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夜の仔  作者: 縦川みさと
4/6

暗夜行路

 四、


 目を覚ました時、暗い水面に私は揺らいでいた。

 辺り一面はあたたかな闇に包まれて、私はその中を、まるで水草か何かのようにたゆたっている。目を開いているはずなのに、何一つとして色が見えない。見渡す限りの漆黒。

 何をしていただろうかと、私は考えた。

 夜の仔に出会った。そうして私の抱いていた、取るに足らぬ逃避の妄想を正面から指摘された。

 センリが死んだこと。その死を招いたのは、取るに足らぬ私の身勝手さであったこと。走馬灯のごとくそれらが私の総身を駆け抜け、私はなにか叫びなら、その場に頭を抱えてしゃがみこんだように思う。

 それから、どうしただろうか。

 先頃まで私は、暗い洞穴の中に居たはずである。焚き火のあかりも届くかどうか、という場所に飾られた像に手を伸ばした刹那、風が吹きすさび、あなぐらを照らしていた灯は掻き消えた。外の月明かりが馬鹿に明るかったはずだ。

 けれどどうだろう、その時の私の足元は、なにか柔らかなものに覆われ、岩肌のむき出しだったあの洞穴とはまるで別の場所のようであった。

 月明かりも見えず、どこが出口やらさっぱりわからない。そんな場所に、私は一人でぼんやりと佇んでいたのだった。

 私はひどく心細くなり、おぅいと声を上げて人を呼ばわった。

 どうやら大層広い場所であるらしく、私の声は幾重にもこだまし遠くへと消えてゆくのが聞こえた。応えるものは一つとしていない。

 夜の仔はあの時、なんと言っていただろうか。「宵闇の王の閨」と、そう言っていたのではなかったか。

 すうと、深い満足気な寝息のようなものが聞こえた気がした。人だろうか、それとも。

 おぉいと、私はも一度、今度は先よりも声を張り上げて怒鳴るようにして呼ばわった。誰でもいい、誰か、誰か居てくれはしないか。強い恐怖が私の背筋を震わせていた。

 と、暢気な声がほぅと私の声に応えたのが、遠くの方から私の耳に聞こえた。

 その声は確かに幾度か聞いた、あの大梟のヨキのものであるように思えて、途端闇に一人置かれた恐怖は雲散霧消して、私は安堵してあたりを見渡した。

「夜の仔か! 居るのか! 此処はどこなんだ!」

 叫ぶような私の声に、不機嫌そうな、それでも幼さの残る声が苛立つように答え、何一つとして色の見えなかった暗闇の向こうへ、青白い光がぽぅと点ったのが視界の端をよぎった。ばさりと、巨大な翼のはばたく音が闇に響く。

「嗚呼、うるさいうるさい」

 蠅でも払うかのような口調で言って、夜の仔はじとりと私を睨んだ。その顔は、確かに夜廻の村を訪れて以降、幾度か見かけていたそれであった。

「ここは宵闇の王の閨、死者の寝台。そう大声で喚くものではないぞ」

 それだけを言うと、カンテラを片手に持ち獣の角を生やした精霊は、大梟を伴い向こうへと歩いて行ってしまう。

「ま、待ってくれ、どこへ行くんだ」

「嗚呼、本当にうるさい」

 私の言葉に応えもせず、ひとり言のようにぶつぶつと呟きながら、夜の仔の火は遠ざかろうとしていた。ヨキも再び馬鹿にするように鳴いたぎり、羽音を響かせて夜の仔を追ってしまった。

 ここで置いていかれては、これ以降迎えが来るかどうかも怪しい。

 私は仕方なしに、奇妙な既視感と共にのろのろと夜の仔の後ろを追った。


 歩き出したのちも、辺りは変わらず暗闇の中に沈んでいた。自らの指先すら見えない闇の中で、遠くカンテラを持った夜の仔と梟だけが寄る辺であった。

 思い出すだにぞっとしない光景であったが、なぜだか私はその時、全くに恐怖というものを感じなかった。幼い少年の姿をしたその背が、ただそこにあるだけでこの上なく安心できるものに思えていたのだった。

