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後日談Ⅱ~ガラスの靴でどちらまで~








お風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭き取りながら、エリカは目を細めました。そのひと房を手にして、しげしげと眺めて。

「伸びたねぇ」

「ほんとー?」

されるがままのコニーが、嬉しそうに振り返りました。タオルの中で子ども特有の柔らかい髪が、くしゃりと鳥の巣を作ります。

「あっ、こらこら。

 もうちょっと我慢して」

エリカは苦笑を浮かべて、絡まりそうな髪を手で梳いてやりました。その髪の長さを確かめながら、言われた通りに居住まいを正したコニーに囁きます。

「ね、コニー。明日は三つ編みにしてみようか!」

その言葉に感激したコニーは勢いよく振り返ると、目をキラキラさせて頷いたのでした。



熱めのお湯を足した浴槽からは湯気がもくもくと昇っています。肩まで浸かったクレイグは、大きく息を吐き出しました。

その時です。

「あの、クレイグさん……?」


シャワーカーテンに映った人影に気がついて、ぼーっとしていたクレイグは驚いて腰を浮かせました。ばしゃっ、と水の跳ねる音が響きます。

「え、エリカか。

 ……どうした?」

慌てた彼が平静を装って尋ねると、エリカはカーテンの向こうでなにやらゴソゴソしながら言いました。バスルームの中だからか、くぐもった声が反響します。

「タオルと着替え、ここに置いておきますね」

「ああ、ありがとう」

またか、とクレイグは胸の中で嘆息しました。

ここ数日の間で、もう何度目でしょうか。エリカがタオルと着替えを持ってバスルームに入って来るのは。

ちょっとばかり複雑な気持ちで、クレイグは声を落としました。

「でも、エリカ。

 いくら家事を任せてるからって、ここまでしなくても良いんだよ」


シャワーカーテンの向こうから聴こえてきたクレイグの声が申し訳なさそうで、エリカは肩を落としました。

“何をしたらクレイグさんが喜んでくれるのか”を手紙でマーガレットに尋ねたのですが、彼女が教えてくれたことが“背中を流してあげること”で。それはちょっと敷居が高すぎる、と顔を赤くしたエリカが考えたのが“タオルと着替えを用意する”ことなのです。今まではバスルームの外の棚の上に、だったものを、バスルームに直接。

だけどそれも、余計なお世話だったのかも知れません。シャワーカーテン越しに会話をするのは、実はちょっと特別な気がして嬉しかったのですが。


肩を落としたエリカは、しょんぼりして言いました。

「う。ごめんなさい。

 余計なことしちゃいましたね……」

「い、いや違うんだエリカ。

 嬉しいんだけど、申し訳ないというか……」

あからさまに悲しそうな声になったのを聞いて、クレイグは慌てて首を振りました。なんだかもう天を仰ぎたい気持ちでいっぱいです。

エリカがシャワーカーテン1枚隔てた距離に来るのが恥ずかしい、だなんて。散々一緒に暮らしてきたはずなのに、今になって初恋をした少年のように意識過剰になってしまう自分が信じられません。服を着ていないのは自分の方なのに。


クレイグは小さなプライドをかなぐり捨てることも出来ず、正直な気持ちを飲み込んで言いました。

「ともかく。

 明日からは今まで通りで……」




揺らめくランプの明かりを頼りに視線を走らせたクレイグの顔が、みるみるうちに曇り、しかめられました。

「なんだこれは」

げんなり、といった様子の彼は呟いて、目を通していた冊子から顔を上げます。

手にしていたマグカップのひとつをクレイグに差し出すと、エリカは待ってましたとばかりに拳をぐっと握りしめました。

「それはですね!……かくかくしかじか……」


「――――まったく……。

 一体何を考えてるんだ、あの人は」

カップに口をつけていたクレイグは、溜息混じりに吐き出しました。その顔には、疲れの色に混じって羞恥が滲んでいます。

そんな彼を前に、エリカも顔を赤くして頷きました。

告げ口気分で事情を話し始めた時は良かったのですが、クレイグが事の次第を理解したと気づくや否や、ものすごく恥ずかしくなってしまったのです。だって、ジーナの書いた物語は主に“とある靴屋の主人と家出娘”なのですから。

