悩み
甲斐の府内の躑躅ヶ崎館の武田信玄の下に景虎からの親書が密かに届いていた。
平仮名書きの配慮の効いた丁寧な文章であった。
返答が遅れたことの詫びから始まり前回の勘助殿からのご要望了承いたしました・・至急お話しましょう・・と書かれていた。
信玄は景虎の親書を読み終わるともうひとつの親書にも目を通した。
北条氏康からの親書であった。
景虎が大軍を集めて小田原を目指しており至急信濃か上野に進入して背後から越後を脅かして越後軍を後退させて欲しいとの依頼文であった。
信玄も既に景虎が3万5千の北条氏政率いる北条軍を半分の1万5千の佐野との合同軍で唐沢山城で撃退し小田原に追い返した情報は知っていた。
信玄の娘の黄梅院の夫の氏政は一応義理の息子であるが政略結婚で義理の息子になっただけと信玄は氏政に対してはそれ以上の感情を持ち合わせてはいなかった。
感情があるとしたら大事に育てられたお坊ちゃま程度にしか思っていなかったがさすがに義理の息子とはいえ今回の無様な敗戦はいくらなんでも信玄も少しげんなりした。
(氏政の奴・・だらしない・・)
これが正直な気持ちであった。信玄は思わずぶすっと顔をしかめてしまった。
「唐沢山城の件ですか・・?」
信玄寵臣の弟の武田信繁が信玄の浮かない顔を見て察してきた。
「・・ふむ・・」
信玄は普段の表情に戻りうなずいた。
「・・さすが景虎ですな・・」
山本勘助は正直に言った。
信玄は軽くうなずき少し黙った後
「娘の氏政に対する気持ちが変わるかな?」
冗談っぽく言った。
「・・それは無いでしょう・・氏政殿は優しいのが取り柄ですから・・」
高坂弾正昌信が返した。
「・・黄梅院様がご懐妊のようで・・氏康殿は今回の敗戦どころではなく生まれてくるお孫さんのためにと小田原城に大規模な篭城作戦を指示しているとか・・」
信繁が少し呆れ気味に言った。
黄梅院は氏政に大変気に入られ既に子宝に恵まれていたが今年2人目を産む予定とのことであった。
氏康は氏政の今回の失態はお構いなしに産まれてくる孫に小田原城をしっかり渡すために必死に守りを固めていると言う。
「・・孫のためか・・ふぅむ・・」
信玄も気持ちはよくわかったが少々呆れ気味に言った。
「景虎が・・ようやく和睦に応じるようだが・・」
信玄は景虎の手紙に目をやると口を開いた。
「しかし同盟相手の氏康殿の救援依頼も断れますまい・・」
信繁が言った。
駿河の今川 甲斐の武田 相模の北条の同盟関係はしっかり機能していた。
甲駿相三国同盟である。
お互いの子息を婚姻させて行われた結束の固いものである。
信玄の娘の黄梅院が氏康の息子氏政に、氏康の娘が今川義元の息子氏真に、今川義元の娘が自分の長男義信にそれぞれ嫁いでいた。
「・・しかし景虎殿からの和睦も無視できませぬ・・」
高坂も信玄の気持ちを代弁するように言った。信玄が軽くうなずいた。
「困ったのう・・」
信玄はため息をついた。
「板挟みじゃな・・もてる男はつらいわ・・」
信玄はわざとらしくにやけ、頭を掻きながら悪い冗談を言った。
「今川は救援に行くのだろうかのう・・」
信玄は独り言のように言った。
駿河は今川義元が前年に桶狭間で尾張の織田信長の奇襲を受け戦死した後、息子の今川氏真が後を継いでいた。しかし義元に比べると氏真は精彩に欠いていた。義元の死後今川家に元々は従属していた三河の松平元康の独立を許し、その元康は尾張の織田信長と手を組み三河を巡り今川と争いになっておりそれほど余裕がないと聞いていた。この松平元康は後に江戸幕府を開くあの徳川家康である。
ただ氏康もそんな氏真にまで救援依頼を出していると言い氏康が相当慌てているのも事実であった。氏真も義理堅く軍を派遣する段取りだと言う。
