言葉の海原
暗闇の海に一筋の光が差した。
光に向かって泳いでいく。
恐怖はない。
光の先には希望だけが見えた。
毎週月曜日図書館開館直後の午前10時。W大学理工学部助教の麻生泰臣の至福のひとときだ。朝の清々しい空気の中、日本古典文学が並ぶ棚に早足で向かう。研究の合間に読んでいる平家物語の続きが気になる。続きが貸し出されているのを見て落胆する。遅かった。そんな私を見て司書が小声で話しかける。「今、ちょうど返却されましたよ。」あまりの嬉しさに声が大きくなる。「ありがとうございます。全部借ります。」横から私のライバルと化している女性-竹花光-が微笑んでいた。見知った顔に会釈する。彼女は会釈を返し、本を愛おしげに眺める。彼女はいつも文学の棚にいる。私は日本文学、特に古典文学を主に読んでいるが彼女は雑食のようで時代を問わなかった。光はどちらかと言うと古典文学よりも近代文学のほうが好きなようだ。いつも貸出冊数ギリギリまで借りていく。そんな彼女が羨ましい。海外ポスドク時代に母国の文化に触れる事の大切さを文字通り痛感してからもとから好きだった近代文学だけではなく古典文学にも興味を持ち出したがいかんせん読む時間がない。一週間に読めても二冊ほどだ。その二冊を暗記するまで読み込む。テンポが良い文を小声で音読する。そして血肉にする。
30代半ばになって仕事である研究とランニング、読書以外は楽しみがなかった。30の声を聞いた頃に当時所属していた研究室の教授の娘と婚約したが結婚前の検査で生殖能力がないことが分かり破談になった。14歳の時に発病した急性骨髄性白血病での骨髄移植が原因だった。化学療法を受け、一時的には治癒判定を受けるも、再発したため強い抗癌剤治療と骨髄移植を行った結果、無精子症になった。精子凍結保存のことは知らなかった。生きるために子供を諦めた。当時は生きることしか考えられなかった。生きることができた喜びを噛み締めていた大学受験時に医学部に進学するか工学部に進学するか悩んだがこの身が朽ちても長い間人々の生活を支え続けるインフラ整備に興味を持ち工学部の土木工学科に進学した。同級生が次々と家族を作っていく中、自分で選んだ道だが時折、孤独を覚えることもあった。私は一人で研究にのめり込んでいった。
気づいたら直属の上司である教授と学生以外と研究と勉強の話しかしていない日もあった。そのような中で図書館で会う彼女の存在は大きかった。いつも同じ本を争うようにして借りていく彼女。やっと週の折り返しになった水曜日に学食でたまたま彼女が初めて見る女性と話している姿を見かけた。隣の席が空いていたので勇気を振り絞って声をかける。「すみません。お隣りいいですか。」彼女は一瞬怯えた顔を見せた。隣りにいた年長者の女性-藤代望-がゆっくりと応対する。「隣は空いているのでいいですよ」女性が手話で彼女に話しかけるのをみてようやく理解した。光は聴覚障害者だった。あとで知ったことだが光は先天性の感音性難聴で補聴器を使っても音が歪んでしまうので補聴器をつけていなかったので見た目からは障害が分からなかった。光は藤代が状況を説明したので安心したらしく図書館で見せる笑顔になった。色々、話をしたかったが騒がしい学食で光と話す手段を持っていなかったので食事に専念した。食事を終えると光が私の目前で手を振り大きく口を開けてゆっくりと「また、図書館で会いましょう」と話しかけてきた。「OK」とジェスチャーで伝える。一週間を終えるまでがいつも以上に長く感じた。研究の合間に言葉の海原に向かっていった。言葉の海原では彼女と近づけた気がした。FIN.
『コーヒー砂糖ミルクあり』で好きだった二人の物語です。
背負う物がある二人です。
調べれば調べるほど難しく前作でも何回も書き直しました。
インターネットで調べるだけでは追いつかず図書館に通いつめました。
浅学のため書き直すこともあるかもしれません。
この二人とお付き合いして下さい。
BGM:J-Wave
2017年7月23日
長谷川真美