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夜の仔  作者: 縦川みさと
3/6

灯籠の街

 三、


 灯籠の街は、南の方に在る、それなりに大きな街だ。

 春に秋にと灯籠祭りがおこなわれ、観光客が多く訪れる。祭りのある時期のみではなく、年中街のあちこちに灯籠が点されているので、街の夜は橙に照らされて大変明るくなる。

 街中を通り抜けるように、大きな川が真ん中を走っていて、祭りには職人たちが腕を競い合うように、すばらしい飾りの彫られた灯籠が立ち並び、また人々は店で売る簡素な木枠や紙など使い、自分でも灯籠を作る。その灯籠は人々の「思い」を供養するものと言われ、祭りの最後には一斉に燃やされる。

 灯籠の街では、他の多くの街と同じで、大海の精霊と大地の精霊がまぐわうことで世界が出来たとする、創世神話に基づいた精霊信仰がなされている。

 この説話では、彼ら始祖の精霊は男女のつがいであったと言う。だから生き物は皆、男女で引かれ合い、子を成して生命を繋げる。それが「正しい」のだという。

 私は、私と言う存在は「正しく」は無いのだと、それらは言う。


 ∵


 センリと言う青年は、職人内でもかなり将来を渇望された、たいへんに腕の良い灯籠職人であった。

 夏の盛りの頃だろうか。その腕を見込まれて彼は私の父に呼ばれ、祭りのための灯籠を彫る職人の一人として、私の生家へと招かれたのだった。

 私はその日も、夜遊びへと繰り出そうとしていた。

 多少女性と浮名を流した所で、私の両親はそれらを一切気に掛けようとはしなかっただろう。むしろ彼らは、積極的に私に女性をあてがい、私を「正気に戻そう」と必死であった。

 私はそれが嫌でたまらず、家から逃れることでその強制を振り払おうとしていたのだった。

 女性が嫌いであった訳ではない。ただ、彼女たちは私には、情欲の対象とはなり得なかった。ただそれだけのことが、どうしても私の後ろに、更に後継ぎの欲しい両親にとっては、許されざることであったらしい。

 夜は私にとっての、唯一の味方であった。

 昼間に灯りを落とされ、ただ淡々と並べられた物品としての灯籠は、私にはまるで屍の群れのように見えた。

 その屍が、夜になり火を灯されることで、ようやくその役割を果たす。川に沿って並んだ灯籠のあかりが水面に反射し、光輝く。

 そのただ中で、私はようやっと息が出来るような気がした。

 酒を喰らい、煙草を吸い、賭け事に手を出した。そうして両親の金を食いつぶしながら豪遊を続けるなかで、私は常に空虚であった。

 そんな中での事であった。

 センリは、他の幾人かの職人たちと混じって談笑しながら、玄関をくぐろうとしているところであった。

 私は丁度、後ろで苦言を呈す父の声を聞き流しながら、玄関を出ようとして、その一団と行き遭った。

「失礼」

 勢いよく飛び出した私に驚くように、センリは目を丸くした。

 一瞬他の職人たちもざわついたが、ほとんどが家の出入りの物だったために、すぐに玄関から現れたのが、不出来の放蕩息子であることに気が付いたのだろう。見なかった振りでもするかのように、一斉に皆目を逸らした。

 センリはその時、私の噂を知らなかったに違いない。

 いや知っていても、態度は変わらなかっただろう。後から知った彼の人柄は、たとい噂話であっても人の悪口を好まない、柔和で穏やかな物であったから。

 センリは一歩引いて、丁寧に私に対してお辞儀をした。

「街長のご子息様ですね。この度の秋祭りで、初めて祭りの灯籠を彫らせていただきます、センリと申します」

 私は、まさか挨拶などしてくる者がいるとは思っていなかったものだから、酷く面喰って、「ああ、そう」としか返す事が出来なかった。

 変な職人もいるものだ。それだけ思って、すぐに私はそこから駆け去った。

 すぐ後ろからは、父の私をなじる言葉と、職人たちをきまり悪そうに招き入れる声とが聞こえて、私はこっそりざまあみろと思って笑った。


 ∵


 次の日も、更にその次の日も、私はセンリと顔を合わせた。

 彼の腕は父の気に入るところとなり、他の職人の助手としてではなく、祭りのための巨大な灯籠を一つ、彼が一人で任される事となったらしかった。これは私と同じほどの年若い職人としては、なかなかにあることでは無かった。

 しかし私としては、誰が祭りの灯籠を彫ろうとも興味がある訳ではなく、ただ漠然と、成程珍しい事もあるものだ、と思って通りすぎる程度の事象でしかなかった。

 声をかけたのは、センリの方からであった。

 彼は私の家が抱える工房の部屋を一つ与えられて、作業に専念するよう申しつけられていた。その部屋は丁度、私の部屋の窓から中の様子がよく見える位置にあって、夜が白み始めるころに私が部屋へ戻ると、センリはまだ作業台へ向かっていて、私に気付くとこちらへにこにこと手を振る、などと言うことが幾度かあった。

