夜廻の村
冬と暗闇を主神とした神話が作りたかったので、書きました。
ずいぶん前に書いたものです。主軸ではありませんが、同性愛要素があります。
夜の仔は、獣の角が生えた子供の姿をしている。カンテラのついた杖を持ち、分厚い外套を着込んで、梟を一羽連れている。
夜の仔は、死者を迎える。死んだ人の魂を迎えて夜の向こうへ連れて歩く。青い炎で身体を燃やし、自由になった魂をカンテラで導く。
夜の仔は、望まれない子をそっと取り上げる。お金のない家、妾の子、かたわの子、親に愛されない子。皆連れて行って、その子供はやがて夜の仔になる。
∵
私という人間が辿った道筋を語るには、何をおいても先ず、夜の仔の物語を語らなければなるまい。
北の端、森を抜けた先、夜廻の村に伝わる神話。
あの頃の私は現実というものから逃げ回る、幼子のようなものであった。
ただただ己の稚拙さから目を逸らすために郷里の街から逃げ出し、しかし消え入りたいほどの悔恨と悲哀の情を処理する手立ても分からず暗夜をさ迷っていた私に、あの精霊はその物語の伝える通り、道を示し導いてくれたのだ。
未だ私は、あの当時を鮮明にまぶたの裏に思い起こすことが出来る。語り部の息子ハジ、狩人の娘ヒィカ、彼らの姿を思い描くことができる。何をも得ることが出来ず徒労に終わったあの行路は、確かに私たちには必要不可欠なものだったのだろう。
私が語るのは、今にして思えばこうであったという回想である。当時の私の中身はこれほど整ってはおらず、感情も思考も混乱の局地にあったと言っても良い。記憶は混濁し、ほとんど狂人のようでさえあった。
白い雪に塗り潰された、あの小さな村の事を想う。
私はあの時、ようやく自分というものを手にすることが出来たのだ。
∵
夜の仔について記す。
夜の仔という精霊は、北端にある夜廻の村という場所で語り継がれる古い伝説である。
かの村は一番近い人里からでさえ、深い森を抜けねば辿り着くことの出来ない場所にあり、その立地のせいもあってか、古くからの特異な信仰が今も根強く残っている。その中でも特徴的なものが、夜の仔と呼ばれる精霊の存在だ。
太古、世界は暖かな闇に包まれていた。父なる宵闇の王が世を総べており、幾柱かの精霊は産まれていたものの、生ある者は少なかった。
ある時、宵闇の王は伴侶を求めた。そうして闇の中にひとかけの雪が落ち、そこから冬の女神が生まれた。
冬の女神は慈悲と慈愛の母なる性を持ち合わせ、多くの生き物と精霊を産んだ。宵闇の王が統べる世界はあの世となり、冬の女神の統べる世界がこの世となった。
ある時女神は、やせ細り弱る獣の子を見殺しにする親を見た。
女神は問うた。
「なにゆえお前は、自らの子が弱り果てているのに助けようとはしないのか」
獣は応えた。
「女神さま、それは世界があまりに寒く、生まれつき弱い子を養うほどにわたしに力が無いからです」
またある時女神は、人が自らの産んだかたわの子を殺すのを見た。
女神は問うた。
「なにゆえお前は、自らの子を自ら殺すような事をするのか」
人は応えた。
「女神さま、それはあまりに世界が寒く、働けぬかたわの子を養うことは出来ないからです」
それを聞き、女神は大いに悲しんだ。冬の女神の慈愛は、生ける者にはあまりに冷たすぎたのだ。
女神は死んだ獣の子の角と人の子の身体を使い、最後の精霊を産んだ。また、夜目が効かぬ人の子供の身体の為に、梟を1羽連れ添わせた。
それが、夜の仔である。
女神は夜の仔に告げた。
「お前たちは、死出の旅路を導くものとなりなさい。そうして、私を冥府へと導いてください。せめて、私が冥府へ留まる間は世が暖かくあれるよう」
けれども女神は、この世を統べるという仕事があったために、一年の半分は蘇って、この世の様子を見にこなければならなかった。
だから、女神が冥府の闇の中、宵闇の王の閨で眠りにつく間だけこの世は春となり雪が溶けるが、女神が目を覚ましている間は、この世は女神の慈愛の雪に包まれ、冬となるのであった。
以上が、夜廻の村に伝わる創世神話である。
すなわち夜の仔は、死を司る精霊である。この精霊は獣の角が生えた子供の姿をしており、大きな梟を連れ、カンテラを持って夜の森を歩いて回る。そのカンテラで以て死者の魂を導き、浄化する役割を担うのだという。
その姿は夜の森に対する畏怖を象徴するものであり、また、口減らしなどで夜の森へと棄てられた幼子への、悔恨の念が込められたものなのだろう。
この信仰から、夜廻の村では非常に特殊な形態の葬儀が行われる。
死者が出ると、大人たちは一処に集い、数日間の物忌を行う。その間に夜廻の番に当たるための、六歳から十歳までの子供を一人選出する。選ばれる子供は必ず、村の中で死者とは一番縁遠い者でなくてはならない。そうでなければ、「自分の死は悲しまれなかったのに、何故この者は」と、夜の仔の不興を買ってしまうからだという。
選ばれた子供は、言い伝えの夜の仔の姿を真似て鹿など獣の角を頭に着け外套を身に纏い、梟を一羽連れ、カンテラのついた杖と死者の形見を持って、夜の森で一晩を過ごす。こうして夜の仔に、死者の魂を見つけてもらいやすくするのだ。
そして番に当たった子供は、夜の森を歩くことで夜の仔の灯を分け与えてもらい、夜明けと共に村に戻ると、そのカンテラの火で死者の身体を焼く。こうすることで、死者の魂は清められ、夜の仔に連れられ宵闇の王の懐で眠りにつくことが出来る。
夜の森を子供ひとりで過ごさせるという事で、ある種のイニシエーションとしての役割もあるらしい。この儀は雪の降る冬であろうと行われ、この独特の葬儀こそが、夜廻の村という名の由来である。
また、夜の森で迷った時、加護を与え、正しく導いてくれるのはやはり夜の仔である。口伝の民話として伝えられる話には多く、道に迷った旅人を夜の仔が救ったという話が残されている。
∵
祖母は北の出身で、外から私の生まれ故郷である燈籠の街、その生まれであった祖父に嫁いできた人だった。祖父が若き日に旅をした際見初めて、そのまま連れてこられたらしかったが、それは必ずしも彼女の意志が反映された物では無かったようだ。彼女は度々遠い郷愁を漂わせ、生まれ故郷の話をした。
