風林火山
弘治3年(1557年)早々、甲斐軍が再度信濃に侵入してきた。
弘治元年(1555年)の時に今川義元の仲介で結ばれた景虎との講和条約を破棄して越後側のものとなっていた葛山城を2月に奪回したのである。
しかし晴信はそれだけではなく昨年の景虎の出奔騒動のときもあの大熊朝秀にも誘いをかけて景虎陣営を混乱させただけではなく、この後に建てられる海津城の近くにあった尼巌城をも落城させ着々と信濃全土の攻略を進めていたのである。
さすがの景虎もこれには怒り心頭であった。
今川義元の計らいで結んだ講和条約を何食わぬ顔で破り大熊をそそのかし、しかも雪でこちらが動けない時期を狙って攻めてくる晴信の厚顔さにである。
しかし晴信の調略のすごさには正直舌を巻くしかなかった。
葛山城だけでなく戸隠や木島平方面と多方面に一気に甲斐軍を展開させ対応できない飯山城の高梨政頼は悲鳴を上げていた。
戸隠の飯縄権現までもが甲斐軍に落とされ門徒宗が春日山まで逃げてきていた。
戸隠の飯縄権現は景虎の具足の柄にもなっており景虎も信仰していた。景虎は毘沙門天を信仰していたが当時は複数信仰が普通であったので飯縄権現も信仰していたのでる。
戸隠方面まで落とされると春日山のすぐ側まで落とされたことになり一刻も早く信濃に出る必要があった。
出兵前に景虎は更級八幡に晴信討伐を願う願文を提出した。
晴信という悪人のせいで神社仏閣が破壊され人々は苦しんでいるのは隣国の領主として看過できません、信州からの依頼もあるので決戦に挑みます。と
何よりも大義名分を大切にする景虎であった。
早速味方にも出兵命令を出したがさすがに越後軍内でも不平不満が出て景虎自ら参加依頼の催促の書状を出してようやくこぎつける次第であった。
特にあの政景や揚北衆や色部までもがさすがに今回は渋る次第であった。川中島に行くのはもう3度目であると・・
景虎も負けじとこの前の出奔騒ぎの時にみなに提出してもらった誓文を盾になんとか引っ張り出した。
天皇から頂戴した私的戦乱平定の綸旨も盾に使ったが実はこれは私的の通り天皇家の公式なものではなかったのでその辺も見透かされていた。
ただ景虎も彼らの不平がわからなくもなかった。
特に村上義清の件が不平の種になっていることは景虎の耳にも届いていた。
優遇し過ぎであると。しかも景虎の独断であったので尚更であった。
事実村上の越後軍での序列はなんと景虎の甥の高梨より上であった。
最も高梨も負い目があったのか見てみぬ振りか景虎の好みの件での行動を知っていてかこの件に関しては彼は黙っていたが。
でも景虎はこの批判はあまり気にとどめていなかった。
自分の好みで決めてしまった以上引くに引けなかったからである。
みな分かってくれるはずであると。
彼の息子の国清を含め村上親子の実力もみなは認めているであろうと。
その時が来るまではひたすら我慢と自分を正当化しておいた。
景虎は腰の重い渋る越後国人衆たちに何度も出兵依頼をかけてようやく彼らを引っ張り出し、越後軍は部隊が整うと雪解けとともに4月末に春日山城を出発し5月には北信濃の諸城の奪還を開始する。
が逆に気味が悪いほど甲斐軍の手ごたえが無くあっさり川中島は南端まで再度越後軍は甲斐軍を押し戻した。
ただそんな中、孤立無援で徹底抗戦を続ける葛山城は晴信のしたたかさや企みが垣間見えるようで嫌であったが。
甲斐軍に元気が無い、いや全く戦わない理由はすぐにわかった。
晴信は出陣していなかったのである。
怒り心頭で出てきたのにこれであった。
自分の行動をまるで見透かしているような晴信に景虎までもなんか力が抜けてしまった。
それにしても晴信という男は・・と思わず嘆きが出そうになるのを抑えた。
