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越後の虎  作者: 立道智之
15/77

秘密

18歳になった景虎にとって天文16年(1547)も思い出深い年となった。

景虎が守護代になっておめでたい年明けになるはずであったが厳しい現実が待ち構えていた。

景虎は今まで18年間生きてきたが お金のことなどあまり考えたことがなかった、自分は無欲とまでは思っていなかったが常に生活するには充分の金銭が身の回りにあった。

そこに突然お金の問題が割って入って来たのである。


越後は父為景の代から戦続きであった。晴景の代のときも然りである。

伊勢三郎 黒田秀忠の乱・・


越後の財政は危機的状況であった。

長年の戦続きで財政は破綻していた。

景虎に果たされた第一の問題はこの越後の財政再建であった。


勘定奉行の大熊朝秀から提出された越後の財政の資料は衝撃だった。

国庫は空で商人から金を借りているような状況だった。

「まいったな・・・・お金がない・・」

この一言につきた。


越後の外では信濃は武田に圧迫され 関東も関東管領の上杉一門が北条の圧迫に悲鳴をあげ、越後国内では南部に上田長尾房長 政景親子がどっしり構えていた。

しかし今の越後にはそれに対応する余裕はまったくなかった。


景虎は初めての評定を行った。

金津新兵衛 本庄実乃 直江景綱 宇佐美定満 中条藤資 栖吉長尾景房、景信親子 千坂景長 大熊朝秀 色部勝長 斉藤朝信 北条高広 山吉豊守 柿崎景家 と景虎を支える一同勢揃いであった。

守護代になって初めての顔見世も兼ねたおめでたい評定のはずであったが 挨拶もそこそこに景虎は正直に越後の財政の状況を説明した。

実は滞っていた恩賞の件を少し待ってもらうためである。


また 各人の財政状況も可能であれば正直に教えてもらうことにした。

内容は予想以上であった。

武具を借金のかたにされ丸腰で戦っている兵士の話や 土地を差し押さえられている侍が多数いるなど さらに頭を抱えるような話ばかりであった。


実は景虎は国人衆から金を少し借りるか、一時的に彼らの土地の少しを守護代領に戻してもらおうとも考えていたのだがそれも到底無理な話であった。

恩賞が出せないのであれば徳政令を出してほしいとのことだった。

景虎も徳政令を考えていたが一度 徳政令を出すと商人から追加の借り入れが出来なくなり余計に生活が困窮するとのことで徳政令すらも出せなかった。


翌日 景虎は重臣のみとこの件で再度打ち合わせをした。

本庄実乃 金津新兵衛 直江景綱 宇佐美定満 千坂景長 重臣ではないが財政奉行の大熊朝秀 にも参加してもらった。

早速 直江 千坂から歳入を増やすために越後の改革案が提案された。

おそらく晴景時代から既に用意されたようで綿密に練られていた。

守護の上杉定実と越後商人たちとの交渉が必須であった。


まず守護代上杉定実との交渉であるが現在分かれている 守護代 守護の歳入関係の統一を嘆願することにした。越後の財政の管理を景虎に集中させるためである。

守護の上杉定実からすれば迷惑な話であるが、これには為景末期 晴景時代に一時的に回復した守護の力を削ぎ 守護代の景虎に再度力を集めて越後の求心力を高める狙いもあった。


早速守護の上杉定実と交渉を始めたが定実もこれには大いに難色を示し交渉は難航した、今までの定実の収入源である 守護領土の禅譲と京都の三条西家に対する青苧あおその利権の委譲を要求していたからである、定実からすれば身包みはがされてしまう。

景虎側の落としどころは定実の跡継ぎの件であった。定実は既に年も80近くになり跡継ぎがいない老人であった。また今回の越後の混乱 晴景の弱体化の遠因を作ったのも実は定身の跡継ぎ騒動の件であった。世で言う伊達時宗丸入嗣問題である。伊達から後継者を迎え入れようとして失敗し 伊達家に内乱と越後に大騒動を起こしたのである。そのため定実にも負い目があった。