その中の話の一つには、深い森を抜けた先にある、不可思議な村の物語もあった。
曰く、北の森の奥では、死んだ人に会うことができるという話がある。
あの頃の私は、ある種の錯乱状態に陥っていた。
かの人を亡くした事への悲しみと自責の念。唯でさえ好きではなかった郷里の街が、酷く厭わしいものに思えてならず、私は生まれ育った街を飛び出した。そして、幼き日に祖母が寝物語に語ってくれた、死者に会えるというその土地を目指すことにしたのだ。
途中通った数々の土地についての話は、ほとんど割愛する。
と言うよりは、当時の私には目的以外のことをじっくりと観察し、感情を動かすだけの余裕が無かったのだ。
光り輝く硝子の街の美しい海辺や、その名に反し鮮やかな音色に満ち満ちていた音無の村、嵐の中唯一点に夕陽のさす晴れの街の素晴らしい黄昏時など、思い返すだに、何故もっと長い時間を掛けて滞在しなかったのかと、未だ後悔に襲われる。
けれど私は、悦ばず立ち止まらず振り返らなかった。
ただ亡き人を想い、自らを叱咤して、足を進めた。真実の保障されないお伽噺を追いかけるためだけに、私は北を目指し続けた。
∵
一度だけ、足を止めた街がある。
物語の街と呼ばれるその場所は名の通り、児童向けのお伽噺から最新の小説まで、ありとあらゆる物語が蒐集された街である。この場所に無い物語は無いとまで言われ、膨大な書棚が街中所狭しと並べられて、小説家を志す者や脚本を探す演劇役者など、様々な人がやって来る。数世紀前に、とある文学者が作り上げた街だと言う。
ここでは火の気が何より忌嫌われる。煙草はもちろんの事、料理に使う火まで規制されて、食べるものは他の街から運ばれた、既成の干物や瓶詰の漬物ばかりである。当時の私にとっては煙草を制限されるよりも、朝昼夜全ての食事が干物というのが、なんとも苦痛であった。
その街には二週間ほど滞在し、寝る間も惜しんで書物の山を掘り返しては、死者の蘇りに関する物語や言い伝えを探し続けた。
結局見つかったのは、人体についての怪しげな研究ノートのような体を取った小説やら、つい最近囁かれ始めたとしか思えない若者達の噂話など、つまらぬ物と、ほんの少しの夜廻の村についての記述ばかりであった。
「えらく必死ですけども、何を探してらっしゃるんですか?」
宿の主人に、そんなことを聞かれた気がする。なんと応えたかろくに覚えていないが、私はきっと馬鹿正直に、死んだ人に会いたいのだ、などと言ったのだろう。私の言葉に彼は、寂しそうに笑ったように思う。
「死んだ人は帰ってきやしませんよ。だって、死んじまったんですから」
果たして、その通りだったのだろう。
∵
夏も終わり、秋頃になるだろう。故郷を出たのが夏の盛りの時期だったのだから、実に一月以上が経っていた。
出立から既に随分と時間の経ってしまったことに気付いて、私は焦っていた。
夜廻の村に一番近いという村に辿り着いたのは、夕方の事だった。祖母の生まれ故郷だと言う村が、どうやらそこらしかった。話に聞いた面影をそこかしこに認め、出てきた故郷を思い出さずにはおれずに、私はなんとも嫌な気分を味わった。
会ったことも聴いたこともない遠い親戚を、いきなり頼る気にはなれない。ごく普通の旅人として、村唯一の宿に泊まろうかとも考えたものの、その妙な懐かしさが私を追い立てたのだろう。
宿に入ると、髭面のでっぷり太った宿の主人が暇そうに欠伸をしている所だった。私に気付くと、主人は嫌な愛想笑いを浮かべて私を見た。
「おや、この時期に旅の方とは珍しい。お泊まりですか?」
「いや、夜廻の村までの距離と、行き方を教えてほしい」
何のためらいもなく私はそう言った。主人は時計をチラと見て、私を見て、正気を疑うような目をした。
随分と止められた気がする。けれど最後には、あんまり私が聞かないものだから、とうとう主人の方が折れるに至った。
そうして、私は日の暮れかかる森に足を踏み入れ、迷った末に真夜中、夜の仔と出逢ったのであった。
それを考えると、焦っていた事が多少は良い方へ働いたと考えるべきであろうか。
森は針葉樹が生い茂り、時折鹿や猪などが駆ける気配を感じた。教えられた道は、途中まではある程度整備されていたものの、段々と草が真ん中に茂るようになり、細く細く、人の通る道というよりは、獣道と言った方が正しい様な風体を成し始めた。
日は暮れ、どんどん視界は暗くなってゆく。
旅の習いとして持ち出していたカンテラは、しっかり握ってはいたものの、いささか心もとなかった。黒ぐろとそびえる木々は何か、得体の知れない化物のように見える。
ここは魔物の腹の中で、私は呑まれたあとなのかもしれない。
子供じみた空想が頭を巡りながらも、私は歩き続けた。
そうして気がつけば、獣道と呼べる程の道すら見当たらなくなり、どうやら私は暗い夜の森で迷ったらしいということを認めざるを得なくなった。
青白い月と、カンテラとで、手元は銀色に薄ぼんやりと浮かび上がっていた。しかし数歩先は、見通すことも叶わない闇に沈んでいる。深い水中へ潜ったなら、こんな風に見えるだろうか。私は途方に暮れて、その場へ立ち尽くした。その時だった。
ふと視界の端を、何が光るものが過ぎった。水音も聞こえないのに、蛍でもいるのか。それとも、存外川が近いのかもしれない。
私はその方向を見やった。
蛍ではない。青い光が、夜の木々の間に揺らめいている。月の光はそれなりの明るさで差し込んでいるものの、その光の方はやけに薄暗く、正体を判じることが出来なかった。
目を凝らしながら、私はゆっくりと近づいた。
まさか、人魂の類ではあるまいか。死者に会えるという土地だ、ありえないことでもあるまい。ゆらゆらと揺れながら、青い光は段々と遠ざかっていく。
それにしても、その動きがどうにも人工物臭く思えて、私は慌ててその後を追った。
「お、おいちょっと! 待ってくれ! 人なのか?! 人ならば返事をしてくれ!」
そうだ、あれは確かに、カンテラの灯だ。杖にでもぶら下げているのだろうか。上下に動きながら横に揺れながら、遠くへ向かう。燐でも燃しているのだろうか。炎は真っ青だった。
