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「いない……。中は大丈夫だわ」
私は振り返る。
少し離れた廊下の角にいる侍女が、その先の階段を注視しながらうなずいた。
「まだ大丈夫ですわ。今のうちに……」
「ありがとうブローシア」
礼を言った私は、さっと目的の部屋の中に入る。
そこは王宮の一室。ただ、今はある人物が使っていた。
「すぐわかる場所に……。でも、テーブルに置いてもちゃんと持って行ってもらえるかしら?」
私は手に持っていた小さなカゴをティーテーブルに置こうとして、途中でやめる。
ご本人が見つけたのなら、きちんと持って行ってくれるだろう。けれど他の……あの方の部下が見つけたら、
「クロード隊長がこんなもの食べませんよね!」とか。
「危険物かもしれません」と言われて、捨てられてしまうかもしれない。
「ああでも、さっきも同じような心配をして、ブローシアに怒られたんだわ」
――そのお菓子を絶対に持って行っていただきたいのなら、皇女殿下として堂々とお渡しになった方が確実だと思いますが?
淡々と進言されたものの、それだけは受け入れられなかった。
「こんな甘いお菓子が好きだなんて、他の人には知られたくないっておっしゃっていたもの」
お菓子を渡したい相手は、第三騎士隊の騎士隊長クロード。
金の髪に青紫の瞳の、容姿だけでも眼福な男性だ。年は確か二十四歳。私よりも七つ上の人だ。しかも、先の戦役では名高い隣国ツヴァイエの魔法隊を退け、国境を守り通した英雄。
かの方に、私がお菓子を渡すことはいくらでもできる。
でもその場合、私が直接行こうとしたら、いくらみそっかすの第二皇女とはいっても、お付きの人間が五人はついてくる。
周囲の興味も引いてしまって、とてもじゃないけれどコッソリ渡すことなんて夢のまた夢。
だからといって人に言づけても同じことだ。
皇女殿下がクロード隊長にお菓子を贈ったのだと、すぐに人に知れ渡る。
そうして笑われることになるのだ。主に母が違う姉皇女や皇子達に。
紛争に出発するという時に、皇女がお菓子だなんてちゃちな物を贈るなんて、とか。男性に贈る物としては、とてもじゃないけれど選択がおかしいとか。
自分だけが笑われるのならいいけれど、クロード様まで悪く言われては困るのだ。
かといって、他の物を贈るのは……重そうで。
「消え物が一番よね。食べたらそれで終わりだし、それに……」
声には出さずに心の中だけで思う。
クロード様は、本当はお菓子が好きなのだ。
負担をかけず、けれどひっそりとでも自分のことを覚えていてもらうのに、なんと都合のいい贈り物だろう。
だから戦地でも心の慰めになればと思い、日持ちするクッキーを用意し、召使いに扮してこそこそと部屋に入ったわけだが。
「さて、どこに置こうかしら……」
部屋の中でうろうろとしつつ、エゼリンは置き場所を考える。
窓際……は忘れられてしまいそうだ。
「このあたりとかどうかしら」
窓際のソファーに、クロードの物らしきマントが掛けられている。黒に青の裏地のマントだ。
その下に菓子のカゴを押し込もうとしたものの、食べ物がそこにあったら怪しすぎるだろう。
あきらめて、先に発見してくれることを願って、私はテーブルの上に菓子を置いたのだけど。
少しだけ開けていた扉の向こうから、ブローシアの声が聞こえてきた。
「あら、ロシル様ごきげんよう」
「ブローシア嬢ではありませんか。お会いできてうれしいですが、なぜここに?」
――まずい。クロード様の副長、ロシルが来てしまったようだ。
「どうしよう」
脱出する方法が思い浮かばない。
「少し用事があって人を探していたのですけれど、気づかずにここまで来てしまって。もう戻るところなのですわ」
ブローシアはその場を立ち去るべくそんな作り話をしていた。
「そうですか。でも迷ってくださってよかった。あなたのように美しい方と思いがけずお話ができて、今日は俺にとっていい日になりました」
「まぁお上手ですこと。午後にはご出立でしょう? ご武運をお祈りしておりますわ。それでは失礼しますわね」
ブローシアは早々にその場を離れることにしたようだ。
長居をしていれば、その分だけ何かを隠していると悟られると思ったに違いない。
私も早く隠れよう。
「ええと、これでいいわ」
目の前のソファに手を触れてから、はっと気づく。
待って私。ここに隠れたとしても、クロード様がお座りになったらどうしよう!
慌てた私だけれど、ロシルさんが近づいて来る足音がする。
もうここはあきらめて『ソファーになる』しかない!
意識を集中して、ソファーに手を触れようと足を一歩前に進めた時、
「ひゃっ」
かがんでいたせいで、自分のドレスの裾をふんずけてしまった。
ソファーに顔からぶつかってしまって痛い。けれど今はとにかく隠れなくては。
「――っ!」
目を閉じたまま気合を入れ、私は一気に術を使った。
ふっと自分の体重が消失する感覚と、意識が遠のいたなと思った後、気づけば私の視点は変わっていた。
目の前に、扉から入ってきたばかりのロシルが見える。
「あれ、人の声が聞こえた気がしたけど……」
ツンツンとした茶の短い髪に群青の上着を着た青年ロシルは、不思議そうに部屋の中を見て言った。
(危なかったけど。上手くいったわ)
私はほっとする。
唯一得意な魔法さえ使えれば、もう心配はない。
ソファーに同化してしまった私の姿は、誰も探すことはできないのだから。
あとはロシルが部屋を出て行ったら、さっさと部屋から逃げ出そう。
そう思っていたのに、扉が開いて今度こそ彼が入ってきてしまう。
「ロシル、先に来ていたのか」
さらりとなびくやや長めの金の髪に、青紫の瞳が美しい、騎士というには絵物語の中の人のように繊細そうなその人――クロード様が。