景虎は定実の生活の補償はもちろん、越後の守護の後継に関しても自分が引き継ぐ意思があることを伝え、もしくは上杉氏そのものを継ぎ 更には現在関東で悲鳴を上げている同じ上杉一族の関東管領の上杉憲政を北条氏政から助けることも口頭であるが約束した。 上杉継承の件は結局 関東管領の上杉憲政の意向確認も必要であるのでこの時は話は流れたが  景虎にとっては父為景の守護殺しの汚名をそそぐことが出来、更に長尾家の家の格上げにもなり、また上杉定実にとっても後継者問題の解決、お家の継続とお互いに利益に値する話ではあった。 定実は女である景虎が守護を継ぐことには少し難色を示していたが女でも男でも権威には関係なく、いずれ景虎が婿を迎え跡継ぎ作る予定があることを伝え定実を納得させた。

それにしても定実本人の実力の証しにもなるがこのような決断には彼は元来時間がかかる人であった。我慢強く辛抱強く時間のかかる交渉を続けて、ようやく話がまとまった次第であった。

そのため 晴景の景虎への守護代の権威委譲の書面上のやり取りが大幅に遅れ 天文17年(1548)の19歳の時にようやく名実共に越後の守護代になったのであった。


この定実との約束であったが景虎は一点を除いて後に約束通り履行した。

履行できなかったのは婿の迎え入れの件だけであった。


続いては越後商人との交渉に先立ちこちらも直江や宇佐美から提案が出された。

越後の経済を牛耳っていた御用商人、青芋の元締めである蔵田五郎左衛門との交渉のための事前準備である。


ちなみに蔵田五郎左衛門は代々同名世襲の戦国期、越後守護・上杉氏のもとで越後青芋座を統轄した一族である。青芋は越後を代表する産物であり、からむしという野生植物の繊維を取り出し、乾燥させて束とした中間製品で木綿が普及していなかった戦国時代、一般庶民の衣料として重用されていた。大量の青芋が柏崎や直江津から「芋船」や「越後船」によって若狭の小浜などに運ばれており、そこから織布の先進地である京都や奈良に材料として供給され庶民の衣服などとして加工され製品化されていった。


蔵田五郎左衛門に会うに先立って景虎と重臣との間で下記の案が決定された。

景虎たちは越後の財源の強化を「青芋」と「船」に的を絞っていた。「青芋」と「船」に重点的に徹底して税金を課けることである。すでに為景時代より「青芋」と「船」の課税は部分的に行われていたが越後全土で徹底的に行うのである。そのため越後国内の主要な都市 港を全て景虎の直轄に一方的にすることにした。ついでに金山銀山も同様にすべて国人衆から取り上げ直轄にすることにした。

また商人の武士に対する貸付は禁止し、全の貸し借りはすべて守護代からのみの貸付にした。これは武士の困窮を防ぐためと国で金融業を行い利ざやを稼ぐこと以外に武士の管理も兼ねていた。 払えない武士はどんどん返済の変わりに働いてもらうためである。また徳政令を出した場合のつなぎ先も密かに兼ねていた。

このため商人や国人衆の一部で激しい反発も予想されたがそこは力で押さえつることにした。景虎も越後のためと割り切って推し進めることにしていた。


ただ商人や住民の懐柔も同時に行うことにした。今まで越後国内での移動のためにかかっていた通行税を廃止 主に城下町の住人や商人に課けられている細かい税金の減免である。

また橋の架け直しや道路 港湾の設備改修 投資も積極的に行うことにした。これは通商面だけでなく軍事面の強化も兼ねていた。

上記の案がすべて五郎左衛門との交渉で解決できれば全て良しであったが 商人に厳しい案も多く交渉の難航が予想された。


しかしここでちょっとした 意見の相違があった。

大熊は城下町の住人や商人に課せられていた税金の減免に反対したのであった。

景虎は「青芋」と「船」に課税強化するにあたり その代替案で現在商人や住民に課している様々な税金を減らし、行政の簡素化も考えていたが大熊はそれに反対したのであった。

「青芋」と「船」の税金の見込みがはっきりしないのに他の税金を減らすなど自分で自分の首を絞めていると主張したのであった。大熊が得意とする行政部門の介入も彼にとって不愉快だったのであろう。

