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越後の虎  作者: 立道智之
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厩橋城

坂戸城には上杉憲政も到着した。今回の大儀名分の人である。

ようやく主役がそろい準備が出来たので雪に閉ざされる前に景虎も意気揚々と上杉憲政を

ともなって三国峠を越えて初めて関東に入った。

関東遠征の拠点になる厩橋城(群馬県前橋市)に向かったのである。


三国峠から見る関東平野は広大であった。

「久々の関東じゃ・・」

上杉憲政も懐かしそうに頼りなさげな声を出した。

「関東は広いな・・」

景虎も正直に思った。ここを治めるのが関東管領の仕事である。

(関東を平穏にして将軍家の権威復興に・・氏康を黙らせ・・その後は信玄をどうするか・・)

景虎はこのときは真剣にそう思っていた。泥沼にはまるなど夢にも思っていなかったのである。

越後国人衆たちも同じであった。

「なんか知らんが懐かしいな・・」

色部勝長の一言が代弁していた。自分たちも本来は関東国人衆でここは自分たちのものである

という意識が強かったのである。


関東前線の基点になる厩橋城では先発隊の北条高広 斉藤朝信 本庄繁長 長尾藤景 上野国人の長野業正たちの活躍で抑えられており彼らが出迎えてくれた。

厩橋城は上杉憲政の領土だった上野の最北端 越後国境沿いの城で憲政の忠臣長野業正が箕輪城を拠点に北条や武田の度重なる攻撃にも頑なに上野国を守って来た。ようやくその苦労が報われるときがきたのであった。

ここは景虎にとっても重要な拠点になっていく。

長野は老人であったが智将と有名で信玄も彼がいる限り上野には入れないと言わしめた男である。彼は息子の業盛と短い期間であるが景虎に仕えることになった。


昨年からの関東で活動していた先発隊の懐柔、もしくは脅しもあって関東の諸将は表向きは憲政 景虎に味方するとは返事はよこしていた。

しかし北条も軍を動かしているとの連絡があり予断を許さない状況であった。

秋頃には氏康も自ら軍を率い川越城付近にいるとの情報も入り、越後軍の先発隊と極所で小競り合いをしているとの情報も入っていた。

氏康は信玄に比べると景虎はあまりよく知らない男であったが宇佐美によると信玄に年も近く武勇に優れ彼が参戦指揮した戦は負け知らずとのことであった。彼には向かい傷しかなく(背中に傷がない、背中を見せない、退かない)武勇の誉れの高い男であった。

政治も上手く領民にも非常に遵われているという。

氏康はかって山内上杉家率いる8万の大軍に攻められた時わずか8千の精鋭で夜襲をかけ、これを打ち破り大将の上杉朝定を敗死させ、扇谷上杉家をそのまま滅亡させるという凄まじい戦績を持っていた。世に言う川越夜合戦である。そのため氏康は関東諸将の間では恐れられていた。

宇佐美や実乃、直江と言った老人たちが関東での戦いの先行きに不安を覚えていたのは彼のそのような実績を知っていたからである。

景虎も川越夜合戦の話は知っており彼の実力は認めていた。氏康もやり手というのは充分に分かっていた。

ただ彼は官位のないただの成り上がり大名である。関東管領の名義のほうが効果があると真剣に思っていたからである。


景虎は越後から到着した部隊にしばらく休憩するように命令すると始末までに補給物資を越後から厩橋城に持ち込み万全の準備を整え次第年明け早々北条軍と戦うことを決意した。もし戦う場合越後軍本隊と関東諸将の連合軍で打破できると思ったのである。

