越後統一
天文19年(1550)景虎は21歳になっていた。
この年の2月末 守護の上杉定実が亡くなった。
越後では騒乱の元になったりと雛人形のように担ぎ出されたりと散々であったが、景虎にとっては兄晴景との調停に奔走し、越後の再建の件で協力してもらい、また上杉謙信への道筋を陰ながら用意してくれた功労者であった。
景虎は約束通り彼の後を継ぐことになった。
間もなく足利将軍家からも守護の証でもある 白傘袋と毛氈鞍覆の使用許可もおりた。
守護 長尾景虎の誕生である。
名実ともに越後の最高権力者になったのであった。
お屋形様になったのである。
最も若い景虎はこのような年寄り染みた呼ばれ方は嫌いであったが。
しかし景虎が名実ともに越後の最高権力者になったにもかかわらず上田の長尾房長 政景親子は景虎に帰参しなかった。
上田長尾房長 政景親子の件は景虎には目の上のたんこぶであった。
しかしそろそろ放置して置く訳には行かなくなっていた。
守護代になってから今日までの間 景虎は越後国内に篭り 政治 経済 軍隊の再建に尽力を尽くした。次に備えてのことである。
いつ越後が襲われても相手を粉砕し戦い追い返すためである。
信濃は武田晴信に圧迫され信濃国守護の小笠原長時が林城に立て篭もり
関東でも北条氏政の猛攻で関東管領上杉憲政は上野国の平井城で最後の抵抗を続けていた。
上杉憲政からは父為景の旧怨も捨ててまでの救援依頼が入っていた。
父為景の関東管領殺しの汚名をそそげるので景虎はこの依頼に手放しで喜んでいたのだが関東に行くには上田長尾の領土を通らなければ行けなかった。
関東に出たくても その途中にある上田長尾が間にいるのでと行くに行けないのであった。時代の流れで放置しておけなくなったのであった。
結局上田長尾はこの年の年末になっても景虎の元に来なかった。
上杉憲政救援の出陣命令も出したがこれも音沙汰がなかった。
翌年天文20年(1551)の正月の挨拶にも来なかった。
そこで景虎はついに決心し 上田長尾の坂戸城に討伐軍を差し向けることにした。
ただ 上田長尾との本格的な衝突は避けたかった。
彼らのここまで粘る根性には一種の尊敬もあったが実力も決して低くはなかった。
晴景時代 上田長尾軍は常に晴景側の主力軍であり、かなりの人数を集めていた。
景虎も武田や北条との戦に備え 損耗を防ぐためには実力衝突はなんとしても避けたかった。
また姉の仙桃院が政景に嫁いでいることもあった。
姉の仙桃院は 景虎が晴景から家督を継いだとき怒っていたという噂を聞いていた。
姉を差し置いて妹が継ぐとはなんたることと・・
景虎は姉に可愛がられてきたので姉との関係を悪くするのはいやであった。
このような様々な事情があり景虎としては穏便に解決したかった。
景虎は出陣前に毘沙門堂に篭った。景虎らしくない依頼であったが戦なき勝利を毘沙門天に嘆願した。
そして守護命令の関東管領上杉憲政の手助けのためという大義名分で出陣した。
関東管領の手助けという守護命令であれば上田長尾も変な言い方ではあるが安心して降伏できるであろうと景虎は思ったのである。
上田長尾にもすぐに景虎の征伐軍の情報は伝えられた。
しかし上田長尾も実は事情は同じであった。
今まで支援してきた守護代の晴景が隠居し守護の上杉定実が死去したと思ったら 景虎が正式な守護代になり気が付いたら守護になっていた。
本来の守護代であった晴景に逆らう景虎打倒でこぶしを振り上げて叫んでいたが 景虎が守護代どころか守護になってしまい ふりあげたこぶしを降ろせなくなってしまった。
いつまでも上げているわけにはいかないが下ろす名分が欲しかった。
上田長尾内でも確執があった。房長 政景 父子の対立であった。
房長は景虎父 為景と常に争っていた、景虎の母方の実家の栖吉長尾とも争っていた。
なんとか為景 栖吉長尾をねじ伏せ晴景を擁立し傀儡にしようとした矢先にこの様である。
引くに引けなかった。
政景は違っていた。今回の景虎の出陣を好機と見ていた。
振り上げたこぶしを下ろすためである。政景は妻、仙桃院のこともあったが景虎の実力は認めていた。
以前面会したときの態度はそのためである。
景虎は3000人以上の兵力を率いて上田長尾の居城坂戸城に向かっていた。
秋の収穫前を狙って出撃していた。
坂戸城内の篭城時の兵糧を増やさせないためである。刈り取りの前を狙って出陣した。
兵糧攻めも可能ではなかったが姉がいる手前手荒な真似は避けたかった。
ただこの時期に出兵するのは景虎側にも危険性があった。
当時の兵士は半分農民である。秋の収穫時期は忙しい。兵士をやっている場合ではなかった。
自軍の兵士の中にも国に帰って米の収穫、刈り取りをしたいので早く帰りたいと何度も陳情してくる者が相次いだ。
上田長尾も事情は同じだった。
篭城時に城下町の住民が一緒に立て篭もるのは景虎が栃尾城に篭城したときと同じである。
上田長尾も急いで篭城したので収穫前に関わらず農民は刈り取りを行っていなかった。