確かに一理はあったが押し通すことにした。景虎は黙っていたが対案を考えていたからである。

景虎は大熊の実直な財務管理能力は高く評価していたが柔軟性が無い面は少し気にかけていた。

大熊も景虎の意外な強権的なやりかたに内心反発していた。大熊と景虎の間にこの頃から施政を巡って微妙な隙間が出始めていた。

そのため今回予定されていた五郎左衛門との会談に財政奉行の大熊は結局呼ばなかった。


蔵田五郎左衛門は春日山城に呼ばれた。

いかにも商人といった高級な着物を着て 恰幅のよい落ち着いた風情だったが笑顔の奥の眼鏡に隠れた目線は鋭かった。年は40過ぎくらいであろうか。

今回は実乃以外に宇佐美 直江 千坂 新兵衛ら重臣にも同伴してもらった。

宇佐美は五郎左衛門は油断ならないので男装で会談した方が良いのではと提案したが

景虎の腹を割って話をしたいとの思いと越後衆の前では隠し事をしたくないとの景虎の強い希望で普段のまま話を行うことにした。


五郎左衛門は商人らしく丁寧な態度であった。景虎を見ても微動だにしなかった。

知っていると言わんばかりであった。

景虎は越後の財政の困窮について率直に話したが五郎左衛門は黙って聞いているだけであった。

そして一言

「姫様・・ 商人は施政者が誰かどうかはそれほど気にはしません。その施政者が我々に良いか悪いかだけで判断します、良い施政者になられるのであれば我々は喜んでご協力いたします・・」

厳しい一言を早速浴びせてきた。

「武田晴信でも気にしないとのことか・・」

景虎も遠慮なく返した。

五郎左衛門も動じることもなく返した。

「姫様が我々の気持ちを少しばかり汲んでいただけば喜んで協力いたします」

要は彼らの要求を呑んでほしいとのことであった。


まずは景虎から口火を切った。

税制を今後は「青芋」と「船」の売上に課すことすると。しかも越後全土で適用する。

越後の港から出荷する青芋の売上税と運搬船の出港時の船税である。

これに関しては彼らも予想していたのであろう、あっさり容認した。


これに対する五郎左衛門からの要求は

「船」に関しては当時太平洋側は江戸幕府が出来るまで航路がなく物流は日本海海運の土壇場であった。越後は良港に恵まれていたこともありその交易の中心地になっていたが 越後の国としての設備の管理を要求された。景虎はそれらの設備の直轄化も決めていたのでこれも了承した、ただし直轄時の抵抗勢力の懐柔の手伝いは要求しておいた。 


「青芋」に対する要求は現在商人や町人に課している通行税の免除だった。これも最初から予定していたので要求を認めた。


ただ大熊が言っていた心配事も事実であった、税金の項目を減らせば「青芋」と「船」の歳入が予想を下回った場合歳入が大幅に落ちる可能性も考えられた。

そのため景虎の独自の要求であったが「青芋」に関しては販売量の目標を作り見込み分を歳入として入金するよう要求した、また本年度だけ少し前倒しを要求した。「青芋」の生産量が増えれば自動的にそれを運ぶ「船」の数が増え「船」の税金も増える。また空の国庫に少しでも入金しておくためでもあった。 かなり厳しい要求であったが五郎左衛門は意外にも景虎側の要求を呑んだ。


ただそれに対する条件も再度提示された。

まず「青芋」の生産量確保のため守護代の関与を要求された、

聞けば年間最大6回 原料になるからむしの刈り取りが可能であるが時期によっては人手が集めにくいこともあるとのことであった、これを解決するために守護代の名目、命令、もしくは奉行などを動員させよとのことであった。安定して売るには安定して生産しなければいけないとのことである。景虎はこれも了承した。


それ以外に「青芋」の更なる販売の促進を朝廷や貴族、大名に直接お願いしたい、またその他の交渉を兼ねて近い将来景虎自ら京都と堺に五郎左衛門と一緒に赴く約束も要求してきた。


実乃が口を開いた。

「越後の京都留守役の神余がいるだろうに・・奴にやらせれば・・」

しかし景虎が実乃を止めた。

景虎には思わぬ形で憧れの都入りの権利であった。

しかも大きな名文である。

自分から行くと言い出した、可能であれば将軍にも謁見したいと。


これには宇佐美や直江が渋い顔をしていた。

他の家臣団の反対も目に見えていたが背に腹は変えられない現実もあった。

宇佐美と直江の不服そうな横顔を尻目にこれも応じることにした。

話は穏便に進み丸く収まるかと思ったそのときであった。


しかし突然宇佐美が口を挟んできた。

「その他の交渉とは何か・・」

と・・ 直江も

「越後の名誉を汚すような行為は認めん」

と続けた。

(さすが・・老練な方は違うな・・)

