後日談Ⅲ~悪い魔法にご用心~
3番目の皇女様のお住まいになっている宮殿は、こじんまりとしていて質素です。部屋の数も使用人の数も少なく、皇帝陛下のお住まいから離れた場所にあります。
つまり、とても静かなのです。
その静かな宮殿の片隅……といっても、ちょっとした突き当たりでマーガレットと使用人が2人、こそこそと話をしています。質素なドレスを着ているとはいえ、皇女様が使用人たちを廊下の隅に追い込んでいる様子からは、女性ならではの物騒さが感じられます。
けれど、そこから聴こえてくる声はなんだか楽しそうです。
「では、懐中時計はいかがでしょう?
文官になられるのですよね。重宝するのではないかと……」
「素敵!
きっとリチャードさん喜んでくれると思います!」
マーガレットと同じ年の頃の使用人が声を落として囁くと、その横で少し幼い雰囲気の使用人が手を叩いて頷きます。
「なるほど、それもいいわね」
真剣な顔でふたりの言葉を聞いていたマーガレットは、頭の中のメモを書き足しながら呟きました。
結婚と同時にマーガレットは皇女でなくなり、リチャードは従者ではなくなります。ふたりは住まいを変え、新しい生活を始めることになるのです。
その節目に、夫となる彼に何か贈り物をしたい……と彼女は思っているわけです。
先日宮殿を訪れた友人のウィルに助言を求めたところ、「皇女様からであれば、何でも喜んで受け取ると思いますよ」という、なんとも無難な言葉が返ってきて。
靴屋で暮らすエリカにも手紙で相談したところ、やり取りを続けるうちに逆に相談を持ちかけられてしまって。
……“何をしたらクレイグさんに喜んでもらえるかな?”なんて相談してくるものですから、ついつい適当に“背中でも流してあげたら喜ぶと思うわよ”などと書いて送ってしまったのですが……。
咄嗟に書いて出したとはいえ、今思えばなかなか良いアドバイスだった気がします。思い出したら、頬が緩んでしまいました。
「今頃食べられちゃってたりして……」
「――――皇女さま?
ご気分が優れないのですか……?」
むふふ、と堪え切れない笑みを零したマーガレットに、使用人が心配そうに声をかけます。
その刹那、彼女は我に返りました。そうです、今はリチャードに何を贈るべきかを悩む時なのです。
「な、なんでもないわ。大丈夫。
ごめんなさいね、仕事中に引き留めてしまって」
頬を引き攣らせた主人の前をあとにして、使用人達は「皇女さまはご結婚の準備でお疲れなのね」「お夕食は精の付くものを召し上がっていただかなくちゃ!……あっ、もちろんリチャードさんにも!」などと囁き合ったのでした。
……怪しい。
リチャードはそんなことを思いながら、首を捻りました。
夕食のこれでもかという程にスタミナ満点なメニューも、何かをぶつぶつ呟いて歩くマーガレットも、遠巻きに見つめてくる使用人仲間達も。なんだかもう、何もかもが怪しく思えてなりません。
「何があったんだ……?」
思わず呟いたものの、まったく見当がつかないのが正直なところです。だけど、この宮殿の中で何かが起きている予感はひしひしと感じます。
1日の予定をすべて終えて、あとはベッドに入るだけ。そんな時間になって、リチャードはマーガレットの自室のドアをノックしたのでした。
「――――はいっ」
突然響いた硬い音に、マーガレットは慌てて立ち上がりました。咄嗟に、使用人に書いてもらったメモを手近にあった本の間に挟んで。
真剣に考えごとをしていた彼女は驚いて速くなった鼓動を鎮めるために、そっと深呼吸をしました。そして意識して口の端を持ち上げると、ドアの向こうに尋ねたのです。
「どなた?」
何があっても相手の名前や声を確認するまで、ドアを開けてはいけない……というのは、宮殿暮らしを始めてすぐに教わったことです。その教えに忠実に、マーガレットは耳を澄ませました。
