後日談Ⅳ~ひみつの呪文、教えます~
「それで皇女さま、例の件はいかがでした?」
「こらっ。いきなり失礼よ!」
使用人のひとりが、マーガレットに尋ねました。目をキラキラさせて、興味津々といった感じで。それを年上の使用人が渋い顔で窘めます。
幼さの残る顔が期待に輝いているのを認めて、彼女は苦笑混じりに首を振りました。
「それなんだけどね……」
その頃。
「――――来て、しまった……」
ぽつりと呟いたリチャードは、とある時計屋の前に立ち尽くしていたのでした。
2日ほど前にマーガレットから頼まれた“お遣い”を済ませるため、ひとりで街に出てきているのですが……。
マーガレットの部屋で、たまたま目に留まった本を開いたら見つけてしまったのです。この時計屋の名前と住所が書かれたメモを。
それが何を意味するのかは分かりませんが、あの本の置かれ方を見れば分かります。きっと何かに慌ててメモを挟み、その本を適当に置いておいたのでしょう。
あまり想像したくはありませんが、彼女の様子の変化に関係あるのかも知れない。そんなことが頭をよぎったが最後、いつの間にか足が勝手に時計屋を目指してしまっていて……。
来たのはおそらく自分の意志であるはずなのに、リチャードは時計屋のドアを開ける勇気が持てませんでした。知らぬが仏、という言葉が何回も頭の中を行ったり来たりしています。
「時計が欲しい、ってことなのか……?」
沈痛な面持ちで呟いたリチャードは、自分が人であふれる帝都の往来に立ち尽くしていることを忘れているようです。彼の後ろを着飾ったご婦人方や年頃の女性が行き交っています。もちろん、不審そうに彼を凝視しながら。
しかしそこは、頭の中が心配事で埋め尽くされた恋する男。周囲の視線どころか、実は時計屋の店主がこわごわ窓辺から覗き見ていることにも気づかないのでした。
「いやでも陛下が、結婚前に必要なものは買い揃えるように、と……。
なら、この店の時計でなければならない何かが……?」
その声はもはや、獣の唸り声のようです。
その時でした。
「あーっ」
聞き覚えのある声が、通りに響いたのです。
リチャードは我に返りました。そして、慌てて声のした方に視線を走らせます。
すると、両手を広げた幼女が力の限りに疾走してくるのが目に入って。彼は咄嗟に、突進してきた彼女を受け止めるべく両手を広げたのでした。
「ちょっ、待っ……!」
息も絶え絶えな声が聴こえて、コニーが高いところから言いました。
「エリカちゃん、おそーい」
すこぶる楽しそうなコニーを見上げて、エリカは苦笑いを浮かべるしかありません。そこらへんを跳ねまわって遊ぶ5歳と、毎日刺繍をして小銭を稼いでいる自分の体力には、月とすっぽんほどの差があると思うのです。それも、市場で買い物を済ませた後ならなおさら。
条件反射でコニーを抱き上げてしまったリチャードは、エリカが重そうな手荷物をぶら下げて息を整えているのを見て、思わず尋ねてしまいました。
「だ、大丈夫か……?」
「あ、ああ、はいっ。大丈夫です!
今日はジャガイモが安くてっ。
つい買いすぎてしまったみたいで……っ、けほっ」
息が切れた勢いなのか、エリカの声が弾んでいます。
おまけに咳き込む様子を見てしまったリチャードは、手で彼女の言葉を制しました。
「いやもう喋らないでくれ。
ここで君が喉を痛めて、クレイグから苦情がきたら面倒だ」
目の前に置かれたバターたっぷりのクッキーを見つめて、コニーが生唾を飲み込みます。それはさながら、“待て”と言われた犬のようで。その嬉しさにあふれた顔を苦笑混じりに見つめたエリカは、コニーの耳元で囁きました。
「リチャードさんに“いただきます”してね、コニー」
「――――うんっ。
リチャくん、いただきまーす!」
リチャードは、言葉の割にクッキーから目を離さないコニーに苦笑を浮かべました。
大通りにあるレストランに誘ったのは、リチャードの方でした。久しぶりに再会したのだから……と、突撃したコニーに対して満更でもない笑みを浮かべて。
食事時からずれた時間であることが幸いしたのでしょう、他のお客さんは多くはありません。それぞれ、商談でもしているのか真剣な表情で声を落としています。
子どもの気配に顔をしかめていた人たちも、リチャードに手を引かれるコニーのゆるゆる笑顔に絆されたようです。席につく頃には、みな一様に頬を緩めてくれました。
子リスのようにクッキーを齧るコニーと、その横で大人ふたりがお茶を啜る……そんな穏やかな時間の流れる空間を、リチャードの口から零れた溜息が重くします。
人の機微――――特に機嫌に敏感なエリカは、思わず口を開いたのでした。
「……どうかしたんですか?」
尋ねても、リチャードは黙ったままカップに手を伸ばしています。
エリカは自分もそうしたいのを堪えて言いました。だってこの雰囲気では、いくら美味しいケーキでも味がしない気がするのです。
「なんだか、お疲れみたいですけど……」
「いや、そうじゃないんだ。
気にしないでくれ」
発せられた気遣わしげな言葉に、リチャードは首を振りました。
けれどリチャードの表情は明らかに曇ったまま。気にするな、だなんて無理に決まっています。
エリカは少し考えを巡らせると、すぐに思い当たりました。目の前の男性は、あと数日したら結婚するのです。
「もしかして、マリッジブルーですか?」
……やってしまった。
エリカはそう胸の中で呟いて、絶句したリチャードを見つめました。もうコニーがクッキーを食べこぼしていることになんて気がまわりません。
「ごめんなさい!
