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越後の虎  作者: 立道智之
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伊勢姫

景虎は厩橋城での新年の祝う酒の席で越後衆に囲まれていた。

新しい年を新しい地、関東で迎え華々しい年明けになるはずであったが景虎は不機嫌だった。

不機嫌でそのうえ不満であった。

年明け早々北条氏康が景虎に対して大規模な戦の準備をしているとの情報が入ってきたからである。

関東管領だけではなく幕府に対しても従うつもりは無いと言わんばかりの対応であった。

新年の挨拶の酒の席で景虎はぶちまけてしまった。

「どうして幕府の言うことが素直に聞けないんだろう・・」

酒を少しやけ気味にぐいっと飲むと口を少し尖らせながらため息混じりに言った。

足利将軍家や関東管領の言うことを聞かない氏康の事を言ったのであった。

「実は北条じゃないからでござるな・・」

酒で少し赤い顔になった宇佐美定満が言った。

「伊勢とかが本名らしいですぞ・・」

本庄実乃も続いた。

氏康は北条を名乗っているが彼の祖父の北条早雲は実はどこの馬の骨か分からないとの評判であった。出身地も伊豆とも伊勢とも備中とも言われよく分かっておらず、都の幕府に仕えた後それを見限ってか出奔し今川に嫁いだ妹の縁で今川に仕えたとも言われ、名前も若い頃は伊勢新九郎とか名乗っていたという。

確かなのは下克上の世の流れに乗って一代で大名まで登り詰めたのであった。

宇佐美の言う北条ではないとは鎌倉時代の執権の北条氏とは血縁関係が無いと言うことである。そのために彼らを後北条と言うこともある。

「伊勢氏か・・因縁があるなぁ・・」

景虎はぼやいてしまった。

他の者は景虎が何を言っているのか分からなかったが新兵衛や実乃はすぐにわかって彼らも思わずくすりと笑ってしまった。

景虎初陣の時、栃尾城に攻めてきた伊勢三郎を思い出してしまったのである。

もっとも最近になって伊勢三郎の方は、伊勢が偽名で本名は為景時代から不仲な三条長尾氏の関係者の長尾俊景ではないかとの噂の方が絶えなかったが。三条長尾氏、三条城は現在は彼らの重臣の山吉氏によって運営され下野したような形になっており同じ長尾一族でも景虎たちに不満があったのは事実であった。

「早雲も堀越公方を滅ぼしていますからな・・幕府に反抗的なのは彼らの血筋でしょう・・」

宇佐美は続けた。

堀越公方とは室町幕府が古河公方、関東管領の上杉氏と政治的にもめた際一時的に存在した公方である。

京都から派遣されてきた室町幕府の人間が鎌倉の古河公方に対抗する組織として作ったが鎌倉に入れず仕方なく伊豆の堀越に作ったので堀越公方と言う。

実際関東国人衆からの支持はほとんど受けられなかった。

今川氏に仕えていた時、彼は後継ぎ問題で内紛を起こし弱体化し、関東の指示を得られなかった堀越公方を滅ぼしその堀声公方があった伊豆を拠点に相模も平定し後の北条氏の基礎を作るのである。

