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短編

祭囃子に黒髪ゆらし

作者:

 蝉時雨のやまない夏の夜。それをかき消す祭囃子が、お酒の香りに混じっていやらしく鳴りわたっていたあの夜に、あたしはこーちゃんに手を引かれて、べつの世界へとびこんだ。

 はじめてのキスは、強引で、わけがわからなくて、苦しかった。きっとあのときのこーちゃんは女の子にやさしくすることなんて知らなくて、ちょっと進んだマンガとか、どこかに落ちていたえっちな本で見たものを、だれかに試してみたかっただけだったんだ。

 当時、こーちゃんは中学生、あたしは小学校の低学年。

 もたもたと階段をのぼるおさななじみを、こーちゃんが待っていてくれるはずもない。細かった指が節くれだっていくのを、ラフだったシャツがネクタイとスーツに様変わりしていくのを、あたしはずっと遠くから眺めているだけだった。


「……あーあ、あきた、つまんない」

 ナナメ読みしていたティーンズラブを、ベッドの脇にぽいと投げた。

 いままさに事に及ぼうとしていたサラリーマンが、むき出しの表紙からあたしをにらんでる。お相手は清純そうなミッションスクールのお嬢様で、さらさらロングの黒髪と華奢な体がちょっとだけなまめかしい。

 でも発言は、わざとらしいぐらいに初心だった。それがあたしには耐えられなかった。

 文庫本の代わりにスマホを取りあげて、慣れた操作でま行をたどる。三井孝太郎、こーちゃんのフルネーム。めずらしく長い呼び出し音が鳴ってから、ようやくお目当ての声が聞こえてきた。

「はいもしもし、アヤか、なんか用か」

「勉強つまっちゃったぁ。ね、こーちゃん、教えにきてよう」

「今日おばさん留守だろ。駄目」

 けーち。頭のなかで、こーちゃんの顔の横にばってんをつける。本日ひとつめの、乙女心がわからなかったで賞を贈呈します。

「ヒマじゃないの?」

「俺は暇だけどさ。おまえは勉強だろ、受験生」

 からかう声にノイズが混ざってる。外にいるのと尋ねてみれば、今帰るところだよと返された。

 道路を伝って三軒目、緑の屋根の小さなおうち。それがこーちゃんの実家だ。せいいっぱいに目を細めると、こーちゃんが家に帰ってくるのが見えた。

 すぐに窓をスライドさせて、大きく息を吸いこんで。――けれど、こ、のかたちを取った口は、そのままぎくりと固まった。

 カーテンをひいてしゃがみこむ。なんで、なんで、と叫ぶ頭がうるさくて目を閉じた。

 こーちゃんの隣に、黒髪ストレートの女の人。会釈して、別れる。意味ありげに交錯した視線と、女の人のはにかんだ笑顔。なにもかもがスローモーションで、閉じたまぶたの裏に再生された。

「アヤ? どうした」

 ――ねえ、だれ。だれなの、そのひと。

 そんなこと、あたしのプライドにかけて訊けるわけがなかった。のどから出かかった言葉をのみこんで、なんでもないよとむりやりに明るい声を出す。

「数学飽きちゃった。ね、ね、遊びにつれてって」

「すぐ『あきたー』って言う……その飽き症治せよ」

 こーちゃんはうーんとうなったけど、どうやら受験生であるあたしを気づかってくれたらしい。あんまり遅くならないことを条件に、気分転換のお出かけを約束してくれた。

 明かりの落ちたスマホを抱きしめる。脳裏に浮かびあがるのは黒髪の彼女だ。

 こーちゃんがオフの日に女の人と用事を作ったことなんて、あたしが知るかぎりこれが初めてだった。憂鬱は交わしたばかりの約束と混ぜこぜになって、頭の中にいびつな色のうずまきを作る。

「いらいらするなあ……」

 ねえこーちゃん、こーちゃん、あなたはあたしのこと、飽き症だって言ったけど。

 あたしはずっと、ずーっと昔から、こーちゃんのことしか考えてこなかったんだよ。


 ふわふわシフォンのワンピース、セミロングの髪は巻いて毛先を胸元へ。あんまり肌を出すと嫌な顔をされるから、夏でもキャミソールはNGだ。代わりに手首に香水を垂らして、ほんの少しだけ背伸びをする。

 待ちあわせの時間からきっかり二分をはかってから、あたしは小走りで家をとびだした。こーちゃんは変わらず、シャツにカーディガンの姿で塀によりかかっていた。

「お待たせ、こーちゃん」

「おう、どこ行く」

 エスコートを期待しても無駄だって、あたしはよくよく理解してる。

 結局提案したのはいつものファミレスだった。まもなく運ばれてきた小さめのパフェを、それはそれはおいしそうにほおばってみせる。その真向かいでこーちゃんは、よく食うなあとでも言いたげにコーヒーをすすっていた。