 その、しばらく後のことだった。

「ご子息様はいつも、夜に出かけて朝に帰って来られますねえ」

 私がいつものように朝、よくない遊びから帰って来ると、彼はそんな事を私に向かって話しかけた。

 その調子が、まるで毒気のない様子だったもので、私もつい調子を合わせてしまって、

「君はいつも、朝まで机に向かっているな」

 などと返してしまった。

 センリは、私が返事を返したのを至極喜んでいる様子で、窓から身を乗り出した。

「ご子息様、ちょっとこっちへ来てお話しませんか? この工房、僕の他は爺さんばかりで、話せる同い年の人が居やしないんですよ」

 私も丁度、帰ったからと言って眠りたい気分でもなかったために、センリのその申し出を快諾した。

「構わないよ。けど、そのご子息様って言うのはやめてくれないか。どうもかゆくって仕方がない。私の事はカイと、名前で呼んでくれよ。そんな馬鹿丁寧な言葉も、使わなくって構わない」

 そうして私は、センリと懇意になった。


 ∵


 その時は確かに、私とセンリ二人して、朝早くに他愛も無い話を長々していたのであったが、それはその日だけの事であった。

 いかんせん私もセンリも、夜遅くまで起きて、次の日昼ごろまで眠るという生活を行っていたために、私たちが会話を交わすのは、自然夜中のことになった。

 私が夜遅くまで起きていたのは、下らない夜遊びのためであったが、センリは無論そんな理由などでは無かった。

 彼は私の父に頼まれた灯籠飾りの模様が、どうにも考えつけずに思い悩み、夜っぴてでそれをひねり出そうとして、苦心していたらしかった。

「どうにも考え付くのは、既にありそうな模様ばかりだ。僕は彫る事は得意ではあるけれど、学が無いから自分で模様を考え付くのは苦手なんだよ」

 センリはそう言ってはいたものの、あまり焦ったり、心配をしていたりする様子では無かった。

 ただそれでも、夜遅くまで真剣な顔をして作業台と向き合い、紙に図面を描いてはこうでないとそれを打ち捨て、少し石を彫っては物足りぬとそれを叩き割る彼の様子は、なかなかに鬼気迫るものがあり、私は見て居られずに、いくつか資料に本を見繕って、彼に貸し与えてみたりもした。

 センリはそれを読んでいたのか居ないのか、その貸し与えた本はいつも彼の自室の隅の方に積み重ねられて、失敗した図面のゴミなどと共に、まるきり忘れ去られたように置かれてあった。

 私とセンリは、毎日会話を交わしていた訳では無かった。

 私は変わらず夜遊びを繰り返していたし、センリには灯籠を彫ると言う仕事があった。だから、ただ帰って来た私にセンリが手を振り、私が会釈を返すだけの日もあったし、事によれば双方疲れ切って、目をちらと一瞥させるだけで、少しも関わらない日も多かった。

 それでも、私の夜遊びの頻度は、それまでと比べて大いに数を減らしていた。

 自分では当初気が付く事は出来なかったのだが、私に関する良からぬ噂話もその頃、かなり落ち着いてなりを潜めていたらしい。

 それは他でもない、センリと言う青年が、話し相手として私と向き合ってくれていた、ただそれだけの事実が、私にとってたいへんな救いとなっていたからに違いなかった。


 ∵


 私たちの街では、私やセンリの年頃の者は、誰か灯籠の職人に師事して同じように職人を目指すか、別に親の仕事の跡を継ぐか、新天地を求めて他所へ発つ者がほとんどであった。センリのように、既に一人で灯籠を任される程の腕の職人は、彼の他には同じ年頃の者はいなかった。

 それがために彼は、しばしそれを妬んだ者たちからの、心ない言葉に晒されることもあったようであった。

 しかし彼は、それを耳にしたところで悲しそうな顔をするばかりで、怒ったり、反論をしたりと言うことは一切無かった。人と争うと言うことが、根っこから嫌いであったのだ。

 職人に囲まれて育ったがための言葉の荒さが時々出て来て、私をぎょっとさせることはあったが、彼の方から積極的に誰かを悪く言う言葉を聞いた事は、私にはあまり記憶にない。

 昼間、街でたまに必要な物を買い付けに出ているセンリを見かける事があったが、彼は一人でいる事がほとんどであった。そうしている時のセンリはとても、寂しい人であるように私には見えた。


 ある時私は彼に向って、私からそう言った心ない輩に対して、言い返してやろうかと提案したことがある。

 彼は困ったように眉をひそめて、そんな事は望まないと言った。

「お前がそう言うことを言ったら、きっとそれは他の奴らも黙るだろう。お前は街長の息子だもの」

「放蕩者の不出来な息子だがね」

「それでも、街長の息子には違いないさ。だからお前が言ったらば、きっと一時黙る。

 けれどそうしたら、あいつらは陰でまた言う様になるばかりだよ。誰が言ったのだかわからない言葉が、どこからか聞こえてくるくらいなら、誰が言ったか目に見えて分かる言葉の方が、ずっといいさ」


