その靴で鐘を鳴らせ 2
熊のような大きな手には、大小さまざまな傷があります。
そのひとつひとつを目で追いかけながら、エリカは静かに待っていました。遠くからは小鳥のさえずりが聴こえてきます。
そういえばコニーはどうしているだろう。気にはなりますが、マーガレットとリチャードがついているのだから心配はないでしょう。むしろ、彼らが振り回されているような気がします。
穏やかな時間は、思いのほかゆっくり流れているのかも知れません。
流れた涙は一粒きりで、残りは風が乾かしてくれたようです。もしかしたらクレイグに食べられてしまうのを恐れて、引っ込んだのかも……。
そんなことを考えながら、エリカは彼の横顔をじっと見つめました。
ふぅ、と息をついたクレイグが振り返りました。
「エリカ、少し頭を下げて」
「はい」
どこか厳かともいえる雰囲気を感じて、エリカは神妙な面持ちで頭を低くしました。するとそこへ、わずかな重みが加わります。
「うん、最初に作ったのより綺麗に出来たな。それに……」
エリカが頭をゆっくりと持ちあげると、クレイグは満足そうに頷きました。ところが、言葉の途中で視線が右に左に彷徨い始めます。
何だろう、とエリカが内心で首を捻っていると、彼は彼女をちらりと見遣って言いました。
「その……よく似合ってる。可愛いよ」
目が合った刹那、エリカの顔に熱が集まります。それこそ、顔が燃えているんじゃないかと思ってしまうくらいに。
「えっ、あっ……」
けれど顔が熱いのはクレイグも同じで。彼は、咄嗟に歯の浮くような台詞を吐いてしまった自分を少しだけ後悔しつつ咳払いをしました。
すると、その様子に気がついたエリカが照れ笑いを浮かべます。
「えっと……ありがとうございます」
はにかんだ顔は少し傾いていて、頭に載せた花冠がちょっとばかりズレてしまって。だけど、そんな彼女の笑みはクレイグの目を奪いました。そして同時に、彼を観念させたのです。
「エリカ」
名前を呼んだクレイグは、真っ赤になったエリカの頬を両手で包み込みました。まるで卵を温める親鳥のように、そっと。
触れたその手が自分の顔よりも熱い気がして、彼女は驚いて瞬きをしました。
それが返事の代わりだと思うことにしたクレイグは、困ったように頬を緩めて口を開きます。
「君はもう自由だし、私は君を不幸にはしたくない。
だけどもし、私を憐れだと思ってくれるなら……」
エリカは何を言われているのか理解しようとして、耳を澄ませました。不幸だとか憐れだとか、およそクレイグの表情には似つかわしくない言葉が出てくるのは何故なんだろう、と思いながら。
それでも、すごく大事な話を聞いている気がするのです。
「靴屋で暮らしてくれないか。コニーと、私と一緒に」
そんなことを言いながら、クレイグは頭の中でたくさん言葉を並べました。
そもそも結婚なんてもう懲り懲りだし、コニーが世の中のいろんなことを理解するまでは女性に目を向けるつもりはなかった……けれど、そのコニーがエリカと暮らしたいと望んでるんだし。エリカは身寄りもなくなって困っているんだし。何より世間知らずで警戒心が薄いから、いつかどこかで騙されるかも知れないし。とんでもない、そんな想像をするだけで身が引き裂かれそうだ。
……だからこれは、きっとエリカにとっても悪くない話のはず。
いろんな言葉を自分に向けて並べ立てたクレイグは、最後に溜息をひとつ。なんだかんだ言ったところで、理由はひとつなのです。
彼は、目を見開いて息を止めてしまったエリカに言いました。
「もちろん、エリカが嫌なら止めない。
だけど……出来れば、もう少しだけ一緒にいさせてほしいんだ」
エリカの瞳が、ゆらゆらと揺れています。
彼女の口から何かしらの言葉が出てくるまで持て余したクレイグは、ズレてしまった花冠を載せ直してやりました。
「君を好きに、なってしまった」
祈るように囁いたクレイグが、エリカから離れました。
「やっ……」
