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夜の仔  作者: 縦川みさと
2/6

哀悼


 二、


 二か月と言う期間は、私に一度は薄れかけていた焦りの感情を再び呼び起こすのに、十分すぎる時間だった。

 待つことは私には、酷い苦痛に他ならなかった。日が経つごとに、私の内心の苛立ちは増していった。

 それでも、周囲に愛想を振りまく事を怠ったつもりは無かったためだろう。村の新入りから珍しい旅の話を聞こうとする村の子供達には、ハジを含めてよく懐かれはした。

 しかしその上辺だけの愛想も、ヒィカには見透かされているようだった。

 私はヒィカを、村の説話を探るため必要な探索の護衛に任命した。

 死者の蘇りについて話を聞くのは、村の外の人間ばかりだと言う。その話を聞くためには、夜廻の村と外とを森を超えて幾度も往復せねばならなかった。加えて私は、森を歩くことで再び夜の仔と出会えるのではないかという希望を、未だ捨ててはいなかった。

 度々私は、到底明るいとは言い難い時間の森に繰り出しては、夜の仔の軌跡を探ろうとした。そうした無謀な「研究」にヒィカを連れ回す私の姿は、村人たちにはさぞ奇人変人の類に映っていたであろうが、その無謀を積極的に私に申し入れたのは、寧ろヒィカの方からであった。


「貴方は、夜の仔に行き遭ったのではありませんか?」

 嘘や誤魔化しを許さないその勢いに押されて、私はヒィカの問いに頷いた。

 肩ひもを握り締めていた彼女の手が、一際強く、爪を食い込ませるように握られ、すぐにふっと力を無くして、下にだらりと垂れさがった。

「やはり、そうなんですね。エシは、夜の仔に」

 顔は青ざめ、わずかに震えてはいたものの、その声はとうの昔に知っていた悲劇の顛末を改めて他人から教えられたかのように、至極あっさりとした物だった。

「お願いがあります」

 そう言って、ヒィカは真っ直ぐと私の目を見つめた。

「貴方はきっと、冬至の祭りまでは少なくともこちらに留まるおつもりなのでしょう」

「……そうだね、そうしようかと思っている」

「本当は何を調べたいのか知りませんが、その過程で、森に入ることも多いですよね」

「そうなるだろうね」

 その答えを待っていたかのように、ヒィカは言った。

「私をまた、雇っては下さいませんか」

 深々と、彼女は私に頭を下げた。

 まるで夜廻の晩、夜の仔に扮したハジに礼をした時のように。


 ∵


 厳格そうなヒィカの祖父は、自分の孫娘が素性の知れぬ男に雇われることを、あまり快くは思わないようだった。

 それでも、狩猟に出るよりはるかに割のいい報酬は、病床にあるヒィカの母の事を鑑みても、魅力的であったらしい。ヒィカ本人たっての強い要望もあって、渋々といった様子ではあったが、認められる形に落ち着いた。

 ヒィカと私の間には、互いの事情については必要以上に深く踏み込まないと言う、暗黙の了解のようなものが成立した。私は彼女の弟についての話を聞かなかったし、彼女も、私の故郷について言及してくる事は無かった。

 しかし、どうしても噂と言う者は耳に入って来るものだ。田舎の人間はという者は概して話好きで、聞いてもいない事情をこちらの耳に吹き込もうと、躍起になっているようにすら思える。

 聞かぬよう努めていたにも拘らず、ヒィカの家の事情について、私は否応なしに詳しくなってしまっていた。

 狩人の家に生まれたにもかかわらず、生まれ持って足の悪かった少年。そして、今でこそ周囲に認められつつもあるが、そこらの大人よりもすぐれた狩りの才を持つ少女。夜の仔の逸話。ヒィカの言葉。

 それらを合わせて、彼女がどんな理由で私の探索に同行を希望したか、想像することはそう難しい事では無かった。

 私の方に関しても、周囲に事情を知る者がいなかっただけそう深くを悟られる事は無かったが、それにしても大してヒィカと変りは無かった。

 おせっかいな村の住人や、好奇心旺盛な子どもたちが故郷について尋ねたらば、私はその世間話に応えないわけにはいかない。一つ一つはそう大したことのない情報でも、二月も積もれば、聡いあの少女ならばきっと、何を持ってして私がここに至ったのか、分からない道理も無かっただろう。

 いや、無論応える必要があった訳ではない。不機嫌な素振りでも見せて一言、「話したくない」とでも言ってしまえば、それで事足りただろう。寧ろそうしていれば、それ以降必要以上に話しかけてくる村人も居なくなって、私にはちょうどいい位だったかもしれない。

 しかし、私はそうする訳にはいかなかった。優しく人好きのする好青年。それを演じなければならなかった。少なくとも、演じなければならないと思いこんでいた。

 ヒィカはそんな私の内情をよく分かっていて、度々私に冷ややかな目を向ける事があった。それはある種、同族嫌悪にも似た感情だったのかもしれなかった。

「貴方はまるで、紛い物に見えるわ」

 一度だけはっきりと、そう言われたことがある。

 幾度目か、祖母の故郷である村からの帰りの道中であった。夕暮れ時、細い獣道じみた村への道をたどりながら、私の前を行くヒィカが、振り向きもせずに呟いた。

 殆んど独り言のように静かに零れた言葉を、始め私は聞き逃しそうになった。

「貴方は、人当たりのいい人物を演じようとしているだけに見える。誰かの真似をしているだけだわ。優しい誰かの真似をして、優しくあろうとしているだけ」

 その言葉を聞いて、私はあまり驚かなかった。ただ、成程彼女からはそう見えるのかと、得心行ったような気になって、

「何でそう思うのかな?」と尋ねた。

「何でも何も、分かるんです」とヒィカは応えた。

「私も偽物ですから」

 その言葉は、きっと彼女なりの悲鳴であったのだろう。しかしそれは、助けを求める悲鳴でも、理解を乞う呼び声でもなく、ただ他に叫ぶ場所が無かったために、私に向けて吐かれただけの叫びに違いなかった。

