母なる祖国像—あるいは、どうして女性は男性の下に置かれ続けなければいけないのか?
※このエッセイは、いかなる人物・団体をも誹謗中傷する意図を持っておりません。多少攻撃的な記述を含みますが、それはその対象に対するヘイトの意図を一切含みません
ウジェーヌ・ドラクロワという画家がいる。彼の代表作の1つが「民衆を導く自由の女神(La Liberte guidant le peuple)」という絵である。絵の中央に立つのは、フランスという国そのものの擬人化であるマリアンヌ。彼女は胸を露出しているが、その乳房は母性を導き、それは「母なる祖国」という使い古された陳腐なイメージに基づいている。
なお「女神」という単語は原題には存在しない。いわゆるニューヨークの自由の女神像はこのマリアンヌに基づいたものだが(なのであそこに立っているのはフランス、というよりその共和制と自由の象徴なのである)、女神とは言いつつ神話的、あるいは宗教的な女神ではない(強いていうならば「自由」を信奉する人々にとっての女神である)。
だがフランス革命に女性の影は見当たらない。時折バスティーユへの進軍の際にパリの女性たちがどうたらという話が出てくるが、あれはあったとしても火種にすぎない。革命の遂行に関わったのはすべからく男性であった。何故そう言い切れるのかと言えば、「フランス革命の人権宣言は、男性にしか権利を認めなかった」からである。
フランス人権宣言、もとい正確には「人間と市民の権利の宣言」と訳されるが、原題は「Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen」である。この中の「Homme」は、英語で言う所の「man」である。「人間」と訳されることもなくはないが、本来は「男性」を意味するのである。
なら現在も英語でmanは人間を指すこともあるのだし、当時から人間という意味で使われているのではないか。そういう反論もあるかもしれない。だがそれはないのだ。最もそれを如実に表す根拠は2つ。1つは、フランスで女性に参政権が与えられたのが1945年であり、日本と同レベルで遅かったということ(実にフランス革命から150年以上!)。そしてもう1つは、オランプ・ド・グージュがギロチン刑に処されたことである。
オランプ・ド・グージュはフランス革命時の女性運動家である。彼女は前述のことに加え、1791年憲法に実際に女性の権利が盛り込まれていないことに抗議し、女性の権利宣言なるものを自作した。だがロベスピエール率いるジャコバン派と敵対したが為にギロチンにかけられたのである。
彼女以外にも女性の権利を主張した人間がいなかった訳ではない。だが少なくとも革命の主要勢力の中にそうしたものを主張した人間は殆どおらず、寧ろジャコバン派、特にロベスピエール一派に至っては反女権主義が根強かったのである。
人権宣言で「排除」された対象は女性だけではない。フランス本国以外、つまり植民地の人々もそうであったし、「市民」と認められない人々、つまり奴隷や社会の下層に住む人々もそうであった。
民衆を導く自由とか言っておきながら、自由の女神を女性として扱うなら、恐らくかつてのフランスでは参政権すら得られなかったのである。間抜けな絵面にもほどがある。まあ女神なので人間の範疇に入れられることはないのだろうが。
所変わってヴォルゴグラード。ロシア南西部、ヴォルガ川河畔に存在するこの街は、古く帝政時代にはツァーリツィン(Царицын、ツァーリツァ=女帝のもの、という意味)、ソ連のスターリン時代にはスターリングラード(Сталинград)の名前で知られた街である。
かつて1942~43年にかけて、この街を巡ってナチス・ドイツ軍とソ連軍が激しい市街戦を繰り広げ、最終的に包囲されたドイツ軍の降伏で終了した。そんな街を見下ろす丘の上に、1つの巨像が聳え立っている。
丘の名前はママエフ・クルガン(Мамаев Курган、クルガンとは墳丘墓のことで、日本だと古墳のこともクルガンで一応表せる)、そして巨像の名前は「母なる祖国が呼ぶ(Родина-мать зовет!)」。高さ52mに達する剣を掲げた女性像である。もう名が体を表しているが、つまり先のマリアンヌと大概同じ構図である。