私なんかが立ち入ったことを……」
「いや、いいんだ」
慌てて頭を下げかけたエリカを制して、リチャードが呟きました。
「なるほど、マリッジブルーか……」
時計屋の謎はともかくとして、それなら少し納得出来そうだ……と心の中で頷きます。
結婚に対して不安になったマーガレットが、買い物に走ったのだとして。そうしたらきっと、ジーナの店で服をたくさん買い込むこともあるでしょう。
そして主人に元気がないことに気づいた使用人達が、食事の内容を変えたのです。そういえば彼女の部屋には、いつもより多くの花が飾られるようになった気もします。もしかしたら、気分が少しでも晴れるようにという、使用人達の気遣いかも知れません。
「……え?」
なんだか噛み合っていない気がして、エリカは小首を傾げました。リチャードは、どうして何かに納得したように頷いているのでしょう。マリッジブルーという言葉が思い当たらないくらいに疲れているのでしょうか。
そんなことを考えていると、リチャードが真剣な目をして口を開きました。
「どうしたら治るんだ?」
「さ、さぁ……」
混乱してきたエリカは、良く分からないままに首を傾げました。マリッジブルーの治し方なんて、聞いたことがありません。
すると、クッキーをたいらげたコニーが言いました。
「リチャくん、あかちゃんうまれるの?」
そのひと言は、時を止めました。言葉の通りに、ぴたりと。
凍りついたのは、リチャードとエリカだけではありませんでした。商談中のおじさん達も若い男女も、果てはウェイトレスまでもが顔を引き攣らせました。カチ、カチ、と大きな時計が刻む秒針の音がおそろしいほど鮮明に響いています。
エリカは顔を真っ赤にして視線を彷徨わせました。もう頭の中が真っ白で、言葉が一切出てきません。自分がそうなると想像出来る立場になっただけに、恥ずかしくて仕方ないのです。
一方のリチャードも、というかリチャードの方が途方に暮れていました。名指しでそんなことを言われてしまっては、何をどう否定したらいいものかと。
あるいはもしハンスがこの場にいれば、ユーモアに富んだ言葉でコニーと別の話題で盛り上がることも出来たのかも知れませんが……。
すると、痛々しいほどの沈黙を破ってコニーが言いました。
「ちがうのー?
フィーナさんと、おんなじのじゃないの?」
「あ……」
コニーの言葉に思い当たる節のあったエリカは、声を漏らしました。
「もしかして、マタニティブルーのこと?」
「うん? またに……?
すぐないちゃったり、おこったりするんでしょ?
リチャくん、げんきないからソレなんじゃないの?」
リチャードは沈痛な面持ちで、きょとんとしているコニーに言いました。
「違う。それは誤解だ」
「なぁんだ……あかちゃん、いないのかぁ……」
「それは悪かったな」
残念極まりない、といったガッカリ顔のコニーが溜息混じりに呟いて、リチャードは苦笑を浮かべてしまいました。ひとまず誤解は解けたようで、肩から力が抜けていくのが分かります。
だから、でしょうか。彼は禁句とも言えるひと言を口走ってしまったのです。
「――――赤ん坊に興味があるのか? コニーが?」
それはリチャードにしてみれば“まだコニーだって赤ん坊と似たようなものだろ”という、からかい半分の台詞だったのですが。言われた方のコニーにとっては、真面目な質問だったようで。
「うん!
