諸事情
景虎一行は半年振りに越後に帰って来た。
「お帰りなさいませ・・」
留守役の長尾政景と姉の仙桃院夫婦一家が出迎えてくれた。
夫婦の子供たち、長男の義景、次男の喜平次、長女の華の三兄弟も一緒であった。
幼い喜平次、華の頭を景虎は撫で回してあげた。
景虎は一家に出迎えと留守の礼を言った。
虎御前や天室光育、その他上洛時の同伴者の一族も出迎えに来ており春日山城は賑やかであった。
上杉憲政も今回は来ていた。やはり関東管領の件が気になるようでそわそわしていた。
甥っ子たちに折り紙や人形などの土産を渡し、留守役の諸将にも土産を渡した後、帰国早々であったが景虎は今回の留守役の者たちと評定を開いた。
まず長期間の留守中にも関らず少数で越後を守ってくれたことに関して景虎自ら礼を言った。
都での交渉は大成功で自分が関東管領一任の件や信濃の支配に口出しする権利も得、裏書
御免の件や漆塗りの輿に載る権利、更には相伴衆にもなったことを伝えた。
憲政は関東管領の決定の権利に関しては大喜びしていた。
「大儀を得られた・・北条から関東を取り返せる・・」と
景虎も留守中も春日山城や越後が平穏だったのがなによりであった。
武田晴信も北条氏康も今回は将軍に一応気を使ってか静かにしていたと言う。
「実態はともかくまだ面と向かって朝敵と呼ばれたくないんでしょう・・」
と政景が笑いながら言っていた。
「関東管領の言うことを聞けばそのようには呼びませんよ・・」
景虎も笑いながら返した。
「素直に聞くような連中とも思えませんがな」
栖吉長尾景信も言った。
「そうだな・・北条はともかく・・武田は素直には従ってくれないだろうな・・」
景虎も少し沈み気味に言った。
「まぁ そのときはワシらの力を存分に発揮させてもらいますがな!ハハハ・・」
黒川実氏 新発田長敦の揚北衆が豪快に言った。
「ウン・・よろしく頼む」
景虎も返した。
景虎にとっても留守中に晴信や氏康が静かだったのは何よりであったが越後国内も静かだったのが実は一番ほっとした。
今回留守役の選択は家臣団の関係を配慮して決めた面もあった。
これを機会に家臣同士今までのわだかまりを捨てて歩調を合わせてもらおうと考えたのである。
景虎は最初は今回の留守役は揚北衆は中条藤資と黒川実氏、あともう一人誰か監視を任せようと思っていた。
中条と黒川を選んだのは領土問題で彼らは不仲だからである。
一緒に過ごす時間をわざと作り交流を深めてもらおうと思ったのであった。
ただ中条が都に行きたいと騒いだだめ連れていかざるを得なかったので中条と黒川を一緒にすることは出来なくなりこの件は持ち越しになったが。
監視は新発田長敦で彼は中条と黒川がもし争った場合に備えての仲介役であった。
新発田は後に川中島や関東戦線、越中で活躍し新参の揚北衆では本庄繁長とともに景虎の信頼を大きく得て行く男である。
栖吉長尾景信と上田長尾政景も彼らの父の代から不仲であった。これも領土紛争が絡んでいたからである。ただ両者とも越後国内の実力者で特に兵力の動員数では両者は越後軍の主力を占めていた。そのために自軍内でのいがみ合いはなんとしても避けて欲しかった。
そこで揚北衆の中条と黒川のように危険を承知でこの二人も留守役にしたのである。
そのために万が一に備え上杉一門の上条政繁や山本寺定長、三条長尾の山吉豊守、下田長尾藤景までをも置いて監視に付けたのだが今回栖吉長尾と上田長尾は一緒にうまく過ごしてくれたようで表向きは納まってくれたようであった。
今回の景虎の狙いは今後に対しての備えであった。
今後関東管領として活動する場合、越後を留守にすることが多くなり、越後国内の治安維持や不透明な越中、甲斐、奥羽方面に備えて強力な留守役を置く必要があった。