どのくらい追ったかわからない。大した時間ではなかったのかもしれないが、私にはまるで永遠のように思える恐ろしい時間だった。
これが人魂なら、もう随分道に惑わされてしまっている。そろそろ沼にでも出て、溺れ死ぬのではないだろうか。そんな不安に、私が囚われそうになった時だった。ばさりと大きな羽音を立て、梟が私のすぐ横を通り過ぎて行った。思わず私は、悲鳴のような声を上げた。
ぴたりとカンテラの動きが止まりふっと、杖を握っていた人物がこちらを振り返ったのがわかった。そこでようやく、私はその人物の正体をはっきりと見ることが出来た。
十も行くか、行かないかくらいだろう。それはまだ、年端も行かない少年だった。
彼の頭部には、山羊か何かだろうか。捻れた大きな獣の角が2本、生え揃っている。雪国とはいえ夏だと言うのに、分厚い外套を着込んで、夜のような短い黒髪に、透きとおるような蜂蜜色の目をしていた。
夜の仔だ。すっと脳髄が冷えるような心地になった。
私のすぐ横を飛んで行った梟は、すっと伸びたその少年の腕に止まり、ほぅと一声鳴いた。その声はどうにも、私を馬鹿にしているように聞こえた。
「旅人と見えるが、このような場所で何をして居られるか」
はじめ私は、その声が目の前の少年から発せられていることに気が付かなかった。
たしかにその声は、声変わりを迎える前の高い、あどけない色こそは残していたのだが、それにしても、少年にしてはあまりに落ち着いた、深い声音をしていた。
「夜は精霊の領域。死者の歩く時間」
「……あ」
夜の仔。死者の国の案内人。春を連れ来る子供。
「狼に食われるぞ」
私が探し求めていた精霊。それが目の前に、立っている。私を見下ろしている。
「み、道に、迷って」
「……ヨキ」
どうやら少年は、梟の名を呼んだらしかった。
「仕事が増えても面倒だ。案内しやれ」
ほぅとまた一つ、梟が鳴いた。ばさり、羽音を立てて、梟は私の方へ飛び来た。再び情けない声が出た。
先程はあまり気にしなかったが、どうも羽を広げると、少年より一回り大きいくらいらしい。それを腕に止まらせて、平然としていた少年も只者ではない。
梟はまた、馬鹿にしたように幾度か私を羽で打つと、すいと向こうへ飛んで行ってしまった。あっけに取られてそれを見送っていると、
「何をしている」
呆れたような声が聞こえた。
「何のための道案内だ」
「あっ、いや、待ってくれ、その」
死者に会う。会える。黄泉路を案内する精霊。目の前に、それがいる。
けれど私は、すっかり混乱してしまってまともに口をきくことができなかった。
「ヨキが見えなくなってしまうぞ」
その声に背を押されるように、ふらふらと私は梟を追い始めた。
ふと思い出して振り返ると、カンテラの火はとうに木々の間へと消えてしまっていた。
∵
ハジについて記す。
彼は当時、九歳だったように思う。それとも、もう少し幼かっただろうか。いずれにせよ、あの日夜廻の番に当てられていたことを考えれば、六から十歲の間だったはずだ。
鳶色の髪と瞳が落ち着き無くきょろきょろとあたりを見回して、好奇心の旺盛な子供であった。
ハジの家は語り部の家系だった。だから夜廻の村の信仰については恐らく、村の子供の中では一番と言っていいくらい詳しかったし、その重要性についても理解していた。
しかし、それと同時に彼は幼い少年だった。年相応に、慣習というものへの反発と不満を抱いており、夜廻の番に当てられたことは大いに気に食わなかったそうだ。
「だいいち、古くさいだろ、そんなの」
子供らしい口調で、彼は私に文句を言った。
「夜の森って危ないだろ。そんな所にいつまでも子供ひとりで歩かせるなんて、おかしいんだよ」
とは言え、それは幼い愚痴の域を出なかったのだろう。私と出会った時、彼は至って真面目に夜廻の番をこなしている最中だった。
これは後から、本人に聞いた話である。
その晩ハジは、夜廻の番に当たっていた。その時亡くなっていたキリコという老女とはほとんど面識すらなく、最も関係が遠いと判断されたからだ。
ハジは、夜の仔の番などやりたくは無かった。
じっとしてくれない梟の紐を引き、「大人しくしてろよ」等と恨み言を呟く。
話し相手など居ない夜の森だ。少しでも気を紛らわそうと、梟に話しかけた。当然だが、梟から応えは無い。くるっと首を回して、あらぬ方向を見つめるばかりだ。
喋らない相棒に、持ち物は一昨日死んだ婆さまの形見とカンテラ一つ。着ている外套は分厚くて、いくら雪国の夜でも夏には暑すぎる。つまらない。つまらないし、イライラする。ハジはぐっと足元の草を引っこ抜いて、そこらに放り投げた。
じっと何もせずに居ると、恐ろしげな空想ばかり次から次と浮かんでしまい、怖くなってしまう。かと言って、夜の森で大声を出すわけにも行かない。ぶちぶちの草を引き抜きながら、もう一度梟の紐を引っ張った時だった。
ばさり、と大きな羽音がした。
ほかの鳥でもいるのだろう。随分大きいようだ。相棒として連れているのは梟と言っても、小鳥ほどの大きさしかない。ヘタをすると食べられてしまうかもしれない。慌てて近くへ引き寄せる。
もう一度、ばさり。今度ははっきりと、がさがさと茂みを掻き分ける音も聞こえてきた。
なんだろうか。何か、近づいてくる者がある。まさか、本当の夜の仔ではあるまいか。恐る恐る、後ろを振り返る。すぐ後ろは小さな壁のようになっていて、ハジの身長ではあまり向こうを見通すことが出来ない。
と、人影がぬっと現れた。ぎょっとして、ハジは身をひこうとする。夜の仔ではない。見知らぬ大人だ。旅装束に大荷物を背負って、男にしては長い黒髪を後ろへ束ねている。
情けない声を上げながら、その人物はハジの身長位あるその段差から、けつまづいて落ちてきた。
∵
ヨキはほとんど、私を待ってはくれなった。
いや、それなりに減速はしていたのかもしれない。それでも梟の羽と人間の足では、天と地ほどの差がある。おまけにこちらは、顔の高さの枝葉を除けながら進む必要がある。顔を枝に打たれないよう払いながら、どんどん先へ先へと飛んでいくヨキの後を必死に追って居ると、私はふっとヨキを見失ってしまった。