来年年明けにしたのは雪解け前までに北条軍と決着をつけてその甲斐の武田軍と戦うか和

睦するか、いずれにしろ武田軍の動向に再度備えるためである。


この年の年末は初めて越後を離れて年を明かすことになった。

それにしても関東の冬は過ごしやすかった。

雪国の越後と違い関東では滅多に雪が降らなかった。温度も高いので雪国育ちの越後国人衆には快適に思えたのである。

景虎は厩橋城の本丸の縁側から雲ひとつない澄み切った夜空を見ていた。

明るい満月をぼんやりと一人静かに酒を飲みながら眺めていた。

別の部屋では酒宴をやっているようでわいわいと賑やかな声が聞こえた。

景虎も酒宴は嫌いではないが一人梅干しを肴に静かに飲む方が好きであった。

「失礼しまする・・」

本庄実乃が突然やってきた。

「御覧になられていましたか・・」

実乃も月を眺めながら言った。

「今宵の満月は美しいので景虎様も御覧になられたら・・と言おうと思ったのですがその必要はありませんでしたな」

景虎はにこりとわらってうなずいた。

「越後では冬にこんなに雲の無い澄み切った夜空は珍しいから・・見入ってしまった・・」

景虎も本当にそう思っていた。

「関東の人たちは雪が降ると我々とは逆にめでたい、風流だと祝うそうです・・」

実乃が言った。

「我々は雪は見飽きているのに・・」

景虎も思わずくすりと笑ってしまった。


しばらく満月を静かに眺めた後

「関東が片付いたら武田はどうしようか・・もう風林火山も見飽きたし・・」

実乃に聞いてみた。

信玄の和睦の話をふってみようかと思ったのである。反応も見てみたかった。

実乃は少し黙った後

「景虎様はどうされたいのです?」

と多分本心を聞いてきた。

景虎は実乃に酌を注ぐと

「信濃は犀川以北を押さえられれば武田が信濃、甲斐を安堵しても良いかと思う・・」

景虎は本音を言ってみた。

「あの信玄がそう安々と折れるとは思いませんがな・・」

実乃は信玄からの和睦の話など知らないから信玄を疑っていた。将軍からの御内書だって平然と無視する輩である。信用していなかった。

「・・・」

景虎は黙っていた。

「まぁ・・武田と北条を両方相手するのは難しいですからな・・可能であれば良いかと・・」

実乃は本音を答えた。

景虎は少し安堵した。

「ところで北条ですが・・初めての相手ですが・・手強いと思われますぞ・・」

実乃は北条の話を始めた。

景虎もうなずいた。

もちろん景虎も氏康を過小評価しているつもりはなかったが。

「都から貴人を迎れば氏康も従うだろうと思うが・・」

景虎は静かに言ってみた。

景虎は近衛前嗣が関東に下向する件はまだ黙っていた。権威を疑わない景虎は彼が来れば間違いなく関東国人衆は従うであろうと思ったのである。当然前嗣の件も実乃は知らない。

「都から貴人・・?」

実乃は不思議そうな顔をしていたが

「関東管領の私と古河公方の足利藤氏殿・・そして都からの貴人で関東を治めたい」

景虎は言った。

「・・・・」

(都から貴人・・誰が関東の田舎に下向するだろうか?堀越公方の件ではないが都からの貴族なんぞに北条や関東国人衆が従うとは思えんが・・)

氏康が現在の古河公方の足利義氏を立てている中、そう安々と藤氏に禅譲するとも考えにくかった。

実乃は思わず口に出しそうになったが一言も言わずに抑えた。

「もしそれで関東が落ち着いたとしたら景虎様はどうされたいのでしょうか・・」

実乃が相変わらず不思議そうな顔をしていた。

「実務は都の貴人に任せて自分は名目だけの関東管領で良いかとも思う・・関東が落ちついたら都に再度上洛してゆっくりできれば・・将軍様からの指示があれば従う」

景虎はもともと少々浮世気味な雰囲気があったが今日は酔いが回っているのか余計にそのように感じた。景虎は満月を眺めながらぼんやりしていた。

実乃は少し黙ってしまった。景虎の将軍中心主義の古典的な考えは悪くはないが現状では通じないと思ったのである。実乃は景虎の言っている意味が正直言ってつかみかねていた。

かっての源頼朝や足利尊氏のように関東を平定したら都に上るという意味か単に越後の周囲が平和になったらまた都に行きたいと言っているのか。


景虎や他の越後衆は今回の関東遠征を楽観的に見ていたが実乃はそうは思っていなかったのであった。

実乃は関東の諸将の素性などの調べなどを密かに行っていた。

ただこれは作戦の立案の為ではなく景虎の素性を話しても良い相手かどうかの吟味判断のための下調べであった。その過程でいろいろなことが解り始めたのであった。

今回の関東騒乱の件は単純な北条の関東制圧のための騒乱ではなく関東管領の本来の補佐相手、古河公方の後継者争いや関東国人衆同士の争いが根深く絡んでいるとの情報が入ってきていたからである。北条氏康の実力も信玄並で侮れなかった。

