近の部隊に命令した。
地蔵峠の部隊にすぐに連絡して至急援軍に来るように、茶臼山に到着したであろう信繁、諸角隊の呼び戻しと矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。そして悲壮感を少し漂わせながら険しい表情で地蔵峠の部隊が来るまで玉砕覚悟で勘助のすぐ後ろの部隊を死守せよと命令を下した。
勘助のすぐ後ろの部隊はなんと信玄本隊であった。勘助のすぐ後ろにいたのである。
勘助は信玄を死守するために必死であった。甲斐軍は霧の中を移動中で陣形が全く整っていなかったうえ、越後軍の予期せぬ急襲を受けて大混乱になっていた。
信玄本人も腰を抜かしていた。越後軍の待ち伏せなど全くの予想外であった。
霧で現在地も良く解らない上に越後軍が先に一足早く襲い掛かってきたため海津城への後退も困難になっていた。
信玄もすぐに腹を決めた。
「陣を開け!旗を上げ!味方に知らせい!信玄ここにありと!逃げも隠れもせぬと!」
大慌てで陣を開かせると床机椅子の上に信玄はどっしりと腰をかけて構えた。
(クソ・・政虎め・・霧に紛れての待ち伏せなどこしゃくな・・)
しかし落ちついた風な素振りを見せながらも信玄は内心は歯ぎしりを立てていた。
川中島は既に修羅場になっていた。先に茶臼山まで到達していた信繁隊、諸角隊も大急ぎで信玄本陣目指して引き返し八幡平北方で越後軍ともろにぶつかっていた。
越後軍8000に対して甲斐軍も本隊は8000と互角であったが甲斐軍は不意を突かれた上に先行攻撃されたこともあり、なすすべもなく各隊撃破され始めていた。
諸角虎定も老体に鞭を打って奮戦し、ようやく信玄本陣前まで辿り着いたが、揚北衆の猛者、新発田長敦の部隊とそのまま大乱戦になり、奮戦むなしく彼は討ち取られた。
信繁隊も生き残った諸角隊を盾に使いながら猛然と越後兵を蹴散らしながら信玄本陣まで戻って来ていた。
信繁も信玄の本陣前まで辿り着くと本陣の盾として立ち塞がり必死に越後軍の猛攻に耐えていたが部隊の全滅は既に時間の問題であった。
政虎も必死で戦うというか逃げまわっていた。政虎も今まで何度も戦場に行っている。戦場は見慣れていたはずであった。
しかし今日の川中島は地獄であった。部隊同士の整然とした戦いではなく一対一の殺し合いであった。政虎を見つけると甲斐軍の兵士は恐ろしい形相で分別無く襲い掛かって来た。
政虎も正直これほどの恐ろしさを今まで感じたことはなかった。普段は酒で紛らわしていたこともあったが、通常の戦でもここまでの異常な接近戦や深追いはないからである。兵士も将校もみな勇敢に戦うが自分の命を投げ出してまでの危険な作戦は原則取らない。
今日は越後軍も甲斐軍も統制が取れず見境無く獲物を目指して攻撃を仕掛けていた。
今日は体調が悪いせいもあって普段は肩に巻いていた愛用の純白の越後上布を行人包みように顔に巻いていたこともあり余計に目立ち、次々に逆に敵を呼び寄せていた。
実は政虎たちも思いの他中央付近の乱戦地帯にいた。信玄本陣の目と鼻の先であった。
信玄の本陣周辺は不幸にも越後軍と甲斐軍の交差地点の近くであった。
そのため次から次へと信玄の本陣の守備応援に甲斐軍が集まり、また信玄の首を狙って越後軍が餓えた猛獣のように次々と本陣に押し寄せていた。