関東が忙しくなる以上越後国内の家臣同士のいがみ合いは終わりにして欲しかったのであった。それが栖吉長尾と上田長尾との間でなんとか機能した点は収穫であった。
ただ政景と宇佐美はどうしても離さざるを得ないのも今回もわかったが・・
これは中条と黒川の件を含め別の機会に試すことにした。
ちなみに甲斐の件だが景虎は勘助から聞いた晴信との話を忘れた訳ではなかった。
本音では関東に集中したいので和睦をしたかったのであるが関東戦線次第、特に西上野ではまた晴信と争うことになりそうな気がしたのである。そのために回答を保留し続けたのであった。既に来年関東に下ることに景虎は心を決めていた。
まだ内緒であったが近衛前嗣も都での正親町天皇の即位式が終了次第、前後して一緒に関東に下る予定であった。
関東管領と関白、将軍家と朝廷の権威で北条を屈服させようと思ったのである。
関東管領だけではなく関白の威厳もあれば北条は黙るのではないかと考えたのである。
景虎が管領職(関東管領職)にこだわったのは都の三好長慶と会ってからであった。
長慶は都の実力者として権威を振るっていたが官位的には相伴衆で管領ではなかった。
管領は細川晴元である。しかも長慶が相伴になったのも景虎から遅れること半年後であった。要は長慶は実力で畿内を支配していたのであった。
景虎はその逆を考えたのであった。
実力で関東を支配できれば一番良いのであったが武田を屈服させるのは難しいのは分かっていた。北条は戦ったことがないので分からないが両方を同時に相手するのは難しいのは景虎は重々承知していた。
そこで官位にこだわったのであった。
長慶ですらなれなかった管領職に自ら就任してその権威で支配しようと考えたのである。
関東管領には10万の軍の価値があると景虎は信じていた。
これに前嗣の関白の権威との両方をぶつければ景虎は北条、もしかしたら武田も下るのではないかと思っていたのである。
もちろんそれが幻想で今後自分の一生に渡って泥沼の戦いを強いらされるとはこのときは夢にも思ってもいなかっただろうが。
一通りお互いの報告が終わったあと、来月には関東管領就任の祝賀式も早速始めると旨も伝えた。段取りとしてはまず関東管領の祝賀式を先行させ、越後守護を継承した時からの懸案でもあるが上杉家継承に関しては戦況や時期を見て追って行うことにしたのである。
越後守護上杉家と関東管領上杉の同時後継は景虎の格上げには絶好ではあったがその反動も大きかった。
実は景虎は関東管領になるとは言っていたが内心では本当に自分が実権を握るかどうかは迷っていた。近衛前嗣の下向に同意したのもその点があった。前嗣に実際に政治を動かしてもらい自分は副将として前嗣が出来ない軍事のみの立場でも良いと考えたのであった。上杉継承の踏ん切りがつかなかったのも長尾家の継承や自分の後継の件も微妙に絡んでいたからである。
その後景虎は政景と仙桃院の姉夫婦と少し時間をとった。
関東管領の祝賀式の件である。
序列の件での相談であった。夫婦で来てもらったのはその方が頼みやすいと思ったからである。姉の機嫌を損ねたくないから正直に言うことにしたのである。
「お願いしづらいのですが・・」
景虎は丁寧に話始めた。景虎の政景や姉に対する喋り方は独特であった。はっきり言って気兼ねしていた。
政景も同じで景虎には気兼ねして常に丁寧な口調であった。酒宴の時もである。
ただ政景は他の家臣に対しては普通の政景らしい威厳のある話し方であった。
実はこれが他の家臣団の不評を買っていた。
政景もこの件で自分が他の家臣団から鼻づまみされていたのは承知していたが彼にも言い分があった。
