第六話 天女様
哀虎は下駄をカラコロ鳴らし、曙天の屋敷の庭を歩いていた。
ひんやりとした風が頬を撫でる。肩を震わせ、スっと息を吸った。
上着を羽織ってくればよかったな、と思う。春になったとはいえ朝はまだ寒い。
手先を赤に染めながら石畳の上を歩く。石畳はやがて白砂利となり、哀虎は着物の袖を手繰り寄せながら小さく咳をした。庭の真ん中にたつ老桜をひたと見上げる。
鵺苑家を長きに渡り見守ってきた桜の木だ。しかしここは妖の屋敷、この木もまた妖の類いである。その花弁はどこまでも白く、ゾッとするほど美しい。噂では、鵺苑家に害を為す者が近づけばその者の魂を吸い取って養分にしてしまうとか。本当かどうかは定かではないが。
哀虎はこの桜の木にどこか切ない懐かしさを感じることがままあった。
母胎の水音、冬座敷の火鉢、夜半の嵐の置灯籠……。老幹に体をひっつけると、言い知れぬ安心感で哀虎の全てが包まれるのである。
どうしてだろう。小さい時からこの木に触れ合ってきたから?
それだけではないような気がする。もっと奥底、魂が包まれるような安心感がある。このまま眠ってしまいたくなるような気持ちに襲われる。
「朧様」
哀虎はソッと目を閉じ、数秒黙して……そして瞼を上げた。長い睫毛がはらりと揺れる。
朧とはこの桜の木の名前である。空との境がわからなくなるくらい朧げに咲く様子から誰かがそう呼び、以来この屋敷に住む者は揃って朧様と呼ぶようになった。哀虎が生まれた時には既に周囲がそう呼んでいたので、哀虎も同じようにそう呼んでいる。
哀虎は何か覚悟を決めたときや新しいことを始めるときに、決まって朧様の下を訪れるようにしていた。
日が昇ると同時にこの木を訪れて名前を呼ぶ。そして長年連れ添ってきた旦那に寄り添う女のように垂れ掛かり、こう言うのである。
私を見守っていてくださいね、と。
宴命の予言からおよそ一月が経った。
つまり、今日が入学式である。
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暁学園は都心から少し離れた場所に建っている。
妖と人間の対立により数多くの被害を出した戦争が終戦を迎えた数十年後に創立され、今では妖と陰陽師が共に通う全国でも珍しい学校であった。
塀の終わりが見えないほどの広大な敷地に生徒はまず驚き、次に和と洋が共存する独創的な造りに圧倒される。城のような校舎は西洋の文化と日本の文化を上手く融合させた和洋折衷様式だ。
校舎の外壁は漆喰塗、屋根は瓦葺。ちらほらと赤煉瓦の建物があったり木造朱塗りの橋があったり、どこを切り取っても絵画の世界である。
暁学園が全国的に有名なのは高い偏差値と馬鹿みたいに高い学費の他に、こういった要因も関わっていた。
「新入生代表の挨拶、巳國くんだって」
「え、嘘!?外部受験の人じゃないんだ」
入学式は粛々と進んでいた。
哀虎は内部進学組なので、新生活への期待もなく非常に落ち着いた心持ちである。今朝、朧様にご挨拶したお陰もあるのかもしれない。
外部受験組も今年は少ないようなので、顔ぶれも特に変わりはなし。見たところその中に桃色の髪の生徒はいないようである。少し拍子抜けしたが、じゃあ安心かと聞かれればそうではなかった。
宴命の予知能力は断片的なものが殆どで、例えるなら映画のワンシーンが場面ごとに切り替わって次々と流れていく感じらしく、この先に起こること全てを自由自在に視れるわけではない。
ただその中に祀が纏う死の気配と同じものを纏う少女が映り込んでいたらしく、祀の生死にその人間が関わっていることは確かだそうだ。
今回の予知ではその娘の正体はハッキリとはわかっていない。油断は禁物である。
「あ。巳國くんあがってきた」
「いや、やっぱヤバいね。天女みたい」
哀虎は前に座る女子生徒二人の会話に耳を傾けながら、ステージの方に視線を向けた。とりあえず件の人間のことは一旦置いて、先程からやけにお嬢様方を騒がせている天女様を拝むことにしたのである。考えれば考えるほど悪い方向に思考が持っていかれそうだったので。
会話から察するに性別は男らしいが、この学園は全体的に容姿に恵まれた者が多いので美しいと騒がれるのはそこまで珍しいことでもない。ただ天女様とは相当だなと思って、ちらと視線を向けた。
そして……成程、これは確かに天女みたいだな、と納得した。少しばかり驚いて、ぱちぱちと瞬きをする。
そこには凛として雨露に煌めく華のような男子生徒が立っていた。
僅かに紫味を帯びた青、深縹色の髪は絹糸のように艶やかで、高い位置で一本に括られたソレは流水が如く美しさである。
肌は真珠のように白く、しかし背丈は高く、体付きもしっかりとしていた。きっと鍛えているのだろう。であれば、頭のてっぺんから爪先まで寸分の狂いもない美しい立ち姿にも納得がいく。
立っているだけで様になる、とは正にああいう人を指して言うのだろうなと思う。天女のように美しく、しかし日本の侍、武士を体現したかのような男。
哀虎は彼が話し始めるのをぼうっと見つめて、これは言い寄られて仕方ないだろうな、と思った。