父と子と
景虎はようやく事態が飲み込めた。
直江が
「守護代には ふさわしい方がなられた方が越後のためでございます・・」
と静かに言った。
中条がずけずけと
「何をためらってらっしゃる お声をかけなされ」
と大声を出した。
景虎は戸惑っていた。
憎たらしい兄ではあるが兄と戦うなど考えたことがなかった。
「私には・・できない・・」
景虎が声を漏らした。
「・・え・・?」
若干脱力気味の声が漏れた。
宇佐美がすかさず入った。
「姫!晴景兄と戦う訳ではなく 晴景兄に禅譲してもらうため我々は集まっているだけであります!手荒な真似をするわけではございません・・ご安心を!ご理解も!」
「・・・」
景虎は黙ったままだった。
「越後のために!」
「姫様!」
声が続き出した。
越後が再度危機に瀕しているのは景虎にもよく分かっていた。
越後を守るために人質に行くつもりでもあった。
しかし諏訪頼重の件などの噂は聞いていた。
不安が無きにもあらずであった。
自分が越後を守るなど大それたことは考えていなかったが
自分の家である越後に土足で入って来る者には容赦するつもりはなかった。
越後が危ない 越後のために の一言で心は決まりつつあった。
しかも頼まれたら断れない景虎だった。
しばらく考えていたが 小さな声で
「・・わかった・・出陣・・」
景虎は声を絞り出した。
「オー!」
掛け声がようやく上がった。
こうして景虎は晴景に叛旗を翻すことになった。
景虎の叛旗は晴景の耳にもすぐに届いた。
しかし春日山城の周辺は景虎勢にあっという間に囲まれていた。
晴景の誤算は上杉軍守備隊の千坂までもが景虎側についたことだった。
脱出が出来なくなってしまった。
一方 晴景側の 上田長尾房長 政景親子 上条定憲 黒川清美軍が春日山城に晴景の救援に向かっているとの情報が入り 中条が自ら
「気に入らん上条らを討ち滅ぼしてくれるわ」
と息巻き迎撃許可を求めたが以外に景虎は許可をしなかった。
今は越後人同士が争っている場合でなくまとまる方が大事とのことで
降伏すれば許す方針である旨を伝えた。
結局上条軍 黒川軍は春日山城近くまで来たあと 上条定憲 黒川清美 自ら本陣までやってきて降伏 帰参を約束した。上田長尾は数の差で完全に不利を悟ったのであろう 居城の坂戸城に引き上げてしまった。
晴景は完全に孤立無援になってしまった。
逆にこうなると攻め手の景虎側も手が出し難くなってしまった、一気に落とすのは たやすかったが兄の晴景に傷をつけることは出来なかった。使者を送って降伏を進めたが晴景の自尊心がそれを許さなかった。
しかし思わぬ展開が起こった。
守護の上杉定実が一人で春日山城から出てきたのである。
実は景虎たちも彼のことをすっかり忘れていたのであったが 彼も今回の包囲に巻き込まれていたのであった。
今まで問題ばかり起こし 殆ど良いとこなく古ぼけた飾り雛人形のように生きていた彼であったが 彼の思わぬ提案で事態は一気に解決に向かうことになった。またこの提案で彼は歴史に名を残すといっても大げさではなかった。
定実は 晴景と景虎を父と子の契りを結んで晴景が禅譲することを提案したのだった。
兄から弟(妹)ではなく 父から子であれば箔が付くとのことである。
父 晴景は隠居し 子 景虎に禅譲する である。
早速晴景に定実から直接この案は提案された、晴景も渋々であったが守護からの依頼でもあったため断ることが出来ず受け入れた。
こうして戦火を交えることなく景虎は正式に越後の守護代になったのである。
晴景はしばらくして春日山城から退出した。
籠に載せられて春日山を降りていった。
城下の空き屋敷があてがわれ そこに何もいわずに移動していった。
籠の窓は閉じきられ中の様子は伺いしれなかった。
晴景と景虎は最後までお互いに顔を合わすことはなかった。
複雑な感情が景虎の胸に残った。
このように晴景から景虎への守護代の実質的な権威委譲はあっけなく終わったのだが この後の守護の上杉定実と景虎のその他の交渉が難航したため書面上の権力委譲は予想外に時間がかかり 締結されるのは天文17年 19歳の時までかかることになる。
景虎は春日山城に入場した。
今まで晴景が住んでいた本丸に登り外の景色を眺めた。
「・・きれいな景色だな・・」
春日山城から眺める景色は絶景であった。
緑の田畑が眼下に広がり 濃紺の日本海が水平線の果てまでどこまでも続く。
青空では白い雲と鳶が悠々と風に流されている・・
城下町の向こうの府内の港には 停泊する船舟・・
しばらくすると今までのことが急にいろいろ思い出されてきた。
嫁入りのはずが三郎軍に追われ 必死に生きるために戦った・・
怖さを酒で紛らわしながら戦い続け
そして気が付いたら女だてらに守護代になって 今ここにいる。
「・・私がここにいて良いのだろうか・・」
不思議な気分であった。
「・・それともこれは夢だろうか・・」
思わず独り言が漏れた。
「姫様・・」
女中の声で我に返った。
お春と花の声であった。
彼女らも今日から春日山城の住人になったのだった。
「これからもよろしくお願いいたします」
景虎もにっこりと笑って答えた、
「こちらこそよろしくお願いします」
お春と花はこの後も景虎の最期まで春日山城で付き添った。
景虎は広間に移動した。
今までは晴景のいた上座に初めて座った、なんか不思議な気分であった。
服装も基本的に今後は守護代の景虎の自由とのことで普段着の子女のままであった。
もう男装の麗人の必要はなくなった。
家臣団も同じ不思議な気分であった。
自分たちが推挙したのだが 失礼ながら 殿方ではなく自分たちの娘と同じ年頃くらいの若い姫君が上座に座っている。
下座にはいい年をした強面の男たちたがずらりと並んでいる。
不思議な構図であった。
みんなお互いなぜか顔を見合わせ落ち着かなかった。
お互いよく知っている顔であるのに
「なんだかな・・よくわからんが・・恥ずかしいな・・」
中条が年甲斐もなく照れながら漏らした。
「すぐに慣れるじゃろうって・・」
宇佐美もいつものひょうひょうとした口調で言った。
よくわからなかったが景虎も他の者も同じことを考えたのであろう、
お互い顔を合わせると可笑しくなったのかくすりと少し笑ってしまった。