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崖っぷちのシロツメクサ 1








「顔を上げよ。

 堅苦しいのは政務だけで十分だ」

跪いた男ふたりを見下ろして、皇帝陛下は溜息混じりに言いました。


そう言われても、とクレイグは心の中で呟きます。

相手は皇帝陛下なのです。この国で一番偉くて一番怖い、皇帝陛下。彼が白を黒だと言えば、何が何でも黒なのです。少なくともクレイグは子どもの頃からそう教えられてきました。

……なのに。

「――――同じことを同じ相手に二度言うのは好かぬ。

 さっさと立て」


苛立ちを含んだ声が降ってきたのを聞いたクレイグは、内心びくびくしながら顔を上げました。目の前には上等な布で出来た、深紅のマントがあります。この国でマントなんてものを身につけているのは、皇帝陛下だけのはず。

クレイグは、いつの間にか近くに来ていた皇帝陛下と目を合わせないようにしながら、ゆっくりと立ち上がりました。するとそこには……。

「コ……っ?!」

驚いて出かかった声を飲みこんだクレイグは、目を白黒させました。あろうことか彼の娘が、皇帝陛下に抱っこされていたのです。しかも、得意気に。

彼の耳には、隣で立ち尽くしていた従者の言葉がしっかりと届いていました。

「……なんてことを」




「親であるお前が一緒に乗らずに済むと思うか」という、皇帝陛下の乱暴な誘い文句によって馬車に押し込められたクレイグは、座席に腰を下ろすなりペコペコ頭を下げました。

「本当に、本当に申し訳ありません!」

何に対しての謝罪なのかというと、もちろんそれはコニーの無茶苦茶に自由な振る舞いについてで。

「陛下のご不興はすべて、親である私が代わりに!

 あの子にはきつく言い聞かせますので、何卒……!」


彼の向かいに腰掛けた皇帝陛下は、小さな窓から外を睨むように見つめて言いました。

「……不愉快な思いなどしておらん。

 あの楓のような小さな手が嫌いな爺がいるか」

「……え……?」

戸惑ったクレイグの口から、変な声が零れ落ちます。

目の前の、この国で一番偉い御方はまだ怖い顔をしたままではありますが、いくらか目元が柔らかくなった気がしないでもありません。おかしなもので、言葉ひとつで見え方が少し変わったようです。

彼は自分が見当違いに怯えていたのが恥ずかしくなって、つい、どうでもいいことを口走ってしまいました。

「その、コニーはあれで、家のことも頑張ってくれていて……。

 小さな手ですが、すごく、支えてもらっていまして」

あれ、何を言ってるんだ自分は……と思ったクレイグは、背中に冷たいものが伝うのを感じて黙り込みました。舞い上がって、という表現がぴったりです。

皇帝陛下は、急に話し始めて急に黙り込んだ彼を見遣りました。

「……そうか。

 それで……エヴァレットには、いつ会わせてやるのだ」


一瞬、気のせいかと思いました。だからクレイグは、否定も肯定も出来ませんでした。代わりに、真っ白に染まった頭の中に言葉が浮かんできます。

口にしていいのか迷った彼は、視線を彷徨わせてから尋ねました。

「ど……どうして、それを……」

声が掠れました。喉が締め付けられたように、上手く声が出せません。

けれどそれでも皇帝陛下は彼の言いたいことを理解したのか、鼻を鳴らして笑いました。口の端が、少し歪む程度ではありますが。

「お前の父親には、個人的な買い物で世話になっているのだ。

 ここ数年はめっきり減ったが、宮殿で面会することもあったな。

 ……お前のことも、話には聞いている」


小さな箱の外からは、コニーがはしゃぐ声が聴こえてきます。馬車を引く馬に触ってみたり、御者の座る台に乗ったりしているのでしょう。馬車に乗り込む前から、ずいぶんと楽しそうです。

