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その靴で鐘を鳴らせ 1








「あ、あの、私は大丈夫ですから。

 クレイグさんは今からでもコニーのところに……」

毛布の上に座ったエリカは、おずおずと言いました。なんともいえない罪悪感で、その声を小さくさせて。

するとクレイグは、そんな彼女の様子を見て顔をしかめました。

「エリカの“大丈夫”はどうも信用ならないからな……。

 いつだったか、庭で倒れたこともあったし。

 そんな君を、私が置いて行けると思うかい?」

「……う」

少し前にあったことを蒸し返されて、エリカは口ごもりました。

あの時は本当に倒れてしまったので、反論出来ません。ましてや、今回は本当に大丈夫なんです、なんて言えるわけがないのです。

クレイグが心配するのも当たり前です。


言うに言えない言葉を飲みこんで静かになったエリカを前に、クレイグは溜息をつきました。

「とりあえず、よかった」

「え?」

耳に痛いことを言われるのかと思っていたエリカは、思わず声を漏らしました。

クレイグの口元には、ほんのりと笑みが浮かんでいます。

「今すぐ医者を呼ぶほどじゃないようで、安心したよ」

そのひと言は、エリカの胸をチクリと刺しました。彼にそのつもりは微塵もないのですが、それが分かるから余計に罪悪感は増すばかりで。

微笑み返すことが出来ずに、エリカは俯きました。

すると、クレイグが苦笑混じりに口を開きます。

「まったく、最後まで心配させるね」

「あ……」

エリカは思わず顔を上げました。クレイグの言葉が聴こえたのと同時に、頭に心地よい重みを感じたからです。

その大きくて温かい手はエリカの頭の上で、ぽふぽふと跳ねています。

触れた温もりが嬉しいやら、子ども扱いされて悔しいやら。言葉にならない気持ちに、エリカは唇を噛みました。


「うん……?」

複雑そうな表情を浮かべて黙り込んでしまったエリカを見て、訝しげに眉根を寄せたクレイグは内心で首を捻りました。そしてすぐに、険しい顔つきになって言いました。

「エリカ、顔色が……もしかして熱が出てきたのか。

 苦しくないか?」

「ぜっ、ぜんぜんっ」

ぐっと距離を縮めて顔を覗き込んでくるクレイグに圧倒されて、エリカは慌てて手を振ります。けれど、その手はふた回りほど大きな手に絡め取られてしまいました。

「だから言っただろう?

 君の“大丈夫”は信用出来ない、って」

「う」

まるで怒っているかのような顔つきになったクレイグに見つめられて、エリカは言葉を飲み込みました。ぐっ、と喉元で息が詰まります。


クレイグは、おとなしくなったエリカの額に手を伸ばしました。でも、コニーが季節の変わり目に風邪を引いた時のような熱っぽさは感じられません。

「……おかしいな。顔はこんなに赤いのに」

首を傾げるクレイグに覗きこまれたエリカの耳が、みるみるうちに赤くなってきました。見つめられていると意識したら、それだけで体温が上昇していくような気すらしてしまいます。

額を押さえられて身じろぎも出来ない彼女は、息を吐くのも躊躇われて視線を彷徨わせました。自分の顔がどのくらい赤いのか分からないのも不安を煽ります。

「あの……っ」

緊張と不安が膨らんだエリカは、そんなにまじまじと見ないで……と思いました。けれど、それが言葉になる気配はありません。

見ていてほしい、でも見つめないでほしい。そばにいてほしい、でも密着しないでほしい。でないと恥ずかしさと緊張で体温が上がって、息が出来なくなってしまう。

複雑な乙女心が、彼女の唇を重く硬くしてしまったのでした。


額は熱くないのに、熱がある時のように頬や耳は真っ赤で。そんなエリカの潤んだ瞳に一瞥されたクレイグは、眉を八の字にして溜息をつきました。

「ああもう……。

 そんな顔をしないでくれ、エリカ」

彼女の額を押さえていた手で今度は自分の額を押さえると、彼は沈痛な面持ちで呟きました。体の内側に乱暴な熱が膨らんでいくことを認めて。こんなこと、実に数年ぶりです。頭の中に反響する自分の感情をどう扱えばいいのか、途方に暮れてしまいそうです。


ところが、彼がそんな苦悩を抱えていたとは露ほども思わないエリカは、頭の芯が冷えていくのを感じて静かに目を伏せました。クレイグが発した白旗代わりの言葉を、言葉の通りに受け取ったのです。

恋だと言葉に出来るほどハッキリした気持ちではないけれど、それでも好意を寄せた相手に言われると傷つくもの。貶されたと思い込んだ彼女は、上がりきっていた体温が戻っていくのと同時に口を開きました。