「こーちゃんさあ、彼女、いないの」

 マグカップが机の上に戻ってきて、なんで、と訊きかえされる。それがあまりにも自然だったから、ちょっとだけむっとした。

「訊いてるだけじゃん。二十四歳でしょ、社会人三年目でしょ」

「俺に彼女ができたとしてもアヤに言う必要はありませーん」

「あ、いないんだあ」

「あからさまにうれしそうな顔すんなっつうの」

 だって嬉しいんだもん。あたしはにこにこしながらアイスにスプーンを突き刺した。そのまま口に放りこめば、バニラの香りが心を落ち着けてくれる。

 そこでこーちゃんは、二杯目のコーヒーを取りに席を立っていった。こっそりコーヒーに砂糖を入れていることぐらい、とっくの昔にお見通しだ。そのくせこーちゃんはあたしがついてくるのを拒むから、男の人のちっぽけなプライドを守ってあげるのも大事な役目。早く帰ってこないかなあなんて考えながら、いちごのかけらを舌の上で転がしていた。

 ドリンクバーの前で右往左往していたこーちゃんが、ふと手を止めて、ファミレスの一角に目を向ける。その目が苦い色に染まるのに気づいてしまえば、あたしはもう、そっちを見ずにはいられなかった。

 ひとり、文庫本のページをめくる――長い黒髪の、女の人。

 思わずいちごをかみつぶす。舌には痛いぐらいの酸味が広がっていった。

「…………あーあ」

 ねえこーちゃん、どうしてそんな顔するの。さっきのあの人がそんなに好きなの。それとも黒髪ならだれでもいいの。苦いつばを飲みこんで、自分の髪を取りあげる。ダークブラウンに染めた髪が、そしらぬふりで揺れていた。

「アヤ?」

 こーちゃんはのんびりと戻ってきて、相変わらずのすっとぼけた顔をしてる。――ばってん、ばってん、ばってん、だ。こーちゃんはまったく、ぜんぜん、あたしの気持ちを分かってない。

 スプーンを机にたたきつけて、せいいっぱいのしかめつらを作る。どうしたんだよと、こーちゃんは、片手のコーヒーをまた一口。

 どうせあたしがこどもっぽい癇癪を起こしたぐらいにしか考えていないんだ。そう思ったらぷちりと切れた。

「もういいよ」

「もういいって」

 わかってる、わかってた。こーちゃんに気付いてもらおうだなんて悠長なこと、している暇はないんだって。このまま野放しにしておいたら、いつかふらふらどこかへ行って、きっとそのままいなくなっちゃう。

「こーちゃん。……神社、行こう」

 思い知らせるしかないんだ。

 にぶちんなくせに大人ぶった、あたしの大事な思い人に。


 神社の鳥居をくぐるころには、夕陽は沈みかたを知らないみたいに、ずっと遠くにくすぶっていた。

 あたしたちの町にある神社は、それはそれはちっぽけな丘、いつだって濡れているように見える木の葉のなかに、ちょこんと行儀よくたたずんでいる。

 一年に一度の祭りでは、祭囃子がここを出発して町を練り歩き、一周してまたここに戻ってくる。裏を返せば、この神社がにぎわうのはお祭りの最初と最後だけなのだった。物好きな観光客がときどき参拝にくるぐらいで、あとはずっと、苔むした木々にかこまれて眠りについている。

「アヤ」

 平らな石を積み上げただけの石段は、夏を忘れたようにつめたい。その上を、あたしはずんずんとのぼっていく。

「アヤ、どこ行くんだ」

 石段を上り詰めて、神社の影へ。ぼうぼうの草むらと雑木林に包まれた暗がりがあたしたちを迎えてくれる。

 朝も昼も同じぐらいにまっくらな別世界。

 あの日、あたしとこーちゃんが迷いこんだ場所だった。

「……アヤ」

「こーちゃんはさあ」

 ふりむいた。音もなくにじり寄って、薄い胸板に指先をあてがう。そのまま額を押し付ければ、こーちゃんは肩をはね上げた。

「もうあたしのこと、どうでもよくなったの? 乳くさいこどもには興味がない? ただ鈍感なだけ? それともわざと気付かないふりをしてるの? ……あたしはこんなに」

「おい、からかうのは」

「先にからかったのはこーちゃんのほうでしょ!?」

 突き飛ばす勢いで詰め寄る。きっと受け止めてくれると思っていたけれど、あたしの行動はこーちゃんにとっても予想外だったらしい。濡れそぼった苔に足をとられて、ふたりして転んでしまう。

 気付けば、あたしはこーちゃんのおなかの上。真下にのぞくぎょっとした顔に、謝ろうとする真摯さはどこかにふきとんだ。怯えるようにあたしを見上げる、そんなまなざしなんかを目にしてしまったら。

 あーあ。あーあ。

 なんかもう、――やだなあ。

「ね、こーちゃん」

 あたしののどを、あたしのものじゃない声が震わせる。薄い布切れごしに、細い爪がこーちゃんの胸の中心をなぞった。敏感な指先の神経がぞくりとするような劣情を教えてくれる。

「火あそび、……しよっか」

 もういいや。もういい。全部なくなっちゃってもいいや。

 だって、もう、あれこれ考えるの、飽きちゃったもの。

 目を閉じる。体を倒す。草と香水のにおいが混じって、あたしの頭をぐちゃぐちゃに塗りつぶす。今ならあの日の感触も胸の高鳴りも、ぜんぶ思い出せる気がした。かみつくように、むさぼるように、罪悪感だって捨て去って。