 ∵


 センリはやがて、何をどう思いついたのか、秋祭りの灯籠の飾りをどうにか考え付いて、祭りの当日までに彫りあげ、それを広場に飾り、多くの人たちから称賛の声を浴びたらしかった。

 らしいと言うのは、私は祭りの夜がどうにも苦手で、その日ばかりは部屋にこもりきりで、本など読んで過ごしていたからだ。

 祭りの夜は街のあちこちに、職人たちがこの日のために彫りあげた灯籠が並び、通りは華美に飾り立てられ、平時でさえ明るい街の夜が、まるで昼間のごとく眩しく輝く。

 そうして人々は、自分の想いを供養するため、各々が手に取った小さな灯籠に灯を点すのだ。

 祭りの夜は、まるで葬式だった。

 叶えられなかった感情が、行き場を無くした想いが燃され、弔われる。煌びやかなあかりは葬列の光であり、屍の灯す最期のひと刹那の炎である。

 私はこの故郷の習わしが、あまり好きでは無かった。

 父も母も、街長とその妻としての仕事に駆り立てられ、家の家政婦たちは皆暇を与えられて祭りに出ている。この日ばかりは、私にとって家はどこよりも居心地の良い場所となった。

 そうやって、一人部屋で祭りの喧騒に外れた場所にいると、何度か窓を叩くような音がした。私がそちらへ目をやると、向かいの工房の部屋の窓からセンリが、息を弾ませて立っていた。

 私は驚いて窓を開けた。

「何をやってるんだ、君は。今は広場の方で、君が作った灯籠について説明したりしなきゃいけない所なんじゃないのか」

「ああ、あんなもの」

 煩わしそうにセンリは手を振った。

「いいんだ。適当に挨拶は済ませてきた。それよりもカイ、お前は祭りには出ないんだな」

「言っただろう。私はあまり、想いを弔うだとか言った風習が好きじゃない」

「普段あれだけ、夜の街に繰り出すのにな」

 からかうように、センリはそんな事を言ったが、その調子には一つも嫌なところは無かった。

 私と頻繁に話をするようになってから、恐らく職人たちに私についての話も数々吹きこまれていただろうに、彼は一切私に対してそれを出す事は無かったし、本心からそんな噂を気にするつもりは無かったのだろう。

「じゃあさ、中に入れてくれよ。酒と、少しだけども食べる物を持ってきた」

「そういうことなら、私も厨房から何か持ってくるよ」

 センリを窓伝いに部屋へ招き入れると、私は急いで、父の隠している秘蔵の酒やら、昼に余って置いてある干し肉やチーズなど持って戻った。

「腕利きの灯籠職人に」と言って、私は杯を掲げた。センリは笑って、「僕の親友に」と唱和した。

 遠く喧騒から離れて、私たちは二人きり、ささやかな酒盛りを行った。私とセンリが酒を酌み交わしたのは、その時が初めてであった。

 その時私は確かに、一点の曇りも無く純粋な友情を、彼に対して感じていた。私たちは生まれてこの方、ずっと友として隣に在ったような、そんな奇妙な既視感さえも覚えていた。

 思えばこの頃が、私たちにとっては最も幸福な時間であったのだろう。何も余計なことを考える事も無く、無邪気に酒を酌み交わす事の出来ていた、この頃が。

「実際僕は、お前には感謝しているんだよ」

 ほんのりと酒に赤らんだ顔で、にこにことセンリは言った。

「カイに声をかけた時、僕は本当に、どうしたらいいか分からなくて行き詰っていたんだ。

 確かに街長様は立派な部屋と工房をくれたけれどもね。祭りのために作ると考えると、どうも緊張してしまって、何にも思いつかなくって」

「でも、私が出来たことなんか何も無かったように思うよ」

 私が言うと、センリは大げさに手を振って否定した。

「そんな事は無い! 僕は今まで、同じ年頃の親友と言う者が出来た試しが無かったんだ。カイと仲良くなれた事がどれだけ僕にとって救いだったか。

 お前は知らないだろうけれど、お前という友が居てくれたおかげで、僕はこうして平気な顔で酒を飲んでいられるんだよ」

 救われたのは私のほうであった。

 センリがいなければ、私の精神は空虚なまま、夜の街をあてどなくさ迷い続けていた。私たちは寂しい者同士であったのだ。

 けれどこれだけ親しいセンリにとて、私の本当の性分を知られては離れられてしまうやも知れぬと言う恐怖が、私の中には常にくすぶっていた。

 だから私は何も言わず微笑み、空になった彼の杯にまた、酒を注いだだけにとどめた。


 ∵


 私の性分が親に知れたのは、十五の頃であった。

 その頃いくつかの縁談や婚約話が、私の所に持ちあがっており、私はそれらすべてを突っぱねて返していたのだ。

 何がそんなに気に食わないのかと、母は私に頭を悩ませていたようであったが、その頃から既に私の生来の性癖に自覚的であった私は、親の干渉がただ煩わしいものでしかなかった。

