権威
政虎側の手に渡った武蔵松山城だがここは元来太田資正の城であった。新しい城主には資正の推薦する上杉憲勝になってもらい、政虎一行は関東の拠点の古河城に引き上げることにした。
古河城への帰路の途中休憩と資正からの気配りで資正の居城の武蔵岩槻城に立ち寄っていくことになった。
見た目は普通の城だが中は少し変わった城であった。
犬がたくさん飼われているのである。
資正は大の犬好きとのことで常に10匹以上飼っているのだと言う。
人の趣味なので政虎は黙っていたが正直少し意外で驚いた。資正が犬好きのようには見えなかったのもあるが資正のその可愛がりようにである。いくら犬好きでも10匹以上常に飼っていることに驚いたのである。
ただ噂では領民や資正軍の兵士も呆れているとの話であった。
しかし資正本人は全く気にも留めていなかった。
資正はむしろ下手な兵士よりよっぽど役に立つと自信満々であった。
「こいつが何の役に立つんかのう・・?」
弥太郎は一匹を捕まえ尾っぽを振り回している犬の頭を撫で回しながらつぶやいていたが。
犬は何食わぬ顔で頭を撫で回されて上機嫌であったが。
政虎も一匹の頭を撫でながら別のことを考えていた。
北条の件が解決しなかった今政虎の心配事は武田信玄であった。
小田原城包囲時から信玄が兵を集めていると聞いていたが信玄と氏康は同盟関係である。
気分は良くはなかったが仕方ないと割り切っていた。
しかし信玄が和睦の話を政虎に求めていたこともあって自分も一応気遣いして甲斐には今回軍を向けなかったしその気配も取らなかった。しかし政虎はもし信玄からの和睦の話がなければ小田原を後回しにしてでも本気で叩こうとも考えていたが信玄が山本勘助や真田幸隆をよこしてまで和睦、戦う意志の無いことを示し、さらに軍を実際に集め北条側に派遣はしたが300人足らずの極少数の兵しか北条救援に送らなかったので政虎は信玄を信じて信玄に対する行動をやめたのであった。
しかしそれでも信玄の動きはやはり不安ではあった。信玄からの正式な返書もまだ来ていなかった。この件は家臣団からも槍玉に上がっていた。
しかし信玄も事情は同じであった。
信玄の下には氏康からの使者、板部岡江雪斎が訪れていた。表向きは援軍を送ってもらったことによる謝意であったが氏康の信玄に対する抗議の色合いの方が強かった。
今回信玄は援軍を送ったがわずかに300程度しか兵を送らなかった。また氏康が希望していた川中島か上野から越後を牽制する件も実行しなかった。板岡部が信玄の元を訪れたのも氏康からの強い不満だった。
信玄の言い訳はこうであった。
小田原城は天下一の堅牢な城である・・そう簡単に落ちはしないと・・それに比べると甲斐の躑躅ヶ崎館は小さな平城でもし下手に関東連合軍を刺激してこっちに向かわれてはひとたまりも無い・・解って欲しい・・と弁解した。
氏康の願いは今からでも遅くはないので上記の件の即、確実な実行であった。氏康はなんとしても相模 武蔵の奪回を希望していた。そのためにどうしても越後軍を上野か川中島におびき出して関東の兵力を空けて欲しいとのことであった。
信玄は内心渋々であったが了承した。
氏康からの使者が帰った後、山本勘助が聞いてきた。
「景虎との和睦の件はどうされるのですか?」
「景虎殿と和睦せねば美濃へ安心して出れませぬ・・」
高坂弾正昌信も不満げに言った。
「約束は約束・・同盟は同盟・・仕方あるまい・・」
信玄は言った。
「しかし・・兵は出すと言ったが戦うと言った記憶はない・・」
信玄はにやりと笑いながら言った。
「・・それと関東管領の上杉憲政から一文字偏諱して今は政虎であろう・・長尾政虎 政虎様と呼ばねばならんぞ・・」
信玄は嬉しそうに言った。
「・・上杉になられたのでは・・?」
弾正昌信が思わず言ってしまった。