五郎左衛門は少し にやりと笑い 静かに口を開いた。

「極めて簡単なことであります・・現在堺の天王寺芋座と越後座芋は為景様の頃からちょっとだけもめております。そこに越後国守護代として介入して欲しいのです・・」

直江がつぶやいた。

「商人の争いに守護代が絡むなんて・・」

宇佐美も心配気に言った。

「摂津の守護代の三好だったか?連中と争えと言うのか?」

五郎左衛門は静かに言った。

「争うつもりは無いのですが天王寺側がこちらに相当苛立っているようなので助けてほしいのです・・」

しばらく沈黙が流れた。


直江や宇佐美は察しがついた。

本当の目的はここにあるかと・・・


実は為景時代にもこのような話があったと直江は千坂から聞いていたが為景が隠居してからは疎遠になっていたという。ただ為景は意外にも熱心に介入していたという。


しかも天王寺側が頼っていると言われる摂津守護代の三好長慶も下克上を地で行く奸雄かんゆうと有名であった。織田信長以前の戦国時代初期の覇者といわれる男である。

今や足利将軍家や管領の細川家をも傀儡として近畿で威勢を奮っており 今の越後国では到底かなう相手ではなかった。

どうしたらよいか・・とさすがの直江 宇佐美も返答に窮してしまった。


今度は突然景虎が口を開いた。

「ひとつ忘れていた・・今 我が国や軍の兵士は商人からの借金に苦しんでいる・・ひるがえって5年 徳政令を出したい・・また武士に対する金の貸付も禁止したい・・それが出来れば・・」

最後の要求をぶつけてみた。

宇佐美と直江はぎょっとしていた、なぜこの場で急に無茶な要求を言うのか理解できなかったからである。


五郎左衛門の眼鏡の奥の細い目が一瞬光ったように見えた。

「・・いざと言う時に軍を動かして頂けるのであればよろしいでしょう・・」

これが五郎兵衛の狙いであった。


以前は青芋は越後で半原料として生産された後 堺の天王寺苧座が越後まで船で買い付けに来て 京都の三条西家に年間150貫に及ぶ苧課役・通行税を払い 生産工場である京都の坂本苧座・京中苧座に独占的に販売していた。越後での権益は守護の上杉家が仕切っていたが 景虎の父為景の代に守護の上杉家を傀儡化した後は これに為景が介入してきたのであった。今までの天王寺苧座に変わり越後苧座が直接販売をするようにしたのである。三条西家に年間150貫に及ぶ苧課役・通行税を50貫まで減額させたうえ京都まで越後の船を使い直接搬入を認めさせたのである。このため今まで天王寺苧座の船が独占していた日本海航路にも越後苧座の船が為景の強権を盾に割って入ってきたので天王寺苧座は著しく勢力を剥ぎ取られ越後苧座は恨みを買っており、この天王寺苧座との争いの用心棒を担いでほしいとのことであった。

天王寺苧座の恨み節は摂津国の守護代の三好長慶の耳にも入っていた。 


景虎にとっては父為景が途中まで作ってくれた実績であったが、父がそのような手順で密かに軍資金を調達していることを実は景虎は守護代になるまで知らなかった。

景虎は商売については良く解らなかったが越後の利益になる点はすぐに察しがつき、また父為景が熱心にやっていたようなのでそれを引き継ぐのは問題ないと判断した。

景虎の政治の仕組みも実は意外と父為景の遺構をそのまま継承したものが多かったという。

景虎にとっては越後の財政は一気に回復し金策に頭を抱えず恩賞も払え越後軍の再強化が可能なことがなによりも魅力に感じた。商売人と行動することは景虎は武家の世界に疎いところもあってそれほど気に留めていなかった。


越後苧座も為景亡き後守護の上杉定実や守護代の兄の晴景の時に政治の世界と疎遠になってしまったため天王寺苧座の巻き返しに遭っていた。景虎との交渉を多少妥協させても景虎を引き込むのは必須であった。

五郎左衛門にしても越後の守護代の景虎のお墨付きを得れば越後-畿内間の青苧流通の完全支配だけでなく日本海航路の独占による様々な海運物 流通の独占による莫大な利益が期待できた。


沈黙が少し流れた後

「・・年間どのくらいは入りそうか?」

景虎がいつものぶしつけな口調で聞いてみた。

「うまくいけば船だけで3万 いや4万貫(12万石相当?)春日山城の蔵に入れられますな・・青芋の販売が軌道に乗ればそれはもう・・越後がもう一つ増えるようなものであります・・」