なんて事だ。こんな森の奥で置いていかれたら、それこそ道を引き返すどころか先へ進むこともままならない。もしやこのすぐ先に村でもあるのか。そうで無かったら自分はここで野垂れ死にする他無いのではないか。
冗談ではない。やけになってヨキの消えた方へ進んでいくと、ふとカンテラの火が見えたような気がした。
森を一周して帰ってきたわけではなかろうか。まさか、からかわれた?そんなことを考えて、一瞬怒りのようなものすらこみ上げた。
その次の瞬間、地面が消えた。
慌てて踏みとどまろうとすると、また、羽音。そうして、背中に大きな衝撃が来る。ヨキが後ろから、思い切り私の背中を蹴ったらしかった。情けない声を上げて、私は段差の先へと飛び込むことになった。
落ちた先は、少し開けた広場のようになっている場所だった。人工的に場所を空けたような、空き地が広がっている。受け身を取り損ねて、私は強かに鼻を打った。それなりの高さがあったようだ。打ちどころが悪ければ、死んでしまいかねない。
後ろの方で、ヨキが飛び去っていく音が聞こえた。主人の元へ帰るのだろうか。痛みで半ば涙目になりながら、私は顔を上げた。獣の角を頭につけた少年が、訝しげにこちらをのぞきこんでいた。
「あんた、誰?」
その怪訝そうな声を聞いて、私は目の前の少年が先程とは丸きり別人であることに気がついた。
年相応の声に、着古したようなボロの厚い外套、カンテラの火はただの炎の色をしているし、よく良く見ると梟も連れてはいるが、小鳥ほどの大きさでしかない。頭についた角は、どうやら付け角らしい。大きさが合っていないようで、今にもずり落ちてしまいそうになっていた。目の色も、よくは見えないが茶色をしている。
年相応の幼さが見える、至って普通の少年のようだった。
「ええとその、道に迷ってしまって」
「こんな所で?」
「旅の途中だったんだが、森を抜けられなくて」
「この先行っても、おれのとこの村しかないよ」
「ああ、多分そこだ。夜廻の村だろう?」
「そうだけど」
どうにも怪しまれているらしい。少年の視線は完全に、不審者を見るそれであった。ここで逃げられてはかなわない。慌てて私は名乗った。
「僕はセンリだよ。南の、灯籠の街から来た。君の名前は?」
「…ハジ」
警戒を隠そうともせずに、ハジは応えた。
「じゃあ、ハジ、朝になったらでいいから、よければ村まで案内してほしいな……今は、夜廻の番の最中だろ?」
「そうだけど……何しに来たの? おっさん」
少年の辛辣な物言いに苦笑しながら、私は嘘をついた。
「僕は、人の信仰に関しての研究をしているんだ。ぜひ、村で直接お話を聞きたくてね」
焦る必要は無いのだ。伝説を、つい先頃目の当たりにしたのだから。必ずやまた精霊と出会う術があるはずだ。そう確信することが出来たことで、私は少し落ち着きを取り返していた。
まだ疑いの目は抜けないようだったがそれでも、ハジは納得したようだった。独特な信仰に興味を持つ客人は、それなりに多くいるらしいという、一つ前の村で聞いた話が役に立ったようだった。
「番が終わるまでは帰れないんだろう。それだったら、一緒にいてもいいかい? 今からまた歩いても、また迷ってしまいそうだし……それで、良ければ色々と教えて貰えると嬉しいな」
思い立って、カバンから食べ物の包を取り出す。さっきの宿で貰った干肉があったはずだ。水筒にも、甘く味付けした茶が入っている。
「大したものじゃないけど、食べ物と飲み物もある」
「……まあ、それなら別にいいよ」
小さな梟1匹と少年1人とで過ごす森の夜は、やはり心細かったのだろうか。センリの提案に、ハジはどこか安心したように頷いた。
語り部の家の子であるだけあって、ハジは沢山私に話を聞かせてくれた。多くは彼の祖母の受け売りのようではあったが、門前の小僧なりに結構な知識を蓄えていたらしい。夜が明けるまで、話は尽きる事が無かった。
私も、問われるがまま、旅先で訪れた街の話をいくつかした。ろくに立ち止まりもせず、深い感慨さえ覚えずに通りすぎただけの土地の話であっても、北端の村から外へ出た事のない少年には、この上なく興味をひかれる事象であったらしい。ハジの瞳はカンテラの灯を反射して、きらきらと輝いて私を見つめた。
そうして夜を通してほつり、ほつりと語り続け、やがて陽が昇ろうという時になると、ハジは小さな梟を腕に乗せると、村へと歩き始めた。
どうやら夜廻の番に廻らなければならない場所は、村人の手によって整備されていたらしく、私が苦心してたどった森の道とは大違いで、非常に整っていて歩きやすくなっていた。
朝を間近に迎えた森は、うっすらと霧を湛えて濃い緑の匂いに満ち満ちていた。まだ暗い足元を、ぼんやりとハジの持つカンテラに照らされ、「夜の仔」の後ろをついて歩いていると、またあの夜の森に舞い戻ったような心地がして、酷く現実離れしているように思えた。
歩きはじめると、ハジは言葉少なになった。私も自分から敢えて語りかける事は無く、ただ黙々と歩を進めた。
さくさくと草葉を踏みしだく音を聞きながら、やがて私は乳白色の霧の向こうに、ぼんやりと赤い火を灯す村を見た。そうして村の入り口で、猟銃を構えてじっとこちらを見つめる、夜のような黒髪をおさげに結んだ、蜂蜜色の瞳をした少女を見た。
少女はどうやら、夜廻の番に際して村の入り口付近の広場に置かれる遺体が、獣に襲われぬよう番をしていたらしかった。
彼女はちら、と突然の来訪者に戸惑うように私を窺ったが、すぐ気を取り直したように、深々とハジに頭を下げた。構えていた猟銃を完全に下ろして、ハジのために道を開ける。どうやらハジを完全に「夜の仔」に見立て、敬意を示しているらしい。
少女が道を譲ったすぐそこに、目を閉じ、両手を組んだ老婆の身体が、いくらかの焚き付けと共に横たえてあった。
ほんの少し緊張したように、ハジが遺体の方へと進み出た。ゆっくりとカンテラから火種を取り出し、しゃがみ込むと、それを焚き付けへと灯した。小さく上がった炎の舌が、てらてらと藁や小枝を舐めると、それはあっという間に老婆の足元へと到達し、衣服を伝いはじめた。