 だから私は何も言わず、ざくざくと大きく音を立てて草を踏みしだいた。


 ∵


 噂の調査は遅々として捗らず、ともすれば私は暇を持てあまし、一日を宿の自室でただ漫然と過ごすことも少なくなかった。

 死者の蘇りなどと言う話はやはり、数十年前ならまだしも、まともに取り合う者などほとんどいないらしい。聞こえてくるものは若者による怪談話のような体裁を取っているものや、知人の友人が見たなどという曖昧模糊とした情報源の噂ばかりだった。

 途方に暮れて私が部屋で腐れていると、奥方などは随分とよく話しかけに来てくれた。

「こんな田舎で、何カ月も変な研究に精出したりして、故郷に良い人でもいないの?」

 無論それは、おせっかいと社交辞令とで述べられた言葉だったのであろうが、私には鬱陶しいばかりの物になりつつあった。

 冬至の祭りに、灯籠を一つ彫ってみてはどうかという話を持ち出されたのも、そんな会話の延長線上だった。秋も深まり、冬の足音がすぐそこまで聞こえた頃だ。

 冬至の祭りでは、半年ぶりに目を覚ました女神を歓迎するために、村の広場に灯が点され、様々に飾り立てられて馳走が振る舞われる。その中に一つ、簡単な物でよいので客人として、私も灯籠でも作って出してはどうかという話だった。

「灯籠の街の、職人さんのおうちの出なんでしょう? ずうと部屋でだらだらしているより、余程いいと思いますよ」

 あまり気乗りのしない話ではあったが、特別忙しかった訳でもない、気が急くばかりで身を持て余していた私は、安易にそれを引き受けたが、結果すぐに自分の行動を後悔する羽目になった。

 私は、村人から分けてもらった木切れに、刃先一つ入れる事が出来なかったのだった。

 木片が削れて落ちていく、だんだんと模様が形作られて、姿を現す。内側に閉じ込められていたものを、木切れの中から彫り当てる。

 その情景は浮かぶのに、思い描く事が出来るというのに、私にはどこをどう掘り進めたらば良いものか、全く思い出す事が出来なかったのだ。

 その事は、一向進む気配のない「夜の仔」の探索と合わせて、私を苦しめる物の一つとして、重く私の中に居座る事となった。


 ∵


 故郷について記す。

 遠い記憶について、苦い過去について記す。

 カイという男がいた。

 彼は灯籠の街、その街長の一人息子として生まれた。美丈夫ではあるがひどい放蕩者で、彼の両親もまるでそれを持て余していた。夜な夜な街へと繰り出してはよからぬ遊びにふけり、彼の周囲にはいつでも、碌でもない噂ばかりが飛び交っていた。

 しかし実際の所、彼の両親を悩ませていたことは他にあった。

 彼は男色家であったのだ。

 両親は世間体のために、何よりこれを周囲に知られることを恐れた。多少の夜遊びには目をつむり、寧ろあえて幾人もの女性をあてがい、彼の「病気」を「治そう」としていた。

 それが何より、カイにとってますます家を嫌悪の対象とさせ、夜遊びに繰り出させていた原因であったのだが、彼の両親は一向それを理解しないようであった。

 あるとき彼は、街で行われる祭りの話し合いだと言って家に招かれた幾人もの客人の中から、一人の若い灯籠職人と出会った。

 その職人の名は、センリと言った。


 ∵


 いつ答えが見つかるとも知れぬ先の見えない探索に一転、新たな光明をもたらしたのは、語り部の家の少年、ハジであった。

 その日私は、自室で絵灯籠を眺めていた。

 一日と欠かすことなく枕元に灯し続けていたそれは、街を出る日に作った至極簡単なつくりで、木枠に絵を描きつけた紙を張り付けただけの物である。持ちだせる大きさの物となると、この程度の安上がりな物くらいが妥当であったために、適当に街の店で土産に売られている木枠と紙を使って作った物だった。

 どうにか灯籠の作り方を思い出せはしないかと、私は火を入れた状態でそれを眺めていた。

 紙に描いたのは、燃え盛る炎の模様と、黒い人影であった。けして忘れぬように、許さぬように、呪い描いた筈であったのに、私は飾りの彫り方一つ思い出す事が出来ない。酷い違和感が私を苛んでいた。

 窓の外からは、通りで遊んでいるのであろう、甲高い子供たちの声が、きゃらきゃらと華やかに響いていた。

 その中にハジの声があることに気が付いて、私はふと窓の外を見やった。そうして、ハジばかりでなくヒィカの姿をもそこに認めた。やはり服装は変わらず少年じみたものを着ており、猟銃を肩にかけている。

 夕刻の頃で、分厚い灰色の雲が空を覆って、冷たい風を運んでいた。

 よくよく通りの様子を見ると、どうにもただ彼らがじゃれあっている訳ではなさそうなことが分かった。

 幾人かの子供たちが、どうやらヒィカをからかっていて、ハジはそれに反論しているようであった。ヒィカはハジを抑えようとしているようで、子供たちの中でも一際気の強そうな少女が一人、彼女に向かって何か言うのが分かった。その瞬間だった。

 窓を閉めて部屋に引きこもっていた私にすら、その大声は届いた。

「そんなわけがあるもんか!」

 そう叫ぶなりハジは、容赦なくその何か発言した少女の顔面を、思い切りこぶしで殴りつけたのだった。


 ∵


 エシと言う少年の生前を、私は直接知っている訳ではない。だからこれは全てあとから聞いた話を、どうにかして寄せ集めたものである。

 エシについて記す。

 エシはヒィカの五つ離れた弟として、狩人の家に生まれた。生まれついて足が悪く、彼の父親はその子を育てることを嫌がったそうだったが、母親が育てる事を強く主張したために、捨てられることも無く無事育てられたそうだ。その父親も、彼がまだ分別も付かない頃に亡くなり、後には気難しい祖父と病床の母親、そしておとなしい姉が残った。