仕方が無いので越後軍は飯山城まで一旦後退し晴信の到着を待つことにした。
その後越後軍は高井郡の野沢城の甲斐軍を攻めたのだが、突然越後軍の拠点の飯山城にあの山本勘助が使者として晴信より派遣されて来た。
勘助は以前春日山城で会った時の様に相変わらずひょうひょうとしていた。
実は景虎は今回は勘助を捕らえようかと密かに考えていた。
甲斐に越後の本心を伝えるためである。
越後内では晴信の人を馬鹿にしたような作戦に不満が高まっていた。
戦う気が無いのにわざわざ越後軍を信濃に呼びだして楽しんでいるのではないかと。
越後をあまり馬鹿にすると痛い目にあうというこちらの意志の提示でもあった。
宇佐美定満からの提案であったが勘助を捕らえることで甲斐軍に言いがかりをつけ誘き出すことも同時に考えたのである。
早速勘助が飯山城の広間にやって来た。以前同様堂々と単身でやってきたのである。さすがであった。
しかし景虎は少し不愉快でもあった。
自分の性格を見抜かれているような気がしたからである。
景虎は手荒な真似をしない、大丈夫と・・
勘助は景虎に深々と礼をすると野沢城の攻撃中止を堂々と要求してきた。
「道安殿のご意見、飲めない・・」
景虎は言ってみた。
勘助ではなく以前春日山城で捕らえたときの彼の偽名 道安である。
彼の反応を見ようと思ったのである。
「前回は急いでいたようだが今回は晴信殿がお迎えに川中島に来るまでゆっくりなされ・・休暇も大事であろう」
と遠まわしに監禁することを伝えた。
しかし勘助の次の答えは意外なものであった。
「・・せっかくの両国のご縁の深まる話を持ってきたのに・・このようなご対応至極残念ですな・・」
と答えて来た。
見返りをもってきているとはっきり返答した。
しかし景虎は無視した。どうせ嘘であろうと。
約束を平然と破る晴信など信用できぬと思ったからである。
前回と同様今回も道安 勘助を捕らえると丁寧に客人としてもてなし、しばらく飯山城で滞在してもらい甲斐軍の返答を待った。
ところが甲斐軍の返事は意外なものであった。
景虎が晴信からの返事を待っている間に甲斐軍は越後側の北安曇郡の糸魚川谷の方の小谷城をいつの間にか落としたからである。
これには景虎も正直仰天した。
小谷城に甲斐軍が向かうなど予想外で守りは手薄であり、そこを突かれたからである。
小谷城が落とされたことにより越中方面から春日山城や越後本国への甲斐軍の進入も気にしないといけなくなった。
相変わらず善光寺のすぐ側の葛山城が落とせなかったため晴信の本隊が来たら分散作戦を強いられてしまう。
川中島の南方にも甲斐本国から到着した晴信率いる甲斐軍本隊が集結しているとの情報も景虎の元にももたらされていた。
しかもそれだけでなく深志城(松本市)にも甲斐軍が集まり小谷城に向かうのではないかと越後軍内でも情報が錯綜していた。
晴信は再度 野沢城の攻略の断念と勘助の開放を要求してきたがこれらの理由で景虎は渋々飲むことにした。
たださすがに家臣団からもこのまま晴信に振り回されるのは我慢ならないとの声が出て勘助を生かさずに甲斐に返して怒った晴信を誘き寄せる案も再度宇佐美を中心に検討されたがやはりそのようなやり方は好みではないと景虎は許可を降ろさなかった。
それこそ晴信の読めない策略に再度かかりかねないと景虎が判断したのである。
ただ景虎も本音では晴信の真意を読みかねていた。
現状は晴信の方が圧倒的に優位で、小谷城 野沢城 善光寺に部隊を分けざるをえない越後軍の方が断然不利であった。
越後軍としては野沢城攻略は放棄しても越中方面からの春日山城の防衛のために小谷城はすぐにでも軍を向けて取り返す必要があった。