「――そこまで」

 けれどこーちゃんにすり寄せた唇は、大きなてのひらにはばまれた。


 それは他ならぬこーちゃん自身の手。あたしの非力な両手では、どうしても抑えつけられなかったものだった。こーちゃんはわざとらしく重いため息をついて、先生みたいな目であたしを見てる。

「悪いことをしてるって、自覚」

「あるよ」

「うそこけ。これっぽっちも悪いだなんて思ってないだろ」

「……なかったらどうなの」

 ずるいと思った。にぎりこぶしを振りおろしても、こーちゃんは顔色ひとつ変えてくれない。

「あたし、ずっと待ってたんだよ。胸だってふくらんだし、くびれもできた。最初にさわったのはこーちゃんでしょ、あたしに触れたいって思ったんじゃないの。……いいよ、あげる、あげるって言ってんじゃん、どうしてさわってくれないの、どうしてあたしのこと見てくれないの、どうして、ねえ、こーちゃん、どうしてなの、はやく、はやくはやくはやく! 答えてよ、あたしが満足できるような答えをちょうだいよ、ねえ!!」

 こーちゃんは自分だけ先に歳をとって、あたしをうしろに置いていくんだ。悔し涙がこぼれて落ちた。

 そんなあたしをさしおいて、こーちゃんはなにやら残った腕をもぞもぞと動かしている。癇にさわって叱りつけようとしたら、一枚の布きれが顔に押しつけられた。さわりごこちのいい、高そうな生地のハンカチだ。

 ハンカチなんか持つような人だっけ。流されるままのあたしに、こーちゃんは二回目のため息を漏らす。

「買って最初にぬぐうのがさ、涙ってさあ。おまえ、ハンカチ贈る側の気持ちってやつを考えたことがあるか」

 よく見れば、ワインレッドの花模様は女性ごのみのデザインだ。差しだされたそれを恐る恐る受け取ると、髪の毛を思いっきりかきまわされた。

「い、痛い、痛いってば!」

「俺の胸のほうがずっと痛いわ! まったく、こっちはとんでもないことをしたと思ってだなあ、せめて掘り返さないように、思い出させないようにと今の今まで、……ああ、くそっ!」

 軽くぽかりとやられる。たんこぶまではできないだろうけれど、きりりと痛んだ。

「そういうことなら、お前のことだ、なにを考えたかぐらい見当がつく。電話の声がおかしかったから変だなとは思ったんだ、どうせ長谷川に変な勘違いをしたんだろ」

「長谷川さん、っていうの。あの、髪が長い人」

「馬鹿アヤ、ばあか、ただの同僚だ。女子高生に贈るものは何がいいかって相談してただけだよ」

「……あたしの誕生日、まだだけど」

「それは」

 祭りの日に、ちゃんとケリをつけようと思って。

 あれからちょうど十年だから、とか、嫌な十周年だろうけど、とか。うわごとみたいに続いた言いわけを、あたしは一言だって聞き逃したりしなかった。

 ああ、だって、ずるい。許しそうになる。もう一回、きれいな気持ちで、こーちゃんを好きになりそうになる。きりりと奥歯を噛みしめて、あたしは大きく首を振った。

「そ、その人だけじゃないよ。黒髪の女の子ばっかり、いっつも見てる」

「あー」

 気まずそうな顔が恨めしい。やっぱりと言い募ろうとしたら、ぐいと頭に手が伸ばされた。

 ダークブラウンの付け根には、ほんの少しだけ顔を覗かせた黒い地毛がある。染め直しが間に合っていないから、あんまり見られたくはない部分だ。

「ガキのとき、髪のばしてただろ」

「のばしてたよ。それがなに」

「……おまえ、人には鈍感だって言っておいて」

 こーちゃんが体を起こそうとするだけで、いとも簡単に転がされてしまう。ハンカチだけは死守したあたしに呆れた目が向けられた。

「俺の覚悟も、ハンカチも、おまえのおかげでだいなしだ。ほら帰るぞ」

「やだよ、まだ話は終わってないでしょ!?」

「延期だ延期」

「ええっ」

 すたこらと先に帰ろうとしたこーちゃんが、すこし行ったところで足を止める。あたしをふりかえったのは渋い顔だった。

「待っててやるから。その話、あとで、ちゃんと持ってこい。ガキのころの俺みたいな真似すんな」

 こーちゃん。

 呼ぼうとした名前は声にならなくて、あたしは迷子の子犬みたいに立ちつくす。がしがしと頭をかいたこーちゃんが、やけくそ気味に手を引いてくれた。ゆっくり、ひとつ、心臓が脈を刻んでいく。

 ――ねえ、こーちゃん、あたし、何年ぶりに、あなたの手にさわったんだろう。じりじりと胸が焦げるのは、きっと、太陽が遠くで揺らめいているせいなんかじゃない。

 一歩、結んだ手が揺れる。

 歩幅が揃う。

 紅のにじむ石段を、あたしたちは一歩ずつ下っていった。

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