 地面は相変わらずに柔らかく、干し草の山の上を歩いているようであった。

 歩みを進めるにつれ、いつか聞こえた寝息のようなものが、あちらこちらから聞こえてくることに私は気がついた。足元は見えず、しかし周囲には何者かが多く潜んでいる。

 羽音と夜の仔の杖の音、深い寝息、私の息遣い。それらは私を取り巻いて、よりいっそう暗がりの静寂が際立つようであった。

 それでも一向、夜の仔は足を止めるそぶりを見せない。私はただ、犬のように息を荒げ、黙々とその後ろを追うしかできない。

 本当に私は進んでいるのだろうか? 確かに地を踏みしめている感覚こそあるものの、それが本当に地面なのかがわからなかった。

 何か大きな、生き物の腹の上を歩くような感覚だった。それはいま気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている。私はそろりそろりと、それを起こさぬように忍び足で歩く。

 道は緩やかに下り坂になっており、深く深くへと潜っていくようだった。地の底へ、死者の居場所へ。

 どれほど歩き続けただろうか。時間の感覚はとうの昔になくなっていた。

 周囲は変わらず闇の中ではあったが、私はその状況に慣れつつあった。夜の仔のカンテラは少しも辺りを照らすことはなかったが、私を導くものとしては十分すぎるほどだった。

 その青い炎が不意に歩みを止め、くるりと大きな獣の角を揺らして、夜の仔は私を振り返った。その足元に、まるで胎児のように丸まって、人影が一つ横たわっているのが照らし出されて見えた。

 闇にぼうと浮かび上がるように照らされたその寝顔はひどくあどけなく、けれど確かに私の記憶にある、大切な人のそれに違いなかった。

 ゆるゆるとまぶたが持ち上がり、懐かしい瞳が私を見た。

 私は震える声で、その人の名を呼んだ。

「センリ」

「……カイ」

 目覚めたばかりの幼子のように、まだ夢現と言った口調で、応えてセンリが私の名を呼んだ。

 私はひどく震えが止まらなかった。立つこともままならず、その場にくずおれるようにして地に膝をつき、彼の元へにじり寄った。

 そうして初めて気がついたのだが、どうやら地面として私が今まで踏みしめていた場所は、寝藁のたっぷりと敷かれたあたたかな寝床のようであった。それが辺一面、馬鹿に広くどこまでも続いているのであった。

「ああ、カイ。君なんだね」

 眠そうに目をこすって、センリは私に微笑みかけた。それはどこまでも記憶と寸部違わぬ、私の愛したセンリの姿だった。

 私は幾度もセンリを呼んで、その身にすがった。

 何を口走ったか、何を思ったか。覚えているのは色々なものがごちゃごちゃとないまぜになった感情ばかりで、全く定かではない。

 ぼろぼろと涙が溢れてとどまらなかった。嗚咽ばかりもれて、言葉の体をなさない声がこぼれた。

「カイ、こんなところまで来てしまったんだね」

 センリは困ったような顔をして私の手を握った。そのさまは、自らの体に戸惑っているようにも見えた。私が落ち着くまで手を握り、背をさすってくれたその手は奇妙な程に暖かく、私はようやく親に出会えた迷子の幼子のように、しゃくりあげることしか出来なかった。