すると、返事の前に咳払いをする気配が。
誰がそこに立っているのか気がついたマーガレットの顔が、一瞬のうちに明るくなります。嬉しくなった彼女は、気持ちのままに勢いよくドアノブを回しました。
「リチャード!」
「――――っと……」
ぶぉんっ、と音を立てたドアに驚いたリチャードは、思わず息を飲みました。そしてすぐに何が起きたのかを理解して、険しい顔をしました。
「急に開けるな、危ない」
その顔は昼間の従者の顔とは違います。マーガレットにだけ見せる顔です。
彼女はそのことを知っているからなのか、小言なんて気にも留めずにリチャードを見上げて微笑みました。
温かいお茶を淹れるのはリチャードの方が上手です。仕事として長年やってきたことなので、当然といえば当然。
それは分かっているけれど、と思いながら、マーガレットは口を尖らせました。
「やっぱりわたし、料理やお裁縫を習っておこうと思うの。
料理は孤児院に移る前に少しやっていたけど、もう昔のことだし」
忘れちゃったわ、と付け足した彼女を一瞥しながらも、リチャードの手元が狂うことはありません。彼はカップの7分目までお茶を注ぐと、綺麗な所作でポットを置きました。
「まあ、料理は出来た方がいいだろうな。
食べることは生活の基本だし……」
リチャードは途中で言葉を切りました。なんでもなく話をしていましたが、自分がここ数日のマーガレットの様子を不審に感じていたことを思い出したのです。
彼はカップに手を伸ばしたマーガレットに言いました。
「でも花嫁修業もほどほどにしておけ。
メグ、最近疲れてるだろ」
きょとん、としたマーガレットが小首を傾げました。
「疲れて……?
ううん、そんなことないわよ。
よく眠れてるし、食欲もあるし。体調は良いと思うわ。
……あ。でも、ちょっと考えごとが……」
「考えごと?」
眉をひそめたリチャードに、マーガレットは慌てたように手を振りました。
「え、ええ。まあね。結婚式のこととか、ね」
「………………そうか」
ずいぶん長い沈黙のあとに頷いたのは、マーガレットの目が少し泳いでいるように思えたからで。けれどリチャードは、それ以上聞き出そうとはしませんでした。
彼は胸に引っかかりを抱えたまま、溜息混じりに言いました。
「疲れているように見えたから様子を見に来たけど……。
そうでないなら良かった」
「あ……」
そのひと言に、マーガレットは小さな声を零しました。胸がズキズキと痛むのを感じて。大切な婚約者を喜ばせたいがための隠しごとなのに、それが心配の元になっているなんて……。
「ご、ごめんなさいリチャード。
結婚式まで日がないっていうのに……。
あなただって、いろいろと整理しなくちゃいけないことがあるわよね」
「……ああ、まあ、そうだな」
俯いた婚約者のまつげが揺れるのを見て、リチャードは曖昧に頷きました。その悲しそうな表情がものすごく気になってしまったのです。
すると、マーガレットが思い出したように手を叩きました。
「――――そうだった。
近いうちにお遣いをお願いしたいんだけど……いいかしら?」
「うん?」
唐突に話題が切り替わったことに、リチャードは思わず訝しげに眉根を寄せました。何かを誤魔化された気がします。
けれどマーガレットの晴れやかな顔を目の当たりにして、彼は頷きました。
「……ああ」
追及しても、きっと適当な言葉が返ってくるだけ。この皇女さまは強がりで意地っ張りで、最後の最後まで甘えたりはしないのです。
「ありがとう、助かるわ。ジーナの店に行って来てほしいの。
注文した服が出来たっていうから――――」
リチャードの心情など知る由もないマーガレットは、言葉の途中で服と引き換えの注文書を取りに行ってしまいました。
そして手持無沙汰になったリチャードは、なんとなく部屋の中を眺め――――無造作に置かれた一冊の本に目を留めたのでした。