最大の言い分は面と向かっては言わなかったが自分、及び妻の仙桃院、息子たちが景虎の正式な後継者としての自負である。景虎はまだ後継者の件に関しては何も言っていなかったが血統の順番で行けば彼らが後継者なのは事実であった。
景虎に何かがあって後継ぎが必要になった場合景虎の実の姉の仙桃院かその子供たちが形式上は後を継ぐにしても、実務を主に仕切るのは政景なのは間違いないなかった。
政景の軍事や政治の実務能力は高く軍事では越後軍の主力を担い政治などの実務も地元の坂戸城に田畑や金山の開発も熱心に行い地元では強力な基盤を持ち景虎も越後統一時は政景率いる上田長尾衆との全面的な衝突をためらったほどであった。
しかし問題は政景が景虎の越後統一時に敵対的だっただけあってそれが他の越後衆の警戒を買っていたのも事実であった。宇佐美定満は政景に警戒する他の越後衆の最先鋒でもあり代弁者でもあった。
景虎も他の越後衆の警戒心は充分に理解していたが政景の実力を無視できないのもまた事実であった。
「お話とは・・?」
政景や仙桃院は不思議そうな顔をしていた。
景虎は正直に伝えた。祝賀式の件の序列の件であった。
今回の関東管領の祝賀式を揚北衆や他の国人衆対策に使いたいと話した。
要は景虎は守護にはなったがそれでも同盟者意識を捨てきれない越後国人衆に自分は守護以上の権威と格式を備えたので同僚意識から主従関係へそれなりの対応を自分にするようにと要求したかったのである。格が違うことをはっきり伝えたかったのである。
そのために単に権威が上がったと威張るだけでなく同時に彼らを懐柔、支配下に置きたかったのである。
揚北衆や遅めに家臣になった者の中には未だに景虎を同盟者程度の認識しか持っていなかった者もいた。越後のように絶対君主制ではなく緩やかな連合形式の国にとって家臣の掌握は重要かつ慎重な仕事であった。
景虎にとっても苦渋の判断で言い難かったが祝賀式では政景には序列を後方にしてもらえないかとの景虎からの依頼であった。
景虎の話を一通り聞いて仙桃院は少し不服そうな顔であったが政景は顔色ひとつ変えなかった。政景は快く了承した。自分が景虎に従うようになったのは遅いのは事実だからである。
ただ政景も計算した。顔には出さなかったが今後を思えば安い物と思ったのであろう。我慢も必要であろうと。
ただ仙桃院の顔を見て判断したのか景虎も最大限の配慮はした。
揚北衆の後塵ではあるが他の者よりも上位にはつけたのである。
政景が苦手な宇佐美よりも上位にしたのである。
後日、景虎は揚北衆以外の諸将、柿崎景家、斉藤朝信、北条高広たちとも序列の件での話をした。柿崎や斉藤は彼らの妻にも念を入れてお願いした。しかし以前の借りがある北条はともかく、北条以外の諸将の反応も景虎の懸念とは裏腹にあっさりしたものであった。
彼らは既に奉行として越後の内政を動かし、斉藤や柿崎たちをはじめとする越後国人衆でも景虎の住む越後南部の上郡や中部の中郡の国人衆は景虎の被官としての意識が景虎の思っている以上に強かったのであった。揚北衆以上に信用、重用され政治の中枢にいたので序列などそれほど気にしていなかったのである。待遇的には彼らのほうが優遇されているのも明らかであった。
それとは逆に越後北部の下郡に当たる揚北衆たちは景虎の住む上郡、春日山城から地理的に離れていることもあって以前から独立心が旺盛ではあったが同じ家臣団の中でもそれだけ景虎に対する考え方の違いが生まれていたのも事実であった。
この家臣団同士の微妙な距離を縮めるよう景虎もいろいろ手を打ったが景虎の代では結局この家臣団の中での意識の溝は埋めることは出来なかった。
ちなみに揚北衆が景虎に全面的に素直に従わないのにはもうひとつ、彼らなりの理由があった。家柄である。その理由は後の関東国人衆からの祝賀式の時に述べたい。