駿河は義元亡き後氏真が一応後を継いでいたが実権は氏真の祖母の寿桂尼が国政を仕切っていると噂されていた。寿桂尼は氏真の祖母、義元の母にあたるが実は義元以上に権力を持っているのではとの噂も以前よりしきりであった。義元の駿河の大名になった経緯も複雑で彼は元々跡取りではなく無用な跡目争いを避けるために寺で出されて僧になっていたのだが今川家の後継者争いの時に義元の実母である寿桂尼の強力な後押しを受けて還俗して力づくで今川を受け継いだという。義元を押し立てた寿桂尼は女戦国大名と密かに呼ばれていた。
信玄も彼女には借りがあった。信玄の妻である三条の方の縁談の斡旋をしたのは実は彼女であった。なぜ今川義元の母が信玄の妻の斡旋をしてくれたのか言うと義元の妻、定恵院は信玄の実姉であった。彼女は天文19年(1550年)に既に亡くなっていたが先ほども話したように義元と姉の間に生まれた娘の嶺松院が今は息子の義信の元に嫁いでいた。
そのような縁で駿府には信玄が追放した父信虎も身を寄せていた。
血縁関係上ではお互いに離れられないような深い関係になっていたのである。
「それにしても・・甲斐の上 越後は景虎・・下の駿河は 寿桂尼か・・手ごわい女子衆に挟まれておるわ・・」
信玄は苦笑いしてしまった。
信玄は景虎の関東管領就任を歓迎していなかった。源氏の系統で家柄の高い武田より家柄の低い平氏の長尾が自分より高い官位を得るのが不愉快だったのである。関東管領の統治国に甲斐が含まれているのも不愉快であった。しかしそれは表向きの理由で本音は景虎が関東管領に就任したことによって甲斐や信濃の土豪に動揺が見られた点の方を懸念していた。
特に外様ではあったが優秀な真田幸隆までもが関東管領就任祝いの挨拶に行きたいと申請があったときは正直驚いた。
この時は信玄は許可するつもりはなかったが勘助や弾正が今景虎の機嫌を損ねることで景虎との和睦交渉の障害になってはならない、また逆に許可しないことによって甲斐領土内での関東管領の地位を上げかねない、幸隆の自由にさせるべきと主張したので渋々であったが許可したのであった。
表向きは信玄は関東管領の地位など興味も関心が無いように振舞ったのである。
信玄は景虎に関東管領として大きな顔をされるのも嫌であったがその一方実力は認めざるを得なかった。今まで景虎率いる越後軍とは川中島で三度戦い信玄が言うには姫様への手加減と自分の気持ちもあって本気になったことはなかったが、それにしても景虎の自分に対して一歩も引かない態度と今回唐沢山城で北条氏政の大軍を破ったことで景虎の実力を認めざるをえなかった。
信玄は以前より斉藤道三亡き後の美濃に行くと公言していたが実は本音は少し変わりつつあった。
義元亡き後の駿河が気になりだしたのであった。
松平元康も三河の次に遠江、駿河を狙っている噂され急に黙っていられなくなったのであった。
美濃は都に近く国土も肥えている。美濃全土を治めるのは無理としても玄関先の濃尾平野の東端の遠山城くらい押さえておきたかった。信玄が美濃に興味を持ったのは斉藤道三が息子の斉藤義龍に討たれたと聞いたからである。大名の変わり目は国捕りの絶好の機会と捉えたのであった。
しかし道三の跡を継いだ斉藤義龍が予想以上に優秀な武将で今川義元をあっさり葬った織田信長でさえ手を焼いており何度も追い返されていた。信玄も一筋縄ではいかないと気が付いたのである。
それで急に駿河に気が向いたのであった。しかし駿河に入れば今川と北条との同盟が破綻する可能性があった。
甲駿相三国同盟、息子義信と義元の娘の婚姻、姉の件、父の件、氏政に嫁いだ娘の黄梅院の件など先ほどの話の繰り返しになるが障害だらけであった。
さすがの信玄もこの件は表立って口には出来なかった。
もし口にした場合家臣団の動揺は景虎の関東管領就任以上が予想された。
特に息子の義信は人質夫婦とはいえ今川から嫁いだ義元の娘嶺松院とは仲が良かったし義信の後見人である飯富虎昌は信玄の重臣、いや父信虎時代からの武田家の重臣中の重臣で武田四天王の一人と称される勇猛な武将である。下手をすると甲斐が分裂しかねなかった。そのために信玄もいつ話を切り出したら良いかも自分でもわからなかった。それほど微妙な問題であった。