スターリングラード攻防戦を記念して建てられたこの像。呼ぶ、とか言われても誰を呼んでいるのか。ロシア語資料では自分の息子たちとなっているが、「母なる祖国」が呼ぶという構図と、スターリングラード攻防戦を記念したものであるということから、その息子たちというのは兵士たち(Солдаты)のことである。
しかし、息子たち(сыновья)というが、ソ連で兵士に対してその説明を使うのはおかしいのである。何故なら「ソ連は女性も兵役に就くことができた」からである。
ソ連という国は社会主義の国である。大概社会主義というのは男女平等を謳うので、女性の就労権利も存在した。有名なソ連映画の1つに「Москва Слезам Не Верит(モスクワは涙を信じない。元はかつてモスクワ大公国時代、税の軽減をモスクワに嘆願しに行っても、嘆願を行った者が処分されるだけだったという故事から、泣き言で同情を買おうとしても無駄だ、転じて泣いても何も変わらないという意味を持つロシア語の故事成語である)」というものがある。
この映画の主人公は紆余曲折あってシングルマザーになるのだが、彼女は女手1つで家事と仕事をこなし、遂には工場長としてそれなりの地位に就いて成功者となっている。1979年公開で物語の時代はそれより数年〜十数年前ということを鑑みると、少なくとも同年代の日本と比べれば女性の出世が比較的しやすかったことは確かだろう。
同時に大祖国戦争(独ソ戦のことをソ連ではこう呼ぶ。元はナポレオン戦争のことを祖国戦争と呼んだことに由来する)期には、ソ連では余りに初期に戦死者が大量に出たこともあり、女性志願兵が兵役に就いていた。当然割合的に男性より少なかっただろうことは想像できるが、それでも決して1人や2人なんて規模ではない組織的な募集・志願だったのである。
特に著名な女性軍人は探せば名前が普通に出てくるが、集団で最も著名なのは第46親衛夜間爆撃航空連隊(46-й гвардейский ночной бомбардировочный авиационный полк)であろう。「夜の魔女」の渾名をつけられた彼女たちは、女性のみで構成された爆撃航空隊である(なお女性パイロットとして日本でも多少名の知られた、ストパンのキャラのモデルにもなったリディア・リトヴァクが所属していた航空隊ではない。彼女は第586戦闘機航空連隊の所属である)。
詳しい功績は日本語wikiがあるのでそちらを見ていただければいいが、彼女たちは大量のソ連邦英雄(ソ連最高の栄誉称号)を輩出した、ガチガチのエースパイロット集団である。そして念の為に付け加えておくが、私は彼女たちの功績が素晴らしいものであることを疑う余地はないと思っている。
さて、そんな「夜の魔女」は、格好のプロパガンダ材料でもあった。彼女たちを題材にした作品などはボロボロ出てくるが、その中でも「Небесный тихоход(直訳は空ののろま、恐らく第46連隊が使用していたУ-2と呼ばれる航空機が、その余りに遅すぎる速度を生かして爆撃を行っていたことに由来する)」という1945年制作の映画が、最も早い時期のプロパガンダ映画だろう。この映画は2012年までにカラー化も完了しており、動画サイト上に探せばカラー映像で出てくる可能性がある。当然ながら全部ロシア語の為、視聴する際は字幕をつけるかロシア語をガチで勉強しなければならないだろうが。
この映画のあらすじは、戦争が終わるまで「絶対に女性に恋はしない」と約束した3人のパイロットたちが、次々第46連隊の女性飛行士たちやその他の女性たちと恋に落ちていくとかいう、何とも言い難い作品である。映画の冒頭には「Первым делом-самолеты(第1の任務は飛行機だ)」という歌の中で、飛行機が1番最初で、女の子はその後だかんな! と堂々と歌っているくせに、映画が進んで開始30分もするとあっさり陥落である。どうなっているのかロシア語が分からないのでさっぱりである。
だがしかし、彼女たちがモテてるのは映画の中だからであり、持て囃されるのはプロパガンダの為である。彼女たちはエースであるからプロパガンダ対象となるのである。もし仮にリアルでも男性から言い寄られていたりしたとしても、それは彼女たちがエースパイロットだったから、という理由が恐らくついてくる可能性が全く無い訳ではないのである。