 夜の仔はその間、黙って私とセンリを眺めていた。どこか楽しむような色さえ見えたが、私にはそんなことは気にならなかった。

 随分と長いこと、そうして震えていた。

 今にして思えば、実際少しも経ってはいなかったのだろう。けれど私には一月もそうしていたかのように思えた。このまま時が止まってしまえばと、そうとすら思えた。

「センリ」

 泣きわめき、ガラガラにしゃがれた声で、幾度目か私はセンリの名を呼んだ。センリはまるで、聖母のごとき笑みを浮かべて私を見つめた。

 この人のためにここにいる、この人に償うためにここに来たのだと、強く強く私は思った。

「外に、外に出よう。灯篭の街には帰らない。あんな場所、二度と戻る必要は無い。外へ行こう。私と共に暮らしてくれ。もう君を苦しめたりはしない。あの日に戻ろう」

 再びセンリと友に戻ることが出来たのならば、私はどれほどの苦難も耐えよう。この取るに足らない恋情などいくらでもうち捨てよう。

 私の言葉に、センリは柔らかく頷いた。

「ああ、お前がそう望むなら」

 そうしてセンリは、彼は私の頭をまるで幼子をあやす母親のように掻き抱き、優しく囁いたのだった。

「大丈夫。大丈夫だよ、カイ。お前は間違っていない。大丈夫だ。

 愛しているよ」

 その言葉は確かに、私が長く望み、しかし決して叶うことはなかったものだった。

 その懐かしい声に紡がれた美しい言葉は、私をいつか覚えた絶望に近い奈落へと再び突き落とすのに、十分すぎるほどの重さを持ち合わせていた


 ∵


 あとから聞いた話である。

 私が闇の中を歩いていた頃、ヒィカとハジは変わらず洞穴の中にいた。火はかき消され、照らすのはほの白い月明かりとカンテラの青い灯ばかりである。しかしあなぐらの中は火の気が消えてなおあたたかく、奇妙な空気に満ちていた。

 私が真実を指し示され、走馬灯のごとき回想を否応なしに突きつけられていたとき、外見にはひどく恐ろしいことが起こっていたらしかった。

 ハジとヒィカの見る前で、私が立っていた壁と闇の境が曖昧になり、私の姿までもそこに溶けて消えるように失せてしまったのだという。

 ハジは悲鳴のような声を上げて私を呼び、そばに駆け寄ろうとしたが、それをヒィカが腕を掴んで引き止めた。

「おやおや」

 まるで事態を楽しむかのように、のんびりとして夜の仔がそんなことを言った。

「いやはや人の子にしては奇特なことだ。彼は王のお気に召したようだな」

「どういうこと? 彼はどこへ消えたの?」

「だからさ、彼は宵闇の王の元へ招かれたのさ」

「夜の仔も、宵闇の王の神話も、私たちの作り出したものだと言ったのはあなたでしょう? 宵闇の王が気に入るというのは」

「嗚呼、嗚呼、わからないかね。めんどうなことだ。うん、だがまあ、そも我らを呼ばわった者自体随分久方ぶりなのだ」

 けらけらと、エシの顔のままで夜の仔は笑った。

「すこし難しい話をするか」


「そも、精霊とは人々が信仰し、願い、想うことによってそれらが形をなしたものだ。その本質はあくまで、人の子の心が作り出したゆめまぼろしのようなものに過ぎない。

 けれど本当にゆめまぼろしなら、我らのようなものがお前たちの前に現れる道理はあるまい? 古い時代、大地に力が満ちていた時、そうした頃には、我らは当然のように実体を持ち、立ち現れることが出来たのだ。

 ほんの些細な、人の子一人分の願いすらも怪異を生み出し得た。そんな時代のことさ。お前たちの信じる伝説やら、語り部の物語やらは、このごろに生まれたものなのさ。

 けれどだんだんと、大地は力をなくしていった。人々の信仰もそれに伴い薄れつつある。

 我らは人の思い描いた存在だ。思われなくなれば、心から信じる者が少なくなれば、姿を現すことも叶わなくなる。そうするとより、お前たちは我らを忘れていく。ひどい循環だとは思わないか?

 ああ、なに今に始まったことではないさ! なにせお前たちはそういう生き物なのだから! その性分を責め立てるつもりなどはこれっぽちもないさ。

 それでも変わらず人の思いが形をなす場所というものが中にはある。そうした「奇跡」が起こり続ける場所を、お前達は聖地と呼ぶのだ。それがこの森であり、このあなぐらなのさ。