甲斐軍が前回同様1万2000以上の兵力を投入してくれば小谷城 越中から春日山方面、もしくは晴信が欲しがっているといわれる海の出口のある越中に出ることも可能である。
兵力がさらに多ければ堂々とこのまま善光寺から越後軍を突破する、もしくは善光寺・川中島から越後軍を完全に追い払うことも可能かと思われたからである。
もし自分が甲斐軍の大将であればそうするであろうと。
それでも晴信はなぜか戦いに持ち込むのを極端に避けていた。
甲斐軍は今回もこちらに向かってくる気配がなかった。
越後軍を相当に買っているのか何か企んでいるのかさっぱり景虎は読めなかった。
結局勘助はそのまま甲斐に送り返されることになった。
景虎も不愉快であったがここは引き下がり茶の席に勘助を呼び丁重に迎え甲斐に送り返すことにした。
もう一度勘助と話をしてみて晴信の本心を探ろうと思ったのである。
飯山城城下の庭園が美しいと有名な称念寺に早速勘助は呼ばれた。
その場で早速再度勘助からあの話しが出た。
以前彼が言っていた両国の縁の深める話の件である。
景虎は以前は勘助が適当に言ったのであろうと気に留めていなかったのであるが今回次の勘助の言葉を聞いて景虎は固まってしまった。
「晴信様が景虎様と手を組み、お近づきになりたいと・・」
何をいまさら妙なこと言うのか・・同盟を結びたいとは・・。
そのように解釈したのであった。
勘助は正直に話してくれた。晴信公は美濃に行きたがっていると・・
この案を押したのは自分だけでなく晴信の弟の信繁や勘助同様甲斐軍の軍師の内藤昌豊も提案していると・・
いつまでもお互い無毛な戦に明け暮れるべきではないと。
美濃は米所でその真南の尾張や西国の近江も米所である。
しかも都に近く大小の豪族がまとまりなく戦っていた。
信濃と似たような状況で晴信には魅力に感じたのであろう。
晴信は弘治2年(1556年)に 駿河(静岡県・東部)の今川義元と、相模(神奈川県)の北条氏康と、それぞれの息子・娘同士の婚姻関係による『甲相駿・三国同盟』を結んでいた。
同盟相手の今川義元が上洛するとの噂も絶えなかった。
義元が西進して尾張を取るなら自分も美濃が欲しいと。
しかし問題は景虎側から人質交換で行くとしても親族が極端に少ない景虎には誰も行く者がいなかった。好色な晴信に人質を送る気も実はなかったが・・
「人質は出さない・・」
と言ってみた。
しかしそれに関しても破格の条件であった。
越後側からの人質はいらない。
犀川以北の譲渡と甲斐から景虎の希望する者を越後に送るという。
勘助は景虎に遠慮して直接名前を言わなかったが弾正のことを指しているのは間違いなかった。
景虎はなんか驚きと同時に自分が酔った勢いで起こした行為とはいえ自分の弾正に対する噂が少し恥ずかしかった。実は本気であったが・・
さすがに村上義清の葛尾城は返却対象に入っていなかったが彼は越後の根知城を与え客将として活躍してもらう予定でいたのでこちらからも妥協できる範囲であった。
景虎にとっても関東管領を苦しめる北条に専念できる。
しかし北条と武田は同盟を結んでいる。
「氏康殿が黙っていないであろう・・」
聞いてみた。
勘助は意外な返事をした。
「氏康殿は賢いから二面作戦は取りませぬ・・甲斐と越後を同時には相手しません・・
もちろん甲斐に対しては不愉快でありましょうが甲斐と越後が同盟を組んでも甲斐と相模の同盟になんら支障はありませぬ・・越後と戦う以上は渋々甲斐と同盟を結び続けるでありましょうな・・」
(そうであろうか・・)
一瞬景虎は勘ぐったがここは深く考えずやり過ごすことにした。
晴信のあざとい性格から妙なことを考えてしまったのであった。