 創世神話については幼いころから聞かされ育ったために、私は自分が他者とは違うことにも気が付いていた。そうしてその違いが、周囲には歓迎されないであろうことも。

 その頃私は家庭教師について勉強をしており、彼とは友人のように仲のいい関係を築いていた。彼ならば、私を理解してくれるかもしれないと、そう考えた。もしかしたら、幼い恋心のような物もそこにはあったのかもしれない。

 それで私は、彼に自らの事を打ち明けた。誰にも言わないでほしい。そう言って。

 その日の夜、夕食の席で私は両親からの詰問に遭った。男が好きだという話を聞いた、本当かと。

 激しい口調で問い詰められ、私は青ざめた顔で頷くしかなかった。

 父は私を殴り、母は泣いていた。その日は食事を抜かれて、私は部屋へ返された。

 その次の日から、家庭教師は私の部屋に来なくなった。

 その年中に、強引にでも誰か適当な娘と、婚姻関係を結んでしまおうと言う話も、両親の間で出された。しかしそれは自棄を起こした私が、「そんな事をしたら、やって来た相手に自分の性癖を話す」と喚いたために、無しになった。

 それ以来私は、両親とまともに顔を合わせる事もなくなってしまった。

 私の家にいるときには、ぐちぐちと意味の為さない説教を垂れ流す事もあるが、私はそれを全く聞かない。時折彼らの寄越してくる水商売の女も、私が無視をしていればやがて勝手に帰ってしまう。

 私は家族と言う物に、絶望していた。言葉の通じる事のない、異国の人のようにすら思っていた。

 けれど彼らは、彼らなりのやり方で私を思ってはいたのだろう。そのやり方は私をただ執拗に苦しめるばかりで、何の理解も共感もそこには介在しないことを、彼ら自身が分かっていなかっただけで。

 彼らには私のこの性分は、病気か何かのようにしか映っていなかったのだった。


 ∵


 センリは、言ってしまえば私が芯から心を許す事の出来た、初めての友人であった。

 よくない遊びをして回るために沢山いた友人は、皆私の羽振りの良さに引き寄せられてきている事が明白であった。センリと言う友を得、以前ほどに酒場に顔を出さなくなっても、誰一人私の心配をしたりする者などは居なかった。

 それが分からないほどには私は愚かでは無かったから、自然私の足はそうした薄暗い場所から遠のいて行った。

 そうして私が、センリに対して恋情を抱くのには、あまり長いことかからなかった。

 寂しい心の内に、どうにかして見付けた居場所に対して、縋るようにして恋心を持つことに、一体何の不思議があろうか。

 私たちの内どちらか片方でも女性であったならば、誰も私がセンリにそうした思いを持つことを可笑しいとは言わなかった筈だ。であれば一体何故私ばかりが、そうして後ろ指さされなくてはならなかったのか。

 私は初めてその感情を自覚した時、殆んど同時に深い絶望をも覚えた。

 今でもはっきりと、思い出す事が出来る。

 私とセンリは、川べりを歩いていた。秋の祭りが終わってしばらくしての、夜中の事であった。大仕事を一つ終わらせた彼は暇を持て余していて、私はそんな彼を散歩に誘ったのだ。

 一週間も前までは観光客であふれていた街も、それまでには落ち着いて、静かな空気を取り戻していた。

 その時私たちは、何の話をしていたろうか。

 川に沿って、数え切れぬ灯籠が点されていた。灯籠の灯と、ぼんやりと霞む月影とが水面に映り、辺りはきらきらと光を帯びていた。それでもそのあかりは、祭りの日と比べればかなり数が減っている。通りを歩く人の姿も少なく、心地の良い静かな夜であった。

 数歩先をのんびりと歩きながら、センリはずっと上を向いて、月を眺めていた。遠くのほうを、火の番の者が見回っているらしい音が聞こえていた。

「本当は僕は、灯籠なんか彫るのはあまり好きでは無かったんだよ」

 そんな事を、センリは言った。

「僕は父さんも母さんも知らなくて、爺さんだけだったからさ、それしか教わることが無かったんだ。

 それで仕方なしに彫ってたら、才能がどうとか持ち上げられて、頼んでも無いのに仕事が山ほど入って来て、しまいには祭りの灯籠まで一人で任されて。まだ全然、そんな経験も無いのにだよ。おかげで友達は全然できないし」