「源氏の正当な血を継ぐ武田と違って成り上がりのしかも平家の長尾が藤原摂関家の血を継ぐ上杉になるなんて・・気に入らんからな・・政虎はワシにとってはいつまでも長尾政虎だ・・」
信玄が冗談風に言った。
「それに・・源氏の血筋と言えば・・あの佐竹もいたな・・佐竹は成り上がりの北条が大嫌いだからな・・長尾とは手は組まなくても上杉となら喜んで手を組むであろう・・氏康もこれから厄介になるだろうよ・・」
信玄が遠くを見ながら言った。
「だから北条は結局ワシらと組まざるを得ないな・・北条がワシらと仲違いする時は最後の最後・・長尾と組むときであろうな・・」
信玄はどこか遠くを見たままであった。
「兄上・・駿河がいますぞ・・」
弟の繁信がすぐに横槍を入れたが
「駿河か・・今川の若いのはもうあまりアテにできんだろう・・駿府にいた父上もそう言っておったろうに・・誰が駿河の支配者に相応しいかと・・」
信玄が悪戯っ子のように言ったが繁信や勘助、弾正昌信には冗談には聞こえず彼らは思わず黙ってしまった。
信玄の父、信虎は甲斐を追い出されてはいたが信玄も面倒は見続けていた。そのこともあって信虎も駿府の娘や孫の所に行ったりと悠々と振舞っていた。その信虎が以前ちょっとした事件をおこしていた。
駿河の今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に撃たれた後、義元の息子の氏真が後を継いだがそのとき信虎が信玄に宛てた手紙の内容が露見してしまい騒動になったのである。手紙の内容は氏真は器量不足である・・駿河は甲斐が納めるべきという内容の手紙で、怒った氏真によって信虎は駿府を追い出され、駿河と甲斐の関係は少しギクシャクしたものになったのである。
甲斐側が侘びを入れてその場は納まったが信玄は実はこの件で最後まで謝るのに難色を示したのでみなこの件で信玄の本音を悟ったのである。
しかしこれは非常に複雑な問題であった。
信玄の息子の義信と飯富虎昌は親今川の最先鋒であった。
義信は今川義元、今川家の娘婿で、飯富は義信の後見人でもあった。
飯富は武勇においても武田四天王の一人と言う猛暑である。
更には二人とも義理堅い性格であった。
信玄の今川に対する態度に義信、飯富は不満を持っていると噂されていた。
この件は些細のようであったが実は甲斐の家臣団が分裂する危険な可能性をも充分にはらんでいたのである。
繁信と勘助、弾正昌信はそのことを恐れて黙ってしまったのである。
「ところで・・政虎ですが・・氏康殿の望み通り川中島か西上野に軍を送ったら政虎の気分を変えてしまうかもしれませぬな・・」
勘助が話を変えるように言った。
「確かに西上野はまずい・・越後軍の関東の出入り口だ、それこそ今までの工作が台無しになってしまう・・政虎を本気にさせて見合いが破談してしまうな・・それに箕輪城にはうるさい長野業盛がいる・・川中島なら大丈夫じゃろう・・にらめっこにお互い慣れた場所だからな・・ただ何度も言うが戦うとは言っておらん・・落とし所はそこじゃな・・」
信玄も言った。
「ではどうやってこっちの意志を示します?」
弾正昌信が聞いてきた。
「・・わが軍・・いや、わしの動きなら政虎はきっちり読めるであろう・・大丈夫であろう・・」
信玄は茶目っ気たっぷりに言った。
繁信、勘助、弾正昌信は顔を互いに見合わせた。
「手紙もすぐに送る・・」
信玄は付け加えるように言った。
「加藤段蔵からの報告によると鎌倉や小田原では影武者で通したようです・・」
勘助は言った。
「・・苦労しているな・・さすが麗しき姫様だな・・人気者は大変じゃな・・」
信玄は少し嫌味に言った。
「まぁ・・ワシの興味は甲斐の国を広げることじゃからな・・和睦がうまく言ったら遅くなったが関東管領就任祝いの茶を長尾政虎様と楽しんでも良いかな・・都では随分女々しい歌を義輝公や公家の前で平然と詠んだようだし・・弾正も来るか?」