ハジも少女も、祈るように目を閉じ、うつむいていた。そんな景色を、私は目を離す事も出来ずに、じっと食い入るように見つめていた。
∵
信仰とは生ある者のために在る。
親しい者の消失を受け入れるために。自らがいずれ落ち込む深い闇を理解する為に。生きている限りは到底知りえない、遠い彼岸を想うために。それらを思考するのはやはり、生者にほかならない。
私の故郷である灯籠の街では、多くの職人が灯籠を彫り、春と秋の二度ある祭りに灯す。それらに灯されるあかりは、死者を弔う鎮魂のための火ではない。
そのあかりは、生ある者たちの想いを弔うのだ。
届かなかった声、諦めた感情、それらを弔い、慰め、乗り越えるための祭りが、灯籠の街の眩いばかりのあかりに込められる。
故郷を出るに当たって、私は自分が作った小さな絵灯籠を一つ持ち出していた。
自分の感情を弔うために作った灯籠を、いつまでも自分が持ち続けることは良くないこととされる。弔ったはずの感情に囚われ、溺れきって、正気を失ってしまう、などという話すらある。
しかし、私が絵灯籠を持ち出したのは、その感情を忘れないためだった。
想いを弔うつもりなど無かった。自分を過去に縛り付け、決して許さず、逃がさぬつもりで、私は絵灯籠を常に枕元へ置いて眠った。目が覚めて枕元にその光を見ると、酷く安心した様な心地を感じた。
村に着いての一日目は、森を抜ける前あれほど焦っていたのが嘘のように、半日ほどを寝て過ごした。森を歩き通したのと、ようやく目標物が目前に迫って来てくれたことへの安堵で、一度に気が抜けてしまったのだろう。
葬式を終えたハジにそのまま、村で唯一宿として使われる家に案内してもらうと、すぐに私は部屋へ通してもらい、服を脱ぐのも忘れて布団の上へ倒れ込んだ。簡素なつくりのベッドで、とても寝心地のいい部屋とは言い難い物ではあったが、その時の私にはこの上なく上質な物に思えた。
そんな疲れ果てた状態でも、私は忘れずに絵灯籠を荷から取り出して、枕元に灯してから眠った。日の登り始めた頃だったから、上手く影が壁に映る事は無かったが、それでも私は満足した。
その日は、酷い悪夢を見たと覚えている。
かの人が、笑っていた。優しく自分に愛を囁いて、手を握っていた。
「お前に灯籠を作ったんだよ。お前のことを考えて、作ったんだ」
その顔はもやに包まれたように曖昧で、判然としない。
と、突然パッと火の手が上がる。目の前にいるその人が、あっという間に燃え上がる。足から伝って、服を這い上り、あっというまに髪の先までが炎に包まれる。赤い舌がやわい肌を焼き、黒く変色してゆく。
「灯籠は、生者の想いを供養するためのもの。伝えることを諦めた言葉や、忘れたい思い出を供養して、無かったことにするための」
この言葉は、誰の言葉だ。
「無かったことにするつもり?」
この声は、一体誰の声だ。
∵
目を覚まして、まず真っ先に気付いたのは、空がもうすでに薄ら暗くなっている事だった。
朝日が昇る頃眠って、ずっと目を覚まさずにいたらしい。丁度宿の奥方が様子見にやってきたところで、その気配で目を覚ましたようだった。
ぱったり顔を突き合わせる形になって、彼女はおかしそうに笑った。
「あらあら、ようやく御目覚めですね。夜廻の夜にやって来たお客人が、来るなり寝ついて全然起きて来ないものだから、随分噂されていますよ」
「それは……お騒がせしました」
「お腹がお空きでないかしら? もう夕ご飯になってしまいますけれど、丁度支度が出来たところですよ」
「ありがたい。戴きたいです」
「そしたら先、下にいますからね。好きなときに降りて来て下さいな」
そんな事を告げて、奥方はそそくさと階下に降りて行ってしまった。
私はぼんやりと、彼女が階段を降りてゆくたんたんという軽快な音を聞きながら、枕元に置いた絵灯籠に手を伸ばした。簡素なつくりのそれに入れていた小さいろうそくは、とうに燃え尽きて暗い影にひっそりたたずんでいた。
あとから知ったことだが、私は手前の村から夜廻の村へと向かうのに、大幅な遠回りをしてしまっていたらしい。
本来なら一直線に進んでいるだけで済むはずだった行程が、暗がりに道を失してしまったせいだろう、大きく村の外側を迂回して通っていた。本来必要な距離の二倍程の道のりを歩くという、何とも馬鹿らしい失態を犯したわけである。
特異な信仰が一部学者の興味を引くとはいえ、やはり田舎町。夜廻という儀を行ったその夜明けに、わざわざ村の北側から姿を現した旅人の話は、私がぐっすりと眠りこんでいる間に村中を駆け廻っていたらしい。
村の酒場も兼ねた宿の食堂には、興味津津の村人が幾人もやって来ては、私の方を遠巻きながら無遠慮に眺めた。
「ごめんなさいねえ。皆田舎者だから、旅人さんが珍しいのよ」
「それと、夜廻の晩に北から入ったから、とか?」
申し訳なさそうにしし肉の煮込みなど運んできた奥方にそう、冗談めかして私が問うと、奥方はあら、と言って目を丸くした。周囲からも、ほんの少し息を呑むような空気が伝わる。
「ここの言い伝えを、ご存知なんですね」
「一応、こちらの村の伝承に興味があって、ここまで来たものでして」
「そう言えば、学者さんでしたっけ。信仰について研究なさっていらっしゃるとか…。ハジが言っていましたよ」
「そうなんですよ。特に僕は、所謂『あの世』について興味があって、そうしたらこちらの村でしたら、興味深いお話が聞けるという風に聞きまして」
あくまで研究熱心な一介の青年学徒を装って、私がそんな事を聞くと、奥方はバツが悪そうに肩をすくめた。
「そうなんです。実は、夜廻の晩は夜の仔がこちらに来るから、眠っていた人が起きだしてしまうという話があって……」
と、奥方は気まずそうに私の顔色をうかがった。
「お客さんが幽霊じゃあないか、なんて話まで流れているんですよ。いや、幽霊な筈は無いと思うんですけれどね。どうも田舎で、信心深い人が多くて」
「いや、わかりますよ。葬儀の晩になんかお邪魔しちゃったら、それはいい気はしないでしょう」
なだめるように私がそんな事を言うと、安心したように奥方は手を振った。