「一度逆らってしまったのでなんとも思わないんでしょうな・・」

長尾政景も続けた。

「・・だから自分にも逆らうのか」

景虎も苦笑いししてしまった。

政景も苦笑いしながらなずいた。

「早雲ではありませんが・・最後は実力でしょうな・・」

実乃が静かに言った。

景虎は本音では武力衝突は避けたかった。

「実力か・・」

景虎は思わず黙ってしまった。


「まぁ ワシらにお任せあれ・・!」

北条高広、中条藤資たちは少し酔いが回ったのか上機嫌になっていた。

「これこれ・・あまり調子に乗るではないぞ・・」

宇佐美が呆れ気味に言った。

「後北条の早雲が西国の備中出身ならこっちにも安芸毛利と血の分けた北条キタジョウがいるからのう!大丈夫じゃ!」

中条が騒いだ。

北条高広は鎌倉時代の源頼朝の重鎮、大江広元の四男、季光を祖とし越後に行ったのが北条、安芸に行ったのが毛利で家紋は同じである。

「おう!同じ漢字でも魚燐(後北条旗)ではなく一文字に三ツ星 毛利の印じゃ! 」

北条が太い腕をまくって見せた。

「それにしても前から聞きたかったんじゃがなんであんなに印が小さいんじゃ・・」

色部勝長が聞いてきた。

北条の旗の家紋の印は毛利と同じだが隅の方にちょこっと小さく記載されている妙な物であった。

「・・一応な・・毛利に遠慮しとるんじゃ・・」

北条がぼそっと意外な一言を言った。

「おぬしにも遠慮があるとは・・」

斉藤朝信が冷やかした。一同大笑いであった。

「それにしても関東は広くていいわ!是非だな!」

北条は終始ご機嫌であった。みな大盛り上がりであった。

景虎は彼らの盛り上がりを笑いながら少し呆れ気味に見ていたが、本当は彼らが盛り上がった意味が良く分かっていなかった。

彼らは北条を打ち破った暁には暗に恩賞で関東を分けて欲しいと言いたかったのであった。子息たちを連れてきているのはその意味もあった。息子たちに分けて欲しかったのである。

だが景虎は土地など興味がなかったのであった。本当に意味が分からなかったのである。


一方宇佐美や実乃は彼らと違った見方をしていた。

何度も言うが北条がそう簡単に折れるとは思っていなかったのである。長期戦になると考えていたのであった。

越後衆が初陣の子息を連れてきてぬるい戦になると考えていたのに対して激戦になる可能性を懸念していたのである。


1月も中旬にもなるとはっきりした情報が入ってきた。

北条が軍を北進させこちらに進撃してきたとの連絡が入ったのである。

景虎の予想よりも早い動きであった。

老人衆たちの懸念は残念ながら当たってしまった。

「脅しでありましょうな・・」

宇佐美が静かに言った。

景虎も暗い顔でうなずいた。

景虎は北条と戦うため関東の諸将に味方になるよう催促し味方するとの連絡を取り付けていたが氏康がその前に先手を打ってきたのであった。景虎の元に関東の諸将が馳せ参じる前に牽制の行動を起こしたのである。

景虎に味方すれば氏康が成敗すると行動で表してきたのである。

景虎は越後軍に出陣を急がせ関東の諸将にも再度味方し厩橋城まで集結するよう催促をかけた。

景虎は越後軍の準備が出来るとすぐに南下を開始した。この氏康北進の知らせを聞いて関東の諸将が動揺していると聞いたからである。それを鎮めるための行動でもあった。


冬の関東平野は越後と違い雪こそなかったが北風が厳しい。

毎度のことだが景虎は冷え性かどうかわからないが寒いのが苦手であった。

いつものように顔に愛用の純白の越後上布をぐるぐると巻き僧兵の行人包みのようないでたちであった。もっともこの格好は防寒以外にも景虎の本性が分かりにくいという面でも意外に効果を発揮し景虎が女とばれるのをいやがる越後兵の間では評判がよかったが。

景虎は今回は男装の麗人千坂役である。

千坂本人は麗人ではく武勇の男の表現が似合うが景虎役である。

最も景虎は戦局をどうするかそのことで頭がいっぱいであったが。


北条軍の情勢は逐一景虎に入ってきた。

大将は氏康ではなく長男の氏政、兵力は3万5千と予想外に大軍であった。

これを聞いて関東諸将の軍の到着を待って兵力を整えてからぶつかった方が良いとの提案が出て景虎も一度は了承したがそれを許さぬ状況が差し迫っていた。


北条軍は佐野昌綱の唐沢山城(栃木県佐野市)を既に包囲して攻撃しているとの情報が入ってきたのであった。

唐沢山城は北条にとっても景虎にとっても関東の重要な拠点であった。

昌綱が7千の兵を率いて必死に防衛しているとのことであったが相手が大軍だけあって相当に苦戦しているとの情報が入っていた。

越後軍内でも

「3万5千の軍に8千では無理です・・」

と景虎以外の家臣はみな今回残念だが彼を見捨てて数が揃ってから再度唐沢山城を奪い返して北条と決戦に備えるべきと主張した。これも戦国の掟であると。

が景虎は既に決めていた。

そのまま唐沢山城への進軍を命じたのである。

「8千で3万5千を相手する無謀過ぎる・・」

と、みな反対したが景虎は真面目な顔で言った。

「昌綱殿が関東管領のために命をかけて戦っている・・放ってはおけない・・」

これは半分事実であった。

昌綱が関東管領のためではなく存続の危機のお家のために戦っていたのであるがここで景虎が軍を出さなかったら関東国人衆の離反は必死であった。行かざる得ないのも事実であった。