ただ信玄は松平元康に取られるくらいならなんとしても駿河が欲しかった。もちろん甲斐のためでる。そして目指すは・・まだ夢の夢であったが西進して都であった。
景虎は関東管領にしか興味がないと聞いていたのでそれを満足させれば自分の邪魔はしてこないのではと思ったのである。
ただ万が一にも北条が景虎に下るとその勢いで景虎が気分を変えて関東管領名目に甲斐に来る可能性もなきにあらずであった。
小田原から甲斐は奥多摩や小仏峠を通ってすぐである。
その場合は即に和睦である。景虎が今川や徳川、織田と組まないようにすることが必須であった。
ただ信玄の本音は北条を滅ぶほど弱体化させずに景虎の基盤も現状のままが彼の希望であった。
景虎をとるか北条をとるかではなく両天秤かけたかったのであった。
「はてはて・・どうするかのう・・」
信玄はあれこれ考え頭を悩ましていた。
いろいろ悩んだがまずは同盟を優先し北条を援護することにした。もちろん小田原が落ちないという前提である。
小田原が持ったら氏康の要望通り川中島にちょっかいを出すことにした。
氏康は景虎を挟み撃ちするために上野への侵入を希望していたが上野は越後の関東への重要な出入りである。景虎を本気にさせたくなかったし西上野の箕輪城にはうるさい長野業盛もいた。信玄は景虎と本気で争うつもりはなかったので越後軍をおびき出して北条に恩を売る程度にしたかったのである。
唐沢山城から越後軍陣地に戻った景虎は皆をねぎらった。
「あんまり無茶はしないでくださいね・・」
長尾政景らを中心とした留守役の家臣団は少々辟易していたが・・
佐野昌綱をねぎらった後、景虎ら越後軍は一行は関東の拠点の厩橋城に戻った。
だが唐沢山城の戦いの勝利は大きかった。
唐沢山城での勝利で関東の諸将の気持ちが一気に景虎側になびいたのであった。
元々上杉憲政の家臣でその後氏康に従っていた智将二人がまず景虎に味方することになった。
武蔵野国松山城と岩槻城主、大田資正ともう一人の古河公方、足利藤氏の祖父にあたり今回氏政らが放棄した関宿城をそつなく乗っ取った簗田晴助である。
この二人の工作のおかげで武蔵国からはさらに忍城城主の成田長泰も景虎に付くことを伝えてきた。
北関東からも北条に敵対する常陸国の佐竹義昭、小田氏治、下野国の宇都宮広綱、小山秀綱、那須資胤、房総からも下総国の結城晴朝、上総国の里見義弘が参上することを伝えてきた。
唐沢山城の勝利で小田原攻めの充分な兵力を集めるのに成功したのであった。
景虎も越後随一の自慢の猛将、柿崎景家、宇佐美定満と肩を並べる春日山の智将で留守役直江景綱を呼び寄せ万全と体制をとった。春日山城の警備が手薄になるが和睦の返答を出した以上信玄もおそらく動かないであろうと判断したのである。
景虎に呼び出され早速厩橋城に到着した直江と柿崎はなぜか冴えない顔をしていた。
そしてその到着次第の第一声は意外な言葉だった。
唐沢山城の勝利祝いではなく
「近衛殿をいつから春日山の番人にされたので・・」
であった。
「何?まだ春日山にいたのか?」
中条藤資が驚きの声をあげた。景虎も驚いた。
実は前年永禄3年(1560年)の春に日本海航路を使って近衛前嗣が越後に来ていた。
何かをしに来たのではなく表向きは景虎が建立した越後宝幢寺の建立式典に来たのである。この寺の建立式典の主賓は以前上洛時に女人禁制の高野山に行ったとき白拍子の格好をして無理矢理入れてもらい世話になった高野山の高僧、清廉にお願いし越後まで来てもらっていたのだが前嗣がどこでその噂を聞きつけたのか清廉と一緒に来てしまったのである。
もちろん景虎も前嗣の下向の件は前回上洛時に了承はしていたが正親町天皇の即位式が終わってからと決めていたので即位式の前に着たのははっきり言って予定外であった。
景虎も朝廷との関係を重視していたので即位式をほっぽりだしてまで越後に来た前嗣の熱意や気持ちに感謝しつつも対応に苦慮していた。