 祖父はエシの母親がよくならないのを、エシを産んだためと信じており、エシに対してあまり良い顔をしなかった。彼は殆んど、姉であるヒィカに世話をされて育った。

 松葉杖を使ってようやく歩けるようになった頃には、ヒィカは狩人としての才能を見いだされて、連日狩り場の森へと祖父に連れられて出かけるようになり、彼は母親と二人家に取り残された。

 家から出ることすら一人では非常に骨の折れる事であった彼は、同じ年頃の子どもたちと遊ぶことはもちろんままならず、むしろルリと呼ばれる少女などは、率先してエシをからかった。唯一友人と呼ぶことが出来たのは、家の近かったハジのみであった。

 家族に対しては非常に気丈な、聞き分けのいい息子を演じていたエシも、友人であるハジの前では度々、真情を吐露することが多かったようだ。

 彼はいつも、自分は生まれるべきでは無かったのではないかと言ったことを、ハジに相談していたそうだ。自分は姉の足かせになっている。自分のために、姉が苦しんでいる。その事が、何よりもつらいのだと。

 そうしてある時、エシは行方をくらませた。それは冬至の祭りの近付く、ある晴れた日の事であった。

 ヒィカと祖父が家へと帰ると、エシの姿は既にどこにも見えなくなっていた。母親の枕もとには、薬など用意がしてあって、彼はあくまでも母親を気に掛け、出来る限りの世話をしたうえで、自分の意志でどこかへと消えたらしかった。

 その日は夕方から段々と雪が降り始め、探しに行こうとするヒィカを周囲の大人たちは止めた。

 すぐに吹雪になる。悪天候でエシを探して、ヒィカまでもが行方知れずになってはいけない。そう言って。


 ∵


 宿のすぐ外、道端で起きた出来事はこうであった。

 ヒィカはその時、私に夜の森の探索を催促するつもりで宿へ向かっていたらしい。そこへルリが他の子らとやってきて、大きな声ではやし立てた。

「あら、男女のヒィカだわ! 女のくせに銃持って、またあの他所者と森へ行くのね!」

 それは何も、その日に限った話では無かった。

 私は比較的愛想良く振舞おうと努めていて、大半の村人や子供たちはそれなりに私に心を許してくれていた。それでもやはり、連日男と連れだって夜の森へ出かける姿は、否応なしに余計な噂を呼び込んでしまう。ませた子供たちは度々、私とヒィカの事をからかいの材料にしていたのだ。

 それもあって私は、あまり頻繁に出かけるべきではないと言う風にヒィカに告げたばかりであったのだが、彼女も彼女なりに気が急いていたのだろう。その時もまるで私の忠告を聞こえないふうなふりをして、宿への道を急いでいた。

 そこへ通りかかったのがハジであった。彼はルリたちに、その馬鹿げたからかいをやめるように、少年らしい乱暴な口調で注意したらしい。それを受けて、ルリたちはますます笑い声をあげて、より一層攻撃を激しくした。

 それらはどれも子供らしい、幼稚なからかいの域を出ない物ばかりだったのだが、そのうちにルリがこんなことを言った。

「エシはね、夜の仔になっちゃったのよ! だぁれにも愛されなかったから! ヒィカも全然、エシがいなくなって悲しまなかったから!」

 ヒィカが何か言うより先に、ハジは叫んだ。

「そんなわけがあるもんか!」

 そうしてハジは思い切りルリの顔を殴りつけるなり、あっという間に村の外へと駆けて行ってしまったのだった。


 宿の外は、大騒ぎになっていた。

 ハジの叫びを聞きつけて大人たちが幾人か駆け付けたものの、当のハジはどこかへ駆け去ってしまい、ルリは大声をあげて泣いている。余程手酷くやられたらしく、ルリの顔は鼻血が出て真っ赤になってしまっていた。

 階段を駆け降りて通りに出ると、ヒィカは茫然として私の顔とルリとを見比べながら、ぼんやり立ちつくしていた。

「まあまあ、どうしたって言うの」

 呆れたように、料理を作っていたらしい宿の奥方が手を拭きながらやって来て、ハンカチを取り出してルリの顔の血を拭い落とした。

 わんわんと泣き喚いている少女が、幾度か私とヒィカに心ない言葉を投げかけていたルリであることに気が付き、私は大体の事情を察した。

「大方君がなにかからかうようなことを言って、それでハジを怒らせたんだろう」

 私がそう言うと、ルリは顔を赤くして

「違うもん!」と叫んだ。

 が、そのやり取りで周囲の大人たちも、何時もの喧嘩の延長線だと理解したようで、呆れたように小言を言いながら、その場に集まっていた他の子供を追い散らしにかかった。

「大丈夫かい?」

 未だぼんやりしているヒィカに声をかけると、ヒィカはハッと我に返ったようだった。

「すみません。お騒がせしました」

「いや、君のせいではないだろう」

 そう返して、私はふといなくなったハジの行方が気になった。

「ハジは、どこまで行ったのかな」

 それを受けて、困ったようにヒィカはハジの駆けて行った方を覗き込むようにした。

「そう言えば、そうですね」


 結局その日、ハジは帰っては来なかった。


 ∵


 ハジはユジの家へ行っているのだろう。ハジの両親はそう考えているようで、特別慌てた様子は見えなかった。

 以前にも彼がへそを曲げて、家出のようなものを敢行したことがあるらしい。その時もハジは、ユジの家に泊まって一夜を過ごした。明日にでもなればきっと、機嫌を直して帰って来るに違いない。それが大人たちの、共通の見解であった。