越後軍はばらばらに攻撃していたが勢いで押しているようで甲斐軍の本陣に徐々に接近しているようであった。甲斐軍も死に物狂いで防戦していた。
やがて政虎の視界にも武田の本陣が飛び込んできた。
信玄寵愛の弟の信繁の姿が見えてきた。噂通り勇猛に必死で戦っていたが甲斐軍の守備兵は数が少なくなり劣勢は明らかであった。
そしてついに力尽きたのか武田万歳か何かの彼の声が聞こえると政虎の目の前で彼は村上隊に討ち取られ姿を消した。
政虎はこの恐ろしい光景を唖然と見ていた。
信玄も本陣内で固まっていた。
部隊は壊滅寸前、もはやこれまでかと覚悟をしていた。
お気に入りの小姓一人だけ残して他は全て越後軍との戦闘に回していた。
小姓を残していたのは万が一の時の最後の介錯人である。
武田の本陣前で最後まで激しく抵抗していたのはあの山本勘助であった。
馬を降り槍を振り回していた。
政虎もあの老人にどこにこのような力が眠っているのであろうと敵ながら天晴れであった。
一方勘助も政虎がこの作戦を立案したのだろうと思っていた。勘助は政虎を恐るべし敵であると敵ながら高く買っていた。勘助も今回の作戦を政虎の不意打ちと思っていたのである。
柿崎隊の猛攻を必死に防いでいた彼も
「ワシの勘もここまでか・・」
と一人つぶやくとついに柿崎隊の騎馬兵の間に隠れ真相を知らずに姿を消して行った。
目指すは本陣のみであった。
「行けぇ!」
「あと少しだ!」
聞き覚えのある声がしてきた。
本庄繁長 長尾藤景 北条高時 斉藤朝信たちが信玄本陣目指して猛攻撃をしかけていた。
越後軍優勢との報告も政虎にも届けられた。
信玄の本陣まであと少しとその時であった。
突然であった。越後軍の右横、東方面から何かすごい圧力を感じると政虎の右横の越後兵が次々と赤備えの部隊に飲まれ始めた。甲斐軍の新手、1万2千の地蔵峠の部隊が八幡平に到着したのであった。
越後軍は動揺していた。本隊と思って全力で襲撃していたのにもっと強大な別働隊が来たからである。甲斐軍は政虎を見つけると猛然と襲い掛かってきた。
越後兵が慌てて政虎の前に守備に立ちはだかるが兵は既に疲れきっており次々と討たれていった。
「何をしてる!早く逃げろ!」
繁長が政虎に向かって絶叫した。
「早く後退を!早く!」
親衛隊も防ぎきれないようで悲鳴とも絶叫ともつかない声をあげていた。
形勢が完全に逆転していた。
政虎も必死で後退しようとしていたが双方の部隊の混乱でもみくちゃにされ動けなくなっていた。後退しようにも現在地すらわからなくなっていたがとりあえず北に向かってひたすら越後軍は後退を始めた。
しかし次の瞬間政虎は我に帰った。越後軍と甲斐軍がもみくちゃに動いているうちに信玄の本陣が偶然ではるが完全にがら空きになったのである。
(あそこに信玄がいる・・おのれ・・)
政虎は急に怒りの感情が湧いてきた。
政虎は愛馬の放生月毛にムチ打つと器用に敵兵の間をすいすいと縫いながら全力で本陣に向けて走らせた。
(信玄にここまでやられた・・許せぬ・・)
政虎は怒りで頭が真っ白になっていた。何時の間に猛然と信玄本陣目掛けて走っていた。
政虎を見つけた武田の騎馬兵が慌てて切りかかるが剣の腕は駄目だが騎馬の腕ならは政虎も負けない。
「来るな!」
太刀打ちしてもらえると思った武田の騎馬武者をひょいと器用に避けるとは騎馬武者は勢い余って空振りをして落馬してしまった。