まさか相模、関東も狙っているのではないかと・・以前晴信の父の信虎が関東に興味を持っているとの噂を聞いたことがあったからである。
しかしもしそうであればまた関東で晴信とぶつかってしまう・・考え過ぎかと。
あれこれ考えているうちにむしろ気になったのは尾張の織田信長であった。彼はこの戦国時代自分と同じく将軍に謁見した忠義者である。
尾張や美濃は信濃のようにまだ大小の豪族が争い国は統一されていなかった。
信長は頭ひとつ出ていたがそれでも尾張の半分程度しかまだ収めていなかった。
信長が晴信と同盟を組む義元に狙われて苦慮しているとの話は聞いていた。
彼を助けることが将軍への忠誠心になると・・
どこまでも古い景虎であった。
弾正の件は内心うれしかったがそんな自分を見て家臣団の心が離れてしまうのではないか、越後の運営に支障が出るのではないかと気になり、心残りであったが結局景虎はこの件は勘助に返答しなかった。
この件は越後の家臣団にもこの後は相談せずすべて自分の心の中にしまいこんだ。
越後にとっても景虎にとっても良い話であったが晴信に対して妥協するみたいで嫌でもあった。
景虎はこのように色々考え事をしていたのだが勘助が一言最後にと聞いてきた。
「晴信公にはどのように伝えたら良いかな?」
「?」
景虎は勘助の言っていることが理解できなかった。
思わず不思議そうな顔をしてしまった。
「お近づきの件ですが・・」
勘助も少し言い難そうであったが
「お近づき・・?」
景虎は本当に勘助が何を言っているのか分からなかった。
勘助はうなずいた。
「同盟の件はそう簡単に即決できない・・待って欲しい・・」
景虎は言ったが
「その件ではござらぬ・・お近づきの件でござる・・」
(・・まさか・・冗談であろうが・・)
景虎は一瞬固まってしまった。
手を組む、同盟の件が即答出来ないなど分かりきっておる・・他の件ですぞと勘助の顔に書いてあった。
「もし・・可能であれば殿は阿虎様と善光寺かどこかで茶会なり歌でも一緒に詠みたいなと・・」
勘助も少々言い難そうであったが真剣に言っていた。
景虎は思わず咳き込んで茶を噴き出しそうなった。
ようやく意味が分かった。
勘助の言っていた 手を組み、お近づきになりたい とは 同盟を組み と 個人的な関係を持ちたいと 二つの案件の話しのようであった。
これとは別に自分の阿虎の名前を晴信が知っていたのにも驚いたが・・甲斐の透破の情報収集能力も侮れないと。
ちなみに阿虎は景虎の幼少の頃のあだ名で親しみを込めて呼ばれていたのだが、さすがにこの年になってからは滅多に呼ばれず、とくに最近は新兵衛や直江、宇佐美、中条といった越後の重臣でも老人衆が無礼講の酒の席で酔って景虎を困らすときぐらいしか出てこないのであった。
(晴信と茶会や歌会など・・)
景虎は想像するとなんか良く分からなかったが恥ずかしくなってしまった。
世の中で一番嫌いな相手であるのに・・
ただ晴信も意外に文学好きで和歌や詩に熱中しそれを武田四天王の板垣信方にとがめられたことがあるとも景虎も聞いたことがあった。
景虎も晴信を見た後は彼に対する心象が変わりつつあったのは事実であった。
残虐無慈悲な印象から下がり眉毛の気弱そうな優男への印象である。もちろん戦は抜きで見た目だけの印象である。晴信の裏からこそこそやる謀略好きは苦手であったが。
晴信は好色で若い衆道衆だけでなく側室もたくさん連れていたのは事実だったがそれに関する悪い噂は景虎も聞いたことがなかった。逆に意外と気が効くマメな男と。
むしろ衆道の相手に自分の不倫を詫びる手紙を送っていると聞いて景虎が少々引くほどであった。
(本気で言っているんであろうか・・また何か妙なことを企んでいるのであろうか・・)