「恥ずかしいですよね、こんなの。

 名前を変えてあるからって、困りますよね……!」

お風呂上がりとは別の熱を感じて、彼女は手のひらでぱたぱたと顔を扇ぎます。

するとクレイグが、冊子に目を落として言いました。

「ああ、本当に。困ったものだよ」

真っ赤になって俯いたエリカをよそに、クレイグは考えていました。そもそもです。ジーナが本が一冊書けるほどに自分達の馴れ初めを知っていたのは、どうしてなんだろうか……と。



それからふたりは、いつものように日中のなんてことのない出来事を話し合いました。ジーナの店でのクレイグの靴の売れ行きについてや、どこの店に新しい商品が入っていたとか、そんなことを。

会話の8割はエリカの話で、クレイグは相槌を打ちながら耳を傾けます。綿飴屋さんでオマケしてもらった話を聞いた時だけは、片方の眉がぴくりと跳ね上がりましたが。


「……そろそろ片付けて寝ようか」

時計を一瞥したクレイグが声を落として囁きました。コニーが2階で眠っているのです。

そのひと言でエリカも時計に視線を走らせます。いつもよりも夜更かししてしまったことに気がついた彼女の口が、「あ」と開きました。

「明日、ジーナさんの所に行こう。話をつけないとな」

苦笑を浮かべたクレイグは、エリカのカップを手に椅子から立ち上がりました。

「そうですね……って」


頷いている間にスタスタと歩いていってしまったクレイグの背を追いかけて、エリカは少し大きめの小声で言いました。

「片づけなら私がやりますっ。

 クレイグさんは先に休んで下さい!」

大人ふたり……というよりも、熊のようなクレイグとエリカが並ぶと少し手狭になる台所に体を捻じ込んできたエリカに腕がぶつかってしまわないよう、クレイグは注意を払って蛇口を捻りました。

けれど、そこへエリカの手が伸びてきます。刺繍が得意な彼女の手は、器用にクレイグの前にある食器磨きの布を攫うように取っていきました。

なんだか出し抜かれた気分で、クレイグが溜息混じりにエリカを見つめました。

「……エリカ。たまには甘えたらどうだい?

 この家では、あまり気を張らないで欲しいんだけど……」

諭すような口調に、力んでいたエリカの手から強張りがほどけていきます。彼女は小さく笑って言いました。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。

 私はクレイグさんと一緒にいるだけで十分ですから」


そのひと言を聞いて、クレイグが息を飲みました。不意をつく発言に心臓が音を立てて飛び跳ねたのです。もちろん、隣に立つエリカには気づかれないように深呼吸。

ところが彼女は、何食わぬ顔をして食器を洗っています。クレイグはその冷静さを不思議に思って、内心で首を捻りました。

その時です。エリカが手を止めずに呟きました。

「気を張るだなんて、そんなこと考えたこともないですよ。

 だってクレイグさんといると、安心するんです。

 なんか――――お父さんって、こんな感じなのかなぁ……って」


それは言ってはいけない言葉でした。人によっては褒め言葉になるのかも知れませんが、クレイグには絶対に言うべきではありませんでした。間違いなく、地雷でした。


眩暈すら感じたクレイグは、頭の芯が冷えていくのを感じて息を吸い込みます。

落ち着かなくては。自分はエリカから見て十分過ぎるほど大人なのだから。そんなことを自分に言い聞かせながら、クレイグは目を閉じました。

目を閉じると水の音と、食器がカゴに置かれる硬い音が聴こえてきます。そこにはエリカの音はありません。

けれど。

ひと呼吸置いて瞼を持ち上げたクレイグの視界には、髪をかけたエリカの耳があったのです。小さくて白くて、お風呂で温まって薄っすらピンクに染まった耳が。


「……ああもう」

自分でも何を嘆いているのかよく分からないまま、クレイグは腕を伸ばしたのでした。



ぴちょん、と水が跳ねました。

「あの……?」

エリカは戸惑いながらも、顔だけで後ろを振り返りました。手は濡れているので、がっちりお腹に回されたクレイグの腕には触れることは出来ません。振り払おうとは思わないけれど、隙間を空けようにも身動きが取れそうになく……。