関東管領の祝賀式はこの年の秋10月にまず越後国人衆から始められ、11月には信濃国人衆、そして翌年永禄3年(1560年)3月に関東国人衆と半年がかりで行われた。
この行事自体は各国の国人衆が春日山城まで馳せ参じて太刀を景虎に献上するのであるが
このときの参列者は現在でも侍衆御太刀之次第という資料に記載されている。
序列は政景に話した時と同じ段取りで行われた。
祝賀式は直太刀衆という景虎に直接太刀を送る最も栄誉ある担当は栃尾時代からの重臣で母虎御前方の実家栖吉長尾景信と父為景時代の重臣、桃井義孝と上杉家一門山本寺定長ら3名が行った。
披露太刀衆というその次に栄誉のある太刀を披露する役は揚北衆の中条藤資を筆頭に本庄繁長 本庄実乃 石川殿(為景時代の重臣と思われる)色部勝長 千坂景親が続いた。政景はそれより後の7番目であった。それ以降は斉藤朝信 北条高広 長尾資景 柿崎景家 宇佐美定満 新発田長敦 黒川実氏と続いた。
景虎に近い越後衆が後ろに連なり、中条、繁長、色部らを筆頭に揚北衆への配慮がよく見て取れる序列であった。
ちなみに景虎の姉の仙桃院の夫の政景が揚北衆の後の7番目になり栖吉長尾や揚北衆とも歴然とした差をつけられた待遇であったことは上田長尾衆には強い不満として残った。
確かに景虎に従順が遅れたのは事実であったがその後の越後軍の主力を占めて血を流して戦っているのは自分たちであるのになんたる待遇であろうかと・・
ただ政景自身はそれほどこの順位は気にしていなかった。
他の景虎直近の国人衆と比較すれば明らかに上位であるし評定など実務でもすでに上位の扱いであったからである。
栖吉長尾景信と本庄実乃は景虎にとって特別であって今回の序列如きで外様の揚北衆の下になったなど微塵も思っていなかったのである。いざとなれば実力で巻き返すことも出来ると内心は思っていた。ひとえに彼の自信でもあった。
自城の坂戸城に帰った政景も彼らの懐柔にあたり一度は成功するがこの数年後に起こった思わぬ事件でこの不満はぶり返され将来の禍根として残り景虎にとって高くつくとは当時は思いもよらなかったが。
なお直江景綱を筆頭に上杉定実時代の古参の幹部や上杉一門扱いの、上条政繁や山浦氏など向けにも別日程で祝賀式を行った。
11月に入って信濃国人衆による式典も行われた。
川中島での戦い以来付き合いがある高梨雅政や村上義清を筆頭に彼らの家臣や北信濃の国人衆が春日山城にやって来たがそのなかに意外な顔として武田晴信の家臣の真田幸隆がひょっこりとやって来た。
幸隆は川中島の戦いで晴信の先陣としていつも越後軍と真っ向から戦ってきた男である。
武田から見れば敵である自分の関東管領就任の祝賀式に彼が来たのには景虎も正直驚いたが村上を筆頭にした信濃国人衆は怒りの感情を剥き出しにしていた。
村上に言わせれば戸石城での戦いは彼の裏切りで信濃は武田に負けた・・許せぬ・・絶好の機会である・・とおめでたい席にも関わらず一太刀合わせんとする勢いであった。
関東管領の祝賀会で太刀打ちされては景虎もたまらなかったので村上ら信濃国人衆をなだめて幸隆を別室に呼んでなぜ来たのか事情を聞くことにした。
晴信からもしかしたら和睦の件で何か伝言があるかもしれないと思ったのである。
幸隆は春日山城の奥にひっそり佇む小さな茶室に呼ばれた。
幸隆とは川中島で何度か対戦しており彼は常に甲斐軍の最前線に投入され村上ら信濃国人衆の目の敵にされ何度も痛い目にあっている。
戦っている相手の祝賀式に来るなど景虎も初めてであった。
晴信からよっぽど何かあるのだろうと景虎は解釈したのであった。
景虎は幸隆と単独で会うことにした。晴信の件をまだ誰にも話をしていなかったからである。