信玄は嬉しそうに弾正昌信に声をかけた。
「・・は・・はぁ・・」
弾正昌信も少し困った顔で答えた。
「ところで・・さっきの駿河の件は・・ご冗談で・・」
勘助が真面目な顔で聞いてきた。
信玄はしばらく黙っていたが
「今は政虎のことを考えよう・・」
話をすり替えた。
越後軍は太田資正の武蔵岩槻城を出発して簗田晴助の居城の関宿城に向かっていた。
晴助の城 関宿城は江戸川沿いに建つ経済的にも北関東の防衛上も重要な城であったので
視察と氏康への意思を表すために立ち寄ったのである。
既に鎌倉で関東管領軍は解散して常総の佐竹義昭や安房の里見義弘は領国に帰って行き、越後軍本体と簗田晴助、宇都宮国綱ら上野、下野国人主体の身軽な部隊になっていた。
ところで弥太郎が盛んに自分の直垂の匂いを嗅いでいた。
「どうした?」
秋山源蔵が弥太郎に聞いてきた。
「・・なんか直垂が・・犬臭くなったというか・・うぬぬ・・」
弥太郎がらしくなく神経質に答えた。
「おぬし犬好きだろうに」
戸倉与八郎が横槍を入れた。
「そうだが・・いくらなんでも数が多すぎたわ・・」
弥太郎が直垂に鼻をあてくんくん匂いを嗅いでいた。
「おぬしが犬みたいじゃ・・」
金津新兵衛が冗談を言った。
「・・ちえっ」
弥太郎が口を尖らすと笑いが起きた。
「お香を貸そうか・・?」
政虎が聞いた。政虎も確かに言われてみれば気のせいかもしれないがそんな気もした。
「・・いや・・阿虎様のお香じゃ犬じゃなく成田老人みたいのが寄って来そうなんで・・大丈夫っす・・」
弥太郎が冗談交じりに答えた。政虎以外は大笑いである。
(まったく・・越後衆は口が悪い・・)
政虎は少し口を尖らせながらも呆れていたが・・
「それにしても・・犬を何に使っているんじゃ・・資正殿は?」
本庄実乃が真面目に聞いてきた。
「なんでも伝令に使うらしいぞ・・信じ難いが・・」
宇佐美定満も半信半疑で言った。
「犬に伝令なんかできるんか・・ワンしか言わんじゃないか・・」
源蔵も不思議そうな顔で妙な取り回しで答えた。
しかしこの話は事実でこの犬のおかげで北条氏康は後の松山城攻略で思わずてこずることになるのである。
資正の飼っている犬たちは松山城が攻められると首にくくりつけられた竹筒の伝令文を持って援軍を呼びに岩槻城まで走り回るため松山城を何度攻めてもどこからとなくすぐに救援軍が現れ邪魔をされ氏康は苦戦を強いられたのである。
北条の忍びの風魔もまさか犬が伝令と思わず情報はすべて筒抜けだったと言う。
資正の犬たちは日本初の軍用犬と呼ばれている。
越後軍一行は関宿城にようやく到着した。
「ワシの城に似ておるのう」
宇佐美が思わず声をあげた。
江戸川の蛇行地点に建つ城で宇佐美の琵琶島城にそっくりであった。
川は当時も交通の要衝である。その通行時税と守りを固めるためと一石二鳥であった。
「越後が恋しくなったかな・・?」
色部勝長が珍しく宇佐美を冷やかした。
「まさか・・ワシが恋しいのは若い頃だけじゃ・・」
宇佐美もうまい返しをした。一同大笑いである。
しかし政虎も少し真剣に考えていた。
当時の兵士は半分農民である。兵士の間から田んぼが心配なので越後に戻りたいとの不満の声が上がっていると政虎の耳にも入っていた。1年の遠征で疲れもあった。
そのため政虎も一度越後に戻ることを検討していた。
関東の留守役を資正とここ関宿城主の晴助に任せようかと考えていた。
晴助の甥にあたる新しい古河公方、足利藤氏にはすでに古河城に入ってもらっていた。
藤氏には既に新しい古河公方に就任してもらっており体裁や権威上は関東管領主体に充分に成り立っていた。
しかし関宿城に入った政虎に思わぬ連絡が入ったのである。