相手をしてくれているリチャードや御者には申し訳ないと思いつつも、クレイグは皇帝陛下から目を逸らすことが出来ませんでした。まるで蛇に睨まれた蛙のようです。


相槌すら打たずに顔を強張らせたクレイグを見て、皇帝陛下は溜息をつきました。そして、何かを言おうと口を開きます。

けれど、その時でした。

「――――私はもう、エヴァレット家とは関係ありません」


鋭い声に、皇帝陛下は思わず出かかっていた言葉を飲みこんでしまいました。目の前の青二才を相手に気圧されてしまったなんて、ちょっとした不覚です。

ただ、この高貴な方にも分かってはいるのです。彼らの家の事情に、国で一番の権力を持つ自分が口を挟むべきではないと。


すると、驚いたように眉を跳ね上げる皇帝陛下を見たクレイグが、はたと我に返って目を見開きました。血の気が引いていく音が聴こえたような気がします。

彼は慌てて言いました。

「も、申し訳ありません」

今度こそ不興を買っても言い訳出来ません。皇帝陛下の言葉を遮るなんて、絶対にしてはいけないのです。

ところが当の皇帝陛下は、青ざめたクレイグを見つめて溜息をついただけ。

「いや、よい。

 ただ少し、エヴァレットが不憫でならぬのだ……。

 お前にも想像出来るだろう、子にそっぽを向かれた親の心情が」

「……それは……」

クレイグは言葉を濁しました。想像するに容易い苦しさに、すんなり頷いてしまいそうなのを堪えて。

皇帝陛下は俯いた彼に言いました。

「大商家の長といえど、ひとりの父だ。子を案じて当然。

 せめて手紙で知らせてやらぬか。コニーと、あの娘ことを」


「あ……」

思わぬ言葉に、クレイグは顔を強張らせました。

そして皇帝陛下が、そんな彼の変化を見逃すわけがなく。

「なんだ」

訝しげに声をかけられて、クレイグは口元を歪めました。皇帝陛下相手に適当に誤魔化すなんて、無駄だと分かっているのです。

「いえ……その、あの娘のことはもう……。

 バルフォアに追われているのを匿っていただけなのです。

 それが陛下のお力で解決をみた今、彼女は自由ですから……」


自嘲気味な笑みを浮かべたクレイグを見つめながら、皇帝陛下はコニーの言葉を思い出していました。飛びついてきた彼女を抱っこした時に言われたのです。“パパはエリカちゃんのことが好きなのに、置いていこうとしてる。助けておじいさん”と。

幼女の戯言、と一笑に伏してもよかったのかも知れません。けれど皇帝陛下は、コニーに恩があるのです。彼女のおかげで、近くにいるのに疎遠なまま過ごしてきたマーガレットと会話を持つ機会に恵まれたのですから。

だからきっと今度は自分が……と、皇帝陛下は意気込んでいました。マーガレットの手前、格好をつけたい気持ちもありますが。


どうやらコニーの言葉は本当だったらしい、と頭の中で呟いた皇帝陛下は、クレイグに言いました。

「何が問題なのだ」

「え?」

ずばりと踏み込まれて、クレイグは戸惑いました。動揺し過ぎて、思わず声が上ずってしまうほどに。

すると、皇帝陛下がここぞとばかりに再び口を開きます。

「バルフォア家との縁が切れ、コニーと仲も良く……。

 あの娘が邪魔になったか」

「いえ、そういうわけでは……」

……何の話をされているんだろうか。それも、皇帝陛下の口から。

なんとも言葉にしづらい気まずさがあるのに馬車を飛び降りることも出来ず、頭を抱えたい気持ちでいっぱいです。苦い顔をして、クレイグは首を振りました。


ちょっと意地悪な質問をした自覚のある皇帝陛下は、苦笑を浮かべました。

「それなら、共に靴屋に帰ればよかろうに。

 ……まさか、愛想を尽かされたのはお前の方か」



少しの間、目を閉じて沈黙していたクレイグが、ゆっくりと息を吸い込みました。彼は目を開いて、視線をそっと伏せます。

「陛下は反対しませんか。

 ご息女が、妻に逃げられた子持ちの靴屋と暮らす、と言い出したら。

 ……もっと幸せになれる道があると思いませんか」

皇帝陛下の目を見ることが出来なかったのは、後ろめたい気持ちがあるからでしょうか。それとも、その御心に沿わないことを言っていると分かっているからでしょうか。


磨き上げた刃のような鋭さを孕んだ言葉に、皇帝陛下は思わず息を飲みました。こんな若造相手に、と心のどこかで思うのに。

根拠もなく、なんとなく察したのです。きっとクレイグは、その台詞を何度も自分に言い聞かせてきたのだろうと。

だから皇帝陛下ともあろう御方であっても、何と声をかけたらいいのか分からなくなってしまったのでした。たしかに、政治的なことを何一つ考慮せずに自分の娘を送り出すとしたら、この状況では諸手を上げて賛成することはないと思うのです。


すっかりただの父親として考え込んでしまった皇帝陛下を見遣って、クレイグは我に返りました。何か、とんでもない暴言を吐いたような気がします。

彼は慌てて口を開きました。

「も、申し訳ありません……。

 個人的なことで、陛下の御心を煩わせるつもりは……」


萎縮したクレイグの言葉に、皇帝陛下は頭を悩ませました。これではコニーの“お願い”を叶えてやることが出来そうにない、と思って。

少し考えを巡らせた彼は、ぽつりと言いました。

「他人の幸せを願ってやるのは、さすが親子というべきか……。

 だがな、エヴァレットの息子。覚えておくがよい。

 我が民はすべて、幸せと平穏を手にする権利を持って生まれてくる」


そのひと言は、クレイグの顔を上げさせました。

外から聴こえてくるコニーの歓声や、リチャードの若干慌てているような声に掻き消されそうになりながらも、皇帝陛下の声は重々しく響きます。

「そのなかには、お前も含まれているのだ。

 権利の放棄は認めるが、己を殺すようなことは喜ばしくない。

 理解出来るな、エヴァレットの息子よ」


難しい顔をした皇帝陛下に諭されるように言われて、クレイグは顔をしかめました。いえ、本当はそんなつもりはなかったのに、感情が勝手に眉間を動かしてしまったのです。

「どのみち、マーガレットの嫌みは避けられまい。

 それならいっそ、自分に正直になった方がよいのではないか」

彼のなんともいえない表情を見た皇帝陛下が、鼻を鳴らしました。


外からは、コニーの「リチャくん。おうまさん、うごかしてー!」という声が聴こえてきます。とても楽しそうですが、どうやらもう待ちきれないようです。

クレイグは自分に素直な娘の言葉に、思わず笑みを浮かべてしまいました。いびつな、どこか自嘲めいた笑みを。









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