「いえいえ。お客さんのせいじゃあありませんよ。迷子になったんだから、むしろ飛んだ災難でしょ。何も無いところですけれど、ゆっくりしていって下さいな」
周りで聞き耳を立てていたらしい村人たちも、どうやら私が死者では無いらしいことを理解して、安堵したらしい。こころなし静かだった食堂も、酒屋らしい喧騒が戻ったようだった。
∵
結局、私がようやく動き始める事が出来たのは、二日目になってからだった。ハジの祖母であるという語り部は、村から外れて、川に沿って歩いた北の方に居るらしく、夜更けてからまた足を踏み入れる事は、流石に迷いに迷った直後であったためにあまり気が進まなかった。
朝、語り部に会いたいという話は既に宿の主人にも伝わっていたので、案内を頼みたいと言うとさっそく、同様に話を聞いていて、私に呼ばれるのを心待ちにしていたらしい様子のハジをわざわざ呼んで来てくれた。
が、やはり子供と旅人だけでは森を行くのに万が一の事がある、そう言って、狩人の中でも腕利きの者を一人、紹介してくれるという話になった。
やってきたその「腕利きの狩人」を見て、私は意外に思った。それは最初の明け方、夜廻の遺体の番をしていた少女だったからだ。無論、彼女が狩人の家であろうことは分かっていたが、それが腕利きとまで言われるものだとは思ってもいなかった。
「先日は申し遅れました。ヒィカと申します」
静かな声でそう言って、彼女は頭を下げた。肩には無骨な猟銃を下げており、夜廻の時は気にならなかったが、やけに少年じみた服装をしていた。
「ヒィカ姉ちゃんはすごいんだ。村の大人より狩りが上手いんだぜ」
自分の事のように、ハジが胸を張って自慢した。ヒィカは困ったように眉をひそめて、控え目に笑うと、
「そんな、……大したことはありません。獣避けくらいにはなると思います」と言った。
その瞳の色に強い既視感を覚えて、私はじっと彼女の顔を見つめた。
「もしかして、兄弟が居たりするかな?」
そんな事を問うと、はっとしたようにヒィカは私を見つめ返して、少し口ごもるようにした。
「弟が居りました。……昔」
「……それは申し訳ないことを聞いた」
本当にそう思って、私は話を切り上げたのだが、何かを問うようなヒィカの視線を、それからしばらく感じていた。
∵
ヒィカについて記す。
夜色のおさげと、蜂蜜色の瞳を持った少女。
彼女は老齢の祖父と、病気で寝たきりの母とで暮らしており、家の生活をほとんど一人で支えていた。弟が一人いたのだが、それも当時から三年ほど前に行方知れずとなり、死んだことにされた。
彼女から聞いた話だ。
ヒィカの弟のエシが居なくなったのは、ヒィカが十五の時だった。
別に、病気や事故があった訳では無い。ただふいと居なくなり、一年過ぎて、村の大人達はエシが死んでしまったのだと言って、勝手に葬式をやってしまった。元々脚が悪く、一人で出歩くことすらままならなかった子だから、大人たちも体のいい厄介払いくらいに思ったのかもしれない。
夜の仔の番に出たのは、ルリという女の子だった。
親交が薄い子供を選ぶと言うのが夜の仔の番の常だったが、結果的に彼女が選ばれた理由は、エシを虐めていたから、というものだった。
夜の仔は誰にも望まれず、誰にも愛されなかった子。死者を悼み嘆く者が夜廻に当てられると、夜の仔の機嫌を損なう。自分の死は、誰にも悲しまれなかったのに、と。
だからそういう意味で、ルリは最も適した位置にいた。悼むどころか、居なくなったエシを影でこっそり笑っているのを、ヒィカは幾度か聞いている。
だからと言って、別にヒィカはそれを怒ったりしている訳ではなかった。
自分だって、姉としての役割を果たしていたとはとても言えない。ルリがエシに悪戯するのを見過ごしていたし、病気の母の世話を含めて、すべて背負わされるのが煩わしくてならなかったのだ。エシが居なくなってくれたら、と願ったことも何度かある。だから、自分にルリを責める資格などはない。
わかった上で、ヒィカはどうしようもない後悔に囚われ続けていた。
夜の仔は、望まれない子、愛されなかった子を連れていく。自分と同じ立場の子を連れて、仲間にしてしまう。
エシはきっと、夜の仔になってしまった。葬式などは要らなかったのだ。あの子は夜の闇の中を眠ることも出来ず、カンテラを持って梟と共に歩いている。
せめて自分が姉として、正しく愛してあげることさえ出来ていれば。幼かった弟を想う度、ヒィカはそう思わずにはいられなかった。
しかし、他ならぬ彼女だからこそだったのだろう。自らを責めたて、遺された者の苦しみを味わう同士として、恐らくは自己嫌悪のようなものを感じ取っていたのかもしれない。
私のこの取るに足らない矮小な魂を真っ先に見透かしたのは、この自らの罪の意識に喘ぎもがく、かよわい少女だった。
∵
ハジとヒィカ、そして私とでの、語り部の小屋までの道中は、それほど長くは無い筈ではあったのだが、私にはかなり長い事歩いていたように感じた。
ハジについては、祖母の家に遊びに行く位の感覚だったのだろう。饒舌に私に話しかけては、既に話した旅の話や、私の故郷の話など、繰り返しせがんだ。道中まともに観光もしてこなかった私には大して話す事も無く、仕方なしに、故郷の話ばかりをする事になった。
話をするごとに、私の感情が漏れ聞こえてしまったのだろう。後ろで黙々と歩いていたヒィカがぽつりと、
「貴方は、故郷がお嫌いなのですか」と言った。
我に返って、そんな事は無い、などと返したのだが、恐らく誰も言葉通りに取らなかったに違いない。自分でもわかる程に、その時の声は不機嫌な色をしていた。
「いや、すまない。あまりいい思い出が無いんだよ」
「あ、そうなの……? 聞かない方が良かったか」
気を取り直して言うと、ほんのすこしバツが悪そうに、前を行くハジが振り返って私の顔色をうかがった。
「いや、大丈夫だよ」
愛想良くそう言ってへらりと手を振ると、安心したようにハジはまた前を向いて、別の話を始めた。
そうしたハジの子供らしい気まぐれに内心感謝しつつ、私はヒィカの物言いたげな雰囲気には気が付かないふりをした。