 前を行くセンリの表情は影になっていて、私からはよく見る事が出来なかった。けれどもその声音は、すこしも何か嫌な思い出を話すような調子では無かったように思う。

「でも、カイ。お前と友達になる事が出来た。きっと僕は、その為に灯籠を作っていたんだと思うよ」

 そう言って振り返ったセンリは、とても美しい表情をしていた。男にそう言った表現を使うことは、おかしいのかもしれない。それでもたしかに、私はそう感じた。

 そうしてその表情を見て初めて、私は彼に恋情を抱いたことを自覚した。

 その自覚した自らの感情に心の底から絶望し、恐怖したのであった。


 ∵


 センリは度々私たちの関係を表すのに、「親友」と言う表現を使った。

 それは彼にとっては、同性との関係を示す上での、最上位の表現であったのだろう。しかし、私が純真な友であると信じて疑わないその言葉は、真綿のごとく私の首を絞めて、じりじりと私を殺さんとしているかのように感じられた。

 友と信じていた者が、自分に邪な視線を向けていると知ったら、彼がどう思うだろうか。折角のことで手に入れた居場所を、自らの要らぬ感情で打ち捨てようと言うのか。

 叶うことのない想いであれば、私はこれを封印せねばならないのだと、切に思った。

 私の恋情は、罪悪であった。彼に好いて欲しいと願うただそれだけの想いが、許されざる罪悪であった。

 だから誰にも言わずに奥底に埋め、しまいこんでしまうつもりで、私はじっと耐えていた。次の春の祭りには、あんなに嫌った灯籠を灯して、この誰にも救われぬ思いを弔わねばなるまい。そんなことすら自嘲気味に、考えていた。

 行く当てなく誰にも届かず、ただ消えゆく筈であったのだ、この身は。

 それを完膚なきまでに叩き壊したのは、私の父親であった。


 ∵


 様子の変わった所に気付かれたくは無かったのだが、私はどうしても、今までの通り夜遊びを続ける気にはなれなかった。

 それで自分の感情に自覚して以降、私は殆んど賭け事などの遊びを断った。たまに出ても、気が乗らずにすぐ帰宅してしまうことが大半であった。

 父は私が、秋祭りを境に夜遊びへ行く回数をめっきり減らしたことを、しっかりと認識していた。

 初めは祭りの始末などで気にもかけていなかったようだが、やがて段々と、私が夜中家から出る事が少なくなっている事に、気が付いたらしい。

 そうして夜遊びをやめた息子がその代わり、秋の祭りに起用した若い職人と懇意になっている事に、気が付いてしまったようであった。

 幾度か私は、センリと父が話をしているのを見かけた。父は本格的に彼を、毎年の祭りに起用するつもりのように見えたために、私はきっとその話だろうと思って、少しも気にしなかった。

 そうして、本格的に冬の色が強くなった、ある日の事であった。

 祭りの為だけに泊まりがけで仕事をしていたセンリは既に、彼の家に戻って仕事を再開していた。私は手土産を持って、また彼と他愛のない話をするつもりで、センリの家を訪ねた。

 一階の工房にセンリの姿は無く、厳格そうな彼の祖父がむっつりと私を出迎えて、彼が自室にいる事を教えてくれた。彼は自室で、荷物をまとめているところだった。

 私が開きっぱなしの戸を叩くと、ハッとしたようにセンリは振り返って、私に気が付くとぎこちなく微笑んだ。

 その様子にわずかに違和感を感じながらも、私はいつもの通り手土産の酒を掲げて、時間はあるかと尋ねた。

「ああ、まあ大丈夫だ。どうせ今日はもう仕事をしないからな」

「なんだ、どうかしたのか」

「いや、大したことじゃない。寧ろ悦ばしい話だよ」

 そう言って、センリは手に持った荷物を床に置き、近くにあった寝具に腰を下ろした。私にも椅子をすすめられ、言われるがままに腰を下ろした。

 妙に胸騒ぎがして、私はひどく落ちつかなかった。

「お前のお父さんに、お前の家の抱えの職人にならないかと言う話をされたんだ。それで近々正式に、お前の所の工房に部屋を貰うことになったから、荷物をまとめてるんだよ」

「いい事じゃないか。父は君のことを大層気に入っていたからな。父の事はあまり好きじゃないが、職人の腕を見る目は確かみたいだ」

 冗談まじりにそんな事を言ったが、センリの表情はやはりどこか晴れなかった。

「なんだ、まだ何かあるのか」

「……ああ、その」

 センリはためらってはいたが、私がそれでも発言を促すと、酷く苦々しい表情でようやく口を開いた。その言葉は、私を一度に奈落へ突き落すのに、十分過ぎるほどであった。

「お前のお父さんに、お前の話をされたんだ。最近仲が良いようだなって。それで、その、恋仲なのかと、問われたんだ」

 その言葉だけで、私は全身の血の気が失せていくように感ぜられた。

 きぃんと耳鳴りがして、深い水中へもぐったように、センリの声が遠のいた。しかしそれでも、完全にその言葉を遮断する事は出来なかった。

「僕はそんな訳ないだろうって否定したんだ。そうしたら、お前のお父さん、知らないのかって。それで散々、聞いても居ないのにお前の話をされてさ。その、お前が男が好きなんだって。

