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越後の虎  作者: 立道智之
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鎌倉

結局景虎は1ヶ月弱小田原を包囲したことですべて良しとしてそのまま小田原城の包囲を解き、3月末には景虎ら越後軍一行は鎌倉に入った。

鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任と上杉継承の儀式を行うためである。


景虎は実は小田原城包囲前に鎌倉に立ち寄っていた。

鶴岡八幡宮に北条に対する戦勝祈願の願文を奉納するためである。

結果から言うと願文の通りにはならなかったが景虎も北条との決着は近衛前嗣の下向時まで時間がかかるものと考えていたので気長に構えたのである。

このとき景虎が奉納したと言われる願文は千葉県妙本寺に伝えられており、解釈内容は諸説あるが平たく言うと神功皇后は三韓平定時に住吉大社と諏訪大社に詣でたところ忽化男形・・たちまち男性化・・し三韓平定に成功した・・と解釈できるくだりの一文が見受けられるという。

長尾景虎が男性の場合三韓を北条に当てはめその平定を祈願するのは理解できるが忽化男形の意味は不明になる。女性であればその意味は理解が出来るかと思う。自分も神功皇后のように男性化・・と・・


鎌倉は小さな町であったが鎌倉将軍時代からの古刹が多く景虎好みの町であった。

しかし鎌倉は北条の本拠地相模国の町であり北条の息がかかった町である。

北条側の城、玉縄城は鎌倉の目と鼻の先である。

今回の関東管領就任と上杉継承の儀式は敵中で行われるので警備は厳重に行われることになった。軒猿の部隊をも密かに市民に紛れ込ませておいた。万が一にではあるが北条の忍者、風魔対策であった。


景虎は鶴岡八幡宮に着くと密かにしんみりとしていた。

かって長尾家はここで鎌倉3代目将軍実朝を暗殺した実朝の弟公暁を殺し、主君上杉氏に付き添い越後まで流れに流れ、父為景の代には守護と関東管領殺しの汚名を着た。

その長尾の名前を捨て自らが主君上杉になる時が来たのである。

感慨というよりも正直複雑な気持ちもあったがその利点の大きさを優先させたのである


景虎は上杉姓になることで自分、および家の格を上げ、越後の支配強化をも狙ったのである。

以前も述べたが揚北衆が常に景虎に全面的に従い切れない感情を持っているのは景虎の関東管領就任式の諸国衆に対する太刀贈呈の式典の時にもあったが、揚北衆は長尾氏が自分たちと同じ坂東(関東)八平氏と同等と考えていたからである。今回上杉になったことで家柄は彼らよりも上になり、また同じような感情を持っている関東の諸将に対しても同等ではなくそれ以上の家柄になり今後は上に立つ者として振舞っていくと暗に主張したのである。

信玄や氏康に対しても同じである。家の格式では決して引けを取らないこと明確に現したのである。


永禄4年(1561年)閏3月16日(現在の3月31日)、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任と上杉継承の儀式は厳かに行われた。

今回諸将や大衆、兵士の前では引き続き千坂景親が影武者の景虎役をやり景虎が千坂景親として振舞った。

景虎はもちろん本当は自分が直接やりたかったのだが護衛から北条の動きが読めず敵中であり、小田原攻めが不完全に終わった以上、暗殺など不測の事態に備え今まで通り影武者千坂を押し立てて行うことにしたのである。

