第一話 春雷の宣告
「死相が出てるね」
「あ?」
紫煙を吐いて、男が言った。
墨汁を垂らしたように真っ黒な髪を揺らしながら、黒檀羅宇に人差し指を引っ掛け、胡乱げな眼差しで目の前の二人を見ている。
胡座をかいた足に肘をつき、退屈そうに庭の雀を見ていた漆烏祀は顔を上げた。片眉を上げ、目を細めて前に座る宴命を見る。
この男は時たま嘘か本当かわからない冗談を言うが、相手の困惑した顔を見れば満足をしてすぐにネタバラシをする嫌な男であった。
祀と宴命が見詰め合ったのは十秒ほど。口を開く気配はなし。
どうやら、そういうことらしい。
「この俺がか?……ハッ、どうにも信じ難いねェ」
「死期の近い者は、顔を見ただけですぐにわかる……祀、キミは生死の際に立っているのだよ」
宴命は未来を予知する件という妖だ。
人間たちの間では半人半牛の姿で伝えられているが、実際の彼は人の姿に豪然とした真っ黒な角が生えているだけの、幽艶な男である。
昔は決まった土地に留まらずフラフラとしていたが、祀が生まれてからは漆烏家の御抱えとなり、数ヶ月に一度こうして漆烏家に赴き彼の未来を予言している。
「宴命殿、それは祀様が殺されるということでしょうか」
祀の横で二人の話を聞いていた鵺苑 哀虎が口を開いた。祀の従者である。
白鼠色の着物をきっちりと着こなし、背筋は一本の棒が入っているみたいに真っ直ぐだ。涼しさを感じさせる瑠璃色の瞳は、揺らぐことなく宴命を射止めていた。
相変わらず、凪いだ海のような子だ。主が死ぬやもしれぬというに。
宴命は煙管に口をつけ、フウ、とゆっくり煙を吐いた。横を向いて煙がふたりに行かないようにしている。
上がりきった御簾の向こう側では、梅の木にメジロが留まっていた。
ついこの間まで火鉢の前に座していたのに、時の流れというのは早いものだ。
「そうだねぇ……事故だとか、自殺だとか……そういうことではないねぇ」
「ンだよ、ハッキリしねぇな」
「詳しく視てみないことには、どうもね」
宴命はくつくつと笑った。祀が苦虫を噛み潰したような顔をしたからである。
未来を見る儀式は少しばかり脳を覗き見る必要があるのだが、どうもその間に起こる酔った感覚が不快らしい。
他人に無防備な姿を晒したくないという、彼の用心深い性質もあるのだろうが。
「祀様、今回は逃げては駄目ですよ」
「わーってるよ」
「木の上に登ったら雷落としますからね」
「オイ、俺の死因こいつじゃねぇだろうな?」
祀はげんなりとした顔で哀虎を親指で指した。
鵺という妖は雷を操るという。鵺苑家でも特に優秀だという哀虎の放つ雷撃は、それはもう筆舌に尽くし難い痛さだろう。
祀は想像したのか、急に大人しくなって目を閉じた。そうして片目を開け、早くしろと促す。
やはり鴉は雷が怖いものかね。
そんなことを思いながら、宴命は灰吹に煙管をトン、と押しつけた。
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「本日はありがとうございました」
「あぁ。祀にお大事にと伝えておくれ」
「はい」
一時間後。哀虎は真朱色の楼門の前まで宴命を見送りに来ていた。祀の姿はない。今回はいつもより酷く酔ったようで、儀式が終わるや否やすぐに自室へと戻ってしまったのだ。
門までくらい我慢出来ただろうに。
哀虎は何だか申し訳なくなって、宴命の漆色の羽織を見つめたまま黙ってしまった。
「愛し子よ。そんな顔をしなくとも、私は何も気にしていないよ」
「……宴命殿、その呼び方はやめて下さいとずっと申し上げているのですが」
「おや、そうだったかな。次からは気をつけるとしよう」
悪びれる様子もなく笑って見せる宴命に、哀虎はもう何も言うまいと口を閉じた。彼が“愛し子”と呼ぶのは哀虎に対してだけだ。
恥ずかしがるところを見て面白がっているのだろう、きっと。
「私は漆烏家の専属だがね」
「……はい?」
突然。宴命が左手の楼門を見上げながら言うので、哀虎は目を丸くして彼を見上げた。芸術品のような横顔はいつも通りだが、そこには僅かな憂いが見え隠れしている。
珍しいこともあるものだ。何が彼をそんな顔にしているのだろうか。
哀虎はジ、と静かに宴命の言葉を待った。
「先程も言ったが、死相というものは視ようとしなくても視えるものなのだよ」
「はい」
「私はお前が愛しくて仕方がない。稚児の時から、ずっと」
「はい」
「愛し子よ、桃色の髪を持つ人の娘には気をつけなさい」
お前はこのままでは、一年ともたず死んでしまうよ。
哀虎は目を数度瞬かせた。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、陶器のように真っ白な肌を隠す。宝玉のような瞳がチカチカと光を放った。
なにをするでもないのに美しい。このまま攫われてしまうのではないかと、錯覚するほど。
宴命は長く骨張った指で彼女の頬にかかった髪を払うと、手の甲でするりと彼女の頬を撫でつけた。冷んやりとした、精巧な造りの人形のような指だ。
哀虎はそれが少しくすぐったくて、左目の下に皺を作った。
桃色の髪の人間。祀にも同じようなことを言っていた。
私の死相も見えたのだろうか。その桃色の髪の人間に、祀諸共殺されるのだろうか。
哀虎はそこまで考えて、いや違うなと思った。宴命の口ぶりからして、きっと祀よりも死の気配が濃いのだろう。だから彼は憂いている。
死ぬんだ、と思った。
死んでしまう。
祀を置いて。
「怖くはないのかい」
「祀様は私がお守りしますから」
「キミ自身のことを言っているのだよ」
「私自身?」
「主のためなら死ぬのも怖くないかい」
「それが従者の誉れであると思っております」
「……そうか」
「宴命殿?」
「……鵺苑家の忠誠心は素晴らしいがね。お前はどうも、無茶をするところがある」
宴命はポン、と哀虎の頭に手を乗せた。それを不思議そうに見上げる彼女の首元には、人差し指ほどの長さの傷痕がある。幼い頃、祀を庇った際に出来たものだ。
祀のことになると躊躇いというものが一切なくなるこの娘のことが、宴命はどうも気掛かりだった。
「お前が死ねば皆が悲しむ。大事におしよ」
「はい」
「よろしい。では」
宴命が一笑すると、彼の周りで桜吹雪が巻き起こった。誘われるように羽織もふわりと舞い上がる。
哀虎は一歩下がり、深々と頭を下げた。再び頭に温もりが訪れる。
二、三 撫でたのち。
いっそう強い桜の香りが鼻を掠め、顔を上げた時には宴命の姿はさっぱりと消えていた。