幸隆も50前の落ち着いた感じの男であった。家臣団も彼に単独で会うことには反対しなかった。それには彼の複雑な立場もあった。彼は川中島では常に最前線に投入され越後衆からも常に痛い目にあっていた。彼らが武田軍の危険な最前線に投入され続けるのも彼らが甲斐の国の中では外様扱いで微妙な位置にあるためであった。
ただそれでも彼が晴信の信用を得ているのには間違いはなかった。幸隆自身も晴信に認められ前線に投入され、勘助からも実力を買われて推薦をも受けていたのも事実であった。彼は敵であったが智将として越後でも勘助同様 名が知られていたのであった。
幸隆は景虎の前に通されると景虎に深々と挨拶をした。
「・・命からがらご苦労様であった・・」
景虎は思わず本音で言ってしまった。
この小さな茶室に呼んだのも実はこの茶室は景虎の隠れ家のような場所で普段は将兵たちは入れないからである。
彼の身の安全と景虎の最大限の配慮を見せたつもりであった。
幸隆は景虎の本音に少し苦笑いしていたが。
「晴信殿の使いでいらっしゃったのかな・・?」
景虎は率直に聞いてみた。
「私の判断でございます・・」
丁寧な口調で返してきた。
景虎は意外に思った。
幸隆は信濃の小県郡(長野県東御市)の領主であるが武田晴信の父、信虎が攻めてきたときは追い出されて関東管領上杉憲政の家臣の上野国の長野業正の元で世話になり、晴信になってから甲斐軍へ帰参を許され領土を再度安堵してもらったと言う。
幸隆は追い出されていた時は関東管領、上杉氏、その家臣の長野氏には世話になったのでそのお礼の挨拶に今回新たに関東管領になった景虎の元に危険を承知で訪れたという。
長野業正は上杉憲政が越後に脱出した後も上野国を頑なに北条と武田から守り続けていた。
景虎も上記の理由から今回の関東遠征で長野氏への援助を約束していた。
景虎は幸隆を律儀な男だとも思ったが晴信が自分が関東管領になるのを快く思っていないのは重々承知していた。
幸隆は自分の判断で来たと言ったが晴信がこのことを黙っているとは思えなかった。
「晴信殿は幸隆殿が祝賀式に来ていることを知っているのか?」
景虎は聞いてみた。
「はい、もちろん。式の様子を見て報告するように言われております」
幸隆は答えた。
「そなたは大丈夫なのか?」
余計なお世話の一言であったが言ってしまった。
「はい」
幸隆は表情を変えずに答えた。
「さすが晴信殿は寛大だな・・」
自分の関東管領就任には反対であろうがこれも晴信の余裕を表しているのだろうかと景虎は思った。それとも和睦の件があるからだろうかとも思った。
「はい、景虎様にもよろしくとおっしゃられていました・・」
幸隆は続けた。
むしろ よろしく から一歩踏み込んだ言葉を期待したのだがそれ以上の言葉は出てこなかった。
「よろしくか・・それだけ・・か?」
景虎は思わず聞き直してしまった。和睦の件のことを本当に知らされないでわざわざ春日山まで来ているとは思えなかったのである。
幸隆は不思議そうな顔をして
「はい・・それだけですが・・」
と何を言いたいのかと言いたげな顔で答えた。
「勘助殿も何も言っていなかったか?」
景虎は勘助の名前まで思わず出してしまった。
「はい・・」
幸隆は引き続き不思議そうな顔をしていた。
本当にそれ以上は何も知らないようであった。
「・・そうか・・」
景虎は逆に黙ってしまった。
(晴信・・気が変わったのかな・・それともこっちが返答を出さないと動かないってことか・・)
景虎は少し待たせすぎたかなと思ったが、景虎も晴信の父信虎が幸隆を追い出したように武田が上野国方面から関東進出を狙っていることとの噂は以前から聞いていた。だから晴信も同じことをするであろうと思って警戒していたのである。晴信との和睦の件で迷ったのは北条を押さえると晴信は上野から関東に入ってくるのではないかと思ったからである。事実晴信は後に何度も上野進出を伺っていたがいずれも長野業正に追い返されている。また上野は越後にとって関東への出入り口にあたる。景虎もここは譲れなかった。返答が遅れ遅れになっていたのはそのためであった。