とりあえず水を止めたエリカは、何を言ったらいいのか言葉を探して口を閉じたのでした。


立ち昇ってくるシャボンの匂いにクラクラしながら、クレイグは口を開きました。

「……勘違いしないでほしいんだが」

そんなことを言いながらも、頭の中ではもうひとりの自分が言います。こんなに良い匂いがするなんて今まで知らなかった、と。

戸惑っているらしいエリカは、口を閉じて視線を彷徨わせています。とりあえず悲鳴を上げられたりしないで済んだことに安堵しながらも、クレイグは言いました。

「君の父親代わりになるつもりはないよ」

ひと息に、隙間なく並べた言葉。

速まる鼓動を抑えながら言えば、偶然に色香が漂います。

囁きに、エリカの肩が強張りました。怯えているわけではなさそうだけれど、喜んでいるようには決して見えません。

クレイグは若干の罪悪感を振り切るように、エリカを抱きしめた腕に力を込めました。これしきのことで後ろめたく思っていたら、この先が思いやられるというものです。

彼はそんなことを思うと、彼女の耳元に唇を寄せました。

「エリカに安心してもらえて嬉しいけど、父親扱いじゃ困るな」

「――――ひぅっ」

囁きが耳たぶをびりびりと揺らす感覚に、エリカは肩をびくりと震わせます。


大きな声を出さないように濡れた手の甲に口を押しつける彼女を見て、クレイグは気が遠くなるのを感じました。というよりも、我を忘れそうになった自分に失望しそうになりました。

一瞬でも、このまま抱き上げて連れて行ってしまえばなんとかなるかも、とか考えてしまったことが残念でなりません。なんとかなるって。なんとかなってしまったら、それは犯罪と呼ばれかねません。


ひと呼吸置いて、クレイグはエリカの耳の後ろに唇を寄せて音を立てました。もちろん、痕が残らないように細心の注意を払って。だけどちゃんと、自分の存在を主張するために。


「こんなふうに確認するのも野暮な気はするけど……。

 私達は、これでも好き合って一緒に暮らしているんだったね?」

肌を這うような声に、エリカはこくこく頷きました。もう声なんて出ません。耳の後ろに何をされたのか想像しただけで、卒倒出来そうです。

するとクレイグの手が、彼女の口元にあった手を掴みました。水に触れて冷えていたはずの手が熱いことに気がついて、彼の頬が緩みます。

「それなのにお父さん、だなんて……。

 悪い子だな、エリカは」

彼は無意識のうちに、ちょっとばかり意地悪な物言いをしました。よっぽど“お父さん”呼ばわりに衝撃を受けたのでしょう。


言葉を失ったエリカは、クレイグに向き直りました。そして、彼の目をじっと見つめて言ったのです。しょんぼり、というより必死に。

「ごめんなさい」

捨てられたくない一心のエリカを見て、クレイグの胸がじくじくと痛みます。

彼は慌てて彼女の頬を撫でながら口を開きました。

「いや、すまない。

 私も少し大人げなかったよ。

 最初から、素直にこうしておけばよかったんだ」

そう言ったクレイグの唇が、エリカの唇にそっと触れて離れました。お互いに吸いつくような感触が、最後に音を立てます。


ちゅ、という音に我に返ったエリカは、これまた我に返って少年のような自分に恥ずかしくなっているクレイグに言いました。

「――――今のは、お仕置きですか……?」




この時のことを、後にクレイグは振り返って「その上目遣いはまるで小悪魔のようだった……」と、呟いたそうです。そしてそれを聞いたハンスが、耐えかねて舌打ちしたといいます。


マーガレットとリチャードの結婚式まで、10日ほど前の夜のお話です。









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