苦々しい顔をしている三好長慶や足利義輝の顔を思い浮かべてしまったのである。
もちろん朝廷や幕府を怒らせて関東管領の就任の件が取り消しになるのも怖かったのである。
しかもこの年は春先まで景虎に味方する椎名康胤に頼まれて神保長職討伐に越中に、夏には打倒北条のためにすぐに厩橋城に出発する予定で前嗣どころではなかった。
景虎も前嗣に正親町天皇の即位式には出席してそれから関東下向を何とかお願いし、前嗣も了承したように見えたので景虎も安心して厩橋城に出陣して行ったのであるが前嗣は結局都に戻らず春日山にそのまま居座っていたとのことであった。
前嗣の正親町天皇の即位式の欠席の件は清廉や京都留守役の神余親綱が朝廷や幕府へ理由付けをしてくれたようで特にお咎めが無く景虎はそれが何よりも一安心であったが。
ただ再度清廉には再度世話になってしまったが。
直江も柿崎も前嗣が春日山城にしばらくやっかいになるかもしれないとは聞いていたがこれほど長期になるとは予想していなかった。景虎も然りである。またおそらく直江や柿崎と公家の文化が合わなかったのであろう、それで辟易しているようであった。
「春日山城を出るときもまろを連れて行け連れて行けと・・まったく 公家様のお守りはとてもできませぬわ・・」
柿崎もほとほと呆れ気味であった。
「ご苦労だった・・とりあえず北条が一段落ついてから関東に出てきてもらおう・・」
景虎もため息をつきながら言った。
「・・何度も言っておりますが北条は手強いですぞ・・そう安々と・・」
思わず宇佐美が口うるさく口を挟んだが
「・・わかっている・・」
景虎はすぐに遮った。
「しかし本気で下向するつもりだったとは・・驚いたな・・」
色部勝長が感心していた。
「即位氏が面倒だったので遊山気分で都に帰らなかったんじゃないのか・・」
長尾藤景はうがった見方をしていた。
「・・フン・・足手まといは御免だな・・」
本庄繁長も公家に何が出来るかと言わんばかりに言った。
「・・二人とも関白様に無礼な事を言ってはならぬ・・権威は大事だ・・それで戦が収まることだってある・・」
珍しく景虎が藤景と繁長をとがめた。
「・・そううまく行くかな?」
繁長がまだ不満そうに言った。
「・・そのためにわざわざ都に行ったのだ・・何としてもうまくやる・・」
景虎も厳しい顔で返した。
本庄実乃 直江景綱 宇佐美定満は景虎の権威を前面に押し出してやるやり方に黙ってはいたが内心は今の時代では通用しないとは思っていた。若手の間でも長尾藤景や本庄繁長のように景虎の古典的な権威主義な点は不満に思う者もいたがしかし実力が最後である。
景虎の酔っ払い運転癖や情緒的で感情丸出しの判断にはみな辟易していたが戦の時の神懸り的な作戦能力はみな景虎の実力として認めていたので付き従っていたのである。
ただ越後の実情は表向きは団結していたが実態は緩やかな領主間連合に過ぎず景虎が直接支配している地域は少なかった。支配地域だけで見ると景虎も小領主であった。それでも景虎の財政が豊かだったのは日本海交易や青苧の独占、偶然越後にたくさんあった金山銀山の莫大な純利のおかげであった。
しかしこれは逆の不幸を生み景虎は領土には関心を示さなかったのであった。これは後の越後の諸問題にも繋がっていく事になった。
春になり景虎の元には予定通り関東諸将が軍勢を率い続々と集まってきた。
実に予想以上に10万近い大軍が集まったのである。
有名武将意外に見ず知らずの土豪たちもたくさん来ていた。
今回は景虎の影武者の千坂が最初に対応した。今までの景虎役の経験が物を言い彼の景虎役の演技は手馴れたものである。景虎は今回は千坂役になった。千坂が自分がいないと不満気味だったのと指揮が必須であるからである。髪を烏帽子内に束ね常に千坂の後方隠れるように入り目立たぬようにした。相変わらず男装の麗人なので余計に疑われるのがいやであったからでもある。
佐野昌綱は今回は唐沢山城での戦いからの復興で参戦しなかったが景虎にとっては逆に好都合であった。