 灰色だった空はやがて黒ぐろとした色に変わり、やがてみぞれを降らせ始めた。

 ヒィカは私に重ねて、夜の探索を主張した。「夜の仔」探し以前に、ハジの事が気になっての事らしい。彼女は弟がいなくなった時のことを思いだしているようだった。

 しかし、さしもの私も悪天候の元、夜の森に足を踏み入れる気にはなかなかなれず、なんとか彼女を思いとどまらせようと試みた。けれどもヒィカの意志は固く、最後には私が折れる形になった。

「わかったよ。ユジの家を尋ねよう。それでハジが無事だったなら、今日の探索は終了だ。それでいいかい?」

「構いません。今気がかりなのは、あの子の無事ですから」

 すぐに探索は終わるだろう。そう私は考えていた。

 しかしそれは甘い考えというもので、そもそも森を歩くという行動自体、この天候の中ではひどくつらいものであった。降りしきるみぞれは外套に染み込み、私たちの体を芯から冷やした。

 冬の女神が、目覚めようか目覚めまいか、暗く温かな床の中でまどろんでいる。悪天候に痕跡は掻き消され、ハジの行った道は分かりそうにも無かった。

 雨具と防寒具とで着膨れしたヒィカが先を行くのを眺めながら、私は自分が恐ろしく滑稽で惨めな物に思えてならなかった。

 ハジはきっとユジの家で暖炉にでもあたっている。夜の仔などは恐らく、今夜も見つかるまい。

 そもそも、本当に私は夜の仔に遭ったのだろうか? 森に迷った私の見た幻覚でないと、一体だれが保証できる?

 暗い、暗い森が続く。宵闇の王の懐に抱かれている。夜は精霊の領域。死者の歩く時間。今私一人で道を外れてしまえば、きっと今度は助からない。誰にも見つからず、夜の森に眠ることが出来る。

 けれども私は、じっと押し黙ってヒィカの跡を追いかけ続けた。自らの本来の目的を思ったがためでは無い。ただ私は、自分の身が可愛かった。後にも先にも、私の中にあったのはそれだけでしかなかったのだ。

 ユジの家の明かりが見えた時、私は至極安心してしまった。

 安心してしまったことに、絶望を感じた。


 ∵


 ヒィカがどんどんと大きな音を立てて戸を叩くと、中から驚いた様子のユジが現れた。開いた扉から漏れ出した空気に暖められて、冷やされていた顔がずきずきと痛んだ。

「あらまあ、まさかこんなお天気の悪い夜にまで、わざわざお話を聞きに来たわけじゃあないでしょうね?」

「ハジは、ここには来ていないんですか」

 ユジの言葉を殆んど遮るようにして、息せき切ってヒィカが低い声で尋ねた。私がその後ろから、彼がルリと言う娘と喧嘩をして、村を飛び出してしまったことを付けくわえた。

「まあ、それは」

 私は更にたたみかけるように何か言おうとするヒィカの肩に手を置いて、一度落ち着くようにと促した。

「どこに行っただとか、心当たりのあるところはありませんか?」

「さあ……。あの子、よく大人に黙って森で遊んでいたようだから」

 ヒィカが、ぐっと手のひらに爪を立てていたのが分かった。焦っているのだ。

「私たちもう少し、探してきます」

 言うなり踵を返し、ヒィカは元来た道を戻ろうとした。天気がよくなってからにしてはどうか、と言うユジの言葉も、まるで耳に入っていないようであった。

 私はユジに一つ頭を下げると、ヒィカを追いかけた。

「探すったって、心当たりがある訳じゃないんだろう!」

「でも、これでまたハジまで帰って来なくなったら、私は!」

 強い風が吹き始めて、私たちはざわめく木々の音に邪魔されぬよう声を張り上げた。ヒィカは確かに、怯え震えていた。

 と、そこへユジの声がおういと後ろから、追いかけるように聞こえてきた。

 振り返ると、開いた扉からこちらを覗くユジは、私たちを呼ぶように手招いていた。


 ∵


 ハジはそれまで、エシの最後の頼み事を誰にも話した事は無かった。

 絶対に誰にも言わないでね、そんな事を言われた事は何回もあったけれども、ハジはそのどれもを、ずっと大事にしまいこんで、ヒィカにもユジにも言わなかった。

 それがエシの願いだと思ったから、自分が少し苦しい思いをするくらいは我慢してやろうと、そう思っていたのだと言った。

 エシは他の子らのように駆けっこをしたり、森を探検したりは出来ない。けれども沢山の本を読んで、ハジの知らない沢山の事を知っていた。ハジはその頃、エシの話を聞く事に夢中になっていたそうだ。

 ハジもまた、エシに自分の知っている限りの話をした。ユジから聞いた伝説、森の奥に作った隠れ家、ヒィカの仕掛ける獣避けの罠。エシは何度も、「いいなあ」と繰り返した。

「ねえ、お願いがあるんだよ」

 ある時、内緒話をするように、エシはそんな事を言った。

「ぼくも君の隠れ家に行ってみたいな。連れて行ってよ」

 ハジは、一も二も無くそれを承諾した。仲のいい友達に、自分の見付けた隠れ家を自慢できる。大人たちに内緒で、一緒に森の奥に出かける。それはまだ幼い少年にとって、とても心躍るイベントであった。

 決行はその次の日の朝になった。道中食べるおやつや水筒を用意して、こっそりハジは家を出た。その間にエシは、寝込んでいる母親のための薬の用意を済ませた。

 足の悪いエシと共に森を歩く事は、非常に骨の折れる仕事であった。それでも、エシと出歩く事自体が初めてであったために、ハジは終始それを楽しんでいた。

 やがて二人は、ハジの見付けた隠れ家に辿り着いた。それは森の奥にできた洞穴で、大昔に誰かが使っていたのだろう。古い階段の跡のようなものが、ずっと下の方まで続いていた。