「何か策があるのか・・」

みな不安げに景虎に聞いたが

「氏康も8千の精鋭で8万の大軍を破っている。越後兵でその半分以下の3万5千の軍を破るなどたやすいであろう・・」

景虎が厳しい顔で言った。本心で言っているかのそうでないのかわからなかったのでみな黙ってしまったが。


唐沢山城に到着すると既に城の周りは北条軍にびっしりと囲まれていた。

遠目に見ても落城寸前であった。

越後軍はすぐに唐沢山城を取り囲む北条軍の西側に布陣したが北条軍は越後軍には目もくれていない感じであった。

景虎は黙って遠目の落城寸前の唐沢山城を眺めていた。

景虎も正直迷っていた。情勢はそれほど悪かった。

「これは・・持たんな・・」

宇佐美がつぶやいた。

持たないとは無理に越後軍が押せば越後軍を無視して北条軍が一気に唐沢山城に総攻撃をかける可能性があり逆にそれでは落城するという意味である。

「北条に打撃を与えることは出来ますが佐野殿も持ちませんぞ・・」

実乃も正直に言った。

「わが軍にも相当な覚悟が要ります」

政景も言った。

「確かに・・今無理押しすれば唐沢山城は落城し、昌綱殿は落命するであろう。助けに来たのに殺してしまったと景虎は後の世の笑いものになるだろう・・」

景虎も言った。状況を悟ったのである。

「昌綱殿には降伏させて我々もすぐに撤退しましょう・・」

宇佐美が言った。

景虎は黙っていたが

「少し考えたい・・」

と言った。

「・・北条は我々をおびき寄せるために佐野殿をわざと生かしている可能性もあります。長期布陣は危険なのをご承知を・・」

政景も言った。その可能性もあった。景虎はうなずいた。


氏政の元にも越後軍が到着して唐沢山城の西側に布陣したとの情報がもたらされた。

越後兵の数は8千と思ったよりも少数であった。

今のところ動きがないとのことであった。

「越後軍はあまり気にするな・・引き続き佐野攻めを続けろ・・夜襲だけは気をつけろよ・・」

氏政は命令を出した。

今回の最大の目的は唐沢山城を落城させ昌綱を討つことであった。北条に逆らえばこうなるとの関東の諸将に対する見せしめである。越後軍と戦う必要はなかった。

氏政にも事情があった。唐沢山城はなんとしてでも落としたかった。

隠居しながらもいつまでも口を出し続ける父氏康にも良い所を見せたかった。

氏政は名前ではないが政治は長けていた。文化教養もたしなみ貴族的な雰囲気があった。その分正直戦は苦手であった。今回大軍で来たのはそのためである。

戦はこの後も武勇に優れた北条氏照、氏邦ら弟たちに任せることが多く本人が陣頭で指揮をとることはあまりなかった。


景虎は陣中で引き続き迷っていた。毘沙門天の前で悩んでいた。

無理押しすれば逆に北条を煽って昌綱を危険にさらしかねない。しかしここで逃げ帰ったら北条の思う壺であった。関東諸将はみな北条を恐れていっせいに北条になびく可能性があった。そうなると今までの計画は水の泡であった。関東管領の威厳も失墜する。

景虎は決意した。


翌日越後軍は大騒ぎであった。

景虎はなんと甲冑もつけず黒い木綿の道服のみを着、白綾の鉢巻を付け、烏帽子の中に髪を束ねた妙な格好をして、普段の淡い茶色の愛馬放生月毛と違う真っ黒な黒馬に金覆輪の鞍を置いて十文字槍を携えて出陣の準備をしていた。