∵
夜廻の村の信仰には、神の言付を聞き伝える巫女のような者はいない。
精霊は人間を支配するものでは無く、ただそう在るだけの自然現象に過ぎないのだ。神と呼ばれてはいても、冬の女神とは即ち、他よりはるかに強大な力を持った精霊に他ならない。
加護を願い、救いを求める事はあっても、特定の一人が祈りを引き受けるようなことは無いのだ。
その代わりに、正しい信仰を後に伝え、人々に精霊たちの在り方を教えるための語り部がいる。それが、ハジの祖母であるユジであった。
ユジの小屋は非常に小さく、ほとんど掘立小屋と呼べるような代物だった。小さな畑と鶏小屋があるきりで、老人の独り暮らしとはいえ、いささか心もとない。恐らくは家族が定期的に、必要な物を運んでいるのだろう。
いざ辿り着いてみると、ハジが夜廻の番の際夜を明かすのに使っていた広場よりも、村から近い位であった。
あとから知ったことだが、あの広場とそこまでの道(夜廻の道と呼ばれるらしい)はいわば村の公共施設のようなもので定期的に獣避けの仕掛けが置かれたり、整備がおこなわれたりしているらしい。
その為に、ハジのような子供一人でも番を行うことが出来るのだが、それに対してユジの小屋は、ハジの家系の私有地であり、大して手入れをする訳でもない。それで、わざわざヒィカのような狩人を護衛に付けるような、いささか大仰ともとれる形で、そこまで訪ねた訳だった。
ユジはにこにことして嬉しそうに、突然の来客を招き入れた。
不思議な匂いのする薬草茶が入れられ、ハジが手土産にと親に持たされたらしい茶菓子が振る舞われた。ぼそぼそとした菓子は独特な味がした上、食べる端からぽろぽろと滓が零れて、食べるのに大変難儀した。
「わざわざ遠いところから、こんな年寄りの話を聞きに来て下さる人がいるなんて、ありがたい事です。まだわたし達のようなものが、必要とされているという事だわ」
そんな事を言って、ユジは深く頭を下げた。大した志がある訳でなく、私欲でそこまで至った私には申し訳の無いような気がして、少しだけ何と返せばよいか困った。
「そんな、大したものではありませんよ。僕個人の好奇心のようなものですから」
結局そう返すにとどめたが、いえいえとユジは嬉しそうに首を振るばかりであった。
私はユジに頼み込み、既に私が聞いた事のある物を含めて、夜の仔に関わる説話で伝わっている者を片端から聞かせてもらうことにした。
我ながらに、なかなか無茶な頼みごとをしたと思う。ハジは呆れたように、
「全部って、正気かよ」と叫んだ。
「無理を言っているのは、分かっているつもりです。無論依頼料はお支払いしますし」
私が切り出すと、ユジは可笑しそうに口に手を当ててころころと笑った。
「あらあら、やめてくださいな、お金だなんて。こんな婆さんにくれても、使いやしませんよ。それに、聞きたいと言われた時に、お話を語って聞かせるのが語り部のお仕事ですからね」
そう言って、ユジは数々の話を語って聞かせてくれた。
冬の女神の神話から、死者を迎えに来る夜の仔の物語。森に捨てられて、夜の仔になってしまった子供の話。道に迷い、夜の仔に導いてもらった旅人の話。
中には、親子げんかの末家出をしてしまい、危うく夜の仔になってしまいそうになった子供が、捜しに来た親に引き戻されて人に戻る、などという変わり種もあった。
けれどその多くは似通ったような話になっていて、人の名前や時代、状況が変わっただけ、ということが少なくなかった。
彼女がその時話してくれた説話の中に、死者のよみがえりに関して述べているものは、一つも無かった。
ユジが話を終えた頃には、小屋に着いた頃まだ真上にも昇っていなかった太陽は、既に傾きかけていた。
ほとんどの話を聞いたことがあったらしいハジは、至極退屈そうに部屋の隅であくびをかみ殺していた。ヒィカは私の横で、じっと考え込むような表情で、ユジの話に耳を傾けていた。
私の聞きたいものは、これではない。そう思って、強く落胆したのが顔に出て居たのだろうか、
「ごめんなさい。夜の仔に関してのお話はこれで全部なのよ。なにか、お気に召さなかったかしら?」
そんな事をユジが尋ねた。
「ああ、すみません。そんな訳ではないんです。ただ、何と言いますか」
視線を宙にさまよわせて、私は言葉を探した。
「……たとえば、そう、亡くなった後の死者の霊魂についてのお話し、だとか」
「死者の、霊魂ですか?」
「ええ、何と言いますか、そう、信仰における死生観や、あの世についての概念というものを、僕は調べているんです。夜の仔は死をつかさどる精霊と聞いていましたから、てっきり夜の仔についてお話を聞けばいいとばかり」
ようやくしっくり来る言い訳を見付けて、私は安堵して幾度かその言葉を内心繰り返した。死生観。死にゆく者の行く先。あの世。
「たとえば、僕の故郷で伝えられる神話では、世界は大海の王と大地の女王とによって作られました。
彼らがこの国を作り、人々を生み出した。それゆえ人々は、母なる大地に生まれて、父なる大海に流れ着き次の生へと巡ります」
死体は火で焼かれ、遺灰が川や海に流される。そうして死者の霊魂は海の果てに流れ着く。水と混ざり、水は雲となり雨を降らし大地に降り注ぐ。雨に変わった死者の霊魂は人の親の腹に宿り、再びこの世に生を受ける。
だから灯籠の街に、墓所はない。
そんな私の話を聞いて、ユジが静かに首を傾げた。
「貴方は、そのお話を信じてはいらっしゃらないのね」
まるで私を見透かしたようなユジの言葉に、私は痛いところを突かれたような気がして、はっと息を呑んだ。
「故郷の神話は、僕の知りたかったことを教えてはくれなかったので」
やっとのことで、そう返したように覚えている。
「……私の知っている話が、それを教えてくれるとは限らないわ」
そう前置きして、ユジは茶を口に運んだ。もうずいぶん話し続けで、相当に疲れているはずだった。
「私の知っているあの世は、暗い夜の闇の中よ。夜の仔に導かれて、宵闇の王の懐で長い眠りにつく」
「眠りについた者は、永遠に眠ったままなのですか」