そう簡単に済まないと思ったのである。

関東管領の上杉憲政が追い出されたのも北条との領土問題以外にも実は古河公方の後継者争いや関東管領の上杉家同士の内紛、さらには古河公方と上杉氏の過去の因縁までもが原因らしいとのことであった。

北条も関東管領の上杉氏の一派 扇谷上杉家当主朝定を戦死させ扇谷上杉家を滅亡させ今回景虎を頼ってきている上杉憲政はその片割れの生き残りの山内上杉家である。

北条のこの関東管領を平然と殺す行為自体が将軍家、もしくは幕府に従順とはとても思えなかった。当然関東管領の景虎にも従順に従うとは思えなかったのである。

ちなみに北条の同盟者の武田も既に信濃の和睦の件で一度将軍からの御内書を無視している。素直に事が進むとは思えなかったのであった。


実乃は景虎や越後国人衆たちがどれだけ関東管領の意味を理解しているのかも少し疑っていた。

将軍を補佐するのが管領、足利義輝と細川晴元の関係で三好長慶は管領の代行のようなものであって長慶の官位は単に相伴衆である。

関東も同じで関東における将軍、最高権威は足利藤氏の古河公方、管領が上杉憲政がやっていた関東管領、現在の景虎である。ただ景虎は相伴衆の官位も持ってはいるが。

要は関東管領は国人衆がひれ伏すような地位ではないと実乃は思ったのである。

あくまでも最高権威は古河公方であって関東管領はその次なのであると。

北条氏康や三好長慶が権威を持っているのは実力で彼らを自由に操れたからである。

長慶は実力で将軍の義輝や管領の晴元を既に操っている。

景虎は関東官営の上杉憲政に変わって関東管領になったが古河公方はまだ操れてない。

古河公方、足利藤氏を実力で操っているのは北条氏康である。

関東国人衆は最初は景虎に従うかもしれないが正式な古河公方を擁する氏康が頑強に抵抗する場合は戦況が長引き混乱する可能性が充分にあった。

それを実乃は恐れたのである。直江や宇佐美ら重臣も同様の心配をしていた。


景虎は父為景の上杉氏に対する守護殺しと関東管領殺しの汚名を削ぎたい一新で関東管領と上杉相続に固執しているように感じたのである。あと景虎が権威を魔法の呪文のように感じているのではないかと思ったのである。

このような権威は実力が伴わないとすぐに効力を失うと老人たちはわかっていたのであった。

老人たちは他の越後国人衆も同様に勘違いしているように感じたのである。


実乃は上の件を含めてどう答えたら良いか迷ったが

「良い考えかと思います・・しかし現状はなかなか安々と行かないかと・・」

少し本音を言ってみた。

当の景虎は満月をぼんやり眺めながら涼しい顔で実乃の忠言に対して

「そうかな・・」

とつかみ所ない返事をしていたが。


実乃は話題を戻すことにした。

景虎のところに来たのは月の件以外に明日の件を話そうと思ったからである。

「ところで明日みなが少し評定の時間が欲しいと言っているのですがお時間いただけますかな?」

「評定?何のために?」

景虎が逆に聞いた。

「作戦を提案したとのことで・・」

「作戦・・?」

景虎が思わず聞き返してしまった。

実乃はうなずいた。

「・・わかった・・明日時間をとろう」

景虎は答えた。どのような作戦か検討もつかなかったが。

実乃は礼を言うと下の宴会場に下がって行った。


翌日の評定での議題は意外な話であった。

景虎の出陣時のいでたちである。

関東国人衆たちを確実に味方につけるために男装して出陣することと千坂景親に影武者をやってもらう案であった。男装時は景虎が千坂である。

信頼できそうな武将のみに本来の景虎で対応しようとしたのである。

関東を平定したらいずれわかるような事ではないかと景虎は不満気に言ったが信玄の言葉ではないが味方の関東国人衆らに侮られないためにやむを得ないであろうと・・景虎も渋々応じることにした。