 ∵


 夜廻の村の狩人が狩り場として使っているのは、村の北東を流れている川の、向こう岸に渡った場所にある、川に囲われたような形になっている森である。

 その反対、北西の森を抜けた先には切り立った崖が広がっている。その先は海ばかりで、特別何かある訳ではない。しかしその森は、宵闇の王のおわす神聖な場所だと言って、狩りも禁じられており、村の人達はみな近づく事を喜ばない。

 深く根ざした信仰心によるものだろう。夜の仔の探索にあれほど熱心であったヒィカも、そこばかりは近づきたがらない様子だった。

「一度だけ、ハジが森の奥に隠れ家を見付けたんだって、言っていたことがあるの。だからもしかしたら、そこへ行っているのかもしれないわ」

 ユジがそう言って示したのは、その森の奥にある場所の事らしかった。

 みぞれはいつしか本格的な雪に変わり、私は温かなユジの小屋から動かねばならなかったことを、心の底から後悔した。

 北西にいるかもしれない、たったそれだけのあいまいな情報で、実際いるかも分からないのだ。最早森に残された痕跡をたどる事は、狩人であるヒィカにも不可能に違いない。もっと早くに、ヒィカを止めるべきだった。

 闇の中を照らすものは、私とヒィカの持つカンテラばかりである。明かりの周りをさらさらとした雪の粒が舞っている。私もヒィカも、口を開こうとはしない。

 白い息だけ吐きながら、黙々と歩みを進める。時折、思い出したように大声でハジの名を呼ぶ。その声と、木々の音とが、一層辺りの静けさを際立たせる。

 そんな中に、ほぅと、突然場違いに暢気な声が響いた気がして、私は足をとめた。どうにも、聞き覚えのある鳴き声のような気がした。

「どうかしましたか」

 ヒィカが私を責めるように、振り返って声を上げた。

 ほぅ。再び声が聞こえる。ちらりと青い炎が、遠くの木々の向こう側に見えた。すっと背筋を、冷たい手でなぞられた気になった。

「……夜の仔」

「え?」

「夜の仔がいる! あちらの方へ!」

 私はふらふらと、その灯りの方へと歩き出した。

「何を言っているんですか!」

「見えないのか、ほら、あそこにカンテラの灯が」

 私の言葉に、ヒィカは驚いたように私の指す先を凝視した。しかし、いつしか炎は木々に隠れ、遠くへ消えてしまったようだった。

「そんなものは見えませんよ! それに、本当に夜の仔が居たとしても、今はそんな場合では」

「夜の仔は迷った人を導く事もあるんだろう! なら、そちらにハジがいるかもしれないじゃあないか!」

 ほとんど怒鳴るように言うと、私はずんずんとその灯りの見えた方へと進んだ。早く、早くしなければ、置いて行かれてしまう。焦りが再び、私の中で頭をもたげた。

 そうだ、きっとあれはハジの元へ私たちを連れて行ってくれるつもりに違いない。けれど、すぐにでも追いつかなければ、ハジには会えるかもしれぬが、夜の仔は消えてしまうやも知れない。ヒィカの言葉を聞いている暇など無い。早く。早く。

 後ろでまだヒィカは何か言っていたようだが、その言葉は私の耳には届いていなかった。すぐにヒィカは私を説得することを諦めて、私について行くことに決めたようだった。

「……貴方はやっぱり身勝手で、優しくなんかは無いですね」

 それは私に話しかけると言うよりは、殆んど吐き捨てるように言われた言葉だった。

 私は小さく笑って、すばやく後ろを振り返ると、その時の彼女にとっては一番残酷であろう言葉を選んで投げつけた。最早、人当たりのいい人格を演じるだけの余裕は、私にも残ってはいなかった。

「それは君だってそうだろう。君はハジが心配なんかじゃない。もう一度自分の弟のような存在を無くして、それで自分が傷つくのが嫌なだけなんだ」

 その言葉は間違いなく、ヒィカの柔らかいところを刺したらしい。ヒィカは自分のカンテラを見つめて、顔色を青白くして黙り込んでしまった。

 しばらく私は、勝ち誇った顔をしていたに違いない。すぐに前に向き直ったために、彼女にそれを直接見られなかったであろうことだけが救いではあったが、それはヒィカに伝わったに違いなかった。

 そのあとすぐに、突然に森が開け、広場のような場所へ出た事は、私にとって幸いであった。それ以上二人の間に沈黙が続いていたならば、私はまた余計なことを口走ってしまっていただろう。


 下草など好き勝手に生い茂ってはいたものの、それはまるで夜廻の番に使われるあの広場のようであった。私が足を止めたのと同時に、ヒィカが驚いたように後ろで息を呑んだのが分かった。

 夜廻のあの広場と違うところは、森の開けたその中央に、地下へと続くらしい洞穴のようなものがぱっくりと口を開けて、そこで待ち構えていたことだった。

 近づいて覗きこむと、どうやら手をつけられないまま随分と時間が経っていたようではあったが、階段まで作られてある。

「……これが、隠れ家かな」

「でも、中にいるでしょうか」

 恐る恐ると言った調子で口を開いたヒィカに、私は近くへ手招くと、洞穴の奥の方を指示して見せた。

 暗い中に微かではあるが、焚火を焚いていると思しき灯りが、岩陰から零れて影法師を躍らせていた。


 私は顔を上げて辺りを見渡したが、夜の仔のものと思われる青い炎は、どこにも見当たらなかった。


 ∵


 隠れ家だと言うだけあって、そこには随分と沢山の物が置いてあった。どうやらそれまでにハジが、時間を掛けて様々な物を持ち込んだらしい。濡れた地面を過ごしやすくするために、わざわざ木の板など集めて敷いてさえいた。