あの近衛前嗣が越山し、厩橋城に向かっているとのことであった。
「公家様らしいわ・・少しは状況見て行動してほしいわ・・」
と本庄繁長や長尾藤景色らは呆れていたが
「まぁ 公家様らしからぬ行動力は褒めても良いがな・・」
と直江や宇佐美らは前嗣の立場と公家らしからぬ行為に少し驚きも含めて褒めていた。
前嗣は政虎の鎌倉での関東管領就任式の噂を聞き、公家の行事好きで我慢できなくなり春日山城を飛び出してきたのである。
ただ政虎はこれを逆に好機と捉えたのであった。
関白でもある前嗣が関東に下ってくれば氏康もうかつに軍を動かせない。
政虎は元々計画していたことであったが少し予定外に早く進んでしまっただけで後は行動に移すだけである。
政虎は前嗣を出迎えるために大急ぎで厩橋城に向かった。
厩橋城に付くと前嗣も武士と同じ直垂に甲冑を着込み出発の用意をしていた。
ただ彼の従者は公家の格好のままであったが・・
「お似合いです。氏康も関白様の下向に腰を抜かしていることでしょう・・」
政虎は前嗣に礼をした後声をかけた。
「政虎殿はさすがに着慣れてますな・・私は慣れないもので・・」
前嗣が甲冑の重さに顔を少ししかめながら言った。
政虎は笑顔で返した。
「すぐに慣れます・・」
そして
「早く関東を平定して義輝様の権威を再度関東より建て直し西に向けねばなりませぬ・・」
政虎は真剣な顔で言った。
「・・うむ、関東が平定されたら私も都に戻り今度は日本全土が将軍家のもと静かに納まるようにせねばならぬ・・関東が納まれば私の替わりの者をすぐに政虎殿の元に送る。そのためにも政虎殿の力、是非貸してくれ」
前嗣も真剣に返した。
「はっ!」
政虎も力強く答えた。
この一連の流れを黙って聞いていたのが弥太郎 戸倉与八郎 秋山源蔵である。
弥太郎は後で思わず源蔵に言ってしまった。
「・・しかし阿虎様って古典主義って言うか・・権威好きなとこあるよな・・」
弥太郎が少し呆れ気味に言うと思わぬ返事が返ってきた。
「・・見返りがあるからだろう・・」
源蔵が答えた。
「・・見返りぃ??」
弥太郎が思わず大きい声をあげてしまった。
「しっ!声がでかい!」
与八郎が思わず注意してしまった。
源蔵が静かに言った。
「関東が平定されれば関白様は都に戻らねばならん・・新しい関白様の代理の関東常駐の貴族が来るだろうよ・・その方は阿虎様の正式な御相手になるだろうよ・・都の貴族が好きな阿虎様にとっても足利将軍家、朝廷にとっても良いことだらけだ・・阿虎様も俄然力が入るだろうよ・・」
「へぇ~なるほど・・ しかし北条相手にそう易々と行くかな?」
弥太郎が珍しく嫌味っぽく言った。
「・・だからワシらがおるんだろうよ・・」
どこで話を聞いていたのか金津新兵衛が割って入ってきた。
「おわっ!驚かさんでくださいよ・・」
弥太郎が今度は思わず引いてしまった。
ところで厩橋城には驚いたことに信玄からの返書も来ていた。
(関東に専念できる・・)
と政虎は内心小躍りした。
内容は和睦の交渉の段取りの件で近く使者を送るので話を詰めたいとのことであった。
あとはこれを信じるかどうか、家臣たちが受け入れるかどうかであるが意外にここ最後で最大の難関のような気が政虎もした。
前嗣が政虎と一緒に古河城に入ったとの情報はすぐに氏康にも伝えられた。
関白がわざわざ関東に下向してくるなど当時は常識では考えられないほど衝撃であった。
氏康 氏政親子も正直に驚いていた。驚き以上に戸惑いを持っていた。
前嗣も
「自分が古河城にいる限りは安全であろう・・」
と公家らしくなく堂々としていた。
もし氏康が古河城を攻めて前嗣に傷を付けたら本物の朝敵になってしまう。
氏康も完全に動けなくなってしまった。
おかげで関東はしばしの間、嵐の前の静かな日々が訪れるのである。