本陣守備の少数の鉄砲兵も待ち構えていたが政虎の怒りの感情が初めて恐怖を上回った。
「邪魔するな!」
名刀小豆長光を抜き渾身の力で振り下ろすとそのまま鉄砲を一刀両断して鉄砲兵は腰を抜かして座りこんでいた。
政虎はそのまま本陣を囲む布の武田菱に放生月毛を鼻から一気に突っ込ませた。
「痛っ!」
本陣の布が倒れ中に飛び込むと同時に誰かの声がして何かが放生月毛の足にぶつかった。
勢い余って人を跳ねたようだった。
慌てて急停止すると信玄が痛そうに凡床から転げ落ち腰をさすっていた。
放生月毛がぶつかったのは信玄本人だった。
「このー!」
政虎は大声を出しながら小豆長光を信玄に振り下ろした。
間一髪信玄は避けた。
「クソ!阿虎め!」
しかし肩を切られたようで苦痛に顔をゆがめていた。
政虎は半泣きで大声を上げながら再度刀を振り下ろしまくしたてた。
「女だからと馬鹿にして!私がろくに動けないときを狙って待ち伏せして!汚いんだよ!」
肩をかばいながら信玄も返した。
「待ち伏せだと?貴様らだろ!待ち伏せしてたのは!」
信玄は意外な答えを返したが政虎は構わず返した。
「お前は大嫌いだ!人の留守の間に泥棒猫のようにこそこそ来て他人の土地を取って嬉しそうな顔をして!大嫌いだ!」
信玄は肩を切られたせいか太刀が抜けないようであったがそれでも団扇で難なく政虎の太刀を受けていた。
「それの何が悪い!」
信玄もすぐに返した。
そして続けた。
「甲斐のみなを喜ばせるために土地を取るのだ!取った土地をみなに分け与えみなを喜ばせる!その顔を見たいから戦ってるんじゃ!甲斐のためにやってるんじゃ!何が悪いんじゃ!」
信玄の本気の言葉だった。政虎は逆に少しうろたえてしまった。
信玄は続けた。
「貴様のように座って商人からの貢ぎ金でのほほんと戦を喜んで出来るほど甲斐は豊かじゃないんじゃ!みなを腹一杯食わすために他国を取り続けなければならんのじゃ!貴様にワシの気持ちなどわかってたまるか!」
政虎は衝撃を受けた。信玄の本音の言葉が重過ぎて言い返せなかったのである。
が自分も本音が飛び出してきた。
「私だって戦は大嫌いだ!お城でのんびりしたいんだよ!お前や氏康みたいなのがのこのこ来るから戦ってんるだよ・・ふざけるな・・!」
しかし今日の信玄は容赦がなかった。
「戦で勝っても土地を取らない分け与えない貴様こそどうかしてるわ!領主失格じゃ!」
政虎も今まで誰にも言ったことが無い本音をぶちまけた。
「人助けをして何が悪いんだよ!見返りが無くてもいいじゃなか!あたしはそれが良いことだと思うからやってんだよ!」
信玄も一瞬戸惑ったようだがすぐに返した。
「阿呆が!・・そんな女々しい理屈を持ち込んで大名面するな!」
「・・言ったな!」
「だいたいなんじゃそのへっぴり腰は・・そんなんじゃ何時までもワシを倒せんぞ!もっと腰をいれんか!」
信玄の気迫が何時の間にか政虎の気持ちを上回っていた。
何時の間にか政虎は逆に完全に信玄に押されていた。疲れと体調不調と何回も刀を振り下ろしているせいもあったが太刀を持つ腕に力が入らず放生月毛に乗ったまま信玄の気迫に押されるまま後退しだした。
それにしても信玄の本音は政虎には衝撃過ぎた。また頭が真っ白になっていた。
「御館様!」
しばらくすると聞き覚えのある大声がしたと同時に赤備えの騎馬武者数騎が信玄の援護に乱入して来た。
(しまった!)