 ハジは私たちを見て、あっけらかんと

「うわ、見つかった」と言った。

 特に残念そうな訳でもなく、まるでそれを予想していたかのような声音だった。

「よく分かったね。こんな天気で」

 暢気な言葉に、ヒィカは言葉を失ったように暫く口を開閉していたが、やがてつかつかとハジの方へ歩み寄ると、平手を振り上げた。ハジは逃げるそぶりも見せずに、じっとヒィカの事を見つめ返していた。

「ごめんなさい、ヒィカねえちゃん」

 静かに、ハジが言った。

 それは初め、村を飛び出したことに対する謝罪かと思われたのだが、続いて発せられた言葉に、まるで時が止められたかのように、ヒィカはぴたりと動きを止めた。

「エシをあの日、連れだしたのはおれなんだ」

 だらりと、ヒィカの腕が力を無くして落ちた。


 ∵


 ハジ一人でならば、そう時間のかからない行程を、ハジはエシと二人で半日以上を掛けて進んだ。

 ようやく「隠れ家」に辿り着くころには、時間は夕方ごろになっていたそうだ。

「帰ったら夜になっちゃうね」

「平気だよ。おれ、家出するって手紙に書いてきた」

 そんな会話を二人で交わして、その日はそこに泊まることになった。

 外は吹雪きはじめていたが、洞窟の中は外の風も通らず、焚火を焚いて、二人で毛布にくるまり、持ちよった茶と菓子を食べてさえいれば十分に暖まった。

「きっと怒られちゃうなあ」

 そんな事を言いながらも、ハジはこれっぽちも怖くは無かった。

 ただ友達と二人、誰にも邪魔されない場所で好きなことをしている、その楽しさで胸がいっぱいだった。いつまでも、こうして泊まっていられたらいいとすら思った。

 エシも、常日頃から離れられずにいた家から出て、大人のいない場所に居ると言うことを、大いに楽しんでいるようであった。

 しかしその一方、時々ハジの話しかける言葉が聞こえないかのように、じっと天井の暗い隅の方を見つめて居たり、時折嫌な咳をして、何か考え事をしていたりする事が、時間が経つにつれて段々と増えた。

 ハジはその事に気がついてはいたものの、「おじいちゃんに怒られるのが心配なのだろう」程度にしか思わなかった。

 夜遅くまで二人は話を続け、やがて、だんだんと温かな空気に誘われるようにして、どちらからともなく寝息を立てていた。


 ハジが目を覚ますと、エシは既に起き出した後のようで、隣の毛布は空になっていた。

 身体を起して辺りを見渡すと、エシは入口の辺りでぼんやりと積もった雪を眺めていて、ハジが起きた事に気が付くと、こちらを向いて「おはよう」と小さく言った。

「あのね、ハジ」

 ハジが何か言おうとするより先に、エシは微笑みながら言った。

「ハジは一人で帰ってよ。ぼくはここに居る」

 最初、ハジはここにいる事が楽しいから、それでエシがそんな事を言っているのだと思った。だから、それなら自分も残ると言おうとした。

 けれどもどうやらそれは違うようで、エシの蜂蜜色の瞳は寂しい色を浮かべていて、少しも楽しそうでは無かった。

「ぼく、夜の仔に会いたいんだ。それでぼくが夜の仔になっちゃっても、ぼくが誰にも愛されてなかったってことで、それだったら誰も困らないでしょう?」

 そんなはずはないと、ハジは返した。自分はエシの事を好いている。友達だと思っている。だから、誰にも愛されていないなどと言うことは無いと。

 そう返してすぐに、ハジは、間違えたと思った。

 失敗した。何か明確に、決して間違えてはいけないものを失してしまったのだと、強く感じたのだと言う。

 エシは曖昧に笑って、お願い、と言った。

 お願い、ハジ。これで最後のお願いだから。

 きっと、それに頷いてはいけなかったのだろう。

 けれどもハジは、首を横に振ることが出来なかった。無理にでも、引きずってでも連れ帰れば、きっとハジは黙って従ってくれただろう。それでも、ハジはそれを望んでいないのだと、はっきり感じ取れてしまった。