もちろん景虎自身にも女大将と分かった時の関東諸将の読めない反応や人々の噂が景虎の意図と反する方に向かって行くことも怖かったのであるが。


影武者景虎によって関東管領及び上杉継承の儀式は粛々と行われた。

景虎はこれ以降、上杉憲政から一字を偏諱へんきして景虎から政虎に改名したのである。


式が終わると関東の諸将が政虎にお祝いの挨拶に寄ってきた。

もちろん実際に対応するのは政虎役の千坂であるが。


しかしここでちょっとした事件が起きたのである。

例の成田長泰老人が挨拶にやって来た時であった。

成田老人は馬から下りずに馬上の上から挨拶をしようとしたのである。

今回彼は息子の氏長と長忠を連れてきていた。

彼らも政虎役の千坂の前で馬から降りる素振りをしなかった。

今まで他の者は全て馬から降りていたが嫌味三昧な成田老人である、また何か妙なことを言ってくるのであろうと本物の政虎は気にしないことにしたが・・


しかし政虎役の千坂が成田老人に珍しく厳しい口調で突っ掛かったのである。

「なぜ馬を降りぬ?」


政虎はいやな予感がした。小田原城で千坂がこの老人に一泡吹かせてやると言っていたのをふと思いだしたからである。

「我々は上杉家と同じ藤原氏の家系・・馬上の挨拶は源義家様の時以来でござる・・必要ござろうか・・それに・・」

成田老人は悪びれることなく不適な笑みを浮かべて言った。

源義家は平安時代中期の源氏の武将で源氏の基礎を造った源氏の棟梁でもある。

成田老人が言うには成田氏は今までも馬上の礼が常である、許された家柄である・・と言いたかったのであった。

政虎は千坂が不愉快になった理由は分かったが彼らが今までも源義家の代からそのようにしているのであれば仕方が無いと思って素直に黙って成り行きを見ていたが成田老人がすべてを言い終わらないうちに千坂が大声を上げてきたのである。

「そなたは山内上杉家に仕えておったのであろう?義家公ではあるまい?山内上杉家にもそのようにして振舞っておったのか?今が何時代がわかっておるか?大体今までそうであったからとこれからもそうすると言い張るのか?千葉常胤の事をしっておるか?そなた?え?」

普段は無表情で感情をあまり顔に出さない千坂が感情丸出しで怒り出したので政虎が少し引いてしまったほどであった。

一緒に居た本庄実乃や金津新兵衛も少し驚いていた。

成田老人は

(こっちが全部を言い終わらんうち・・何を急に怒り出したんじゃ・・)

と露骨に迷惑そうな顔をしていたが息子の氏長は空気を察したようでぼーっとした顔が見る見る青ざめると慌てて彼だけ馬を降り地べたにひれ伏せた。長忠はどうしたらよいかおどおどしていたがすぐに兄の後追おうように彼もひれ伏せた。

千葉常胤とは鎌倉時代の初代将軍源頼朝が平家打倒の軍を上げた頃からの古参の武将であったが彼も成田老人と同じように馬上の礼にこだわり馬から下りる習慣がなかったので頼朝の怒りを買い成敗(暗殺)されたと伝えられている。

氏長 長忠兄弟はその話を知っているので青くなって飛び降りたのである。


太田資正 簗田晴助も何か只ならぬ雰囲気に気が付いたようで慌てて飛んできた。

成田老人は息子二人を苦々しい顔で見ながら本音を言った。

「・・政虎様の前では馬から下りるつもりだったのじゃがのう・・」

成田長泰は困った顔で千坂役の政虎に突然話しかけてきた。

政虎は思わず下を向いて目をそらしてしまったが。

しかし成田老人の行動は完全に裏目に出てしまった。

「ワシの話を聞いているのか?貴様!」

千坂が再度大声を張り上げた扇子を振り上げ成田老人をはたこうとした。

「父上!降りてください!」

息子の氏長 長忠が慌てて青ざめた表情のまま成田長泰を馬から無理矢理引きずりおろした。

資正と晴助も慌てて

「政虎様!成田殿はそのようなおつもりではなかったので・・!お、落ち着きくだされ!」

政虎役の千坂に大慌てで弁解した。

成田老人は氏長に無理やり引きずりおろされたので本人も落馬するように尻餅して烏帽子も脱げてしまった。

「いてて・・」

成田老人は尻をさすっていた。

政虎も慌てて

「千坂!・・もういいであろう!」

政虎も思わず千坂の裾を引っ張ってしまった。

「・・・」

成田老人以外の氏長 長忠 や太田 晴助はわざと聞こえていない振りをした。成田老人だけ少しに一瞬にやりとしたように見えた。

政虎は思わず本当の姿で言ってしまった。

(・・しまった!)