景虎の周囲には千坂 新兵衛 弥太郎 秋山源蔵 戸倉与八郎 ら精鋭10騎足らずが甲冑を着込み準備を終えて待機していた。

家臣一同は仰天していた。何を突然するのか・・

景虎は懐にいつもしまっているあの毘沙門天に武運を祈った後、枡いっぱいの酒を静かに飲んで黒馬にまたがると少数の取り巻きと陣を出発しようとしていた。

「お、お待ちください・・!」

騒ぎを聞きつけ実乃、宇佐美、政景が飛んできた。宇佐美が慌てて景虎に声をかけた。

「何という格好で・・何をされるおつもりで・・」

実乃が唖然と景虎を見つめた。

「気概を示したまで・・これから出陣する・・」

景虎は静かに答えた。

気概とは世を捨てるぐらいの覚悟があるということを言いたかったのであろうが。

「無謀すぎます!おやめくだされ!」

冷静な政景が珍しく青ざめて声を荒げた。

「昌綱殿を助けるためにはこれしか方法がない・・運を天に任せ敵中突破して唐沢山城に入り、中の味方の士気を上げることこそが大事かと・・景虎はまだ昌綱殿・・いや関東を見捨てていないと・・」

景虎は冷静に言った。

「あなたが倒れたら・・すべて終わりなんですよ・・!」

実乃も声を震わせながら言った。

景虎は黙って顔色ひとつ変えなかった。

無表情に唐沢山城を見つめていた。人の話を聞いているのかどうかも分からなかったが。

「新兵衛殿も・・千坂殿までも・・何をやっておられるか・・!」

慌てて駆けつけてきた本庄繁長が新兵衛 千坂に八つ当たりした。

「阿虎様のご命令に従ったまで・・」

千坂 新兵衛は顔色ひとつ変えずに言った。

「それを止めるのもおぬしたちの役だろうが・・!」

藤景も続いた。二人は黙ったままであった。

「本軍は待機・・戦が始まったら出陣するよう・・」

景虎はみなの怒りを遮るかのように静かに言った。

「本当におやめください!危険すぎます!」

実乃が再度大声を出した。

「・・私は毘沙門天の使いだ・・死にはしない・・」

景虎は静かに言った。

みな一同唖然としていた。

「・・無礼をお許しを!姫たちを行かせるな!止めろ!」

政景が足軽に命令を出した。

命令が行き渡る前に

「出陣!」

景虎が大声をだすと10騎の騎馬は本陣を飛び出して行った。

越後兵たちは呆然とそれを見送っていた。

景虎達の姿が見えなくなると宇佐美が大声で指示を出した

「全軍!出動準備!いつでも動かせるように!」

「合図あるまで動くな!絶対にな!」

実乃も命令を続けた。

「また・・飲酒運転か?」

騒ぎを聞きつけ遅れてやって来た北条は呆れていたが。

「おてんば姫も大変じゃのう・・まぁしかし北条の反応も楽しみじゃな・・」

色部も続いた。

斉藤も苦笑いをしていた。

大丈夫であろうと言わんばかりの態度であった。

「阿虎様のことだ・・なんか奇策でもあるんじゃろうって・・」

中条もあまり気にしていないようだった。

「酔いが冷めたら怖くなって帰ってくるって!」

北条も笑い飛ばしていた。

「悠長なことを・・何があったらどうするんじゃ・・!」

政景は彼らを戒めたが本心では何かあるんだろうと気もしなくはなかった。

しかし相手は初めて戦う北条である。しかも3万5千の大軍である。

万が一を考えるのも留守役の仕事であった。

「何かあったら・・直接氏政本陣を叩く・・三途の川へ道連れじゃ・・」

政景が独り言を言った。

「勝手に動くなと言われておるじゃろう・・」

宇佐美が政景に一言申したが

「・・まあ・・今回はおぬしに賛成するわ・・」

宇佐美も続けた。政景もうなずいた。

「それにしても・・まったく・・たまらんな・・」

藤景が思わずつぶやいた。

「お手並み拝見だな・・」

繁長も呆れながらも様子を見守るしかなかった。


越後軍本陣を出発した景虎一行は唐沢山城の南に向かっていた。北条軍の周囲を回るように移動した。

「それにしてもすごい数じゃのう・・」

弥太郎が思わず感嘆の声をあげた。唐沢山城の周囲ぐるりと全て北条軍だらけであった。

そのせいか逆に景虎たちは気づかれなかった。厳密には北条軍の中にも景虎たちに気づく者もいたがまさか越後軍とは思われなかったのである。妙な格好の集団とは思っていたようだが・・。しかも少数であったゆえにおかげで彼らが気に留めている様子はなかった。

