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蔦も根を張る意地っぱり 3








「――――痛っ……」


指先に走った一瞬の痛みに、エリカは眉根を寄せます。その口から零れたのは言葉ではなく、小さな溜息でした。

マーガレットの所に来てから、もう何度目か分からないほど刺繍針で指を刺したので、もう驚きようも嘆きようもありません。ただ、痛みが過ぎるのと同時に浮かんだ血の粒を呆然と眺めるだけです。


「自由、かぁ……」

コニーとクレイグ、それからリチャードが出払った部屋の中で、彼女は無意識のうちに独り言を紡いでいました。

それは昨夜、クレイグから告げられた言葉です。もう意味は理解しているつもりなのに、なんだか気持ちが落ち着きません。

寂しいけれど、きっと喜ぶべき状況にいるのだと思うのに。ここにくるまでに助けてくれた人達のことを思うと、笑顔をうまく作れないことが大罪のように感じられてしまって。

エリカは静かに目を伏せました。指先にぷっくりと浮かぶ赤いものを、そのままに。

「……嬉しくないなんて言ったら、クレイグさん悲しむよね。

 メグお姉ちゃんも、リチャードさんも。ハンスさんだって」


呟けば、沈んだ声が外から聴こえてくる馬の嘶きに掻き消されました。皇帝陛下が“豪華な馬車に乗りたい”という、コニーのお願いを叶えてくれることになって、そのためにクレイグとリチャードが付き添いとして一緒に出かけたのです。

コニーが、「おじいちゃん、ありがとー!」なんて叫んでいるのが聴こえてきます。きっと、豪奢に飾り立てた馬車にひと目惚れしたのでしょう。

無邪気な子どもの気配に、エリカは思わず目を細めました。


その時です。

「ちょっとエリカ!」


唐突に名前を呼ばれて、エリカは我に返りました。そして振り返った彼女は、思いの外すぐ近くに佇んでいるマーガレットを見て、目をぱちぱちさせました。

「あれ、メグお姉ちゃん」

「あれ、じゃないわよ。

 血が出てるじゃない!」

マーガレットは、叱り付けるような口調で言いました。



エリカの指に薬を塗り終えたマーガレットが、溜息混じりに口を開きます。

「まったくもう……気をつけてよね。

 クレイグさんがいなくて良かったわ」

ちらりと視線を投げられたエリカは、眉根を寄せました。置いておいた針を摘まんで、縫いかけのままだった刺繍に目を落とします。

「……クレイグさんは関係ないのに」

漏れ聴こえた沈んだ声に、マーガレットは目を細めました。彼女は根掘り葉掘り聞き出したいのを堪えながら薬を箱に戻して、まるで世間話をするかのように尋ねました。

「何かあったの?

 もう、バルフォア家とのことは心配なくなったはずだけど」

マーガレットの言葉に、エリカは曖昧な笑みを浮かべました。バルフォア家を怖れる心配はなくなったけれど、今はもっと他の、口には出来ない不安があるのです。


エリカは口の端に笑みを浮かべたまま、縫いかけの刺繍に手を伸ばしました。透けるように薄い生地の所々に、青い花が散りばめられています。

不注意で、青い花のひとつを紅く染めてしまうところでした。そのことに気づいた彼女は、今さらながら申し訳ない気持ちになりました。

「何もないけど……あ、そんなことより」

マーガレットの眉が八の字に下がっていきます。

せっかく家の問題が片付いたというのに晴れやかな表情のひとつも浮かべないエリカを心配しているのに、“そんなことより”でかわされてしまうとは。気を張り詰める生活からほんの少し解放されただけなのに、こうも緊張感を失ってしまうなんて……。

不覚……と、マーガレットが心の中で呟いていることなんて気づかずに、エリカは努めて声色を明るく言いました。

「ベール、こんな感じでいいのかな」

持っていたベールを広げた彼女が、誰にでもなく呟きます。

「あんまり刺繍が多いと、前が見えなくなっちゃうかな?

 リチャードさんが一緒なら大丈夫だと思うけど……」

「え、あ……えぇ、そうね」

しれっと彼の名前を出されたマーガレットが、珍しく動揺したのか目を泳がせました。昨日の今日では、まだなんだか恥ずかしさの方が大きいのです。


強気で時々短気な幼名馴染みのお姉さんの狼狽する姿に笑みを零したエリカは、思わず吐息を漏らして呟きました。

「それにしても、びっくりしちゃった。ふたりが結婚するなんて」

朝食の席についた途端に、マーガレットが宣言したのです。リチャードと結婚することになった、と。しかも、もう皇帝陛下の許しは得ているとも。

それを聞いたクレイグとエリカは、驚きのあまり顔を見合わせて言葉を失いました。目を輝かせたコニーは跳ねて喜んでいましたが。

「……ふたりともキラキラしてて。いいなぁ、って思った」

少し照れながらも報告してくれたマーガレットとリチャードの纏った雰囲気が温かかったのを思い出して、エリカは笑みを浮かべました。ちょっとだけ、寂しそうに。


あの時、エリカはちょっとした衝撃を受けたのです。寄り添って立つ、幸せそうな恋人同士の姿に。

もしかしたら今までにも、どこかで恋や愛に触れる機会はあったかも知れません。けれど、彼女が気に留めることはありませんでした。憧れ、夢見る余裕がなかったのです。それが“自由だ”と言われたのと同時に、目の前に幸せそうに寄り添うふたりが現れて。

マーガレットとリチャードが結婚を報告している様子を、彼女はぼんやり見つめていました。そして「おめでとう」と笑みを浮かべた彼を見つめて、我に返って。「実は今日の午後にでも、靴屋に帰るつもりです」と続けるのを聞いて、息が出来なくなったのです。

……そのひと言に驚いたのは、マーガレットとリチャードも同じだったようではありますが。


自由になった後の自分を想像しようとしていた彼女は、ようやく気づきました。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか途方に暮れていたと思っていたけれど、そんなことは本当はどうでもよくて。

そこにクレイグがいないことが、悲しいのだと。



「エリカ……?」

まるでコニーのような子どもっぽい感想を漏らしたエリカを見て、マーガレットは訝しげな表情を浮かべました。

その視線を感じたエリカが、笑みを浮かべます。

「リチャードさんと幸せになってね、メグお姉ちゃん。

 今まで大変だった分、たくさん幸せになって」








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