 言っただろう、此処は宵闇の王の閨だ。地の脈がこの下深くに這っているのだ。

 何が潜むともしれぬ闇を恐れ、寒さをしのぐあたたかなあなぐらに縋り、そうした思いが形をなした地だ。奇跡の起こる場所だ。

 お前たちは太古の祭壇跡に居るのだよ。

 夜の仔はいるはずだと願ったから、そこに私は現れた。それが弟であるかもしれないと恐れたから、私はお前の弟の姿をしている。あの男が死者の国を求め、そこに恋しい人の姿を求めようとすれば、そこには死者の国が現れる。

 あれは、あの男はよりにもよって、自分の願い一つで死者の国への戸を開いたのさ。

 嗚呼、恐ろしいほどの執着だ。王のお気に召されたというのはそういうことさ。あの男が戸を開いたから、王は御身自らあれを呼ばわったのだ。

 あの執着は我らを永らえさせる。お前達の望みが、我らをこの写し世にとどまらせる。消えてしまうのは、我らとて恐ろしいからさ」


 意地悪い表情を浮かべた夜の仔の言葉を聞きながら、ヒィカはくらくらと目眩がするような心地だった。

 ただそう望んだから、それだけの理由で死者の国へたどることが出来る、そんな馬鹿にしたような話が許されていいはずはない。これまでのヒィカたちの苦しみを思えばこそ、到底受け入れられるようなものではなかったのだ。

「あれが、あの暗闇が死者の国だというのなら、エシは、あの子も居るというの? あの闇の中で眠っていると?」

「そうだとも。お前たちがそう、強く望むのであればな」

 にんまりと声も立てず笑った夜の仔の顔が、カンテラに照らされぐにゃりと奇妙に歪んだように見えた。

 しばらくの間、誰も口を利かなかった。ヒィカは夜の仔を睨み唇の端を強くかみしめていて、ハジはおびえたようにヒィカを見つめていた。

 再び口を開いたのは、やはりヒィカであった。

「ハジ、ここで待っていて。私はあそこへ行く」

「あそこって、あの暗いとこ?」

「そう」

「エシを探すの?」

「……そう」

 目を見開いてハジはヒィカの顔を見た。そうして、その鬼気迫るような表情に、それが冗談でも何でもないことを理解した。

 ハジはぐっと手を握り締め、ヒィカの目を睨むように見つめた。

「それならおれも行く」

「駄目。危ないわ」

「エシがいなくなったのは、おれがここに連れてきたからだ! 探しに行くならおれも行かなくちゃ、だめだ」

「……なら、絶対に私から離れないで」

 強く言い募るハジを、ヒィカは少し眉をひそめて見つめ、その意思が強固なものであることを理解したのだろう。それだけ言うと、ヒィカは猟銃のひもをしっかりと握りなおして、さっさと深い暗闇のほうへと足を踏み出した。ハジもまた、慌ててそのあとを追った。

 いつの間にか、夜の仔は二人の側から居なくなっていた。

 その代わりに、遠い闇の奥底に、青白い光の点が見えた。大きな鳥の羽ばたく音。それが自分たちを導こうとするものだと、ヒィカにははっきりわかったのだと言う。

「ヒィカねえちゃん」

 緩やかな坂道は少し歩くと、すぐに外の明かりの届かぬ黒に塗りつぶされ、足元もおぼつかない暗さに沈んでいった。

 不安げな声で、ハジはヒィカを呼んだ。

「もし本当にエシがいたら、どうするの? 連れて帰って、また皆で暮らすの?」

「……わからない」

 半ば消え入りそうな声で、ヒィカは呟いた。

 実際、彼女がその時抱えていたものは、明確に言葉にはしえない代物であったのだろう。

「正しく愛することができていれば」

 その慚愧の念がどこからくるものなのか、本人でさえぼんやりとしか理解していなかったのだ。

 ただ不透明な義務感で、ヒィカは闇の中を歩いていた。


 対してハジは、嫌な不安感に絶えず苛まれていた。

 センリ(と彼は思っていた)はどこか闇に飲まれて消えてしまったし、ヒィカもまたそこへ向かおうとしている。エシの姿をした夜の仔は、意地悪気な笑みを浮かべて煙に巻くようなことを言って消えてしまった。遠い向こうで歩くあの光が、本当に自分たちを導いているとどうして言えようか。

 幼い頭で、ハジは必死に考えていた。夜の仔の話は、祖母からずっと聞き及んでいた伝説とは遠くかけ離れている。

 夜の仔は本当は伝説のような精霊ではなく、人の心が生み出したものなのだという。エシの顔をしたあれは、しかしエシではない。そのくせあれは、ヒィカたちが望めばエシに会うことも出来るのだという。

 ほんとうだろうか?

