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越後の虎  作者: 立道智之
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恐るべし敵

久々に春日山城の広間に景虎は戻ってきた。年も明けて早々新年の祝い事もそこそこに上洛時の報告の評定を行った。

下座にはいつもの面々が渋い顔で座っていた。

みな何か言いたげな不満気な顔であったがこのようなときの景虎の先手の打ち方は手馴れたものであった。先手を討って反撃させないことである。

広間にさっさと入ると上座にひょいと座るとみなにお辞儀をした。

一言「ただいま」と・・

そして何食わぬ顔ではたはたと扇子で顔をあおった。

機嫌が良いときの最近の行動である。


景虎の行動は読めないことの方が多いので最近は誰もあまり驚かない。

もうこれ以上は何を言っても無駄・・と諦め口調で各自ばらばらに

「お帰りなさい・・」

と力なく返した・・


みなの呆れ顔をよそ目に全く気にすることなく

「いや・・都は良かったな・・」

終始上機嫌であった。

「そうだ・・いい物を」

ポンポンと手を叩くと若衆が失礼しますと元気良く声を揃えて大きな木箱を持って数人広間に入って来た。

座布団に座ったまま何が起こるのかさっぱりわからずあっけに取られている宇佐美定満や 直江景綱を座ったまま若衆が押して移動させるとその大きな荷物をみなの前にどんと置いた。

「何じゃコレ・・?」

中条が唖然として聞いた。


景虎は澄ました顔で木箱を開けると中から何か長い筒状の物を取り出した。

都で買ってきた鉄砲 火縄銃である。もちろんみな初めて見た。今回大熊朝秀に怒られるのを承知で奮発して相場がよく解らなかったが10丁買ってきたのである。

大熊は後で景虎から値段を聞いて口を開けていたが・・


景虎は実は都で購入時試射したがその凄まじい威力に驚いた。

至近距離であったが胴丸を簡単に貫通させてしまった。

しかし一番驚いたのはその音の大きさであった。危うく腰を抜かしそうになったが初めて見る者はやはり音に驚く者が多いとのことであった。

「これが火縄銃・・すごいでしょう・・重いな・・よいしょ・・」

他の者にも手渡された。みな珍しそうに見ている。

弓やよりも威力が大きくそれほど鍛錬が必要なくても使えるのが特徴で尾張の織田信長が既に大量に揃えているとみなに話した。

もちろん越後の家臣団はそのころはまだ尾張の織田信長など聞いたこともなかったが。

鉄砲の欠点は一丁が非常に高価なのと消耗品の火薬がすべて明国頼みで調達しにくい、

連射が聞かない 雨の時は使えない 重い点であったがその威力と熟練を要しない所は充分に魅力であった。

家臣団も興味を持ったようで篭城戦や少数で多数を相手するとき使えそうだといろいろと意見を述べていた。


突然景虎が

「バーン」と言うと千坂がコロンと(撃たれて)転がる振りをした。

こんな風になると言いたかったようだが・・

「・・話・・聞いています・・?」

中条が唖然と聞くと

「・・え?」」

景虎も都のことをふと思い出している最中でみなの話を全く聞いていなかった・・


ちなみに景虎はこのすぐあとに思わぬ形で鉄砲の効果的な使い方を知ることになる。

しかも因縁のあの男から教わることになるのであった。

 

その他の荷物は景虎からお礼の気持ちとのことで西陣の織物や絵巻物や南蛮菓子のコンペイトウやカステラがふるまわれた。

正直西陣の織物や絵巻物はみな男なので興味がなかったが景虎も一枚上手で彼らのためではなく彼らの妻や娘に渡すための物であった。景虎は家臣団のとの親睦ももちろん重視してよく懇親を兼ねて一緒に酒を飲んでいたがそれ以上に彼らの妻や娘との付き合いに熱心であった。女同士であれば政治や仕事抜きで楽しめもちろんしゃべり相手としても景虎も気楽で息抜きに必要であった。景虎に年齢が近い柿崎妻や斉藤妻 直江の娘はよく春日山に遊びに来ていた。