「えっ・・と 殿・・お気を静めて下さい・・」

政虎は慌てて女々しい小さい声で千坂役を続けたが男ではない声質のせいで逆効果であった。

ただ全てを知るみなは聞いていない素振りのままであったが・・


しかし成田老人は表情を豹変させた。露骨に不愉快そうな顔をして千坂を睨み付けた。

政虎役の千坂も相変わらず険しい表情で睨み返していた。

異変に気づき観客らもざわめきだした。ただ観客らの遠方で事がおきていたので何を言っているのかまでは聞こえなかったようで

「何事か・・?」

と事の様子を遠巻きに見守っていた。

しかししばらくして

「・・失礼いたしました・・」

成田老人がようやく政虎役の千坂に侘びをいれた。

これでことはようやく収まったのであった。


ただ成田は影武者の政虎に先に詫びを入れた後も本物の政虎にも侘びを入れると言う相変わらず振りであったが。

千坂も政虎もそんな癖のある成田老人に黙ったままであった。


こうして関東管領の就任式と上杉家の継承は一悶着あったもの無事に終わったのである。

景虎はこの日より長尾景虎から上杉政虎になった。

母虎御前の実家で政虎初陣時代から功がある栖吉長尾の長尾景信も上杉を名乗り上杉景信になった。

表沙汰にはならなかったがもうひとつ悶着があった。長尾政景の件であった。

実は長尾政景も今までの実績を認めて政虎は上杉姓に変更することを了解していたが領土問題などで本来より不仲な本庄実乃や上杉景信の反対で実現しなかったのである。家臣団でも彼が政虎と同じ家柄になり自分たちのより上に立つことに抵抗が感じられた。

そのため政景の上杉姓変更は見送られたのである。

越後国内は表向きと違い内情は相変わらず緩やかな連合体の域を出ていなかったのである。

政景はこの件を予想していたのか特に何も言わなかったが逆に政虎は姉の仙桃院の少し不満げそうな顔を急に思い浮かべ一人気が沈んでいたのである。


その日の夜政虎は千坂景親 宇佐美定満 直江景綱 長尾政景 本庄実乃 金津新兵衛ら重臣と話をしていた。

自分の本当の姿の件である。

当初の予定通り関東管領 上杉継承までは何とか自分の本性を隠し通せたが予定外だったのは北条の件が解決しなかったことである。

そこで信用ができ今後一緒に作戦行動をとることが多いと考えられる武将のみに全てを話すことにしたのである。

まず関東方面の鍵を握るであろう二人、太田資正 簗田晴助が呼ばれこの二人にはすべてを話した。


しかし二人の反応は政虎も薄々感じていた通りではあったが全て見通されていた。二人によると関東諸将の間でも政虎の本性の件はこの頃には既に周知の事実になっているとのことであった。あの成田老人、成田長泰が馬上から降りなかったのも影武者の前では降りないとの意思表示であった。今回は千坂の影武者が裏目に出たのであった。

ただこれが微妙な問題であるのは政虎や越後の諸将だけでなく関東諸将も充分に認識していた。

佐竹義昭や宇都宮広綱と言った諸将は正直戸惑っているとのことであった。心変わりではなく戸惑いである。

佐竹や宇都宮たちは表向きは食料不足や北条方に内通している者がいるとの理由で小田原城の包囲を解くように主張し勝手に部隊を撤収させようとしたが本音では政虎の本性に対する事実と戸惑いであった。