五郎左衛門は笑顔で語った、あとは隠すことなく商売人として話すだけである。

景虎は興味深そうに身を乗り出して聞いていた。


(越後一国以上?・・そんなに入るわけなかろう・・)

宇佐美 直江はいぶかっていた。

景虎を騙そうとしているのではないかと・・

ちなみに越後の当時の石高は 後の豊臣秀吉の太閤検地によれば約40万石である。


しかし景虎は続けた。

「今日は良い話を聞いた・・すぐにでも協力しよう。しかし今我々は国と軍の再建中なのを理解して欲しい・・今すぐは無理だ・・しかも近いうちに越後にやって来るであろう武田か北条を追い返さないといけない・・」

五郎左衛門が口を挟んだ。

「今すぐではなくてもいずれは・・と解釈してよろしいでしょうか?」

景虎はうなずいた。

「・・いつごろでしょうか・・?」

商売人になった五郎左衛門はさすがに遠慮がなかった。

景虎は少し黙って考えたが、

「3年待って欲しい。それから一緒に都に行こう。」

と言ってしまった。

しかし最後にもう一言付け加えた。

「ただし・・陸路で都に行くのは危険すぎる・・加賀に横たわる本願寺と一戦交えることはできない・・兵士を積む船を用意できるのであれば良いのだが越後商人にそこまで迷惑はかけられないからな・・」   

景虎は遠回しに都へは軍は連れて行けないと答えたつもりであった。


しかし五郎左衛門の答えは意外であった。


「船が用意できれば可能と解釈してよろしいのですかな?」

景虎は答えに窮したが答えてしまった。

「・・そうだ・・」


「わかりました!」

五郎左衛門が満面の笑顔で答えた。

「守護代様のお墨付き頂きましてありがとうございます。天王寺苧座の恫喝にもこれで我々も屈することなく商売に励めます。本日は有意義なお時間ありがとうございました。今日のお約束はこちらはすべて実行いたしますので姫様もよろしくお願いいたします。越後商人は姫様に服従を誓います」


景虎は何も言わずににこりと笑って答えたが内心とんでもない約束をしてしまったかと少し後悔していた。

宇佐美 直江は五郎左衛門の話を鼻から信用していない感じで白けた顔をしていた。 

何はともあれ交渉は無事円満に解決し景虎は一安心であった。


しかしこの後景虎は天文22年(1553)と永禄2年(1559)2度にわたって都と堺に赴くことになる。永禄2年の上洛の際は実際に5000人もの大軍を率いて上洛するのである。


一方蔵田五郎左衛門も最初は景虎本人の力よりも越後は日本海航路の港の要衝を押さえる国であり、例え天王寺苧座に巻き返されても越後守護代に逆らうことは結局は商売に支障をきたす点を天王寺側に強調したかったのだが、五郎左衛門はとって嬉しい誤算だったのは後年 景虎が武田晴信との神懸り的な戦いを展開するとその景虎自身の軍事力を誇示できるようになり今回の争いを有利に展開できるようになった点であった。


またこの後越後苧座は越後-畿内間の青苧流通の完全支配を確立し景虎の重要な資金源にもなり青芋は当時の庶民の衣料の現原材料として重宝され日本国内に流通する8割から9割を越後産の青芋が占めたという。



最後に五郎左衛門からお近づきの印にと献上したいものがあると話しが出た。

太刀が一本景虎に献上された。


聞けば姫鶴一文字と言い

鶴という名の姫が夢の中で刀工の前に出て磨り上げをしないように願い出たから付いた名前やら、瀬戸内海の伊予国の大三島にいた武勇に優れた鶴姫の名にちなんでつけられたなど色々噂がある太刀だという。

景虎も鶴姫の噂は聞いていた。

自分同様 女武者として周防の大名 大内氏と3度に渡って激戦を繰り広げ これを打ち破ったものの 討ち死にした兄や恋人の後を追うように自害した姫のことである。

備前国の福岡一文字派の名刀で短いが軽量で機動性に優れ腕力が劣る景虎にも充分な太刀であった。

姫鶴一文字は景虎は非常に気に入り常に帯用したといわれ 現在も米沢市の上杉博物館でその輝きを見ることが出来る。


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