越後の家臣団の従属は実は女同士の関係に夫や父親らが引きずり回されている妙な構造に依存していることが多かったのである。

景虎は諸大名本人たちとの面会時間よりも婦人、娘たちとの面会の時間の方が長かったと三戸文書などにも記されている。


景虎はカステラを食べながらさっと上洛の報告を一通りした。

軒猿の援護の件は素直に礼を言い、また堺の商人との青苧の件や三好長慶の件も一通り話し無事解決したことを報告した。

もちろん将軍義輝や天皇に謁見したことも報告した。

また天皇から晴信打倒の綸旨も手に入れたことも伝えた。

晴信は賊であると。

ただ三好長慶からの足利家への誘いの件は報告しなかった。自分の体の心配の件を再度この場でぶり返したくなかったからである。

何はともあれ諸問題は無事解決して一安心であると。


宇佐美が一言突然言った。

「・・姫 お気づきになりませんかのう・・」

「・・?」

「・・北条高広があれ以来 春日山に顔を出していません・・」

政景が苦々しく話した。

「・・・・」

景虎は黙ってしまった。景虎の都行きに散々反対した北条であるがあの件以来、春日山城に来ていないという・・

見せしめに討伐軍をあげようかとの話しもあったが向こうがだんまりを決め込んでいるのでこちらから手を出すつもりはなかった。

北条は口が少々悪すぎると家臣団でも評判が良くなかったが自分もぶしつけな口調であったので彼を口の件で咎めるつもりはなかった。

しばらく様子を見ることにした。


景虎は今年は戦にでるつもりもなかった。もちろん晴信が来たら別であるが。

少し仕事を貯めすぎていたのでそちらを処理する必要があった。

特に恩賞の仕事である。

結局この年天文23年(1554年)は久々に静かに過ごすことが出来た。


しかし 弘治元年(1555年)は年明け早々忙しい年になった。晴信がまたもや軍を動かしているとの情報が入ったからである。同時に北条高広も景虎に対して挙兵した。晴信にそそのかされて挙兵したのだが雪が溶ける前に事が発覚したので晴信の援軍も期待できないままでの挙兵になったのである。もっとも晴信が本気で北条を助けるつもりがあったのかは疑問であったが。


これに関して景虎は特に何とも思わなかった。2月に軍を向かわせるとあっという間に北条を降伏させたが自分からも素直に上洛時の時の北条との口論の件は謝った。北条の騒ぎの件が自分にも一理あったと生真面目な景虎は思ったからである。もちろん北条の武功も認めていたので敵にするくらいなら味方に留めて置いた方が楽との判断であった。

厳罰を覚悟していた北条は少々拍子抜けしていたが、ただ今回のこの甘い配慮はこの辺が越後の景虎と家臣団の実は微妙な関係を象徴しているのである。

この後も景虎は終始家臣団の掌握に悩まされることになる。


結局北条はお咎めなしで早速彼はそのまま何事もなかったように甲斐軍との第二次川中島の要員にそのまま動員された。


4月になると早速川中島に景虎は出兵した。

8000の越後軍に対して 甲斐軍は善光寺周辺に既に展開している先発3000に加え甲斐を出発してこちらに向かっている本隊9000の合計1万2000の大軍を動員しているとの情報が軒猿から入ってきたが景虎は臆することはなかった。

今回は上洛時に後奈良天皇から授かった『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)』をも授かり越後軍は意気揚々のはずであった。

景虎が官軍、景虎に敵対し戦乱を巻き起こす晴信は朝敵(国家の敵)であり賊軍という形式を立ててきたのである。


しかし景虎はようやく晴信の本当の実力を思い知らされることになった。


晴信は善光寺の別当の栗田鶴寿をいつの間にか引き入れそのまま善光寺の領民ごと甲斐側に引き込もうとしたのであった。

善光寺は女人に解放されている唯一の寺で景虎も以前母の虎御前に連れられて来たことがあったので何としても守り抜きたかった。

それを聞いた景虎は甲斐軍の本隊が到着する前に甲斐の先発隊3000と鶴寿が立て篭る旭山城に押しかけてみたがここで思わぬ歓迎を受けたのである。


旭山城に近づくとズドーンと言う聞きなれない大音響と共に火薬と煙が当たり一面に立ち昇った。

初めて鉄砲隊の襲撃を受けたのであった。

越後軍はつい昨年景虎が少数を都から持ち帰ったばかりであったが、晴信はさりげなくいつの間にか鉄砲を相当数揃えていたのであった。

風の噂だと300丁も揃えているという。

これには景虎も越後軍の重臣たちも正直驚いた。

何時の間にどこからそんな大量の鉄砲をと・・

越後軍には鉄砲が殆どなかったので初めて鉄砲を見る者が多く兵士や馬が音や煙に驚き、まともに動けず思わずの苦戦となってしまった。

もちろん鉄砲の威力もあるのでうかつには近づけない。

旭山城を封じるために前進拠点の葛山城を急いで作るが結局旭山城の攻略をあきらめ、越後軍は善光寺周辺に釘付けになってしまった。

また犀川の対岸にも晴信率いる甲斐軍の本隊が陣取ると旭山城の部隊と犀川対岸の本隊に挟まれて越後軍は身動きがまったくとれなくなってしまった。


越後軍は7月には犀川を渡り甲斐軍本陣を少し攻めてみるも今回は甲斐軍は守りに徹して小競り合い程度に終わった。甲斐軍も今までの戦で越後軍の強さを認識したのか頑として動かず今回は異常な長期戦に入ることになった。一ヶ月 二ヶ月と時間ばかり何もすることなく過ぎていった。


さすがに越後軍も士気ががた落ちになり軍の中で喧嘩や争いが絶えなかった。

そこで景虎はあることを思いついた。

家臣団を陣中に集めると誓紙を提出するように要求した。

家臣一団唖然としていた。

誓紙を出せとはなんぞやと・・

景虎は涼しい顔で言った。

「一騎でも参戦します」

「命令あればどこにでも馳せ参じます」

このような文章を自分に提出して欲しいとさらりと言った。

(何を突然言うのやら・・まったく・・こんな紙切れなんぞ・・)