 ハジは、エシを「隠れ家」に置いて村へ戻った。村では丁度、大人たちがエシを探すために森へ立とうとするところで、ハジはエシを知らないかと尋ねられた。

 ハジは黙って首を横に振った。

 ヒィカが青白い顔をして、寒さに凍えながら、祈るように手をすり合わせていた。


 大人たちはエシを見付ける事は出来なかった。

 次にハジが「隠れ家」を尋ねた時、そこにエシの姿は無かった。その代わりに一枚手紙が、食べ終えた菓子の袋を使って書き遺されていた。

『夜の仔は迎えに来なかったから、自分で会いに行くことにする』

「隠れ家」の中には、エシの持ち物は一つも残されていなかった。


 ∵


「おれが、間違えたからいけなかったんだ。きっと、もっと違うことが言えたのに、おれが、ちゃんと止められなかったから、いけなかったんだ」

 しゃくりあげながら、ハジは繰り返した。

 それでも、ハジはエシが救われたのだと思っていたのだと言う。いや、思いこもうとしていたのだろう。

 夜の仔はエシを迎えに来なかったのだと言う。それはつまり、エシは自分が愛されていたのだと、それを知ることが出来たのだ。だから、きっとエシは救われたに違いない。

 そう思いこまなければ、恐らく彼には耐えがたかったのだ。

 そうして自分をだまして、どうにかの所で持ちこたえていたものが、ルリのあの言葉で瓦解した。「誰にも愛されなかったから、夜の仔になった」

 そんなはずはない。そんな訳が無い。エシは愛されていた。だから魂だけでも救われた。そうに違いない。そうでなければならない。

 そうでなかったと言うならば、自分やヒィカがこれほどまでに苦しんでいるのは、一体なんだと言うのか。

 その叫びが、そのままあの「そんなわけがあるもんか」と言う言葉に込められ、ハジは爆発したのであった。


 ヒィカは力なく両手を上げて、ゆっくりと顔を覆った。

 今まで抑え込んでいたものが、ハジの告解をきっかけとして緩やかに氷解しては、止めようも無く溢れだそうとしているように見えた。

「そんな事は、知っていたわ」

 呻くように、ヒィカは言った。

「あの子が自分で、自分の意志で姿を消したことくらい分かる。それをハジ、貴方が手伝ったことだって、少し考えたらわかるわ!」

 それは、悲鳴であった。

 大人の云うことを聞く従順な娘。腕利きの狩人。母親思いの、おとなしい、優しい少女。そうして抑え込んだ仮面の下から、激情が漏れ聞こえていた。

「そんなこと知ってる、知ってるわ! だから知りたくなかった! 聞きたくなんてなかった! いっそ責めてもらえれば良かった! お前のせいで死んだのだって、責め立ててくれたのなら、私はこんなにも苦しくは無かった!」

「ヒィカ姉ちゃん」

「聞かせないでよ! 私にどうしろって言うの! あの子が夜の仔になったっていうのなら、そうして誰にも愛されずにさ迷って、私の事を憎んでいるっていうのなら、私はきっと救われたのに!」

 ヒィカは自分でも、自分が何を言っているのか分からないようであった。

「あなたが悪い訳なんてないじゃないの!」

 ヒィカは叫んだ。

「私が、正しく愛することが出来なかったから!」

 悲痛な声が、洞窟にこだました。


 ∵


 その時、私は殆んど彼らの会話を聞いてはいなかった。

 私はその時、ある一点に気が付いて、そちらに視線が釘付けになっていたのだった。

 それは一際灯りの届かない、暗がりの奥にある壁のくぼみであった。そこには形が崩れ、人の手から離れてかなりの年数が経過したであろう、偶像のようなものが納められていた。

 私は入って来た階段を振り返り、再び壁のくぼみへ眼をやった。ハジが作ったにしては、彼の持ち物などがまとめてある場所から離れ過ぎている。

 表の広場、古びた階段、そしてある程度ハジが手を加えたと言えど、いやに居心地の良い洞穴、壁のくぼみに祀られるように置かれた像。

 私は会話を交わすハジとヒィカの後ろを、ゆっくりと迂回するようにして、そのくぼみの方まで歩いた。

 そこまで歩くと、焚火の明かりが唐突に、はるか遠くの方へ遠のいたような感覚があった。その一角だけが、暗い中に沈んでいた。

 ぞくぞくとするような心地を感じながら、私はくぼみに手を伸ばそうとした。その時だった。

 強い冷風が、洞窟内をびゅうと吹き渡り、あっという間に焚火を掻き消した。丁度ヒィカが何か叫んだところだったのだが、話は中断され、驚いたような声が二人の方から上がった。

 仕方なしに、私は二人に声をかけた。

「大丈夫かい? とりあえず、話は一度置いておこう。火をもう一度つけた方がいいね」

 しかし、二人は私の声等届いていないように、入口の方を向いて固まっていた。

 私もそちらを見た。そして、息の止まる様な心地がした。

 そこには、神々しいまでに美しい、白い女性がいた。

 足まで覆う分厚い毛皮の外套をまとい、長い髪を垂らし、柳眉をひそめて、じっと眼を伏せている。その足先から髪の一筋にいたるまで、全てが空恐ろしい程の白に染まっていた。

 その傍らには、あの夜の仔が梟のヨキと共に、神妙な面持ちで控えていた。

 吹雪は未だ止まず、むしろより一層激しく吹きすさんでいると言うのに、辺りは月光を浴びたように、白銀に光り輝いていた。

 誰も、何も言うことが出来なかった。

 洞窟の中は真っ暗な筈であったが、私たちは互いの表情をよく見る事が出来た。ヒィカもハジも、今にも泣きだしてしまいそうな幼子のような顔で、夜の仔を見つめていた。

 白い女性は、ゆら、ゆらと揺れていた。

 まどろんでいるのだ。何故だかわからないが、そう私は確信した。起きるか起きまいか、温かな布団の中でうつらうつらとするように、彼女は今まどろんでいる。

 彼女は裸足で雪を踏みしめ、時折うっすらと口元に笑みを浮かべた。その様は幼い少女にも、幾年をも経た老婆にも見えた。

 そうして彼女はすっと、その白く細い指先を持ち上げて、夜の仔の方へ手を伸ばそうとして、次の瞬間にはだらりと腕を垂らしてしまうと、満足げな息を吐くとすぅと白くかすんで、雪に散って溶けてしまった。