 それに、エシに本当に会えたところで、一体どうするというのだろうか。

 謝ればいいのだろうか。そうして眠りから覚めたエシを闇から連れ出すことが出来たら、今度こそ、共に生きていくことが出来るというのだろうか。

「もし本当にエシがいたら、どうするの? 連れて帰って、また皆で暮らすの?」

  恐る恐るたずねたが、返ってきたのはかすれた声の、

「……わからない」

 という一言のみであった。

 死者を連れ帰ったところで、村の人々が受け入れてくれるとは到底思えない。そもそもそのエシは本当に居なくなってしまった、ヒィカの弟のエシなのだろうか?

 あの世も精霊も、人の心が作り出したものなのだと、エシの顔をした精霊は言う。だとすれば、たとえエシに会うことが出来たとしても、それは自分たちが作り出した願望の結果に過ぎないのではないか。

 そうして延々と答えの出ない考えを巡らせているうち、ふとハジは一つの疑問に思い至った。

 エシは結局、夜の仔に出会ったのだろうか。

『夜の仔は迎えに来なかったから、自分で会いに行くことにする』

 そう残された言葉にはあった。エシはどこへ、夜の仔を探しに出たのだろうか。

 もしかすると、彼もこの闇の中に歩み入ったのかもしれない。本当にエシはこのどこかにいたのかもしれない。

 ずっと苦しい思いをして、迎えに来てくれると思った精霊は姿を現わさなくて、それでもわざわざ暗闇の中へ夜の仔を探しに行ったのはなぜなのか。

 彼がそう望んだから。エシが夜の仔に迎えてもらって、そうして夜の仔になることを望んだからではないのか。

 人の強く望んだものが形をなす、ここはそういう奇跡の起こる場所なのだと、夜の仔は確かに言ったのだ。

 あれは、本当にエシではないのだろうか?