当然これは男性でも同じと言えば同じである。男性の兵士もエースにならなければそういう対象にはならない。だが、そうでないその他大勢で括られてしまう男性兵士と女性兵士との間では、果たして同じ条件になるのであろうか。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは2015年ノーベル文学賞受賞者であるが、彼女の代表作が「戦争は女の顔をしていない(У войны не женское лицо、直訳は「戦争は女の顔を持っていない」となる)」である。この作品は小梅けいと先生によって漫画化されており、恐らく文字で読むよりも漫画で見た方が分かりやすく生々しいかもしれない。
さてこの作品はとにかく生々しい女性視点の戦争を描いた作品であり、単純に戦争物としても人によっては読んでいて気分が悪くなる可能性もあるので十分ご注意願いたいのだが、そこにはプロパガンダとして担ぎ上げられた訳ではない、一兵卒の女性の姿が描かれている。
彼女たち—衛生兵だったり狙撃兵だったりその他様々—は、決して華々しいプロパガンダ対象ではない。何百万といた兵士たちの1人である。彼女たちは女性らしくないと笑われたり、本当に兵士として働けるのかと訝しがられたり、女性特有の事情が理解されず苦しんだりと、まあ様々なことが起きる。戦場という過酷な状況、しかも多くの場合男性のみが過ごすことを想定されている戦場では、彼女たちは不利や理不尽な状況に置かれることもままある。
それでも彼女たちは懸命に兵士として戦うのである。だから決してソ連の兵士は息子たちだけではない。娘たち(Дочери)も母なる祖国に呼ばれる対象でなくてはならないはずなのである。
ここまで語ってきたのだが、つまり私はどういうことを言いたいのか。
時折、男女平等などの問題でこういう声がある。「女性に一定の枠を与えるなんて反対だ。数合わせで選ばれた無能な女に任せるくらいなら、有能な男ばかりの方が良い」。あるいは「男社会のところに女性が入ってきたって、女性が働ける訳がない」など。
しかし、である。そもそも戦前日本の農村では、男も女もかつては平等に労働力だったのである。その上で日本では家長の権限が絶対的だった為、女性の権利が抑圧されていたのである。日本の女性たちが家庭に入ったのは、高度経済成長期に入って「女性が働かなくても経済が回るようになったので、良妻賢母の主婦とかいう男及び国の理想を実現させる為に、女性を家庭に押し込んだ」からなのである。
それが今や余りに人口が減りすぎているので、女性も働かないとやっていられなくなったから、女性が働けるようにとか言い出したのである(当然女性の側の権利拡大運動が影響していることも間違いないが)。端から権利を抑圧し、働かなくても良くなったからと働きたい女性さえも家庭に押し込み、その癖人が足りなくなれば働いてもええんやで? とか、普通に女性を舐め腐っているとしか思えない。
別に家庭に入って暮らしたい、主婦に憧れがあるという女性がいるのも分かっているし、それはそれでそういう人が夢を追い求める権利を日本国憲法は保障している。だが「働きたいという女性の意志を無視して社会が家庭に女性を押し込む」のは明らかに憲法違反である。
しかも、そもそも男ばかりだったから基本的に男に合わせた環境下で働かせるのである。当然対策もするだろうが、まあ大概そういう対策が十二分に行われていた試しはない。泥まみれの戦場で誰が女性の生理を気にするのかという問題と本質は何ら変わりないのである。物理的な面だけでなく、そうした障壁は様々存在する。
そうなると女性は根本的な部分でハンデを背負ったまま、男社会で戦わざるを得なくなる。そうすると何が起きるか。普通以上の能力を持った女性でも成果が思うように上がらず「役立たず」扱いされ、どうにか必死に頑張って男と同列レベルにきても「男のままでもいいじゃん」とか言われ、命をかけるレベルで頑張って男を踏み越えたヤバいレベルの女性は、逆に「素晴らしい!」と称賛される……その個人だけが。そして全ての女性に求められるレベルがそのヤバい女性に合わさっていくのである。
第一、好き勝手に女性を家庭に押し込めた日本社会は、本来は女性に平身低頭して「働いてくださいお願いします」と頼まなきゃいけない立場である。国の為に働くのは国民の義務とか言う人もいるが、その義務遂行の手段をことごとく奪ってきた日本社会のどの口がそんなことを言えるのか。