わたし、あかちゃんほしいんだ~!」
凍りついた大人ふたりが立ち直るよりも早く、コニーは言いました。
「おねえちゃんになりたいの。
だれかくれないかなぁ……わたし、おせわちゃんとするのに」
「赤ちゃんは犬や猫じゃないんだけどなぁ……」
まるでクレイグのような口調で呟いたエリカが、口を尖らせるコニーを窘めます。
「それは、いつか……。
コニーが大きくなって、機会に恵まれたらね」
そんなもっともらしいことを言いながら、エリカは思いました。自分と同じで、コニーは家族というものに憧れがあるのかも知れない、と。もちろん子どもなので、単純によその家に家族が増えたのを羨ましく思っているだけなのかも知れませんが。
エリカが口元に笑みを浮かべていると、コニーが言いました。
「きかい?
あかちゃん、きかいからうまれるの?」
ちょっぴり残念そうなのは、もしかしたら自分も機械から生まれたのかと想像したからでしょうか。どうやらエリカの言葉は、子どもには難しかったようです。彼女は慌てて手を振りました。
「まさか!」
すかさずコニーが身を乗り出して尋ねます。
「じゃあ、どこから?
あかちゃん、どこからくるの?」
「えぇっ……?!」
エリカは驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべたまま固まったかと思えば、ぎこちない動きでリチャードに視線を送りました。
それにつられて、コニーも彼を仰ぎ見ます。
「――――は?」
助けを求めるようなエリカの視線を受けたリチャードは、頬を引き攣らせました。彼女が何を言おうとしているのかは分からないけれど、彼は自分が窮地に立たされる予感に首を振ります。
エリカは、そんなリチャードに手を合わせました。
「そ、それは、リチャードさんが知ってるんじゃないかな!
私よりも年上だし……ね、リチャードさん?!」
大変申し訳なさそうに、音もなくぺこぺこと頭を下げて。髪の隙間から見える真っ赤な耳に、必死さが滲んでいます。
その手前ではキラキラしたコニーの瞳から熱視線が……。
「う」
呻いたリチャードは、逃げようもないのを悟って深呼吸したのでした。
「――――父親に聞くのが一番確実なんじゃないか?
俺もエリカも、親になったことがないんだし……」
観念したと見せかけて、リチャードはするりと質問をかわしました。長年くせ者皇女の従者をしていると、いろいろな処世術が身に付くようです。
言われたことの意味がいまひとつ理解出来なかったコニーが、ぽかん、としています。その隙に、リチャードは小さな頭の向こうで瞬きをくり返すエリカに視線を走らせました。
「……エリカ。君もそう思うよな?」
「あ……」
鋭い視線に背筋が凍るような気がしたエリカは、慌てて頷きました。
「そっ、そうですね!
帰ったらクレイグさんに聞いてみようね!」
「え?
そうな……もがっ」
勢いに流されそうなコニーが首を捻ったところで、エリカの手が小さな口を塞ぎます。ふがふがと荒い鼻息が手にかかりますが、そんなことは気になりません。ただただ、リチャードの目が据わっているのをどうにかしなくては……と思うばかりなのでした。
そうこうしているうちに楽しい時間は過ぎ、3人はレストランを出ることにしました。
「ご馳走さまでした。
あと……いろいろすみません……」
真っ赤な顔と涙目で頭を下げたエリカに、リチャードは静かに首を振りました。ちらりとコニーを一瞥して。
「お互い災難だったな。
まったく……子どもは大変だ」
話題の中心たるコニーはリチャードに買ってもらったクッキーの入った袋を片手に、るんるんと鼻歌混じりに植え込みの花を愛でています。
言葉とは裏腹にリチャードの瞳が優しく笑んでいることに気づいたエリカは、あさっての方向を見つめると、そっと声を落としました。
「でもリチャードさんだって、いつかはパパに……?」
「なっ……?!」
思わず、といったふうに声を上げたリチャードを見て、エリカはクスクス笑ってしまったのでした。たまに怖いと思ってしまうことはあるけれど、たしかにメグお姉ちゃんの選んだひとだなぁ……などと胸の中で頷きながら。
そしてそのリチャードは、というと。
このまま別れるのでは一方的にやられっぱなしな気分ですし、なんだか面白くありません。彼は目元をほんのり赤くしたまま、別れ際にコニーを手招きして耳打ちしました。
「いいか?
これは秘密の合い言葉だから――――」
もちろんそれを聞いたコニーの目は、お星様のようにキラキラ輝いたのでした。