その瞬間、彼女の手が離れた体温を追いかけます。それを捕まえた彼女は小さな傷でいっぱいの手のひらを、そっと撫でて言いました。
「憐れだなんて思ったことありません。
一緒にいて不幸になるわけないです」
硬い皮膚をほぐすように、エリカは手のひらを撫で続けました。そして、ゆっくりと視線を持ち上げました。顔が赤くなっても心臓が爆発しそうに鼓動を速めても、目は逸らさないと決めて。
「私だって、思ってたんですよ。
クレイグさんとコニーと一緒にいたい。出来ればずっと……。
それだけで十分過ぎるくらい、毎日が幸せに決まってます」
「それは……」
意を決したように言葉を紡いだエリカに、クレイグが何か言おうと口を開きます。けれど彼女は、それを遮るように言いました。
「どこにでも行け、なんて言わないで。
そんな自由、私は欲しくない」
泣き笑うように顔をくしゃりと歪めたエリカを見て、クレイグは咄嗟に手を引きました。彼はバランスを失った肩を受け止めて、その背に腕を回します。
されるがままクレイグの胸にぴったりと頬を寄せたエリカは、涙混じりの声で囁きました。
「クレイグさんが好きです。だから……」
抱き寄せたエリカからは、やり直した花冠の甘い香りが漂っています。それを胸に吸い込んだクレイグは、そっと口を開きました。
「――――ありがとう」
バラのアーチを思う存分くぐって遊んだコニーは、リチャードの肩車という乗り物で帰ってきました。だから普段よりもずっと視界が広くて、遠くまで見渡せたのです。
「あっ、パパ! エリカちゃーん!」
「……おい、動くな。落ちるぞ」
焦りを含んだリチャードの声には耳も貸さずに手を振り続けたコニーは、いつまで経ってもふたりが気づかないことに痺れを切らせてしまいました。もともと興味のあるものには猪突猛進なのです。
「おろしてーっ」
「きゃっ、コニーちゃん!」
「あっ、あぶなっ……」
いてて、と首を擦ったリチャードを尻目に、コニーは地に足が着くのと同時に駆けだしました。
疲れを知らないコニーは、全速力で走りました。だって、父親がふかふかなお姉さんを抱っこしているのが見えたのです。これは一大事です。
「パパーっ」
まだまだ小さな足や腕を精一杯動かした彼女は、何かとてつもなく素敵なことが起きている予感に堪らなくなりました。嬉しさが体から弾けてしまいそうです。
「エリカちゃーんっ」
届かなくても、とにかく名前を呼びたい衝動に駆られました。わたしも仲間に入れて、と言わんばかりです。
そんなコニーが彼らの元に辿り着いた時。エリカは花冠を手に椅子に腰かけていて、クレイグは彼女の足元に膝をついて何かをしているところでした。
小首を傾げたコニーを見て、ふたりは目を泳がせます。
「お、おかえりコニー」
「楽しかった?
ええっと、その、メグお姉ちゃん達は?」
あからさまな態度は気になるけれど、コニーにはもっと気になることがありました。それは、父親の手の中にあるもので。
「あれぇ?
そのくつ、エリカちゃんの?」
「あ、ああ、うん」
目聡い愛娘の質問に引き攣った笑みを浮かべたクレイグは、これ以上質問責めにならないようにと視線を移しました。
そして、そっと手にした靴をエリカの足に履かせます。
その時です。
雲ひとつない青空に、鐘の音が響き渡りました。
「これは……教会の鐘……?」
ほんのり頬を染めていたエリカが驚いて顔を上げると、コニーが言いました。
「そっか!」
ぱちん、と音を立てた小さな手に、小さな溜息がかかります。
「パパ、エリカちゃんのおーじさまになったのね!」
コニーの無邪気なひと言に笑みが零れて、ふたりはハチミツのように甘い視線を交わしました。
そのずっと向こうでは、教会の鐘の音を聞いて自分達の結婚式を思い浮かべたマーガレットとリチャードが、こっそり誓いのキスの練習をしていたんだとか。
抜けるような青空を、柔らかい風が吹いていきます。彼らの笑い声と、溢れるほどの甘くて幸せな言葉をのせて。ずっとずっと続く明日へと。
これは広い帝都の片隅で紡がれた、靴と花冠と、やり直しのお話。