しかし本気でも妙なことを企んでいるにしても返答に困った。
「お・・お気持ちはありがたいが・・それも即答できない・・また返答する・・」
嫌いな晴信の誘いなどすぐに断ればよい物をなぜか保留扱いにしておまけに生真面目に答えてしまった。
勘助は了解しました、良い返事を期待しておりますぞと言い甲斐に帰っていった。
ただ晴信公の力をご覧になってから再度検討されても結構と不気味な言葉をも言い残していった。
6月になりようやく晴信本人が出てきたようで甲斐軍もようやく移動を開始した。
結局甲斐軍は川中島に戦力の集中させることにしたようで川中島の南方にいた部隊と深志城からの部隊は合流すると上野原まで移動して布陣した。
しかしその兵力を見てまた景虎は驚いた。勘助の言葉は嘘ではなかったのである。
なんと甲斐軍は2万近くを動員してきたのである。
対する越後軍は1万である。数では圧倒的に不利であった。
まともにぶつかれない。
小谷城に兵力を分散展開などもうかつにも出来なくなった。
晴信は北条 今川と『甲相駿・三国同盟』を結んだおかげで後心置きなく全軍あげて景虎と戦う事ができるようになっていた。そのためにこれほどの大軍を導入できたのであった。
正直越後軍でも動揺が起きていた。
取り急ぎ小谷城は後回しにしてこの2万の大軍を相手にすることにしたが戦力差がありすぎてこちらから打って出ることは出来ず、手の打ちようがないというのが正直なところであった。
しかもまたも晴信は動く気配がなかった。また頑なに守りに入っているようであった。
また持久戦である。少し安心もしたが。
それにしても景虎も家臣団も心の中でうんざりしていた。3度も川中島に来ているが一番最初は最南端の更科八幡 次は八幡平 犀川 そして今回の上野平。
決定的に負けたこともないのにどんどん晴信の勢力範囲は北上しており気が付いたらすぐそこまで来ている。今回も最北端まで攻められ最南端まで押し戻しまた気が付いたら犀川を越えて上野平までまた押し戻されている。
晴信もこのじりじり無音で迫って来る感じはとにかくうんざりであった。
「なんであんな嫌なのが隣にいるんだ・・」
思わず本音が漏れた。
解決策として勘助との話の件も思い出したがすぐに胸の奥にしまった。
ここまでされて引き下がるのが嫌でもあったが本当にどうしたらよいかも分からなかった。
さらに今回景虎は別の理由で甲斐軍に積極的に攻撃することが出来なくなっていた。
都で事件が起きていたのでる。
将軍足利義輝が三好長慶とその臣下の松永久秀に都を追われ近江に退却したとの情報が入り義輝から再度の上洛の要請と晴信との和睦の要請が来ていたからである。景虎はあの長慶が義輝を都から追いだした情報は信じ難かったが。
また越中でも一向一揆が起きていた。兵の消耗をなんとしても防ぎたかった。
景虎 晴信双方にもほどなく義輝からの和解勧告と上洛要請もあり、農業の繁盛季の9月には大慌てで何も得ることもなく景虎は軍を越後に引き上げて行ったのであった。晴信も10月には何食わぬ顔で退却して行った。
しかしその後の義輝の行動は景虎に衝撃を与えた。
義輝は景虎と晴信の和睦を勧告する御内書(将軍の公文書)を送ったのだがその中に信濃の守護を晴信に認めることになったからである。
これは景虎と晴信が講和、もしくは停戦するのを条件に義輝が晴信からの依頼を渋々受けたのであったが、おかげで景虎は守護小笠原長時の要望を受けて戦っていたのに晴信が信濃の守護になるとその戦う大儀名分がなくなり景虎にとってはこの戦いが無意味なものになってしまったのである。