 ……お前と仲が良くないってのは知ってたけど、まさかああまでも、酷い話をされるとは思わなかったよ。

 でも、ちゃんと言っておいたよ。僕と彼は友達ですってさ。そう言ったら、お前のお父さん、満足したみたいに、嫌な感じの笑い方してさ。それならいい。もし恋仲なんだとしたら、うちに抱える訳にはいかなかったって。

 そんな事言われて仕事貰ったって、少しも嬉しくないよな。でも爺さんは、貰えるもんを貰わないでどうするって怒鳴るし」

 そうやって私に不満をこぼすセンリは、どうやら私の性分を知ってしまったがために距離を置こうとしていた訳ではなく、ただ私に対する父の言い様に憤っていたがために、表情を曇らせていたらしい。

 それは人の影口などを嫌うセンリらしい、心優しい言葉であったが、私はセンリが私のために憤れば憤る程、深い絶望にさいなまれるようであった。

 センリの言葉を遮って、違うんだと私は低く言った。驚いたようにセンリが私を見たのが分かったが、私は床を見つめたきり、顔を上げる事が出来なかった。

「父の言っている事は本当だよ。私は、男性を恋愛の対象にしてしまうんだ」

 視界がぐらぐらと揺れて、胃の腑のものが逆流しそうになっていた。消え行ってしまいたい程の羞恥に呑まれて、私は出来うる限り身体を縮こませるようにした。

「私は、君が好きなんだ」

 血を吐くようにして、私は告白した。

 子供のように分別なく泣き喚いてしまいたい程に、私は己が憎くてたまらなかった。これで、また私は一人ぎりに成ってしまう。きっと幻滅された。二度と以前のように会話することなどできまい。

 しばらく、私もセンリも黙りこんで、誰も口を利かなかった。私はそれに堪えかねて、椅子を蹴るようにして立ちあがって、また今度来ると言って、その場を辞そうとした。

 反射のように、センリがさっと手を伸ばして私の腕を掴んだ。

「カイ、悪かったよ」

 センリはそう言った。

「僕はお前が苦しんでいる事に気が付けなかった。お前の気持ちに応える事は出来ないけれども、僕はお前の理解者でありたいと思うよ」

 それは、これまで私が貰ったことも無い、初めて聞く言葉であった。

 確かに私は、その言葉を求めていた筈であった。理解者。私のそばにいてくれる者。けれどもその言葉を発したのがセンリであったことに、私は酷い空しさを覚えていた。

 ありがとうと、やっとのことでそう返したように思う。センリの顔を見る事は、出来なかった。こうなる事は決まり切っていたと言うのに、私の中の大事な場所がぽっかりと穴をあけたように、苦しい心持になった。

 手を振り払うようにして、部屋を立ち去ると、私は足早に帰路に着いた。涙の一つも流す事が出来たなら良かったのかもしれないが、私には泣く事も出来なかった。


 ∵


 それから数日して、センリは私の家の工房に移った。

 移ったと言っても、秋の祭りの時に使っていた部屋がまた同じように、そのまま与えられただけなので、実質またのように戻ったと言った方がよいかもしれない。

 センリは何事も無かったかのように、友として再び私と接してくれた。それが何より私には心苦しい、拷問を受けるかのような日々であった。

 それは、私のわがままであったのかもしれない。

 本来私は、そも理解を得たことすら一度としてなかったのだ。彼が私を受け容れ、私の性分を知ってなお友として在ってくれる、その事自体を幸いとするべきであったのかもしない。

 それでも、私はいっそ、センリに否定され、打ち捨てられた方がまだ苦しくは無かったと、私はそう思ってしまったのだ。

 事実そうであったならば、あんなことにはならなかったのだろう。


 街長の家抱えの職人となったセンリは、いよいよ仕事が多く舞い込んで、いつも忙しそうにしていた。そうして忙しそうに立ち働く度に、より彼はひとりになっていくように見えた。

 芸術を解さない私には分からなかったが、彼の彫り物はますます評判を呼んだ。春の祭りでは彼が、広場の真ん中に飾られる一番大きなものを彫ると言う話すら出ているようだった。

 センリはそれまでと変わらず私と話をしようと努めていたが、私は彼と顔を合わせるだけでも心苦しく、窓も日よけを下ろしてしまって、なるべく彼と会うまいとしていた。センリもそれを分かっているようで、私がつれない態度をとる度、寂しそうな顔で仕方なさそうに笑うのであった。

 寒さが和らぎ、風が温かくなって来る頃には、私たちは殆んど顔を合わせないようになっていた。私の夜遊びの癖も復活し、母は私が分からないと言って泣いた。

 そんな、矢先のことだった。

 ある朝私が夜遊びから戻ると、私の机の上に、簡素な走り書きが置いてあった。あまり書き慣れないらしく、字は奇妙にのたくっていて、悪筆と言って差し支えない筆跡をしていた。私はそれを見てすぐ、誰が置いたものなのか理解できた。