「――――ひどいです」

「……ええ?」

きゅっと口元に力を入れたエリカを見て、クレイグは瞬きをくり返しました。彼女の機嫌が急降下したことは分かりましたが、その理由が思い当たらなかったのです。

すると俯いたエリカが、小さな声で言いました。

「クレイグさんの所為なのに」


そのひと言に、クレイグは体を硬直させました。そして漠然と、この子は何を言い出すんだろう、とかそんなことを考えました。

けれど輪郭のハッキリしない思いは言葉にはならず、ただ彼の唇は空気を求めて開いたり閉じたりを繰り返すばかりです。


ふかふかした毛布の模様を見つめるエリカは、クレイグがあからさまに戸惑っていることになんて気づくわけもなく。ぐちゃぐちゃになってしまった気持ちをぶつけるようにして言葉を紡ぐのでした。

「かっ……顔が熱くなって、心臓がばくばく煩くなって。

 それで変な顔になっちゃうんです。クレイグさんの所為です。

 クレイグさんが近くにいると私、なんかいろいろ変になっ……!」

感情のままに喋り続けたエリカは、最後まで言い切らないうちに息を切らせてしまいました。だけどその分、出てきたのは飾らない素直な気持ち。……ただし、意味を成しているかどうかは別の話ですが。

とにかく“そんな顔”の原因はクレイグにあるのだ、と伝えたかったエリカは、肩で息をしながら視線を上げました。まだまだ言いたいことはあるのです。

けれど彼女は次の瞬間、きょとんとしました。口元を手で押さえ、耳まで真っ赤になったクレイグが目の前にいたから。


珍しく動揺しているらしいクレイグをほんの少しの間だけ見つめていたエリカは、遠慮がちに口を開きました。もしかして、詰るような口調は良くなかったかも……なんて思いながら。

「あの、クレイグさん?」

クレイグは咳払いをしました。うっかり赤面してしまった自分を誤魔化すように。

「まったく君は……」

内に膨らんだ何かを溜息に込めて吐き出した彼は、そっと手を伸ばしました。不思議そうに小首を傾げるエリカに向かって。




「この顔……。そうさせてるのは私なんだね」

指の先まで熱のこもった手でエリカの頬を撫でたクレイグは、彼女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていくのを見つめて小さく笑いました。もう笑うしかありませんでした。

くつくつと音を立てる喉を見つめていたエリカは、むず痒いような居心地の悪さを覚えて視線を彷徨わせました。

すると頬を緩めたクレイグが囁きました。

「すまない」

その瞬間、エリカは弾かれたように視線を走らせます。その瞳が、クレイグが眩しそうに細めた双眸とぶつかりました。


柔らかく笑む彼の目を見つめて、ようやく彼女は自分の胸に違和感があることに気づきました。その正体が何なのか考えを巡らせました。

そうして、エリカは心の中で呟きました。私は謝って欲しくて言葉をぶつけたわけじゃなかったんだ……と。


視線を返したまま固まってしまったエリカを見て、クレイグがまた小さく笑います。

「困ったな」

「……え?」

言葉とは裏腹な表情を浮かべるクレイグに、エリカは我に返って小首を傾げました。

すると彼が苦笑混じりに口を開きます。

「仕方がないんだと思ってたけど、そうも言えなくなってきたな」

「えっ?」

エリカは訝しげな表情でクレイグを見つめました。

「いや、君がこんな顔を他の誰かに見せる日が来るかと思うとね」

「他の誰かに……」

呟きながら、エリカは想像してみました。例えばハンスを目の前にして、耳たぶまで熱くさせて鼓動の速さに息が苦しくなる自分を。だけどそれは、ちょっと難しそうです。

みるみるうちに、彼女の眉間にしわが寄ってきました。


クレイグの顔に笑みが浮かびます。根を張った蔦のように絡まる自分の気持ちを余所に、エリカの眉間に現れた嫌悪の気配が嬉しくて。

「ちょっとだけ、待っていて」






普段なめした革を縫い合わせたり木型を削り出したりしている大きな熊のような手が器用に働いているのは、いつもと雰囲気が違って新鮮で。エリカは、クレイグの手をじっと見つめていました。

「すごい……クレイグさんも花冠を作れたんですね」

「ああ。でも久しぶりだから、上手く出来るかどうか……」

そう言いながらも、彼は休むことなく手を動かしています。無造作に選んだ花が、ひと編みするごとに輝くようで見惚れてしまいます。

「エリカは頭が小さいから、すぐに編み終わりそうだ」


「……誰かにあげたことがあるんですか?」

小さく笑って呟いたクレイグを横から見つめて、エリカは思わず呟きました。

その瞬間、彼の口から呻き声のような何かが漏れ聴こえて、彼女が瞬きをくり返します。そして、ふと思い当たったのです。何の前触れもなく、突然。

「あ、レイニー……さん……?」


驚いたクレイグが編みかけの花冠を取り落とすのと、我に返ったエリカが息を飲んだのは同時で。慌てて口を押さえた彼女の視界に、ほどけてしまった花が散らばります。

先に口を開いたのはクレイグでした。

「――――その名前をどこで?」

冷たく鋭い声。温度の感じられない問いかけに、エリカは喉がきゅっと締まるのを感じながら口を開きました。

「この前、クレイグさんが寝言で……」

「寝言?