確かに女性特有の事情を筆頭に(当然それだけではない、それだけではない。大事なことなので大真面目に2回言った)、女性のことは男性には良く分からない代物が多いのかもしれない。だが、良く分からんまではいいとして、それを理解する努力を見せようとしない男性が多いように感じるのは、私の勝手な妄想だろうか? なお明言しておくが、著者の私は男性である。
勿論数合わせで女性を登用しまくればいいのかとか、そういう話をしたいのではない。問題は「どうして数合わせをしなきゃいけないほどに女性がそっぽを向いているのか」ということなのである。
家事をしない、手伝わない男(下手をすると共働き世帯の男の方が寧ろ家事をしない)、不完全極まる出産・育児支援(ろくに支援もせずに働いて子ども産んで育てろとか鬼か)、数合わせで身の丈に合わない出世をさせられる可能性がある上に、男からのやっかみが凄まじい(アファーマティブアクションの形骸化とそれそのものに対する無理解)。私が女ならスウェーデンにでも逃げる。そうして日本から優秀な人材は逃げていくのである。
それでも国会議員のクォーター制には私は賛同したい。他のマイノリティに対する配慮とか逆差別とか、諸々を加味しても私は賛成したい。
何故か。日本の総人口のうち、男性は6,200万人、女性は6,500万人。お分りいただけるだろうか、そう「女性は数の上でマイノリティではなく、完全にマジョリティ」なのである。マジョリティの意見を無視して政治をするとか、普通におかしいと思いませんか? 私はおかしいと思う。100歩譲ってほぼ同数とみなしたって同じである。人口比1:1で議員比10:1以下とか意味不明である。何か男性議員諸兄に言いがかりでもつけられたら、一瞬で女性活躍関係の法案が全部廃案になってもおかしくない数字である。
男社会を男が変えようったって、その男社会の方が居心地がよくてそこから利益を得ている男という存在に、変えられる範囲には限度というものがある(LGBTQとかはまた別のお話)。
かつてとある議員がいた。彼は航空族として運輸省の次官をやっていた人間だったが、ロッキード事件で有罪になった(執行猶予がついたので服役はしなかった)。その後彼は中央省庁再編を担当する大臣として初入閣を果たしたが、世論の大バッシングであっという間に辞めざるを得なくなったのである。
禊が済んだとかそういう話もあるが、それ以前に族議員として収賄事件に関与し有罪になった人間を、既得権益が大いに絡む省庁再編なんて仕事の担当にすること自体が、私にとって見れば不適格極まりない。世論の大バッシングも恐らく同じ理由だっただろう。
しかし、男性は「自分たちが男ばかりの社会で楽に過ごしている既得権益者」であることを自覚していない。あるいは自覚していて、その既得権益が侵害されることを甚だ恐れ、嫌がっている。だからこそ数字上で一定以上の国会議員に女性をつける意味がある。どうして既得権益で利益を得ている人間に、既得権益の破壊をさせるなんていうバカな真似をしなければいけないのか。
そして何より怖いのは、この文章を書いている私は男性で、しかもフェミニストではないということである。少なくともフェミニストだという自覚はさらさらない。逆に言えば、フェニミストを標榜している訳でもない人間がここまでのことを書ける世の中は、大分捻じ曲がっているということを、我々は認識すべきなのだと思う。
女性のみなさまにおかれましては、生理でキツイのに上司に文句を言われた時などには、小梅先生の漫画を見せて、こういう状況の人間にかける言葉がそれかと、一発かましてみると良いかもしれません(但しそれで職を失う等しても、私は当然何の補償もできません、自己責任です)。
そして女性のみなさまは高らかにラ・マルセイエーズを歌ってやるのです。
「下劣なる暴君どもが、我らの運命の支配者になるなどありえない!」
(wikipedia 「ラ・マルセイエーズ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%BA より)
ああ、当然citoyens(男性市民たち)はcitoyenne(女性市民たち)に変えて唄うのですよ