景虎は男装の件は了承していたが千坂の影武者は都での前田慶次のときのように話がややこしくなりそうだったので嫌だったのである。

特に前回の関東管領の祝賀式の時、関東からの来客には男装であったが景虎本人が対応した。

今回は千坂が対応したら事実を知っている者は混乱するであろうと・・それで景虎は渋ったのであった。

ただ家臣団に言わせれば景虎はどんなに男装させても幸か不幸かそれらしく見えないのであった。騎馬武者にすると失礼な言い方だが見た目が弱々しかった。姫若子そのものであった。だから千坂に頼むのであると。今回は他国の足軽も大量に来るので女性と悟られるのは好ましくないと判断したのである。

景虎は不満そうな顔していたが今回は渋々受け入れた。


「ところで・・少し相談があるのだが・・一部内密にお願いしたいのだが・・」

景虎が突然言い出した。

みな顔をお互い見合わせた。

「まず・・関東平定の折だが・・」

実乃が思わず珍しく口を挟んだ。

「北条は強大です・・お気が早いのでは・・」

昨晩同様に諭したつもりであったが

「・・それについてだが・・ 都から関白殿に下ってもらおうかと考えている・・」

みな思わず

「え!?」

と驚きの声を上げた。

「関白って・・近衛前嗣殿のことを・・?」

宇佐美定満も思わず仰天していた。

景虎はうなずいた。

関白が下向してくるなど前代未聞であった。そのような約束自体が信じられなかった。

「関白に来てもらいこちらでも別の公方を立てたい・・」

みな口を開けていた。

景虎は戦上手でもあるが実は外交の方が優れていた。

これは信玄や氏康も率直に景虎の優れた能力として認めていた。

「そして新しい古河公方と関白と私で関東を押さえたい・・これで関東国人衆も従ってくれるであろうと思うのだが」

実乃も宇佐美も正直この案には驚いた。

実乃は昨日の景虎の言っていることがようやくわかった。

が返答にも困った。確かにこれ以上の権威を揃えるのは難しいが素直に従うかどうかは別問題である。

さらに・・

「鶴ヶ丘八幡宮で上杉継承と再度関東管領就任の儀式もやりたい・・」

とも言った。

みな返答に窮してしまった。黙り込んでしまった。

「どうであろうか・・」

景虎が再度みなに聞いてきた。

「良い案でしょうが・・最後はやはり実力次第ですな・・」

宇佐美は苦しそうに答えた。

「北条に勝てば万全でしょうが・・」

実乃も続いた。

二人とも権威だけでは難しいだろうと言いたかったのだが景虎は黙っていた。

事実現在の古河公方の藤氏は氏康と一緒に行動しているという。

実は藤氏は氏康の娘の生んだ子で血縁関係があったのである。


「武田はどうします?」

本庄繁長が聞いてきた。北条と武田両面作戦は出来ないと言いたかったようであった。

景虎は黙っていたが

「和睦してはどうだろう・・」

と顔色変えずに言った。

みな再度仰天していた。

「いくらなんでも無理であろう・・どうやって落とし所をみつけるんじゃ・・」

中条が言った。

「犀川以南は武田領として認める・・」

景虎は言った。

みな黙ってしまった。

「村上殿はどうされます?」

色部勝長が聞いた。

「越後内で客将として活躍してもらう・・それで納得してもらおう・・」

景虎は静かに言った。

「しかしあの信玄が和睦するか・・信濃国を全部よこせって言うに違いあるまい・・」

北条高広が不安げに言った。

「口約束だけであろうよ・・危険ですな・・」

斉藤朝信も信用していなかった。

「人質を交換して確実にやるか・・」

長尾藤景も続く。

「ここで話しても始まらぬ・・やるなら信玄と直接交渉せねば・・」

長尾政景が言った。

「意見がなければ・・私が直接信玄と話をしたいが・・どうだろうか?」

景虎が再度言った。

家臣団は再度驚いたが同意した。景虎に全て任せることにした。

景虎は勘助の提案のことは結局話せなかった。特に決めてである高坂弾正昌信の件はやはり切り出せなかった。

少し気恥ずかしさがあったのである。

ただこの交渉は景虎は自信があった、またなんとしても成功させたかった。

ただ家臣団は方は実はあまり期待していなかった。

むしろ別の懸念を持っていた。

信玄に騙されて不意討ちされるのではないかと思ったのである。

信玄はあざといので交渉する振りをして軍を送ってくるのではないかと思ったのである。

景虎は家臣団の心配はお構い無しに早速信玄宛に親書を密かに送った。



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