 気が付けば、あれほど激しさを見せていた雪はやんでいた。


 ∵


 夜の仔が、ゆっくりとこちらを向いた。少し呆れたような表情で、私たちを見ていた。

「またお前か」

 恐らくその言葉は、私に向けられたものらしかった。しかしすぐに、彼の視線は興味を失ったように逸らされた。

「まあ、何だっていいがしかし、宵闇の王の閨で火を焚くどころか、あまつさえ王に手を伸ばすなど、まったく随分と不敬なことだな」

「あ、あなたは……」

 ヒィカが喘ぐように言いながら、ふらふらと夜の仔の方へ近づこうとした。

 しかし、足が震えていて、上手く階段を上ることが出来ないらしい。二三歩近づこうとしてつまづき、その場に倒れ込むように崩れ落ちた。

「なんだ、随分と探されていたから、もう少し喜ばれるかと思ったんだがな」

 まるでからかうような口調でそんな事を言うと、同調するように、その腕に停まっているヨキがほぅと鳴いた。

 ヒィカもハジも、何事か言わんとするものの、言葉にならないらしい。仕方なしに私が声を上げた。

「あんたは、エシなのか」

「うん?」

 問うと、夜の仔は以外そうな顔で目を瞬かせた。

「なんだ、分かっておらなんだか。……いや、それもそうだな。分かっておったら、お前なぞ私を探そうとはしなんだろうからな」

 ほんの少し、寂しそうな色をにじませて、夜の仔は笑った。何故だか私は酷く嫌な予感がして、酷い悪寒が背中を這いあがるのを感じていた。

「安心しろよ。私はそこな狩人の娘の、弟などでは無いさ」


 ∵


 精霊とは、すなわち大いなる自然を擬人化したものである。

 太古、暖かな洞窟の暗闇を見て、冷たく厳しい冬と、優しく全てを包み込む白雪を見て、それを経た後の春を見て、人々は偉大なる存在をその中に夢想した。それが信仰と言う形をとり、精霊を生み出した。

 精霊が世界を生み出したのではない。

 世界が先にあった。そこに人が生まれた。そうしてその人の子が、精霊を生み出したのであった。

 信仰とは、生ある物のためにある。

 親しい者の消失を受け入れるために。自らがいずれ落ち込む深い闇を理解する為に。生きている限りは到底知りえない、遠い彼岸を想うために。

 それらを思考するのはやはり、生者にほかならないのだ。


「我らに在り方を示し、心を与え、血肉を与えたのはお前たちだよ、人の子」

 夜の仔は言った。

「私や女神どのがこうして在れるのは、お前たちがそういうふうに考えたからなのだよ。

 愛されなかった者への手向けとして、愛することが出来なかったという悔恨として、私の姿を想像したものがあるから、だから私はお前の弟の姿を取っているのだ、狩人の娘よ。

 夜の道に迷う旅人の前に現れる物として、死者の魂を冥府に導く物として、お前たちがそう認識するから、私はあの夜、お前の前に現れたのだよ、旅人どの」

「では、あれほどまでに探して、現れてくださらなかったのは、何故ですか」

「我らは非常に不安定な存在として、この世に在る。かつて隣人として、当然のように我らが人の子の隣に現れる事が出来たのは、人の子がそういう物として、我らを信じていたからだ。

 しかし、今やお前たちは我らをかつてほど信じてはいない。だからそう簡単には姿を現す事は出来ないのだよ。

 冬至の祭りの近付いた、吹雪の夜。そして、お前たちはかつて、宵闇の王を奉ったその祭壇に居る、それがために我らは、ようやく姿かたちを表す事が出来たのだ」

 私はその時、何故だか震えが止まらなかった。

 しかしその震えは、かの人に会えぬかもしれぬと言う恐怖とは別の所から生じているように思えた。

 その時の私にはそれが、一体どこから生じるものか、皆目見当がつかなかった。ただ頭の中で、何か強い警鐘を発している者があった。

「それでは、……それでは、死者に会うことが出来ると言うのは、やはり噂に過ぎないのですか。僕のやって来た事は、無駄であったと、そう言うのですか」

 尋ねてはいけない! 尋ねてはいけない!

 それは明らかに、私の中の不透明な柔らかい部分から発せられた、本能的な物に違いなかったが、それでも私はその問いを口にしない訳にはいかなかった。

「無駄では無いさ。お前がそう願うのなら、確かに死者には会うことが出来る。我らは人の子の心の、写し鏡のようなものなのだから」

 夜の仔の言葉は、いっそ残酷とも言える程の優しさを持って、私を打ちのめした。

「しかし、不思議なのだがね、旅人どの。お前は一体、誰に会いたいというのだ。

 我らはお前たちの写し鏡である筈なのに、お前のこころから写し取れるその愛しい人は、まったく顔が分からない」

「……は、それは勿論」

 応えようとして、私は言葉につまった。それは私にとって、致命的な問いであった。

 さあっと顔から、血の気が引くような気がした。前触れもなしに勢いよく頬を張られたような、そんな心地がした。

 私の会いたかった「かの人」とは、誰なのか。

 無論、カイだ。そうに違いない。優しく、穏やかな人当たりの良い、センリの「親友」。

 否、違う。カイは我儘で横暴で、酷い男だった。ろくな噂が流れず、夜な夜な遊び歩いていた。

 ではあれは誰か? 私の夢に立ち現われる「かの人」は。私が自らを投げうってまで再び会わんとする、死者は。

 私は誰だ。一体、この私は。この記憶は。

 ヒィカの声が、頭の中にガンガンと木霊する。

「誰かの真似をしているだけだわ。優しい誰かの真似をして、優しくあろうとしているだけ」

 私はそこで何かを叫び、意識を失ってその場に倒れ込んでしまったようだった。


 ∵


 カイという男がいた。

 彼は灯籠の街、その街長の一人息子として生まれた。美丈夫ではあるがひどい放蕩者で、彼の両親もまるでそれを持て余していた。夜な夜な街へと繰り出してはよからぬ遊びにふけり、彼の周囲にはいつでも、碌でもない噂ばかりが飛び交っていた。

 しかし実際の所、彼の両親を悩ませていたことは他にあった。彼は男色家であったのだ。

 あるとき彼は、街で行われる祭りの話し合いだと言って家に招かれた幾人もの客人の中から、一人の若い灯籠職人を出会った。その職人の名は、センリと言った。


 灯籠の彫り方が思い出せぬのも道理だ。そもそも私は、灯籠を自ら彫ったことなど一度たりともなかったのだから。私に作れるのは、せいぜいが土産物屋で売られた観光客向けの、簡易な絵灯籠で手いっぱいなのだ。

 私はセンリでは無い。

 放蕩者で、我儘で横暴で、碌でもない噂ばかり飛び交う、灯籠の街の街長の一人息子。

 私の名前は、カイだ。

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