蔦も根を張る意地っぱり 2
瞼の向こうの明るさに引き上げられるようにして、クレイグは目を覚ましました。
「ん……?」
気だるげに額に手を当てた彼の唇が開いて、吐息まじりの声が漏れます。そして寝起きのぼんやりとした頭を働かせた彼は、すぐに昨夜の出来事を思い出しました。
目に入れても痛くない娘が受けた心の傷の深さは、ひと晩では癒されたりしないでしょう。忘れるには、辛い記憶になりそうです。
彼の口から、溜息が零れました。窓から差し込む朝の光が、なんだか恨めしく思えたのです。
その時です。寝室のドアが勢いよく開いて、中からコニーが飛び出してきました。
慌てた様子できょろきょろと視線を走らせた彼女は、ややあってソファから顔を覗かせる父親の姿に気づきました。
「パパ!」
いつものキラキラした目を離さずに、コニーが駆け寄ってきます。
その表情を見たクレイグは、昨夜のことが嘘のように思えて苦笑を漏らしました。
「おはようコニー」
「おはよー」
有り余る元気を含んでぶつかってきた娘を抱き留めて、彼は囁きます。
「よかった」
「ん?
なあに?」
朝の挨拶とは何かが違う気がして、コニーが小首を傾げます。
するとクレイグはまた笑って、小さく首を振りました。
「なんでもないよ。
……エリカは?」
「んー、おこしてもおきなかったよ?」
「……よく眠ってる、ってことか」
一度起こそうとしていたことに肩を落とした彼が、沈痛な面持ちで呟きました。
コニーに悪気がないのは分かっているので、何を言うことも出来ません。けれど、あれだけの事が起こった後くらいは、寝坊させてやりたいと思うのです。今思えば、靴屋で寝起きしていた時もエリカの朝は早かったような気がします。
だから彼は、小さな声で囁きました。
「もう少し寝かせてあげよう。疲れてるみたいだから。
……いいかい?」
クレイグの言葉に、コニーは神妙な顔で頷いたのでした。大好きな父親がそうであるように、彼女にもまた、エリカのことを気遣いたい気持ちがあるのです。
しばらく父親の隣に座っておとなしくお茶を飲んでいたコニーが、おもむろに口を開きました。
「かお、ベトベトする~……」
泣いて暴れて、そのまま寝たのを思い出したのでしょう。彼女はものすごく嫌そうに口をひん曲げて言いました。まだ5歳ですが、女の子です。身なりは大事なのです。
「シャワーしたい」
「うーん……」
「エリカちゃん、おきちゃう?」
いまいち反応の思わしくない父親の顔を見上げて、コニーは小首を傾げます。そして、口を尖らせた彼女は呟きました。
「はぁい……。
あーあ……エリカちゃんとおふろ、はいりたいなー……」
なんとはなしに口から零れた言葉でしたが、彼女は自分の思ったことに目を輝かせたのでした。
「ねぇパパ!
おうちにかえったら、いい?
エリカちゃんとおふろ。いいよね?」
「――――コニー、大事な話をしてもいいかな?」
娘の言葉に胸が痛んだクレイグは、そっと言いました。表情にいろいろと複雑な感情を滲ませないよう、出来る限り注意を払って。
父親にそう言われても、コニーは小首を傾げるばかりでした。朝から大事な話があるだなんて、今までになかったのです。
すると、クレイグは溜息を押し殺して言いました。
「エリカと一緒には帰れない、と思う」
沈黙がクレイグの肌を突き刺します。彼は、むっすりした顔で黙り込んだまま一向に口を開く気配がない愛娘を見つめて眉をひそめました。
するとコニーは、お腹にぐっと力を入れて口を開きます。
「やだ!」
小さな声がクレイグに向けられました。
普段ワガママを言わない彼女の、珍しくも硬い声。ぶつけるように言い放たれて、彼は戸惑いを隠せませんでした。
「……コ」
「きらわれちゃったの?」
宥めるつもりで開いた口が、歪んで閉じます。何と返せばいいのか考えを巡らせて、クレイグは視線を彷徨わせました。
コニーは、小さな声で呟きました。
「エリカちゃん、わたしのことキライになったの?」
「コニー、それは違う」
即座に否定した父親を見上げて、彼女が悲しそうに眉を下げます。
「じゃあ、どうしてダメなの……?