 ぐにゃりと遠くにみえる夜の仔の背が、再び歪んだような気がして、ハジはひどく落ち着かなかった。


 ∵


「どうしたんだい?」

 不意に、私の彼を抱きとめようと縋る力が弱まったのが、彼にも伝わってしまったのだろう。至極不思議そうな表情をして、目の前の青年は首をかしげた。

 私はのろのろと顔を上げて、彼の瞳を覗き込んだ。

 常と変らぬ、記憶のままの優しい色が私を見つめ返して、私はまた身も蓋もなく涙を流して泣きわめいてしまいたい衝動に駆られた。

 気づかねばよかったのかもしれない。今になってさえ、時折そう思う瞬間がある。

 気づかぬふりができたらば。愚かしいことではあるが、それは確かに私にとっての幸福であったに違いなかった。

 けれども私は、それを見過ごすことができるほどに、愚鈍になりきることはできなかった。

「きみは、」

 私の一言が、決定的にその幻を壊してしまうと分かっていたから、私は少しためらい、言い淀んだ。彼は静かに私の言葉を促すよう、私をじっと見つめていた。

「君はセンリでは、ないんだね」

 言った端から、涙がまた一筋流れた。

 今度は先ほどのような激情ではない。ただ静かな悲しみが、私の体をひそやかに満たしていた。

「どうしてそう思うんだい」

 穏やかな声が私を問いただした。責めるような響きはなく、ただ純粋な疑問を問うような、幼さすら感じる声であった。

「センリは私を愛してはくれなかった」

 彼は私の親友だった。唯一無二の友であり、それ以上にはなり得なかった。

「愛しては、くれなかったんだよ」

 どれだけ私が、その言葉を切望したか知れない。けれど、その事実だけはどうしたって、変えられることはなかったのだ。

 センリの姿をしたそれは、どこかさみしそうな色を浮かべて首をかしげた。

「けれど僕は、お前を愛してあげられる」

「ああ、私が望んだから、だろう」

 ゆるりと、明白な拒絶の色を込めて、私は首を横に振った。

「君はセンリではない。私の会いたい、センリではない。君と共に居てしまったら、私はセンリを裏切ることになる。それを私は望まない」

 私の言葉とほとんど同時に、ほうとため息のような声が聞こえた。

 何か言おうとしたのかもしれない、彼は少し口を動かすようなそぶりを見せたが、その何かを私に伝えるより先に、とろりとその輪郭は薄れて溶けて、闇の中に消え失せてしまった。


 ガン、と床に杖を打ちすえた音で、私ははっと我に返った。ずっと口もきかず、そこに立っていた夜の仔が、睨むように私を見据えていた。

 ガンと、またカンテラのついた杖が、叩きつけられて音を立て、揺れた。バサバサと興奮したように、大梟がはばたいた。私は広い闇の底から、おおお、と轟くような、誰かの泣き声が響いたのを聞いた。

「どうして」

 その口調がそれまでのものと打って変わって、まるきり駄々をこねる子供のようであったので、私は驚いた。

「どうして受け取らない」

 ガン。

「宵闇の王からの、直々の贈り物だ」

 ガン。

「死者の黄泉帰りだ。お前が待ち望んだ奇跡だぞ」

 ガン。

「どうして望まない!!」

  癇癪を起こした子供のようなその叫びを最後にして、夜の子は姿をそのまま闇の中へ消してしまった。


  ∵


  唐突に、先を導くように歩き続けていた夜の仔が、くっと足を止めてふりかえった。

 その顔を見て、ハジは思わず恐ろしいものを見たように悲鳴をあげた。

  その姿は幾重にもブレ、重なり、半ば闇に溶けゆくようになりながら、エシの顔こそ保ってはいたものの、到底人とは思えぬ見目になっていたのだった。

  ぐらりと身が傾いて、その小さな体が床に倒れ込むようにして膝をついた。手からはカンテラが転げ落ち、青い炎が床を跳ねて幾度か揺らいだ。

  何が起きたか、二人にはさっぱり理解出来なかった。

  あとから私の話と総合してあとから判断したことだが、それはおそらく丁度私が、私の抱いた望みの写鏡としてのセンリを拒絶した、その時の出来事であったのだろう。

 私が戸を開いたのだと、私が死者を望み、死者の国からセンリを連れ戻すことを望んだから、王の居所たる闇の入口が開いたのだと、あの精霊は言っていた。であるならば、私がそうして自ら開いたものを拒んでしまったが故に、その時その「死者の国」たる世界は無かったことになろうとしていたに違いない。

  そうしてその導き手としての夜の仔もまた、その役目をなくしてしまったのだろう。

「あ、あああ、拒まれた。拒まれてしまった」

  夜の仔はひどく悲しげな声を上げた。

 あれほど遠くを歩いていたはずのその姿が、いつの間にか二人のすぐ近くに現れた。

 ヒィカは思わず二三歩後ずさろうとして、その足にすがるようにして夜の仔の手が伸ばされた。足を引かれて体制を崩し、ヒィカはその場に倒れ込んだ。

 ずっと歩き続けていた柔らかな藁の敷かれていたはずの地面は、しかしいつの間にかただの洞穴と変わらぬ硬い岩肌へと戻っていた。転げた拍子に、強く握りしめていたヒィカの猟銃が、ガシャンと音を立ててヒィカの手元を離れたが、ヒィカはそれに気が付かなかった。。

「待って、待ってくれ。望んでくれ。もっと。望んでくれなくては! 人に望まれなければ、我らは消えてしまう!」

「どういうことなの!なにが、」

  ヒィカが震えて問うた声に、夜の仔は答えなかなった。がたがたといっそ怯えるかのように、ひたすらにヒィカの服を握りしめて、夜の仔は絞るような声で囁いた。

「望んでくれ、人の子。お前の望みが叶うのだ。お前が求めるものを与えることが出来るのだ。弟を見せてやる。また幸せに暮らすことさえできるとも。だから、だからどうかお願いだから……!」