政虎はようやく我に帰った。
信玄とのやとりに夢中になっていてすっかり周りのことを忘れていた。
信玄本陣の応援に来た甲斐軍の別働隊の騎馬隊にあっという間に逆に囲まれてしまった。
(辞世の句を考えておけばよかった・・)
政虎は覚悟をすると妙な後悔をした。
「姫様・・!」
政虎は声の主に驚いた。
高坂弾正昌信であった。目が合うと弾正昌信も驚いていたが何か決心したようで太刀を抜いてこちらに向かってきた。
政虎は以前、人間は死ぬ寸前は走馬灯のように一生の思い出がよみがえると聞いていたがなぜかそれは起こらなかった。
弾正昌信に切られるなら本望だろうと言い聞かせ覚悟して目をつぶろうとしたその時であった。
「ほれ!」
弾正昌信は政虎に近づくと彼女に切りかかることなく放生月毛のお尻を軽く太刀ではたいた。
放生月毛は驚いてものすごい勢いで政虎の手綱を無視して本陣から走り出した。
政虎は慌ててしがみついた。
甲斐軍の騎馬武者たちは呆然と狂ったように走り去る放生月毛にしがみつく政虎を見送っていた。
「ご無事で!」
政虎を送り出すと弾正は馬を降り信玄の前に膝まずいた。
しかしすぐに弾正の喉元に鍵十字の槍が2本すぐにかざされた。
信玄の命令あればいつでも弾正昌信の首を取れるようにである。
信玄は今まで弾正昌信が見たことのない恐ろしい鬼のような形相をしていた。
「昌信・・!貴様・・自分が何をやったかわかっておるのか・・!」
信玄は弾正昌信が今まで聞いたことも無い恐ろしい声でうなった。
弾正昌信は正直に答えた。
「・・甲斐のため 殿のため もちろん昌信のため・・!」
弾正昌信は正直に答えた。
信玄は下を向いてうつむいて言った。
「クッ・・確かに・・確かに以前はそう言ったかもしれん・・しれないが・・しかしな・・今日という今日は奴は絶対許せん・・!今まで甘い顔しすぎたわ・・!」
そして鬼の形相で
「本当の戦を教えてやるわ・・!・・車懸りの陣!奴等をすりつぶせ!甲斐の勇者よ行け!」
信玄が命令した。
甲斐軍の騎馬武者が政虎を追いかけ始めた。
「昌信!貴様はワシとここにおれ!奴の最期を見とけ!」
政虎はようやく越後軍親衛隊に戻り合流した。しかし恐ろしい展開が待っていた。
周りを甲斐軍の騎馬隊に完全に包囲されていた。
突然甲斐軍の騎馬隊が政虎たちを囲み終わると左回りに一斉に走りだした。
蟻地獄に引き込むように回りだし、距離をあっという間に詰めると甲斐軍の騎馬の渦に越後軍は次々に飲まれ始めた。
政虎が命令した。
「馬を走らせ!並走!足並み合わせ!」
一緒に走れば太刀打ちも可能である。
続いて命令した。
「旗上げ!」
「敵が来る!」
繁長が出来ないといわんばかりに声をあげた。
「味方も来る!」
政虎は旗をいっせいにあげさせた。
毘の旗 日の丸 龍の旗を高々と上げて振らせた。
甲斐軍は越後軍を蟻地獄に引きずり込むように周囲を周りながらどんどん距離を縮めてきた。
政虎の周りはもはや少数の部隊しか残っていなかった。
「足を止めるな!」
政虎が絶叫した。ここで死ねないと必死であった。
「う 馬が・・馬が動かない・・ぐあ・・」
越後側は馬も人も疲労が頂点に達していた。足が動かない越後兵は次々と飲まれていく。
繁長 高広 千坂 新兵衛 弥太郎 源蔵 与八郎などもはや顔見知りばかりしか残っていなかった。
政虎の部隊は絶滅寸前だったが彼らの驚異的な底力で甲斐軍が驚くほど政虎たちはまだ持ち応えていた。
その時甲斐軍の取り囲みの馬の速度が急に落ち始めた。
越後軍の援軍が政虎の龍の旗を見て次々にやって来て周りを囲む甲斐軍の足を止め始めたのである。
「こっちじゃ!早く!」
中条藤資や色部勝長の部隊が外から甲斐軍に体当たりして囲みをこじ開けようとしていた。