パパ、エリカちゃんのことキライになった?」
「……え?」
突拍子もない言葉が飛び出して、クレイグは呆気にとられました。そして、苦々しい顔をして目を伏せました。
子どものコニーが何かを選ぶ時には、好きか嫌いかは大事なのかも知れません。けれど、エリカが一緒に靴屋に帰らないであろう理由は、そんなに単純明快ではないのです。
説明出来るものなら是非したい。クレイグはそう思いました。
するとコニーが、父親の様子を見て憤慨したように口を開きます。
「わたしはエリカちゃんのこと、だぁぁいすきだもん!
パパさいてー。
なかまはずれ、しちゃいけないんだからね!」
「――――好きに決まってるだろう」
まさか娘に批難されるなんて露ほども思っていなかったクレイグは、うっかり口を滑らせました。売り言葉に買い言葉で。それもちょっとばかり強い口調で。
クレイグは、自分がうっかり零した言葉に絶句してしまいました。ほとんど無意識のうちに、まさか、こんなにハッキリくっきりと言葉になってしまうとは。
自分の耳を疑いたくなった彼は、隣にちょこんと座る娘に目を遣りました。けれど彼女は少し前までの険しい表情を一変させ、目をキラキラさせています。話の流れが変わる雰囲気を感じ取って、期待に胸が膨らんでしまったのでしょう。
その顔を見て、クレイグは吐き出した息を吸い込みました。
「……エリカのことは好きだよ」
今度は無意識でも、売り言葉に買い言葉でもありません。改めて口にしてみれば、なんだか背中がむず痒くて。胸の中が、ざわざわします。
「まったく……」
思わず天を仰ぎそうになったクレイグは、溜息混じりに言いました。
「なんで今そういうことを訊くんだろうね、この子は……。
私だって、エリカと一緒に暮らせたらいいな、と思うよ。
だけどね、コニー」
「じゃあどーして?」
これには事情ってものが……と言おうとしていた彼を遮るようにして、コニーが詰め寄ります。彼女は言葉を飲みこんだ父親に気づいているのかいないのか、鼻の穴を膨らませて呟きました。
「それならみんなで、なかよくできるのに。
わたし、もっといいこにする」
「だから……」
あまりに真っ直ぐに見つめられて、彼は視線を逸らします。けれどコニーの必死さに揺れる瞳が、それを許すはずがありませんでした。
「エリカちゃんも、いっしょがいいよぅ。
おねがいしてきてよ~」
その声色は、まるで綿飴をねだる時のようです。実際には、銅貨が何枚かの綿飴とは規模が違いすぎるのですが……。
そんなクレイグの心中などお構いなしのコニーは、あともうひと押し、とばかりに父親の手を引っ張って言いました。
「もぉぉ……っ。
パパ、それでもオトコのコなのっ?!」
基本的に可愛い、目に入れても痛くないほど愛している娘なのですが。ちょっとばかり素直というか、直球というか……。
ともかく、エリカの抱える事情まで説明することの出来ないクレイグでしたが、さすがに子どもに言われ放題なままではいられませんでした。彼は、コニーの膨らんだ小さな頬を両手でぷしゅっと潰して、口を開きます。
「はいはい。
情けない父親で、苦労をかけます」
「パパ……」
半ばぼやくように呟けば、何を思ったのか娘が眉毛を八の字に下げました。そして彼女は小さな手を精一杯、父親の頭に向かって伸ばしました。
クレイグの頭をぽふぽふ叩いて、コニーは囁きます。
「んー……と。
げんきだして、ね」
小さな手の温もりを感じたクレイグは肩から力を抜きました。
「……ありがとう」
そう囁き返したものの、ちょっとばかり胸中は複雑です。娘に慰められるほど、落ち込んでいるように見えたのかと思うと。