「この世の終わりに、目を覚ますと聞きます。けれどそうね。少なくとも、たとえば今日明日に目を覚ます事は無いはずです」
「僕は祖母から、北の森では死者に出会うことがある、という話を聞いたことがあります。宿のおかみさんも、夜廻の晩には眠っていた死人が起き出す、なんてことを」
随分な遠回りになったが、私はようやく自分の聞きたかったことを直接口に出した。ユジは、私が最も答えを欲していた問いがこれであることに、気付いたようだった。
「……ええ、そう。よくご存知なのね。確かに、死者に出会ったという話は時折耳にするわ」
ユジは酷くあいまいな言い方をした。
「耳にする、とは? そう言った説話が残っている訳ではないのですか」
「説話では無いのよ」
そう言って、困ったようにユジは微笑んだ。
「最近囁かれるようになった、噂話というかしら、怪談のようなものなの。……それも、死者に会ったと言う話をするのは、決まって村の外の人達なのよ」
∵
ようやく私たちが村へ帰る頃には、陽はすっかり暮れきっていて殆んど夜になっていた。
村に着くや、ハジは「夕飯の支度がもうできる頃だから」と言って、挨拶もそこそこに駆けて行ってしまい、駄々広い村の広場に、私とヒィカ二人が取り残された。
案内料として、いくらかハジに小遣いをやるつもりだった私は、呼びとめようとして伸ばした手を所在なく空へ彷徨わせてから苦笑して、ヒィカの分と合わせ彼女に手渡した。
幾分色を付けた代金に、ヒィカは恐縮するように幾度も私に頭を下げた。
「元気が良いな、あの子は」
「昔からそうなんです。家が近いからよく遊んだんですけれど」
「姉ちゃんって、呼ばれていたものね。仲が良いんだ」
「弟と、同い年でしたから」
寂しそうな言葉に、私はヒィカの顔色をうかがった。
「話を聞いても?」
そう尋ねると、ヒィカが猟銃の肩ひもを握る手が、ぐっと力を強めたのが分かった。
「面白い話ではありませんよ。ある日フラッといなくなってしまって、そのまま見つからないで、死んだことになってしまっているっていう、ただそれだけです」
「……それはでも、行方知れずになっているだけだろう?」
すぐに私は、その言葉が間違いであったと気付いた。
慰めのつもりで口にした無責任の言葉は、彼女には気に食わなかったらしい。寂しげな彼女の目に、さっと怒りの色がよぎったのが分かった。
「あの子は、足が悪かったんです。どうやっていなくなったんだか分からないけれど、まだ無事だとは思えません」
ぴしゃりと、そう返された。恐らくは、既に考えつくされた仮定だったのだろう。
しばらく、私たちは無言で向き合っていた。
「……すまなかったね」
「私こそ、申し訳ありません」
どちらからともなく謝りあい、私はそのままその日の礼と別れの言葉を口にするつもりで、ヒィカを見た。そうして顔を上げたヒィカが、また何か物言いたげに私を見つめるのと、目があった。
「あの」
彼女はそれを、言うべきか否か迷っているようだった。
視線を辺りにさまよわせ、言葉を選ぶようにして、ヒィカは口を開いた。
「貴方は、本当に、学者さんなのですか?」
私が口を開こうとするより先に、ヒィカは口早に言葉を継いだ。
「私にはどうしても、貴方が何か隠し事をしているように思えます。勿論、それが悪いとは言いません。私が口を出すべきではない事は分かっています。でも、どうしても、どうしてもそれが聞きたいのです。
貴方は私に会った時、私に弟がいるかと尋ねました。何故、そう思ったのですか? 貴方は村にまだ着いたばかりだったし、似たような子を見かける程この村を見ていなかったでしょう
ハジのお婆さまに聞いたお話にも、いくつか道に迷った旅人のお話を聞きましたよね。道に迷った旅人は、夜の仔に導かれるという。……貴方がやってきたのは、夜廻の晩のことです」
藁に縋るように、絞り出すように、ヒィカは私に問うた。
「貴方は、夜の仔に行き遭ったのではありませんか?」
∵
死者と出会うと言う噂は、近年になって村の外の人間が言いはじめたものであるのだと、ユジは言った。それが段々と村の人々にも伝わり、あたかもそう言った説話が昔から存在して来たかのように取られてしまうのだと。
私は、物語の街で見かけたものに、一つたりとも夜廻の村で出会う死者について言及したものが無かったことを思いだした。
「それでは、あくまでその話は都市伝説の一つである、と言うことですか?」
「そうかもしれません。けれど、火のないところに噂は立たないとも言いますでしょう。私は、本当に死んだ人に出会ったと言う人は居るのではないかと、そう思うのです」
ユジは何か、その言葉に確信を持っているかのようだった。
「そうしたお話をよく聞くのは、大抵冬至の祭りの日です。一年の半分眠りについていた冬の女神を、夜の仔がこちらへ連れ帰る日。もしかすると、冬の女神の目覚めに連れられて、眠りから覚めてしまう者がいる、ということなのかもしれませんね」
そこまで言うと、そうだわと、何か素敵な事を思いついた少女のように、ユジははたと両手を打ち合わせた。
「今はまだ早いけれども、あと二月後にある冬至のお祭りを、是非見ていらして下さいな。いわば、女神さまが死から再生する日を祝うお祭りです。きっと、貴方のお勉強にも役に立ちますよ」
∵
冬至の祭りと言うものがある事は、事前に村について調べた際、既に知っていた。
夜の仔の導きで眠りについた女神は、再び夜の仔の導きで現世に帰って来る。この世を安らかに統べるために、蘇る。その為の復活祭が、冬至の祭りだ。あの世からの蘇り。すなわち、死者の目覚め。
ユジの方から村への滞在を切りだしてもらったのは、私としてはとてもありがたかった。どの道、故郷に戻るつもりは無い。家から随分と金子は持ちだしてきていたので、当分生活に困ることはなさそうだった。
宿に戻ると、私はこの村に当分滞在することを決めた旨を宿の主人に伝えた。どの程度かと問われて、少なくとも冬至の祭りまでと答えると、随分勉強熱心だと言って奥方に笑われた。
「そんなに精霊だの神様だのお話を聞いて、楽しいものかしら」
「人によるでしょう。少なくとも僕には、大変興味深いものなのです」