「連中を止めろ!止めればいい!」
長尾政景や宇佐美定満らもようやく合流して必死に甲斐軍の足を止めようとしていた。
「どけぇ!どけぇ!」
猛将村上義清や柿崎景家もようやく到着してぶつかり出すとすると甲斐軍も動転したのか囲みの動きは止まった。
しかし甲斐軍も引かなかった。
「押せ!踏み潰せ!」
飯富の恐ろしい声が響き渡ると甲斐軍も猛然と最後の攻撃をかけてきた。
「姫を引っ張り出せ!早くしろ!」
いつもは冷静な政景がめずらしく絶叫していた。
再度大混乱になっていた。
馬場が叫んだ。
「他は無視しろ!行人包みだけ狙え!」
みな政虎掛けて次々と押しかけてくる。政虎は必死で逃げようとしていたが囲まれて動けない。
内藤が叫んだ。
「もう一度車懸りだ!取り囲め!逃がすな!殺れ!」
越後軍が手こずっている間に再度甲斐軍は数の力に任せて囲み始めた。
その時であった。鉄砲の大音響が響いた。
甲斐軍の再度囲もうと展開していた外部隊がばたばたと打ち倒された。
「は、離れろ、間を取れ!外部隊!」
山県昌景が慌て指示を出していた。
直江景綱の荷駄隊が乱戦に気づいて犀川を渡り南下して虎の子の鉄砲を甲斐軍に浴びせてきたのであった。
越後軍の荷駄隊と荷駄護衛隊は退役したような老兵や兵力偽装の女騎が多いがそれらも甲斐軍を恐れずに突っ込んできたのでさらに甲斐軍は動転して囲みが再度ほどけだした。
様子を鬼のような表情で黙って見ていた信玄であったがそのとき信玄の本陣のすぐ側でも戦闘が起きはじめた。
「・・どうした!何事じゃ・・!」
信玄が思わず驚きの声をあげた。
越後軍の殿の甘粕景持隊がようやく到着し手薄な信玄本陣に突如襲い掛かってきたのである。
政虎たちから甲斐軍を引き離すためである。
「ぶ、部隊を本陣護衛に戻せ!早く!」
本陣が襲われていることに気が付いた馬場が慌てて指示を出すが
「何をやってるか!大物がそこにおるであろうが!早く殺れ!」
飯富は政虎を狙えと絶叫していた。
甲斐軍も大混乱だった。
政虎たちは必死で脱出しようとしていたが飯富隊の猛攻撃を受けていた。
応援に来た越後軍の竹俣清綱、加地春綱、新発田長敦の揚北衆が必死に防戦していたが再度甲斐軍優勢になり政虎の脱出が困難になろうとしていたその時であった。
そのとき誰かが政虎に近づき
「 失礼!」
と言うと政虎が巻いていた越後上布をはらりとほどくと自分で巻きなおして信玄本陣に向けて猛然と走り出した。政虎や周りの者は唖然としたが見たことのある越後武者であった。
甲斐軍の馬場隊は影武者の政虎を見て慌てて追いかけ出した。
本物の政虎たちの退路が完全に開いたのである。
甲斐軍の一人の将兵が影武者と気づいたが
「そいつは偽者だ!本物はこっ・・」
と言い終わらないうちに村上義清の槍に押し倒された。
「退却!急げ!早く!」
中条が叫んだ。
「全軍退却!」
色部が命令した。
全員大急ぎで八幡平をあとにした。
この様子を終始見ていた信玄は
「な・・何をやっておるんじゃ・・おのれい・・」
声にならない声を出していた。
そして念の入った声で最終命令をだした。
「深追いはするな・・戦闘終了させい・・」
弾正昌信は複雑な表情で後退する政虎を見送った。
放生月毛の背中から政虎は後ろを振り返った。
戦場は流れるように遠ざかっていった。
政虎の影武者は信玄の本陣前で奮戦していたが甲斐軍に囲まれると彼が背中に刺していた毘沙門天の旗が倒れ彼の姿は間もなく見えなくなった。
「旗が・・倒れていく・・ここまで育てた越後軍が・・」
政虎は言葉が出なかった。
その日も夕方になりようやく長かった一日は終わろうとしていた。
「く・・くく・・」
信玄は兵士の目もはばからずおえつを漏らしていた。
「お・・おのれ・・奴め・・ここまでやってくれるとは・・」