晴信も実は景虎が前回上洛したとき『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)』を授かり景虎が官軍、景虎に敵対し戦乱を巻き起こす晴信は朝敵(国家の敵)であり賊軍という形式を立ててきたことを不愉快に感じていた。
面白くないので景虎に負けじと手を打ってきたのである。
もちろん義輝からしてみても景虎の面子を潰すので苦渋の決断でもあった。
景虎は義輝が長慶の傀儡と分かっていたので義輝を責める気はなかったが、自分を多少買ってくれていると思っていた長慶がなぜ心変わりしたのかが理解できなかった。
婚姻の話を断ったのが原因としたらますます気が重くなりやはり一度家臣団に相談してから決めれば良かった今更ながら後悔の念に駆られた。
そんな景虎の不満と義輝の苦渋の決断を無視するかのように翌年永禄元年(1558年)晴信は再度北信濃に出兵し信濃全土の支配権をより確実にするのであった。
義輝も停戦、講和前提で出した御内書を無視されたのでさすがに今回は義輝も晴信に非難の声をあげたが晴信は信濃守護の職務を果たしているだけで悪いのは景虎であると悪びれることなく逆に言い返される始末であった。
景虎も今回は越後軍を出せなかった。生真面目な景虎は義輝の講和の御内書があったので軍を出さなかったのもあるが、晴信と義輝の揉め事に口を挟みたくなかったのも事実であった。
晴信ももちろん景虎が上洛準備に追われているとの情報も知っていて動けないことも見込んでの行動であった。
晴信は越後軍の息の懸かる北部の飯山などを避けて越後側を刺激しないように甲斐軍を器用に動かし越後軍に接触しないよう徹底した。
また景虎が勘助から聞いた自分の言葉で悩んでいることも計算づくであった。
しかし晴信は本気であった。越後と無理に戦って消耗するより可能性があるところに戦力を振り向けどんどん領地を広げるのが戦国大名の義務であると。
また晴信は信濃での実質的な勝利をほぼ確信しており、越後軍と無理に戦うつもりはさらさらなかった。返事待ちであるが景虎と茶会や歌会の件も期待していたので不必要に景虎を刺激するのもなるべく避けていたのであった。
それにしても晴信も最近景虎に対する心象が変わりつつあった。
密かに晴信好みの麗しき姫君なのは今でも違いが無かったが景虎のその頑なまでに古典的というか忠義にこだわる性格である。特に将軍に対する忠誠である。
晴景は義輝からの上洛依頼は財政難を理由に断っていた。甲斐軍は弱いとは思っていなかったが三好軍と戦う気もさらさらなかった。
景虎は自分との戦いを少し休ませても上洛しようとする。
少々呆れてもいたが最近は少しは褒めても良いかと思うようにもなった。
それにしても晴信は景虎が忙しいのはわかっていたが まぁもちろん自分に原因もあるが あの返答をなかなか返さないのは少し不愉快であったが。
一方景虎もそんな晴信の調略上手にただ感心とともに辟易するという複雑な感情を抱いていた。
ちなみに景虎はこの時はまだ風林火山の本当の意味を知らなかった。
「風の如く速く攻め 林のように静かに潜み 火のように激しく攻め 山のように動かない・・」
で意味は正しいのであるが実はこの文の前に重要な一文がある。
「兵は詐を以って(も)立ち、利を以って動き・・故に・・」
と言う文章があるのだがこれは簡単に言うと
「合戦とは敵を欺くことで、利益を勝ち取ることを目的とし、兵力をそのために自由自在に変化させるもの・・それ故に風のように迅速に動く・・」と・・
晴信の言う風林火山は不用意に戦をすることなく策略謀略を駆使して相手の領土を取ることが真相である。
ただお姫様育ちで世間知らずで大儀名分を大事にする景虎は世の荒波にもまれることによって風林火山の本当の意味を理解して受け入れるのは人生も晩年の頃である。