ただ情報に鋭い太田 簗田 成田は影武者の千坂を勘繰っており成田にいたっては千坂役の景虎に近づきじろじろ彼(女)を見つめて景虎を困らせていたが。
厩橋城に集まった大軍に
「それにしてもすごい数じゃのう・・」
中条藤資が思わず驚きの声をあげた。
城に入りきらない兵士が周囲に溢れている。
「一気に北条を落とせるな!」
北条高広も満足げだった。
「おぬし代わりに小田原をもらったらどうか?」
中条が冗談を言った
「小田原城主はホウジョウからキタジョウに領主変更か!漢字は同じ!書類の手間が省ける!悪くない!」
北条もまんざらではなかった。
「なにを阿呆な話しとるんじゃ・・」
宇佐美が口を挟んできた。
「なんじゃ・・否定的じゃのう・・宇佐爺は北条を買いすぎじゃないのか・・?」
北条が口を尖らせた。
「小田原城は手強いらしいぞ・・すごい城らしい・・簡単にはいかんじゃろう・・」
宇佐美が軒猿からの情報を正直に伝えた。
長尾藤景も心配そうであった。
「奴ら見てみろよ・・兵士か?あれが・・」
心配そうに集まっている兵士を指差した。
越後軍とは違い装備や武装はばらばらで丸腰の農民と区別が付かない者もたくさん混じっていた。
「これは面倒だな・・」
斉藤朝信も暗い顔をしていた。
彼らは統制が取れないことを危惧していたのである。越後軍の強さは統制であった。
景虎の命令に迅速に動くとこが強さの秘訣であった。
それが出来なければ越後軍もただの鈍い大軍となんら変わりがなかった。
統制の取れない鈍い大軍が意外な脆さを持っているのは桶狭間で織田信長が今川義元討ちとった時に証明している。
景虎も不安そうに集まった兵士を眺めていた。聞けば10万近くも集まったという。
関東管領の名の下に予想外の大軍が集まって荘厳であったがこのような大軍は景虎も誰も扱ったことがなかった。正直言って不安であった。
しかも越後軍だけでなく他国との合同軍であった。何もかも初めてづくしであった。
「狼藉は禁止せよ・・」
早速命令を出した。関東管領軍は正規軍である。正規軍が狼藉などしてたら賊軍である北条軍と逆になってしまう。命令は厳守するように伝えた。守れなければ厳罰に処すと伝えた。
しかし景虎の不安は早速的中した。
兵力が大き過ぎて補給に大きな弱点を抱えていた。前年より厩橋城に食料など大量の補給物資を搬入していたが集まった兵士の数が予想以上で不足は目に見えていた。
しかも実は関東は前年より飢饉に襲われ著しく食料が不足しており徴収も芳しくなかった。この食料不足時にまず北条軍の唐沢山城合戦に始まり今回の小田原城攻防戦で大軍が動くことによる農村部から食料の強制徴収で関東の農民が悲鳴をあげていた。
関東管領軍内部でも未曾有の大軍で統制が取れないと最前線の将校の斉藤、北条、繁長や資景からも悲鳴が入ってきた。
待機していればしているほど食料ばかり無意味に消耗され、士気は乱れていく。
結局大急ぎで無理を承知で小田原に向けて景虎は10万の大軍を出発させた。
しかし関東管領軍の兵士たちの狼藉は甚だしいものであった。景虎は狼藉を認めてなかったが統制が取れない軍隊では無理であった。
今回の参加者には個人的な北条への私怨や単なる稼ぎの場所として参加している者も多かったのであった。北条領土内での激しい狼藉のおかげで越後軍 および関東管領軍は完全に北条領内の農民や地元土豪の反発を買ってしまった。
このツケは景虎にも後に大きい形でまわってくることになる。
一方氏康は兵力差が大きく、野戦では不利と悟り早々に相模の小田原城や玉縄城、武蔵の滝山城や河越城などへ部隊を篭城させていた。
本来であれば一つずつ順番に篭城している城をつぶして行くのが王道であるが食料不足や統制の問題もあり今回は小田原城の氏康との直接勝負で一気に決着をつける作戦にした。
景虎率いる越後軍 関東管領軍は北条軍の支城の玉縄城 滝山城 川越城を通り過ぎ本拠地小田原城に真っ直ぐ向かったのである