景虎たちは難なく城の南側の大手門に至る道に出た。

大手門までは一直線である。途中で氏政の本陣の近くの横を通る。当然北条兵もたくさんいる。


景虎は少し様子を見ていた。何か考えていた。

みなの様子を見ると少し緊張しているようであった。

みなも景虎が早く酔い覚めしてくれることを内心祈っていたが。

「どうします・・?」

千坂が冷静に聞いてきた。

「ハイハイと通してくれるかな・・?」

与八郎はいつもの例の口調で言った。

「ワシらはいつでも覚悟は出来ていますがな・・越後の事、姫の事を思っている人たちが居る事を忘れないでくださいな・・」

新兵衛も冷静に言った。暗に無謀なことするなと言ったのであったが。

「越後の事を片時も忘れたことなどない・・みなの事だって忘れたことなど一度もない・・みなのことが好きだからな・・私を大事にしてくれるし・・自分の家は大事だからな・・越後あっての私だ・・」

景虎は冷静に言った。

「分かっておられるのであれば結構で・・」

新兵衛は冷静に言った。

「私に任せて欲しい・・私が先頭を行く」

景虎は烏帽子を脱ぐと中の束ねていた髪をはらりとほどいて髪を垂らし、鉢巻をほどき、十文字槍や太刀を他の者にあずけて丸腰になると馬をゆっくり走らせ始めた。

黒い道服がやけに目立ち尼のようであった。

「行くぞ・・続け・・」

新兵衛が命令を出した。みな景虎に続いた。


北条軍の警備の兵士が陣地に何か接近してくるのに気が付いた。

「なんじゃ・・?」

警備の兵士は目を凝らして接近して来る物を見た。

騎馬武者の一団のようであった。

ただ先頭の武者らしき者は甲冑もつけず黒い木綿の道服のみを着、黒馬に金覆輪の鞍を置いていた。髪を垂らして一見女のようであった。

「尼さんか?いや・・姫様か?」

北条軍の警備の兵士が不思議そうに声を出した。

女騎めきみたいだが・・違うか?」

別の兵士も声を出した。

「いや・・先頭の奴は丸腰だ・・」

事実先頭の景虎は丸腰であった。

隊長格の男が声を荒げた。

「ばか者が・・味方かどうか聞いているんだよ・・」

旗を見て

「越後兵のようですが・・女のようです・・」

警備の兵士は答えた。

隊長格の男は

「えちごへい?おんなぁ?」

と思わずすっとんきょうな声を出してしまった。

隊長格の男は小次郎といった。

小次郎もゆっくり接近してくる騎馬を見た。数は10騎のみである。

10騎で3万5千の大軍に挑むはずなど考えられなかった。

しかも越後軍の布陣している西側からではなく南から来た。

「おかしいな・・越後軍の旗だが南から来たし・・10騎で挑んでくるとも考えられん・・なんだろう・・?」

小次郎も悩んでしまった。

「この辺の武将は越後側に付いている者が多いので危険を避けるために越後軍旗を掲げているんじゃないですか?」

警備の兵士が言った。

確かに一理あった。危険を避けるために味方が偽装して来ることも考えられた。

しかしなんで女が危険を犯してわざわざ戦場まで来たのか分からなかった。

「・・氏政殿のお気に入りの姫が戦勝祝いに来たんじゃないですか?」

一人の兵士がいやらしい顔でそれらしいことを言った。

「お前・・冗談でもそんなこと言うたらいかんぞ・・」

小次郎は警備の兵士をたしなめた。

氏政は真面目でそのような俗なことはしないと言いたかったのであった。

だいたい氏政は既に結婚して正室がいた。黄梅院である。武田 今川との同盟で信玄夫婦から人質で来た正室であったが・・

しかし彼も思わずなぜか納得してしまった。

「しかし・・そうかもしれんな・・」

唐沢山城が落城寸前だったからである。

(しかし・・姫様が来るとは・・そんなことあるかいな・・?)