もちろんそうであれば今度はこちらからもう一度仕掛けてみようかなという気持ちも湧いてきた。
晴信の自分が関東管領に就任することについての心象をも知りたかったが和睦の話の時にでもはっきりする話であるのでこれ以上は聞くのはやめた。
色々考えていると
「ところで景虎様・・晴信様ですが出家いたしまして今は信玄公と名乗っております」
幸隆は言った。
「出家されたのか?」
景虎は驚いた。晴信が信心深いと思わなかったからである。自分も出家騒ぎを起こしているが晴信は出家しながらも隠居せず国の指揮を執るところが晴信らしいが・・
「今後は信玄殿か」
景虎が言うと幸隆はうなずいた。
「甲斐にも善光寺を建立されたそうだが・・信心深いんだな・・」
以前川中島で戦ったとにき善光寺の秘仏を景虎と信玄は戦災から守るためという名分で実は1体ずつ持ち帰り景虎も府内(直江津)に善光寺を建立している。
「はい・・信玄様は飯縄大権現も信仰されております・・」
幸隆は続けた。飯縄大権現は景虎も毘沙門天とともに信仰しており景虎の持つ兜には飯縄明神像の使い魔の狐の上に乗るからカラス天狗が取り付けられている。
(妙なところで同じ趣味だ・・まったく)
景虎は思わず一人で苦笑いしてしまった。
「ところで・・私の今回の参加の件はお許し頂けると思ってよろしいでしょうか?」
幸隆は祝賀式に出てもいいか確認してきた。茶室に呼ばれたので追い返されるのかと思ったようであった。
「もちろん・・村上殿や信濃国人衆には貴殿とは戦場で勝負するよう言っておくので」
景虎は許可を出した。
幸隆は景虎の言い回しに安堵と少し感心したような表情をしてから再度深々と礼をした。
「信玄公によろしくと伝えてくだされ・・」
景虎は最後に言った。自分の気持ちは変わっていないと暗に伝えたつもりであった。
幸隆は顔色変えずそのまま一言も漏らさずに伝えますと言った。
幸隆は景虎の何の意図を汲み取ってくれたようで景虎もさすが幸隆は智将といわれるだけあると素直に思った。
しかし最後に幸隆は
「真田家を今後ともよろしくお願いいたします」
とも言った。
景虎は一瞬幸隆が何を言っているのかわからなかった。
(・・武田に既に仕えているであろうに・・両天秤をかけているのか・・?)
景虎は思わず不思議そうな顔をしてしまった。
「我々のような小さい者は知恵で生き残るしかありませんので・・」
幸隆は顔色変えずに静かに言った。
景虎は黙って聞いていた。
この意味は後の関東前線で身を持って景虎は体感することになる。
ちなみに景虎の代では真田家とのつきあいは敵対関係以上はなかったが次の景勝の代では真田家とは後々大きく絡むことになるのである・
年が明け3月に入ると関東からも使者がやって来た。景虎自ら男装の麗人として対応した。佐竹(常陸)三浦(相模)秩父(武蔵)宇都宮 小山(下野)結城(下総)鹿島大宮司(常陸)太田(武蔵 元上杉家重臣)の使者が太刀を献上した。
彼らは関東八官と呼ばれ後に反北条の先鋒に立ち景虎とも協調姿勢を取っていく。
ちなみに揚北衆であるが彼らも鎌倉、元は関東の出身で彼らは今でこそ関東からの分家ではあるが鎌倉幕府以来の付き合いは続けていたよう中条、黒川の本家の三浦、本庄、色部の本家の秩父が今回参加しているのは祝賀式での序列優遇への謝意の意味もあった。
彼ら以外に佐野、横山、大胡等らも駆けつけていた。