 私が寝言で、彼女を呼んでたのか?」

顔をしかめて嫌悪感をあらわにしたクレイグの様子に、エリカは慌てて言いました。

「盗み聞きするつもりはなかったんです!

 けど、すぐそばにいたから聴こえちゃって……」


クレイグは溜息をつくと、顔を強張らせて視線を彷徨わせるエリカに向かって首を振りました。

「すまない、エリカを責めてるわけじゃないんだ。

 自分の夢見の悪さに、どうしようもなく腹が立つだけで。

 会うどころか、思い出すこともなかったのに……なんで今……」

「ごめんなさい」

言葉の端々に苛立ちを滲ませたクレイグに、エリカは小さな声で謝るしかありませんでした。他にどうしたらいいのか、分からなかったのです。


項垂れたエリカが散らばった花を拾い始めると、クレイグは溜息混じりに口を開きました。そんな顔をさせるために花冠を編み始めたわけじゃないのです。彼女のはにかむ顔が見たくて、もう二度と縁がないと思っていた花に手を伸ばしたのです。

「レイニーは、コニーを産んだひとでね」

ぽつりぽつりと、彼は語り始めました。いやに回りくどい表現をしたのは言葉を選んでいるからなのか、それとも……。

花を拾っていた手を止めて、エリカは静かに耳を傾けました。相槌を打つのも憚られるので、せめてしっかりと目を向けて。ちゃんと聞きたい、知りたいと思うのです。


「ある日赤ん坊だった我が子を置いて、行方をくらませた。

 わざわざ置手紙を……これは自分の意志だと書き置いてね。

 一度は妻として愛した女性だけど、それは過去の話だ。

 なのに……どうしてなんだろう……」

そこまで話して、クレイグは小さな溜息を吐き出しました。そして、拾い集めた花を大事そうに抱えたエリカを見つめて言いました。

「もう彼女の名前を口にをすることはないと思っていたんだけどな。

 気にしないでおいてくれ」


「はい。

 ……だけど……」

クレイグの穏やかさを取り戻した声にエリカはほっとして、ほんの少し頬を緩めて言いました。

「こんなこと言ったら不謹慎なんでしょうけど……。

 その過去があるおかげで、私は靴屋に置いてもらえたんですよね。

 クレイグさんとコニーが悲しい思いをしたのは嫌だけど……でも、

 だからこそ情をかけてもらえたんじゃないかな、って……」


苦い記憶ばかりが思い出されて疲れた顔をしていたクレイグは、エリカの言葉に苦笑いを零しました。それでも笑えるのは、時間が経ったからでしょうか。それとも、柔らかな風が邪魔な何かを吹き飛ばそうとしているからでしょうか。

「たしかに最初は同情だったけど……」

集めた花に視線を落とした彼は、両手の塞がるエリカの鼻先をきゅっと摘まみました。彼女がぴくりと体を震わせます。

その様子を目を細めて見つめて、彼が呟きました。

「今は、エリカが一緒にいてくれて良かったと思ってるよ」


エリカはクレイグの言葉を噛みしめるように頷いて、息を吸い込みます。そして息を止め、鼻の奥がつんと痛むのを堪えると顔を上げました。

「……私ね、夜中にクレイグさんとお茶を飲むのが楽しみでした。

 コニーと手を繋いで市場に行くのも。綿飴を一緒に食べるのも。

 ふたりのために食事を作って、靴下の穴を縫い塞いで。

 家族というものに縁のなかった私には、それだけで十分……」

途中で声が震えてしまって、エリカは言葉を切りました。急に、もうあの靴屋には帰れないのだと実感してしまったのです。

するとクレイグが、困ったように眉を下げました。

「ありがとう、エリカ。

 そんなふうに思ってもらえて嬉しいよ。すごく嬉しい」


そして彼は、エリカの両手から花をひとつ手に取りました。涙が零れ落ちる寸前で踏み止まっている彼女の視線が、その手の動きを追いかけます。

「やり直すよ。

 だから少しだけ、待っていてくれるかい?」

こくんと頷いた拍子に、エリカの目から涙が一粒。頬を伝う途中のそれを掬い取った指先を口に含んだクレイグは、苦笑混じりに「しょっぱいな」と呟きました。









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