 今までで一番の作品が出来た。お前に最初に見て欲しい。

 そう云う旨の事が、そこには書いてあった。いつどこへ行けばいいのかも、差出人の名前すら書かれていない手紙。私は苦笑して、それを懐に滑り込ませた。何故だか、涙があふれて出そうになった。

 この呼びかけに答えたら。そうしたらきっと、私とセンリとは全くに終わってしまうのだと、そう、直感的に思った。


 ∵


 夜になって、私はまたいつものように自室を抜け出た。

 工房の明かりは窓から、不自然なほどに明るく煌々と外に漏れていたが、ほとんどの職人は皆酒でも飲みに出かけているのか、不在のようであった。

 いくつもの小さな灯籠が部屋の中あちらこちらで点されていて、その馬鹿に明るい部屋の中でセンリだけがひとり、椅子に腰かけて、部屋の真ん中に据えられた、緻密な飾りの施された巨大な石灯籠を眺めていた。それは恐らく、彼が春の祭りのために彫ったものに違いなかった。

「遅かったね」と、彼は私の顔を見て言った。私は何と答えたらよいか分からずに、無言で中に入って扉を閉めた。

 部屋の中は熱がこもっていて酷く汗をかいた。床から椅子の下机の上、所せましと小さな灯籠が並べられ、土産物屋に売られていそうな簡素なつくりの物から、繊細な模様の施された物までそれら一つ一つ、どうやら彼の手による作品らしいと言うことが見て取れた。

「随分と沢山あるけど、どれが私に見せたい一番の作品なんだい?」

 半ば冗談めかして、半ば苛立ちながら、私は言った。

 センリが何を思ってここに私を読んだのか、それが判別付かずに、私は戸惑っていた。センリはいつもの通りの穏やかな表情で、じっとわたしを見つめた。

「全部だよ」センリは言った。

「ここに置いてあるもの全部、僕の最高傑作」

「全部?」

「そう、全部」

 センリは部屋の中をぐるりと見回した。それから照れたように笑うと、立ちあがって慎重に窓を開けた。

 涼しい風が吹き込んで、少しだけ部屋の温度が下がった。部屋中の灯籠の火が一瞬、吹きこんだ風で揺らいで、私とセンリの影がちらちらと壁に床にと躍ったのが分かった。

「ごめん、つい張り切ってしまってさ。流石に急だったね」

 言って、センリは私の方に歩み寄ると、私の手を握って目を覗きこんだ。

「お前に灯籠を作ったんだよ。お前のことを考えて、作ったんだ。そうして思いつくだけ作ったら、こんなにも沢山出来てしまった」

 すうと私の頭が冷えたような気がした。街の習わし。祭りの灯籠。

「灯籠は、生者の想いを供養するためのもの。伝えることを諦めた言葉や、忘れたい思い出を供養して、無かったことにするための」

 センリの言葉が遠くに聞こえたような気がした。ああ、やっぱりそうだ。センリ。君は私を、私のことを。

「無かったことにするつもりか?」

 思わず口から零れた問いに、センリはハッとしたようだった。

「違うんだ、カイ! そうじゃない。僕はお前のことを」

「私との友情を、思い出を弔うんだろう!」

「違う!」

 慌てたようにセンリが私へ手を伸ばしたが、私はそれを拒絶してふらふらと後ろへ下がった。

 それがいけなかった。私は床に並べられた灯籠を、下がりざまに二三なぎ倒してしまったのだった。

 油と火種が零れ、床へ広がった。すぐ近くに並んだ灯籠が木製であったこともよくなかった。窓が開いていたために風が火を煽ったことも手伝って、あっという間に炎が床を舐め、壁を這いあがった。

 一瞬の間に全てが起こっていて、私はただ茫然とそれを眺めていた。私は周囲の物を蹴散らしてしまったがために、皮肉なことに、最も火の手から遠くにいた。

 気が付けば工房は火の海になり、センリは巨大な石灯籠の向こうで火に囲まれていた。

「ああ、しまったな」

 センリは少しも慌てていないようで、困ったように眉をよせていた。何が起きているのか、何故彼がそんなにも穏やかな顔でいられるのか、私には何一つとして理解することが出来なかった。

「センリ、何やってるんだ! 早くこちらに」

「いや、もういい。僕はいいよ、カイ。元からこうなるつもりだったんだ。そうでも無けりゃ、こんな数の火種をそこらに並べるもんか」

「やめろよ! 君が何を言っているのか分からない! 早く逃げろよ!」

 助けなければならないと思った。

 センリが、焼けてしまう。私が行かなければ。それだのに私の足は震えて、少しも動こうとはしてくれなかった。

「いいから聞けよ、カイ。これが伝わらないんじゃ僕も、燃やされるだけ損だ」

 センリは笑っていた。

「僕は、お前と友達であれれば良かった。お前と一緒に他愛もない話をして居られたらば、それで良かった。でも、そういう僕の考えがきっと、お前のことを苦しめたんだろうね。