この件は色々議論されたが結局結論は出ずにこの件は結局再度先送りされることになったのである。

その場の事情や状況に応じて個別に別個に対応していくことにしたのである。

ちなみに兵士や一般人の間でも政虎の噂は流れていたが彼らの段階ではまだそれほど噂は広まっていなかった。

越後の領主で関東管領が女性などありえない・・との理由からである。


ただこの後にこれ以外の諸般もあるが政虎は関東諸将の行動にこの後も振り回され悩まされるのは紛れも無い事実である。


一方氏康は結局挨拶に来なかった。

政虎には従わないと明確に意思表示してきたのである。


長尾藤景や本庄繁長は政虎に直訴しにきた。

至急再度部隊を小田原城に展開して総攻撃を主張したが政虎は彼らの意見を受け入れなかった。

関東の拠点の古河城まで戻りここを拠点にして今後を考えると回答したのである。

越後に下向している関白近衛前嗣に機会を見て古河城に入城してもらいもう一度北条の返事を待ってそれから対応を練ることにしたのである。

武田が兵士を集めているとの情報も密かに軒猿からもたらされており政虎の不安の種にもなっていた。

藤景や繁長はそれでも譲らなかった。彼らに同調する者を引き連れて再度政虎に直訴しに押しかけて来たのである。

北条の返事など待たなくて今日の行動でもうはっきりしている 再考をと彼らは強く主張したのであった。

それでも政虎も譲らなかった。

関白が来れば彼らの態度も変わるという理由で政虎が再度強く拒否したので彼らも文句を言いながらもようやく引き下がったが後味の悪い一面になったのであった。


政虎が気になったのは藤景や繁長だけでなく一部の揚北衆や上野国に国人衆が彼らに同調していることも気がかりであった。

藤景や繁長の武勇は政虎も充分に認めていた。彼らは若く勇敢なので彼らと常に一緒に行動していた若手の国人衆、特に揚北衆や上野国の前線の兵士に人気があった。

繁長はまだ20歳そこそこであったが揚北衆の序列は中条藤資に続き2位で色部勝長よりも表向きは上である。これはもちろん政虎の配慮もあるが彼の実力由縁でもある。

藤景も繁長より少し年上であるが政虎の母方の栖吉長尾の一族で武勇に優れ前線の兵士から人気があった。

ただこの両者はもうひとつ共通点があった。

政虎に対して素直でない点である。

繁長は政虎との初対面のときから一悶着あった。言葉遣いだって乱雑そのものである。

政虎はあまり気にしていなかったが本庄実乃を筆頭に直江、宇佐美ら政虎の老人衆実は内心繁長の振る舞いを歓迎していなかった。

藤景にも複雑な事情があった。表向きは栖吉長尾の一族であるが実は三条長尾の血筋も強く受けていた。

三条長尾は政虎の父為景の時代にいざこざがあり三条長尾の本来の居城の三条城から三条長尾一族は追い出され、三条長尾の重臣の山吉氏が題目で入っていた。

追い出された三条長尾は没落し三条周辺で細々と暮らしていたがそのため本心では為景一門景虎や、栖吉長尾に反感を持っていると言われていた。黒田秀忠の乱の時も実は三条長尾が影で糸を引いているという噂は絶えなかった。特に春日山城や栃尾城を襲った名も無い土豪、伊勢三郎は土豪にしては戦い慣れしており、兵力も半端ではなかったので伊勢三郎は実は偽名で本当は三条長尾の平六俊景か誰かではないかと常々ひそかに言われていたのであった。黒田の黒滝城と藤景の下田城は三条長尾の勢力基盤のすぐ側でもあった。

もちろんその時の当事者が生き残っていないので確認しようがないのではあるが。

ただ政虎も藤景の実力を認めざるを得なかった。本来の居城の三条城の山吉よりも藤景の方が兵士の動員力は長けてた。三条城を追い出されたとはいえ地元での実力は充分に健在でその実力も越後では上位であった。それゆえ政虎の老人衆たちの警戒心も緩むことはなかった。特に本庄実乃は自城の栃尾城を襲われた経緯もあり彼を警戒していた。

事実、藤景の居城の下田城は栖吉城からは離れた三条長尾や揚北衆の領土の近くであった。


この鎌倉での記念すべき日は政虎にとって越後の不安定さを改めて感じた一日になったのである。


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