「ヒィカねえちゃん!!」

  ハジが叫ぶのを聞いて、恐ろしいものが自分にすがり付くのを見て、しかしヒィカはその時、エシの姿をして怯えながら、震えながら自分にすがるその手を、拒もうとすることが出来なかった。

 自分の手元すらおぼつかないはずの暗がりで、なぜか夜の仔の姿はカンテラの明かりが離れたのちも、はっきりと見えた。その表情はあまりにも、苦しそうで、さみしそうであったのだ。

  自分は一度、弟を拒んだのだ。向き合おうとしなかった。まともにその顔を見て、目を見て言葉を交わすことさえあっただろうか。そのために弟を失った。

  ふっとその時、ヒィカの脳裏に村のことが浮かんだ。

 病床で寝込んだきりの母。自分に家の全てを背負わせ、重い期待を無言の内に押し着せる祖父。同じ年頃の子は皆ヒィカを避け、心無い言葉を浴びせる。それを押し殺し、周囲の期待に違わぬよう、じっと「いい子」を演じ続けて。

 全てがずっと、苦しくてたまらなかったのだ。

 自分を「ねえちゃん」と呼び、慕ってくれるハジのことさえ、疎ましかった。知らないくせに。誰も私を分かってはくれないくせに。

「もし本当にエシがいたら、どうするの?」

  問うたハジの声が、まるで身の内で膨れ、こだまするようにヒィカは感じた。どうしたかったのだろう。どうすればよいのだろう。

  そうだ、目の前の彼を救ってやろう。

 それがさも自然のことのように、ヒィカはするりとその思考に至った。

 彼を助けてやろう。消えてしまうことに怯えるこの精霊とやらのために、この身を捧げよう。その結果が闇に呑まれ、消えてしまうことであったとしても、少なくともこの身は弟の元へ行ける。

 それがただ唯一エシのために、愛していた、けれど愛することが出来なかった弟のために、自分の出来ることであると、ヒィカは思った。

「大丈夫」

  のろのろとヒィカは、まるでその頭を撫でようとするかのように、夜の仔へ向かって手を伸ばそうとしていた。

「大丈夫だよ。私が一緒に居てあげるから」


  ハジは混乱していた。

  エシの姿をしていたそれは、やはりその言葉のとおりエシなどではなかったのだ。いまやそれは暗闇にヒィカを引きずり込もうとさえしている。

  エシの表情が怯え、歪む。

 寂しげに自分を見つめていた友達の顔が脳裏に浮かんで、ハジは頭を振った。違う、あれはエシではない。エシはいなくなってしまった。消えてしまった。自分のせいで。

  気付けば精霊は、ヒィカの足元にしがみついていた。足を引かれたヒィカが転び、猟銃を手放してしまったのにも、ハジは情けなく叫び声をあげるしか出来ず、ヒィカは振り返りもしなかった。

  連れていかれてしまう! 自分が何も出来なかったが故に、一度は苦しむ友達を見捨ててしまったのに、今度また同じように過ちを繰り返そうとしている。動かなければならない。動いて、ヒィカを連れて逃げなくては!

  ガクガクと膝が笑っていたが、それでもなんとかハジは足を進め、ヒィカに近づこうとした。その足元にカタリと何か固いものが触れ、ハジはそれをそのまま蹴飛ばしてしまった。

 はっと気がついて、ハジは足元床をあわてて探った。カンテラの光は遠く、手元もおぼつかない明るさではあったが、すぐ近くにいたこともあって、そう手間はとらずにヒィカの猟銃と思われるものに触れることができた。

 震える手で、ハジはその形を確かめた。何度かヒィカには、触らせてもらったことがあった。これだけ近ければ、外れてヒィカに当たってしまうこともないはずだ。

 エシの顔をした夜の仔は、うわごとのように繰り返し救いを求める言葉を呟きながら、ヒィカに手を伸ばしていた。ヒィカはたしかに、その手をゆっくりとつかもうとしているようだった。