 カイ、僕らはどうでもいい事を思いすぎたんだよ。難しいことを考えすぎたんだ。なんて事は無いんだ。だから僕は、初めの頃に戻りたかったんだ。

 灯籠は、僕の独りよがりだ。お前についていろんなことを考えた。いろんなことを思った。そうした考えなくていいこと、知らなくてもいいこと、それらの想いを全部弔って、僕はお前と出会った初めのまっさらな、ただのセンリに戻ろうと思った。

 そんな顔をするなよ。お前がそうやって僕のために苦しそうな顔する度に、僕はつらくて悲しくて、消えてしまいたくてたまらなくなったんだ。お前がつらそうなのは、見たくは無いよ。

 だってお前は、僕のただ一人の親友なんだ」


 ∵


 どうやって工房から出たのだかわからない。きっと、誰か燃えているのを見て助け出してくれたのだろう。私は自室の寝具の上で目を覚ました。

 目を開くと、医者と両親とが私の顔を覗きこんでいるところで、身体のそこかしこが酷く痛み、身体を動かす事も億劫であった。

 何があったのかと、私に問うものはいなかった。

 後から知ったことであったが、センリが職人内で仲間外れにされていること、灯篭を彫ることを苦痛としているらしいという事実は、どうやら街の口さがない人々の間ではそれなりに有名な話であったらしい。

 彼は自死を図り、その場に居合わせた私は偶々それを見て、火中の彼を助けようとして巻き込まれたものとして、話はいつの間にやらついてしまっていた。

 そして私も、それを否定しようとはしなかった。

 本当のことを話したとて、いったい何になろうか。どの道両親は醜聞を嫌って、私の話をなかったものにしようとすることは、想像に難くない。

 私はただ口を閉ざし、まるきり抜け殻のように、茫洋として日々を過ごした。周囲はそれを火に巻かれた事による精神的な苦痛によるものと解釈したようで、腫れ物に触るように私を扱った。

 部屋の窓辺から見えていた職人たちの工房はすっかり焼け落ち、黒く焦げた柱などがわずかに残るばかりであった。

 センリの「最高傑作」たちはほどんどが炭になってしまった。ただ一つ、春の祭りのためにと作られていた石灯籠だけ、火に焼け落ちた柱のせいで傷ついてはいたが、どうにか元の形をとどめていた。

 人々は若くして命を散らせてしまった、才能ある職人を惜しみ、追悼のような行事も行われたらしかった。春の祭りにも、予定通りセンリの石灯籠は中心に飾られたというが、私はそれを見なかった。


 私は身勝手な勘違いから、センリを死へと追いやった。

 その事実は誰に告げられることもなく身の内で肥大して、私の心をかき乱し支配した。

 センリは最後まで私を親友と呼んだ。親友と呼び、そう信じて私のために死んだ。私はただ、彼に捨てられてしまうことが恐ろしく、その恐怖のために彼を拒んで、その独りよがりな恋情がセンリを殺した。

 思えば私は、センリの形見一つ持ち合わせなかったのだ。

 強い自責の念が、炎の如くわが身を焼いた。

 私のような下劣な男がのうのうと生きて、センリのような優しい、穏やかで美しく愛されてしかるべき人が死んでしまって、それで良いはずがない。そうだ、生きて残ったのは放蕩息子のカイなどではない。

 一人部屋にこもり、話す相手もいない日々はゆっくりと私に記憶の混濁を導いた。都合のいい筋書きが脳裏にだんだんと構築されて、まるでそれが真実であるかのように私には思えた。

 私はセンリ。灯篭の職人の家に生まれ、カイという親友を得た。事故により彼を失い、悲しみから私は彼との再会を望む。

 無論、それは破たんに満ちた偽りに過ぎなかった。少しでも外から突かれることさえあれば、すぐにその欺瞞は露呈したことだろう。

 私の記憶の中では失った大切な人は、どうしても優しく穏やかな美しい人のままであったし、カイという名前は嫌悪を誘う響きを伴った。あちこちに歪が存在し、話をすればするほどほころびは目に見えて目立ったことだろう。

 夜の仔に問いただされるその瞬間まで、この脆弱な幻想が崩れ去らなかったことが、いっそ不思議なくらいであったのだ。

 誰も私の歪みに気がつくことはなかった。誰も、私の狂気を糾してくれる者はいなかった。

 そうして、夏の盛り。うだる暑さの中、私は混濁した記憶と共に故郷を出た。誰にも告げず、ただあいまいな焦燥感と共に。

 結局私は、ほとんど故郷の祭りを見ることはなかったのだと気がついたのは、後になってのことである。

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