彼の前には弟 信繁 勘助 諸角ら武田軍の高級将校の遺骸が並べられていた。
遺骸には武田菱の軍旗がかけられていた。
「信繁 すまん・・若い貴様を先に死なせてしまうなど・・勘助も・・諸角も・・すまん・・甲斐の勇者たちよ・・今回はワシの慢心じゃ・・本当にすまん・・くくく・・」
信玄は力なく崩れていた。
信玄の本陣の前には無数の遺体が片付けられることなく無念そうにいくつも転がっていた。
政虎も善光寺の直江の荷駄隊の本陣に戻っていた。
陣内に集まっているみなに対して政虎はねぎらいの言葉をかけた。
「みなの今日の素晴らしい戦いに感謝感激している。信玄も二度と我らと戦おうと思わないであろう。本当にご苦労であった。越後に帰ってゆっくり休もう・・」
しかしみなの顔は憔悴仕切っていた。重臣で戦死者が出なかったのは奇跡であった。
間もなく仮の戦果報告が入った。
政虎はそれを聞いて言葉を失った。
越後軍の戦死者 数千 負傷者 数千
甲斐軍の戦死者 数千 負傷者 数千
味方も敵も被害は甚大
越後側将校 荒川長実 志田義時が戦死
甲斐軍は武田信繁親子 山本勘助 諸角定虎が討ち死にした模様。
越後軍の大勝利と。
政虎は声が出なかった。激しい戦とは思ったが信じられなかった。
勝ち負けなどどうでもよかった。越後軍は壊滅状態だった。
今まで10年以上かけて育ててきた越後軍が今日1日で壊滅したのである。
信玄にも大打撃を与えたがもはや信玄との和睦などありえない戦果であった。
寵愛の弟の信繁や勘助、老臣諸角を失い信玄は鬼のように怒り狂っているであろうと。
それを自分の軍がやってしまったのだ・・
自然と涙が溢れ止まらなかったが気丈に振舞った。
「ご ご苦労であった・・すばらしい戦果だ・・感動した・・今日はゆっくり休め・・」
みな力なくうなだれたままぞろぞろと陣を出ようとしたその時であった。
「お許しくだされい!」
突然誰かが政虎の前に出てきて土下座してきた。
村上義清と高梨政頼であった。
「不甲斐無い甥のワシのおかげでおぬしを巻き込んでここまで苦しめてしもうた・・許してくれい・・」
高梨政頼が土下座しながら年老いた声を絞り上げ声を震わせていた。
「姫様の大事な軍を壊してしまったことお許しくだされい!」
村上義清も土下座しながら男泣きしていた。
政虎は泣いていたが笑顔で返した。
「何をおっしゃいます。気にしないでください。信玄との戦いは避けられませんでした。今日のみなの奮戦のおかげで奴はもう我々に向かって来る事は二度とないでしょう。頭をあげてください。」
しかし
「おぬしのその優しさが余計に身にしみるんじゃ・・」
高梨の言葉に政虎は逆に何も返せなかった。
政虎はそのまま陣の外に出た。
そして日が暮れた今日の激戦の地、八幡平を眺めた。
毘沙門天を懐から出して拝もうとしたが今日はなぜか心が落ち着かなかった。
日はすっかり暮れていたが死んでいった両軍の数千近い兵士の無念が漂い地平線が明るくなっているように感じた。
政虎はぼーっとそれを眺めていた。
誰かが横に立っていた。
本庄繁長である。今日の命の恩人である。
政虎が気になって来てくれたのであった。
政虎に声をかけようとしたが政虎が魂が抜けたように戦場を見ていたので繁長は声をかけれなかったが。
やがて政虎の方から繁長に話しかけてきた。
「す・・すごい光景だな・・」
「・・滅多に見れないだろうな・・こんなの・・」
繁長は何も言えなかった。自分だってこんな風景は初めて見る。
「・・地獄とはこんな世界かな・・」
「・・気をしっかり・・」
「・・信玄・・ 怒り狂っているだろうな・・」
繁長は何も言えなかった。
この第4次川中島の戦いで政虎の名は日本中に響くようになるのである。恐るべき軍神と。