いろいろ考えているうちに、やがて景虎たちが彼らの前に到着した。


「寒い中・・警備ご苦労様です・・」

景虎は小次郎に挨拶した。

男は少し驚いた。声をかけてきたのがやはり女であったからである。

「失礼ですが・・いずこの方で・・なんの御用で・・?」

小次郎が景虎に聞いた。

先頭にいた女性は戦場であるにもかかわらず甲冑もつけていなかった。黒い木綿の道服のみを着、髪を垂らし、黒馬に金覆輪の鞍を置いた妙ないでたちで尼にも見えた。

「越後に落とされた平井城の千葉采女のところの伊勢姫と申します・・氏政様に所領復活のお願いと今回の戦の戦勝祝いのご挨拶に参りました・・」

景虎は答えた。

「・・伊勢姫様?」

小次郎は再度景虎に尋ねた。

景虎はうなずいた。

平井城は知っていた。北条方だったが越後軍に占領された城である。が、そこの千葉采女や伊勢姫など初めて聞く名前であった。

「姫様自ら危険を承知でおいでとは・・」

小次郎は怪訝そうな顔したが逆に景虎はにこりと微笑んで返した。

小次郎は見つめられて思わず窮してしまった。

(いかんいかん・・惑わされては・・)

小次郎は軽く下を向きながら咳払いをした。

そして景虎一行を再度くまなく見てみた。

姫様と屈強そうな護衛の男たちと不釣合いな集団であった。

そして小次郎は冷静になると再度思わず怪訝な顔をしてしまった。景虎の格好である。

「失礼ですが・・なんで道服なんですかね?」

戦勝祝いなのに道服では怪しいので念のため聞いてみた。

「この格好であれば尼さんみたいで安全じゃろう・・」

新兵衛が言った。景虎もうなずいた。

「それに唐沢山城が落城しそうとのことで・・唐沢山城に篭り辞世の句を読まれる皆様にせめてもの情けで念仏でも唱えてあげようかと思いまして・・」

景虎は涼しげに彼を見つめながら答えた。

「・・さようでございますか・・」

小次郎は関心しながら答えた。仏門に厚い姫様と思ったのであった。

それにしても景虎があまりに堂々と平然としているので小次郎も信用し始めていた。

「ところで・・なんで越後軍旗なんじゃ?」

近くに居た別の兵士が念押しするように聞いてきた。

「見りゃぁ分かるだろう・・」

弥太郎が何言ってるんだと言わんばかりに答えた。

「上野国はすでに越後側・・国を出る時に越後側の兵に襲われたくないからのう」

源蔵が答えた。

「ごもっともですな・・」

小次郎はようやく納得した。

「氏政様にすぐに連絡します。しばしお待ちを・・」

小次郎は了解した。

「ところで・・お願いがあるのですが・・」

景虎が小次郎に聞いた。

「何か?」

「唐沢山城の大手門の近くまで言って早速念仏を唱えたいのですが・・」

景虎が毘沙門天を懐から取り出して言った。

「どうぞどうぞ・・唐沢山城から撃たれないよう接近しすぎないようにしてくださいね」

「ありがとう・・では少し見てきます」

こうして景虎一行はなんなく北条軍の真っ只中に入ったのであった。

唐沢山城の大手門の前まで近づくと中に居た佐野軍の城兵は越後軍旗を持った騎馬10騎が向かってくるのに気が付いた。

景虎は髪を素早く束ねると再度烏帽子を被って男装になった。

以前景虎に関東管領の祝辞式で会った佐野の使いの者が景虎を見て慌てて昌綱に報告した。景虎が敵の真っ只中駆けつけて来てくれたと。

景虎は城門についてしばらくして

「千坂・・頼む・・」

千坂はうなずくと

「長尾景虎、いざ見参!」

城門の前で大声をあげた。

しばらくして城門が開くと景虎一行はゆうゆうと唐沢山城の中に入っていった。

北条軍は何が起こったのかさっぱりわからず唖然とこの様子を見送っていた。



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