兵糧が無い以上に目のも前に米がたわわに実っているのに外に出れないために刈り取れないので坂戸城内には不満が鬱積していた。
そのため外に出て一戦交えるべしとの声が上田城内でもあったが政景が激しく反対したため結局ひたすら閉じ篭るしかなかった。
政景は戦の時の景虎の豹変振りは良く知っていた。
出て行ってもたちまち返り討ちにあうのは分かっていた。数も坂戸城は1000人弱と不利であった。
政景にしてはいかにして父房長の気持ちを変えることが出来るかが一番の問題になっていた。
景虎は坂戸城近くに着陣するとまずは狼狽・稲の刈り取り 放火は厳禁した。
坂戸城 坂戸城下は将来の関東への越後国内の前線基地として利用したかった。
狼藉・稲の刈り取りに関しては兵士からこのまま放っておいて腐らすのかと不満がかなり出たが 上田長尾にこちらの気持ち 誠意を見せるためであった。
今回景虎は旗本衆 千坂景長 本庄実乃 金津新兵衛ら腹心の部隊中心に3000人の兵士を連れてきていたが、主だった武将の兵士は農業の繁盛期であったため本来の兵力を集められなかった。そのため意識的に連れてこなかった。政景と本気で戦うつもりがなかったのもあるが農村の繁盛記に部隊を動かすことに家臣団から不満が集中したのである。景虎は越後の守護ではあったが越後人独特の気質なのか家臣との付き合いは他の戦国武将と違い緩やかであったがそのために今後も苦労することになる。
ちなみに今回集めた兵士のうち2000人近くは手の空いている町の住人や途中の村民のなどに金を払って偽装で集めた兵隊であった、戦はしないからとりあえず来るだけでよいと。そのため金目当ての高齢者 女や子供も意外と混じっており とてもまともに戦える部隊ではなかった。水増し 張りぼての軍だったのである。
陣を張り終えると景虎は急いで政景 仙桃院に手紙を書き始めた。
景虎の残されている文章は平仮名主体の依頼系でしかも情緒的な文章が多いが今回もいつものその調子でひたすら政景 仙桃院に降伏勧告の手紙を書いた。
越後のために一緒に戦いましょう 姉妹が戦って何になるのでしょう おじに刀を向けるなど私に出来ませんなど 関東管領の手助けをしましょう・・ とにかく頼み続けた。
とにかくいろいろあの手この手でなだめる手紙を景虎は何通か送った。
手紙の伝令は親衛隊の小島弥太郎が主に担当し 何度も坂戸城と本陣の間を往復したが
最後には
「またですかい?」
と思わず漏らしてしまい景虎に怒られる始末であった。
房長は微動だにしなかったが政景は仙桃院のこともあり既に腹は決めていた。
景虎からの手紙の最後のあの一文を待っていた。我慢比べであった。
景虎も分かっていた。政景の要求している最後の一文を。
房長と仙桃院に挟まれて四苦八苦している政景には景虎も同情を若干覚えていた。
政景も房長に内緒で仙桃院に返書を代筆してもらい全てを語っていた。
結局折れたのは景虎であった。景虎が折れたのではなく景虎軍の兵士が折れたのであった。
兵が田んぼの心配をして勝手に軍を抜け出して国に帰りだしたとの報告が入り始めた。
景虎は最後の一文を書いた。
政景殿には我が重臣になって頂けませんでしょうか・・今までのことは無かったことにします・・と・・
上田長尾の継続と血縁による重臣引き立て、今までのことを水に流すという条件を政景は取り付けたのである。
坂戸城は開城した。守護命令にはそむけない、従うとの名分である。
房長 政景と仙桃院の3人はそのまますぐに景虎の陣地に直行し帰参を誓った。
房長は老齢を理由にしていたが 実質責任をとって隠居するとのことであった。
いろいろあったが景虎 政景 仙桃院 房長にとってはお互いに利益のある形で事は終結した。
景虎はこれによって軍を損耗することなく越後を統一、政景も上田長尾の正式な後継者として坂戸城を引き継ぎ長尾家でも景虎の血縁者の重臣としての地位を得て、仙桃院も景虎との仲違いはなかったことにして守護代の姉として君臨できたのである。房長も本人はともかく跡継ぎの政景が越後の守護の重臣として納まることが出来たので一応は納得できたのであった。
政景はこの後 実際に越後の政治で手腕を発揮し景虎の重臣として活躍するのである。
しかし実は政景の件は一筋縄ではなかった。
宇佐美が激しく反発していた。
宇佐美と政景の不仲は有名であった。
何が原因かは周りの者も良くは分かっていなかったが彼らの感情的なしこりと家臣の領土争い 過去の問題も絡み余計にややこしくなっていた。
宇佐美は景虎から見れば年長者でありこのような個人的な件とはいえ いくら守護とはいえ聞けるものではなかった。
とりあえず景虎は宇佐美をなんとかなだめた。いつもの逆である。
着座を宇佐美と政景を同じ位置にするなどあの手この手で気を使った。
ただこの件はその後も解決せず終始景虎を悩ませ 将来のあの事件を引き起こすのであった。
ともあれ景虎は越後をようやく統一した。
天文20年(1551)景虎22歳 父為景や兄晴景が成し得なかった越後統一を果たしたのである。