家臣団は呆れていたが仕方なく一応誓紙は景虎に提出した。

しかし景虎の行動は越後は実はこのような不安定な従属関係の上に成り立ったていることの証明でもあり、この構図は結局は景虎時代は解決することはなかった。

景虎もそれを承知で考えた策であった。


しかし今回のこの長期布陣は景虎の秘密の弱点をさらけ出すことになった。

景虎は女性である理由と野営が苦手なので本陣ではなく近くの善光寺の旅籠に夜間は寝泊りしていたが毎月10日頃から一週間ほど体調不調を訴えて本陣に出てこなかったのである。

以前より続いている例の病気で今まではうまく隠していたつもりであったが今回の長期布陣で完全に明らかになってしまったのである。

この半年間の長期布陣中でそれが出てしまい、越後軍内でも密かに噂になっていた。

「・・毎月10日頃に姫様は腹痛で動けないようで篭ってしまう・・戦ができない・・」と、

景虎が以前黒田秀忠を討伐したときもこのような病気を起こしていたが今回もそれを起こしたので一時的な病気ではなく景虎の持病であると越後兵内で噂されだした。

家臣たちも薄々景虎の病気が意外に重い物でありこれが彼女の結婚しない理由であるかもしれないと密かに噂していた。


甲斐軍にも密かにこの噂は広まっていた。

ただこの噂は越後軍では野放しであったが甲斐軍では意外にもかん口令が敷かれた。

景虎の病気の件だけでなく景虎が女であることもかん口令の対象になっていた。

理由は晴信が女大将相手に苦戦しているという噂が我慢ならないのとそれにより兵士が油断慢心するのを防ぐためであった。

事実甲斐軍の中では景虎を見たあと以前より越後軍を戦いにくい嫌な相手だとの不満が晴信の元にあがりだしていた。

またこのかん口令のおかげで逆に景虎の正体は諸国にはまだ伝わっていなかった。

尾張の織田信長、前田慶次も然りである。


景虎が今回甲斐軍に積極的に攻撃しない理由も密かに囁かれ始めていた。

あのお気に入りの高坂弾正が今回甲斐軍の最前線にいると・・それで躊躇していると。

事実 弾正は越後軍との戦いの最前線に今回より投入されていた。

ただこれには晴信の計算も多少はあったが事実弾正の武勇を晴信が買ったからである。

彼は事実後に武田四天王の一人にもなっている。

弾正はこの後も川中島に海津城(松代城)が建設されると城主として常に越後軍と最前線で対峙するようになるのである。


これらのいろんな噂は景虎の耳にも入っていたが知らぬ振りをした。

心当たりのある弾正の件はともかく腹痛の件は正直参っていたが・・


このように長期の布陣になった今回であったが兵糧までもが不足し始めついには兵が不満を口々に直接景虎に言い始めた。

完全にみな気が抜け始めていた。

もっともこの辺は甲斐軍も事情は同じで補給の面では補給路が長い甲斐軍の方が不利で晴信の元にも同じような悲鳴が上がりだし晴信も困ってはいたが。

また兵士も普段は農民であり9月にもなると収穫時期近いので早く帰りたいと景虎に訴えはじめた。

しかしそれでも両軍はなお頑なに兵を引かなかった。

結局両者なんと6ヶ月ちょっと10月頃まで半年近く200日近くに渡り両軍睨み合っていたのである。

このような長期の睨み合いは当時としても極めて異例であった。


しかし先に音を上げたのは意外にも晴信であった。

景虎の頑なというか根性は見上げたものであったがいつまでも睨めっこをしていては仕方がない。

結局駿河の今川義元に頼み込んで講和の仲介をしてもらったのであるが、それでは晴信も格好がつかないので名目上は見かねた駿河の今川義元の仲介という形で両者ようやく軍を引いたのである。


両者の講和の条件は晴信が旭山城を破却して撤退し、さらに、北信濃の国人衆の旧領を回復するという景虎にとっては犀川以北を固められる有利な内容であった。

その逆で晴信にとってはいたって不利な内容であった。

善光寺の本尊や仏具も春日山に移すことが決められた。

ちなみにこの時府中に移動した善光寺が今でも直江津に残る浜善光寺である。


しかしさすがは武田晴信、ただでは済まさず景虎が知らない間に別働隊を木曽に派遣し制圧後、木曾義昌をいつの間にか降伏させ南信濃を完全に平定したのであった。まためけずに善光寺から仏像を勝手に持ち帰り甲斐善光寺として現在も甲府市内で健在である。


お互いいろいろと意地を張っていたが、しかし実はこの今川義元の提案に一番安堵していたのは景虎と晴信の両当事者であった。

景虎も晴信も何はともあれ両方一安心で10月15日に和睦が正式に成立すると撤退していった。

第二次川中島の戦い、犀川の戦いはこうして終了したのである。


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