ちなみに坂東(関東)八平氏(千葉 上総 三浦 土肥 秩父 大庭 梶原 長尾)で見るように越後の国人衆、特に揚北衆が景虎をなかなか同盟者以上に見るこができなかったのは八平氏の顔揃いを見ていただけばわかると思うが自分たちと景虎の長尾家は同じとしか見ていなかったのである。そのために景虎に対しても独立心旺盛で従順とは言いえない面が多かったのであった。
景虎が後に長尾を捨てて上杉になった理由のひとつもそこにある。
なお余談であるが源平合戦で壇の浦で滅んだ平氏であるが関東の頼朝軍、源氏の主力は関東の平氏一族が占めていたのである。
景虎の関東管領就任についてだが景虎と政治や権力的には直接関係はないが越後へ帰路の途中に近江の六角氏も関東管領就任の祝意を示しており世間一般には景虎の関東管領就任は受け入れられたのである。
受け入れなかったのは甲斐の武田信玄と相模の北条氏康である。
二人は関東管領どころか後に景虎が受け継いだ上杉姓すら認めることも無かった。
彼らは景虎が後に上杉姓を名乗ってからも長尾と呼んでいたのである。
関東管領の権限は関(関東)八州に伊豆と甲斐を含んでいた。
(関八州 = 上野国 下野国 常陸国 安房国 上総国 下総国 相模国 武蔵国)
信玄からみれば関東管領の管轄に甲斐本国も入っているし信濃の件もしつこく口を挟んでくる。
氏康からすれば既に上野 相模 武蔵 伊豆を実質支配しているが景虎は上杉、関東管領を名乗ることによりこの4カ国を狙ってくる。
双方とも認めるわけにはいかなかったのである。
ただ信玄も氏康も景虎のある力は認めざるを得なかった。
意外に外交上手との点である。都の将軍家や朝廷、実質的な支配者の三好にうまく取り入り、足利将軍にしかなかった関東管領の決定権を景虎は勝ち取った点である。
ただ信玄は今回の景虎の義輝との交渉のうまさに関しては感心しながらも別の意味で内々は苦々しくも思っていた。
女性である景虎に関東管領の決定権を与えたことである。
義輝の藁にもすがる思いが透けて見えたからである。
将軍家には既に実力は無く権威だけで生きながらえていたようなものであったが、義輝の今回の行動がそれを証明してまったからである。
景虎も決して実力が低いと信玄は思っていなかったがもし景虎がどこかでずるずると敗れるようなことがあれば景虎の実力に頼る将軍家の権威も同時に崩壊する可能性が高くなっていた。信玄は川中島で何度か対戦しているので景虎の実力を女性だからという理由で侮ってはいなかったが景虎をよく知らない人間はそのように振舞う可能性もあった。
ただ信玄の懸念を察知してか景虎自身も最近は影武者を立てて女性であることを隠し、男性のように振舞っているという情報も少し気にはなっていたが。
信玄は景虎との和睦には賛成であったが関東管領の就任の件は正直戸惑っていた。
本当に関東管領になるとは思ってもいなかったのもあったが、景虎が関東管領になることによって官位上支配下に入るのも許せなかった。
甲斐本国が関東管領の対象に入っているのも面白くなった。西に眼を向けたい信玄が関東に面と向かって巻き込まれる可能性が高くなっていた。それが悩ましかったのである。
「それにしても・・権威や官位と言った物が好きな奴だな・・実力が伴わないと何の意味もないのにな・・」
と信玄は自分の家臣たちには表向き景虎を蔑視して言ったが将軍家に対する頑なというか古臭い忠誠心は正直見上げたものとも感心していた。
(それにしても景虎の奴・・こまめにいろいろと動き回る・・氏康にはしばらく景虎の本性の件は黙って景虎のお手並み拝見と行くか・・返事もこちらも先送りじゃな・・)
外交での遅れなんぞ実力ですぐに回復できる・・信玄の本音であった。
氏康も同様である。むしろ本番はこれからと考えていたのである。
なにはともあれ景虎の関東管領祝賀式は無事に終わったのである。