「大丈夫だよ」

  そんな言葉とともに、確かにヒィカは夜の仔を見つめ、微笑んだようだった。

「私が一緒に居てあげるから」

「だめだ、ヒィカねえちゃん!」

 ぐっとハジの指が引き金にかかろうとしたその時、まるでかばいだてするかのように、唐突に梟が大きく羽ばたき、猟銃と夜の仔の間へ割って入った。我に返ったように、ヒィカがハジのほうを振り向き目を見開いたのが見えた。

 はっとしたが、すでにハジは引き金を引いていた。

 乾いた火薬の音が辺りに響いた。ぽ、と一声だけ泣いて、まるで内側から膨らんで破裂するかのように、梟が一瞬動きを止めてからはじけた。

 ハジは思わず目をつむり、息をとめた。

 すぐ近くで、からりと何かが転げた音がした。


  ∵


  闇のただ中に取り残され、私はひとり呆然と佇んでいた。緩やかな失望が総身を浸していて、私は両の手で顔を覆った。

  センリに会うことは叶わなかった。

 いや、確かにセンリの姿をした者に会うことは出来た。しかし私はそれを、はっきりと自分の意思で否定したのだ。

 その時の私の中には、薄らとした後悔すら漂っていた。

 そこには誰もいなかった。

 夜の仔も、センリも、ヒィカもハジもおらず、死者の国でもなんでもない、ただ虚無としての暗闇が永遠とどこまでも続いているだけで、私はそこに一人だった。

 このまま帰ることはできないのかもしれない。しかし、それが正しい形なのかもしれない。闇にとろけて、あのセンリの形をしたもののように、なかったことになるのだ。

 しかしそんな感傷に浸ろうとする私の耳に、小さく何か、おおおと嘆く声が届いた。

 弱く、か細く、ともすれば消えてなくなってしまいそうなほどの小さな声であったが、誰一人おらず物音ひとつ響かない静寂の中では、どんな音よりもよく響いて聞こえる声だった。

「だれかいるのか」

 私は声を上げて呼ばわった。

 先ごろ声を張り上げた折は夜の仔にいやな顔をされたものだから、それを思い出してほとんどひとり言と言ってもいいほどの声量ではあったが、その声は確かに届いたらしい。泣き声は少し途切れ、こちらをうかがうような様子を見せた。

「何を泣いているんだ」

 それは、ほとんどやけになったような気持から出た言葉だった。何を思うでもなく、ただ泣いている声がいっそ鬱陶しいと感じられて、それを黙らせたいと考えていた。

 声はすすり泣きながらも、細く答えを返した。

「おれはもうすぐ消えてしまう。お前たちが忘れていくから、お前たちが生み出したものなのに、お前たちがなくしてしまうから。

 それがおれにはひどく恐ろしい」

 声は思いのほか、若い青年のそれに近いようだった。

「おれたちは人の子から生まれ出でたものだ。望まれなければここに在れない。消えてしまえば虚ろばかりだ。忘れられてしまう。忘れられては消えてしまう」

 血を吐くような叫びであった。

 その声に私はなぜか涙が出そうになって、闇の奥底をじっと見つめたが、姿なき声の正体は一向見えそうにもなかった。

「私は、忘れない」

 どうしてそんな言葉がとっさに出たのか、わからなかった。

「私はきっと、忘れない。そうして私がほかの者にも伝えてゆけば、誰も忘れない」

 なぜだか私はその時無性に、心からそれを救ってやりたいと考えた。安心させてやりたいと、そう願った。

 必要とされたかった。誰かにここにいてもよいと、許してほしかった。居場所がほしかった。必要とされなければ、誰にも許されないのであれば、それはまるきり、そこにいないも同然ではないのか。

 しんとして、返事は聞こえなかった。

 私のありきたりな気休めなど、それには届かなかったのかもしれなかった。

 ぱん、と遠くから破裂するような音が聞こえて、やがて私の耳には何の音も聞こえなくなった。

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